文字霊日記・3193日目
清和源氏
・・・清=氵+青(靑=龶+円
寈=宀+青
宀+靑
宀+龶+月
宀+龶+円)
龶=あおかんむり・・・?
龶+α
「龶=生(セイ)」の変化・・・?
生=𠂉(かみさし)+土(士)
櫛・兂・笄・簪・楴・釵
神佐氏・神指し
龶=十+二=丰(ス・ボウ・姿貌)?
丰=耜・耕=耒+井=犂・鋤・鍬
すき・すく
并(あわせる・併合
ならべる・並立
拜(おがむ・拝啓・拝礼)
拝禮=拝礼
禮=礼
豊=乚(イン)
=乙(オツ・イツ)
≒Z(ゼット)
豐=山+丰+丰+豆≠豊=曲+豆
丰=草原の茫々たる草木?
龶=三+丨
龶=主(ぬし・うし・シュ)=丶+王・・・?
丶=チュウ・灯(ともしび)
和=禾+口
源=氵+原(厂+白+小)・・・水と崖に囲まれた小さなシロ(秦)
万葉集(新羅奇)
出雲風土記(志羅紀)
辰韓~新羅=秦羅=斯蘆=鶏林州都督府
首都=金城(慶州)
↓↑
503年 干支癸未
武烈天皇 五年
皇紀1163年
中国
梁 天監二(弐)年
北魏 景明四(肆)年
「新羅の国名の漢字表記」のハジマリ・・・?
↓↑
誕生
簡文帝 南朝梁の第2代皇帝(503~551年)・・・簡文の綴
陳霸先 南朝陳の初代皇帝(503~559年)
・・・アメ(あま・あみ・あむ・あめ・あも)
に陳列する左(差)記
陳=阝+東=コザトのヒガシ・・・比企氏?
霸=雨+䩗=覇=西+䩗
雨+革+月(肉)・・・アメをナメシたジク
ハ・ハク
はたがしら
月が白く光るさま
武力によって国、天下を治めるもの=覇者
川の名
↓↑
死去
范雲 南朝梁の文人+(451年~)
何 佟之(カ トウシ)
449年~503年
南朝斉~梁にかけての官僚・学者
字 士威
本貫 廬江郡灊県・・・灊=四川省にあった川の名
灊=氵+鬵
氵+兓+鬲
氵+兂+一+口+冂+儿+丅
氵+兂+一+口+冂+丷+丅
氵+兂+一+口+冂+儿+丨
氵+兂+一+口+冂+丷+丨
類字 鬻(かゆ)・鬻ぐ(ひさぐ)
兓=儿(にんにょう・ひとあし)
シン
するどい・とがっている
兂=シン
かんざし=簪
鬲=カク・レキ
かなえ=鬲(かなえ)
器形は鼎(テイ)に似るが
三足の器の中で
器身から足全体が袋形になったもの
三本足のある蒸し器
足の部分が空洞で
そこに水を入れて
上に
「甑(こしき)」をのせて
火にかける・鼎(かなえ)の一種
中空構造の
三足を持った青銅の沸騰機
三本足のカラス=八咫烏=太陽・・・?
へだてる・へだたる
さえぎる
隔=阝+鬲⇔融=鬲+虫・核融合
甑(こしき)
古代中国の
米などを蒸すための土器=「需」
・・・「需」・・・?
「需要供給」
「需=雨+而」?
「而=ジ・二・しかして・しかも」
「耐=而+寸=たえる(耐久の強弱度)」
鬲(かなえ)=甑(こしき)=蒸し器
蒸籠(せいロウ)
竹や木などで作られた蒸籠と同じく
蒸す調理のために用いる
↓↑
何 佟之(カ トウシ)
↓↑
南朝斉の
奉朝請の
「何歆」の子
師につかずに独学で
礼論200篇を読破、暗誦
揚州従事
総明館学士
司徒参軍事
車騎参軍事
尚書祠部郎
を歴任
南朝
斉の
「建武」年間
鎮北記室参軍
皇太子
「蕭宝巻」
の講義に侍し
「丹陽邑中正」を兼ねた
「劉瓛」や「呉苞」といった
建康の碩儒はみな死去しており
独(ひとり)
「佟之」のみが健在
朝廷の
吉凶や礼の決まりはみな
「佟之」の意見が採用された
歩兵校尉・国子博士
を歴任し
驃騎諮議参軍となり
司馬に転じた
500年(永元二年)
「裴叔業」
「崔慧景」
の反乱で建康は騒然としたが
「佟之」は諸生を集め
いつもどおりに講義や議論
501年(中興元年)
驍騎将軍
502年(天監元年)
南朝 梁の
「武帝」が即位し
「佟之」は
尚書左丞
「礼の制定」の議論に
寄与
503年(天監二年)
在官のまま死去・享年55
武帝は
尚書左丞には贈官をおこなわない通例を破り
「黄門侍郎」の位を追贈
著した文章や礼の解釈は100篇ほど・・・
↓↑
子女
何朝隠
何朝晦
伝記資料
『梁書』巻48列伝第42
『南史』巻71列伝第61
・・・???・・・
ー↓↑----
桓武平家・・・百済系・・・舒明天皇(百済宮で死没)
馬韓=百済=熊津都督府
↓↑
・・・桓=木+亘・・・亘=一+日+一=日渡り
水平(海平・地平)線~水平(海平・地平)線の
日(太陽・煬)の移動位置
武=弌+止・・・「弌=一・壹・壱」・・・壹與が弋で止める
平=一+十(拾・足)+丷(ハ・八・捌)
・・・イチを拾(足)ってサバク
張政=チョウセイ=調整
源=氵+原
氵+厂+白+小
厵=原+原+原
ゲン
みみなもと
水の流れ出るもと・源流
物事のおおもと・始まり・始原
たずねる。さぐる・探し求める
起源・起原(きげん)物事の始まり。起こり。根源。
給源・供給源
源五郎=コウチュウ目ゲンゴロウ科の甲虫
池や沼などに生息
体は三センチメートルほどで卵形
源泉
光源
語源・語原
↓↑
医食同源
飲む薬と日常の食事は健康を維持するためのもので
根本は同じである
飲水思源
物事の基本を忘れずに大切にするべき戒め
受けた恩を忘れてはいけない
「水を飲みて源を思う」
開源節流
支出を抑え、財源を増やす健全財政
川の流れに財政をたとえた
↓↑
源平藤橘
日本を代表する四つの貴族
源氏・平氏・藤原・橘氏
・・・「橘姫=倭姫」?・・・弟橘媛?
「倭姫命(やまとひめのみこと)」
「倭比売命」
「日本武尊=倭建命=倭男具名=小碓命」の叔母
「第十一代
垂仁天皇の
第四皇女」
↓↑
「弟橘媛」
「日本武尊=倭建命」の妃(きさき)
↓↑
「倭姫王(やまとひめのおおきみ)」
第三十四代
「舒明天皇=田村皇子」の第一皇子
「古人大兄」皇子の娘で
「中大兄皇=天智天皇」の皇后
「大海人王子=天武天皇」が
「中大兄皇=天智天皇」に
「倭姫」に王位の譲渡を願った・・・?
ー↓↑---
舒明天皇(じょめいてんのう)・・・舒=舎+予
明=日(ジツ・ニチ)+月(ジク・肉)
實・実・似知 字句
593年?
推古天皇元年?
~
641年11月17日
舒明天皇十三年十月九日
第三十四代天皇
在位:629年2月2日
舒明天皇元年1月4日
~
641年11月17日
舒明天皇十三年十月九日
↓↑
諱 田村(たむら・デンソン)
和風諡号 息長足日広額天皇
(おきながたらしひひろぬかのすめらみこと)
↓↑
推古天皇
在位36年3月7日(628年4月15日)
崩御
「蘇我蝦夷」は
後継者
「田村皇子」
か
「山背大兄王」
かの選択で
田村皇子を立てて天皇にした
↓↑
欽明天皇の嫡男である
敏達天皇の直系(田村皇子)
と
庶子である
用明天皇の直系(山背大兄王)
による皇位継承争い・・・
↓↑
最初の遣唐使派遣
唐からの
「高表仁」・・・高・・・高句麗・高麗?
表=龶+衣
仁=イ+二
の返訪
唐に
学問僧や学生が渡り
隋の頃に渡った者も含め
「高向玄理」
僧の
「霊雲」
「旻」
「南淵請安」
が帰国
百済
新羅
からの使節訪問
↓↑
母
「糠手姫皇女(田村の御名は彼女から継承された?)
が
「舒明天皇」
よりも20年以上長生きし
天智天皇三年(664年)死没
↓↑
押坂彦人大兄皇子
(敏達天皇皇子で、母は最初の皇后の広姫)
の子で
母は
糠手姫皇女(敏達天皇皇女で押坂彦人大兄皇子の異母妹)
↓↑
妃 田眼皇女
敏達天皇・推古天皇の皇女
↓↑
后 宝姫王(たからのひめみこ・皇極天皇・斉明天皇)
高向王の妃・・・高・・・高表仁・高句麗・高麗?
向
王
母 茅渟王女
↓↑
子女
漢皇子・・・漢(から・カン)・・・支那=中華=隋
葛城皇子(かずら・中大兄皇子・天智天皇)
間人皇女=孝徳天皇皇后
大海人皇子(天武天皇)
↓↑
夫人 法提郎女(ほていのいらつめ)=蘇我馬子女
古人大兄皇子(吉野太子)
采女 蚊屋采女(かやのうねめ、姉子娘?)=賀陽臣女?
蚊屋皇子(かやのみこ・賀陽王)=三島真人祖
名不詳
磯部皇子=久下氏祖?
↓↑
『日本書紀』の記録
『一代要記・帝王編年記』などに
布敷皇女(母は法提郎女)
押坂錦間皇女(母は粟田臣鈴子の女・香櫛娘)
箭田皇女(母は蘇我蝦夷の女 ・手杯娘)
の名・・・
↓↑
舒明天皇年表
↓↑
舒明天皇元年(629年)
1月4日 - 即位
↓↑
舒明天皇二年(630年)
1月12日 - 宝女王を皇后に立てる
3月1日 - 高句麗(大使宴子抜・小使若徳)
百済(大使恩率素子・小使徳率武徳)
が各々使者を遣わして朝貢
8月5日 - 遣唐使(大使犬上御田鍬・薬師恵日ら)を派遣
10月12日 - 飛鳥岡本宮(明日香村)に遷る
舒明天皇三年(631年)
3月1日 - 百済の義慈王が
王子の豊章を質として送る
9月 - 有間温泉に行幸
12月に帰る
舒明天皇四年(632年)
8月 - 唐が
高表仁を派遣し
犬上御田鍬らを送る
10月4日 - 唐の
高表仁
が難波津に到着
舒明天皇五年(633年)
1月26日 - 高表仁が
唐へ戻る
(「與王子爭禮
不宣朝命而還」『旧唐書』)
物部兄麻呂を武蔵国造に任じた
(『聖徳太子伝暦』)
舒明天皇六年(634年)
1月15日 - 豊浦寺(明日香村)塔の心柱を建てる
(『聖徳太子伝暦』)
舒明天皇八年(636年)
6月 - 岡本宮が火災に遭う。田中宮(橿原市田中町)に遷る
旱魃・飢饉が起こる
舒明天皇九年(637年)
蝦夷が反乱し
上毛野形名を将軍として討伐
舒明天皇十年(638年)
福亮僧正が
法起寺金堂(斑鳩町)を建立
(『法起寺塔露盤銘』)
舒明天皇十一年(639年)
7月 - 詔して、百済川
の辺に
大宮と大寺(桜井市吉備?)を造らせる
12月 - 伊予温泉に行幸
百済大寺の九重塔が建つ
舒明天皇十二年(640年)
4月 - 伊予から帰り
厩坂宮(うまやさかのみや。橿原市大軽町付近)
に滞在
10月 - 百済宮に遷る
舒明天皇十三年(641年)
10月9日 - 百済宮で崩御・・・百済宮
10月18日 - 宮の北に殯
ー--ー↓↑ー--
推本溯源
物事の根本を考えその全てを知る
根源を推察して、根源にさかのぼる
「本を推して源に溯る」
↓↑
世外桃源
この世とは違う平和な世界。理想郷・桃源郷
漁師が川をさかのぼって
森の奥に進むと洞穴があり
その洞穴を抜けると
桃の花が咲き乱れる美しい地があり
秦の乱から逃れてきた者たちが
平和に暮らす理想郷を見つけた
新羅・・・?
↓↑
桃源郷=俗世間を離れた平和な別天地
晋の時代、武陵の漁師が
川を水源までさかのぼり
桃の花が咲き乱れる林に迷い込むと
秦の時代の戦乱を避けた人々が
平和に暮らす理想郷があった
「武陵桃源=桃源」
↓↑
流れを汲みて源を知る
末を見て、その本を推し量ること
言動を見れば
その人の人柄や気持ちが自然にわかる
流れている水を汲み取り
水源の様子を察知する
↓↑
源清ければ流れ清し
上に立つ者の行いが正しければ
下の者の行いも正しくなる
ー----
平=干+丷
干+八
一+十+八
ビョウ
ヘイ
ヒョウ
ヘン
たいら・たいらか・高低や凸凹がない
たいらか・おやだや・やすらか
かたよっていない・公平・等しい
たいらげる・たいらぐ・おさめる・しずめる
普通・普段・日ごろ
漢字の四声(シセイ)のひとつ
平声(ヒョウショウ)
ととのう・治まる
ひら・普通・特別でない
ひらに・なにとぞ・どうか
↓↑
悪平等
形式だけ平等に扱い逆に不平等になる
↓↑
お平ら
客などに足をくずして楽に座るようにすすめる言葉
↓↑
御平(おひら)
底が浅く平らで被せ蓋のある椀・平椀
↓↑
開平=平方根の値を計算して出すこと
↓↑
公平=一つのものに片寄らず
全てのものを同じように扱うこと
↓↑
舌平目・舌鮃(したびらめ)
カレイ目ササウシノシタ科
ウシノシタ科の魚の総称
牛の舌のような形をしていて平たい
体長は三〇センチメートルほど
カレイやヒラメのように
片方に目が寄っている
食用
↓↑
一路平安=旅立つ人の道中の安全を祈る言葉
↓↑
依流平進(イリュウヘイシン)
経歴や年齢が多い順番の通りに出世すること
自然の成り行き
成り行きの通りに進む
「流れに依りて平進す」
↓↑
怨親平等
敵を憎まず、味方をひいきせず、両者を平等に扱うこと
仏教語
敵味方を区別することなく
平等に慈しみ、極楽往生を願うこと
↓↑
虚気平心=心を空にして落ち着けること
虚気=感情をなくすこと
平心=心を落ち着けること
「気を虚しくして心を平らかにす」
↓↑
虚心平気
疑念や不満、不信などをなくし、心を穏やかにすること
↓↑
驕る平家は久しからず
↓↑
修身斉家治国平天下
天下治世
自分の心と行いを正しく
家庭を整え
国家を治めて
天下を平和にすべき
↓↑
太平楽=天下泰平を祝う舞楽の一つ
↓↑
手の平を返す
↓↑
平仄(ヒョウソク)が合わない
話のつじつまが合わない
平仄=漢詩を作る時の
平声字
仄声字
の配列規則の乱れと無視
↓↑
平たく言えば
清和源氏
第五十六代
清和天皇の皇子・諸王を祖とする
賜姓皇族の一
姓(カバネ)は朝臣
↓↑
源氏
祖とする天皇別に21の流派(源氏二十一流)
清和源氏はそのうちの一
↓↑
清和天皇
の皇子のうち4人
孫の王のうち12人
が臣籍降下して源氏を称した
第六皇子
貞純親王の子
経基王(源経基)
の子孫が著しく繁栄
↓↑
中級貴族
経基の子
源満仲(多田満仲)
藤原北家の摂関政治の確立に協力し
中央武門としての地位を築き
摂津国
川辺郡
多田の地に武士団を形成
彼の子である
頼光
頼親
頼信
らも
藤原摂関家に仕えて勢力拡大
頼信流
河内源氏
が東国の武士団を支配下に置き
源頼朝
の代に
鎌倉幕府を開き、武家政権を確立
↓↑
嫡流が
源氏将軍
足利将軍家
として武家政権を主宰
一部は公卿となり
堂上家
として
竹内家が出た
↓↑
清和源氏の起源
清和天皇の
第六皇子
貞純親王の子である
経基王(六孫王)が
臣籍降下により
源姓を賜り
源経基と名乗った
↓↑
陽成天皇
源氏説
経基王は
貞純親王の子ではなく
貞純親王の兄
陽成天皇の子
元平親王の子・・・陽成源氏説
↓↑
明治の歴史学者
星野恒が
『史学雑誌』に発表した論文
「六孫王ハ清和源氏ニ非ザルノ考」
「清和源氏の祖は実は清和天皇ではなく
陽成天皇であるが
暴君の陽成帝の名を冠せず
清和源氏を名乗った」
石清水八幡宮祠官
田中家文書の中に
源頼信が
誉田山陵(応神天皇陵)
に納めたと称する
永承元年告文に
「先人新発
其先 経基
其先 元平親王
其先 陽成天皇
其先 清和天皇」
と明記・・・
経基の名跡を継いだ
源満仲
は藤原摂関家に仕えて
各地の受領を歴任
摂津国 川辺郡
多田(兵庫県川西市多田)
を本拠地として源氏武士団を形成
酒呑童子退治の
満仲の長男
源頼光も摂津国に拠点を置き
摂津源氏と呼ばれる武士団を形成
本拠である多田を継承した嫡流
源頼綱(頼光の孫)の系統を
多田源氏
満仲の次男
源頼親の系統は
大和国宇野(奈良県)を本拠地とし
大和源氏
三男
源頼信の系統は
河内国
壷井(大阪府羽曳野市壷井)を本拠とし
河内源氏と呼ばれる武士団を形成
↓↑
源満仲の子
三男の
源頼信は
長元元年(1028年)
房総三カ国(上総国、下総国、安房国)
で起きた
「平忠常の乱(長元の乱)」
を平定
頼信の子
頼義は
康平五年(1062年)から
陸奥国
奥六郡に蛮拠する
俘囚の長
「安倍」氏を討ち(前九年の役)
頼義の子
八幡太郎義家は
同族の
源国房
源重宗
と合戦を繰り広げ
寛治元年(1087年)
出羽国の俘囚長
清原氏の内紛を収め
(後三年の役)
頼信流の河内源氏は
東国に足掛かりを持つ
河内源氏は
それまでの
清和源氏庶流であった地位から
嫡流の地位を占めたが
白河法皇の警戒を招き
河内源氏は抑圧された
↓↑
河内源氏
摂津源氏のように京都を活動舞台にせず
板東を拠点としたのは
兄の
源頼光
源頼親
が藤原道長に側近として仕えたのに対し
頼信は
上野介
常陸介
など遠方で収入の少ない
東国受領となっていた
義家
義綱(美濃守)
義光(新羅三郎)
兄弟の頃には
清和源氏最大の勢力となった
(義家と義綱の仲は悪く
義綱は中央で昇進を重ねた)
源氏庶流は国の下級官人を辞し
地方の荘官などとなることにより勢力拡大
↓↑
義家の晩年
次男の
義親が朝廷に反抗し
弟の
「新羅三郎義光
(常陸源氏、甲斐源氏の祖)」
と
四男の
荒加賀
入道
義国(上野源氏、下野源氏の祖)
が嘉承元年(1106年)
「常陸合戦」を引き起こし
両者が勅勘
天仁二年(1109年)
義家の死後に家督を継承した
義家の三男
源義忠が暗殺され
主犯とされた弟の
義綱(美濃守)が
白河法皇の命を受けた
源義親の子
源為義
源光国(美濃源氏)
の討伐を受けて壊滅
事件後
真犯人が
「新羅三郎義光」
であったことが明らかになり
河内源氏内部分裂で権勢は失墜
河内源氏が拠り所にしていた
摂関家の摂関政治から
白河法皇の院政への移行があった
↓↑
源義忠の後を継いだ
源為義は
白河法皇に近侍
郎党、八男
鎮西八郎為朝らの乱行で信用を失い
摂関家へ接近
長男の
源義朝
は南関東に下向し
白河法皇に仕えて
父とは別行動をとり
武蔵守
藤原信頼に接近
義朝は
義忠の弟である
上野国と下野国に所領を有する
源義国とも結ぶことに成功し
院の影響下で京都へ復帰
父
為義は
義朝の弟
源義賢を
義朝の支配の及ばない北関東へ派遣
秩父氏の争いもかかわって
義賢は
義朝の長男
義平と対立
久寿二年(1155年)
大蔵合戦で
義賢が討死
義平側が勝利
白河法皇
鳥羽法皇
の寵愛を受けた
伊勢平氏の
平正盛・忠盛父子
美濃源氏の
源光保・光宗父子
らが復興し
武門の中で河内源氏の勢力は相対的に低下
↓↑
源為義と義朝の対立は
保元元年(1156年)
「保元の乱」
で決着し
父や弟を処刑した義朝は
後白河法皇側についた
下野源氏の
足利義康が急逝し
一族を圧倒して
河内源氏の総領になった
京都では
信西一門
二条天皇親政派
後白河院政派
が鼎立し
平治元年(1160年)
藤原信頼と結んでいた義朝は
後白河法皇を幽閉し
「平治の乱」を起こしたが
平清盛
らが秘密裏に法皇らを救出し
敗退して京を落ちて東国へ向かうが
道中で腹心の
鎌田政清の舅
尾張国
長田忠致
に殺害され
源光保らも
後白河法皇により
誅殺された
↓↑
治承四年(1180年)
平氏政権で
皇位継承の不満から
「以仁王」
に
源頼政(摂津源氏)が協力したが
(以仁王の挙兵)
乱は失敗
熊野に潜んでいた
義朝の弟の
源行家らが
以仁王の令旨を全国に伝え
河内源氏の
源頼朝
源希義(土佐冠者)
源範頼
源義円
源義経
ら兄弟や
源義朝の弟の
源義賢の子
頼朝の従兄弟にあたる
源義仲(木曾次郎義仲)
源義光の子孫の
武田信義・安田義定(甲斐源氏)
山本義経・柏木義兼(近江源氏)
義国の子孫の
足利義清(下野源氏)
新田氏庶流の
山名義範
里見義成
新田義重(上野源氏)
摂津源氏の
源頼綱を祖とする嫡流
多田行綱(多田源氏)
源頼綱の弟
国房を祖とする
源光長(美濃源氏)
大和源氏の
源親治らが各地で挙兵
「源平合戦」
「治承・寿永の乱」
が発生
↓↑
当初は平家が源氏を圧倒し
頼朝の弟の
希義が敗死
後に形勢が逆転して
平家は
源義仲に京都を追われ
源義仲軍
源頼朝軍
平家の三つ巴となったが
頼朝軍が圧倒し
寿永三年(1184年)
「粟津の戦い」
義仲軍
元暦二年(1185年)
「壇ノ浦の戦い」
で平家を滅ぼし
頼朝軍が勝利した
ー↓↑----
平姓
桓武平氏
仁明平氏
文徳平氏
光孝平氏
↓↑
桓武平氏
平高望の子孫は武士
平高棟の子孫は堂上家
↓↑
最初の平氏
桓武平氏の祖
平安京にちなんで「平(多比良)」
平高棟は
桓武天皇皇子
葛原親王の子
平実世は
桓武天皇の子
仲野親王の子
平惟世は
桓武天皇の孫
or
文徳天皇の孫
↓↑
平姓
平安遷都後の
天長年間~仁和年間(824年~889年)
まで与えられた・・・説
↓↑
高望王流
桓武平氏の始まりの地
東国
武家平氏の盤踞地
武家平氏の祖
上総介の
平高望
東国に独立政権を樹立した
下総の
平将門
将門を倒した常陸の
平貞盛
坂東八平氏
北条氏
坂東に土着した
高望王流桓武平氏の末裔
↓↑
平将門の乱
以降
関東では
貞盛流
平良文
の子孫が勢力を有し
1028年(長元元年)
「平忠常の乱」
源頼信が
忠常を降伏させ
河内源氏が関東における武家の棟梁的存在となり
千葉氏・三浦氏
などの
平姓諸流は
源氏の家人として扱われた
↓↑
貞盛の四男
維衡は伊勢に地盤
子孫は主に西国で勢力拡大
平忠盛は
西国で受領を歴任して勢力拡大
その子の
「平清盛」
肥後守・安芸守を歴任
西国に勢力拡大
「平治の乱」
義朝が討たれるまで
東国の平氏は清盛流とはほとんど関係がない存在
「治承三年の政変」後
清盛は東国の支配権強化に乗り出し
河内源氏の後裔である
源頼朝が蜂起
東国平氏は
頼朝に臣従
平家と戦う
↓↑
50代
桓武天皇の子
葛原親王
万多親王
仲野親王
賀陽親王
の子孫
↓↑
第三皇子
葛原親王の流れが繁栄
天長二年(825年)三月五日
葛原親王が子女を臣籍降下させ
平朝臣姓の賜姓を上表するがこの時は許されず
七月六日
再度上表して許された
葛原親王の子息で平朝臣姓となった者として
高棟王・善棟王・高望王
天長五年(830年)
従五位下に叙爵した
平清人
承和七年(840年)
叙爵した
平春香
葛原親王の子孫・・・?
↓↑
高棟流
葛原親王長男
高棟王は
天長二年(825年)
賜姓を受けて
平高棟となって
大納言まで進み
三男の惟範
その子の
時望・伊望
時望の孫
平惟仲も議政官まで栄達
後
時望の孫
親信の子孫は代々受領を務める中級貴族として存続
↓↑
親信の孫
範国の家系は
平安末期には
後白河法皇の寵愛の
建春門院
平滋子
が
高倉天皇を出産
弟の
平時忠や姉の
平時子(二位尼)
時子が嫁いだ
平清盛を始めとする平家一門の繁栄
時忠の弟
親宗の子孫(唐橋家)
叔父
信範の子孫(西洞院家・安居院家・烏丸家)は
鎌倉時代以降も公家として続いた
江戸時代には
西洞院家とその庶流
平松家・長谷家・交野家・石井家
が堂上家となった
地下家の
生島家もこの系統
親信のもうひとりの孫
行親の流れは鎌倉時代前期に
平経高を輩出
↓↑
平家
↓↑
伊勢氏
室町時代
有力な幕臣となる伊勢氏は
平維衡の子孫を称し
伊勢氏は代々政所執事を世襲
伊勢貞親は
第8代将軍
足利義政の
養育係を務め
成人後も幕政に大きな影響力を持った
第13代将軍
足利義輝の時代の
政所執事
伊勢貞孝は幕政を壟断
三好氏と対立して戦死
貞孝の死後
伊勢氏は力を失ったが
江戸時代には旗本として続いた
伊勢氏の傍流
備中伊勢氏出身といわれる
伊勢盛時は一代で
伊豆・相模を平定し
戦国大名
後北条氏(小田原北条氏)の祖となった
↓↑
良兼流
↓↑
繁盛流
↓↑
善棟流
↓↑
万多親王流
桓武天皇
第九皇子
万多親王の流れ
貞観四年(862年)
万多親王の七男
正躬王の子
住世王
以下12名が平姓を賜姓されて臣籍に下り
後次男の
正行王の子3名
四男
雄風王の子2名も平姓を賜姓
↓↑
仲野親王流
桓武天皇
第十二皇子
仲野親王の流れ
仲野親王の子の
茂世王・利世王・惟世王
などが平朝臣姓を賜姓されて臣籍に下った氏族
↓↑
賀陽親王流
桓武天皇第十皇子
賀陽親王の流れ
元慶二年(878年)
賀陽親王の六男
利基王の子
潔行王
が、賜姓
平潔行となった・・・
以下、略・・・
↓↑
ーーーーーー
・・・???・・・
(表紙・画像・音楽)」の
移転先・・・
https://haa98940.wixsite.com/mysite/blog/archive/2016/12
↓↑
ボクの「古事記字源」の発端・・・
https://haa98940.wixsite.com/mysite/blog/archive/2022/7
↓↑
干支歴
http://meisiki.bake-neko.net/keisanBXG4.html
↓↑
追加添文
「戦争と平和」・・・「モウケの生き方」
https://haa98940.wixsite.com/mysite/single-post/2006%E5%B9%B4%EF%BC%91%EF%BC%91%E6%9C%88%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%8E%E9%A0%83%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%83%BB
・・・清=氵+青(靑=龶+円
寈=宀+青
宀+靑
宀+龶+月
宀+龶+円)
龶=あおかんむり・・・?
龶+α
青・麦・責・素・毒・表・纛・契
「龶=生(セイ)」の変化・・・?
生=𠂉(かみさし)+土(士)
櫛・兂・笄・簪・楴・釵
神佐氏・神指し
龶=十+二=丰(ス・ボウ・姿貌)?
丰=耜・耕=耒+井=犂・鋤・鍬
すき・すく
并(あわせる・併合
ならべる・並立
拜(おがむ・拝啓・拝礼)
拝禮=拝礼
禮=礼
豊=乚(イン)
=乙(オツ・イツ)
≒Z(ゼット)
豐=山+丰+丰+豆≠豊=曲+豆
丰=草原の茫々たる草木?
龶=三+丨
龶=主(ぬし・うし・シュ)=丶+王・・・?
丶=チュウ・灯(ともしび)
和=禾+口
源=氵+原(厂+白+小)・・・水と崖に囲まれた小さなシロ(秦)
万葉集(新羅奇)
出雲風土記(志羅紀)
辰韓~新羅=秦羅=斯蘆=鶏林州都督府
首都=金城(慶州)
↓↑
503年 干支癸未
武烈天皇 五年
皇紀1163年
中国
梁 天監二(弐)年
北魏 景明四(肆)年
「新羅の国名の漢字表記」のハジマリ・・・?
↓↑
誕生
簡文帝 南朝梁の第2代皇帝(503~551年)・・・簡文の綴
陳霸先 南朝陳の初代皇帝(503~559年)
・・・アメ(あま・あみ・あむ・あめ・あも)
に陳列する左(差)記
陳=阝+東=コザトのヒガシ・・・比企氏?
霸=雨+䩗=覇=西+䩗
雨+革+月(肉)・・・アメをナメシたジク
ハ・ハク
はたがしら
月が白く光るさま
武力によって国、天下を治めるもの=覇者
川の名
↓↑
死去
范雲 南朝梁の文人+(451年~)
何 佟之(カ トウシ)
449年~503年
南朝斉~梁にかけての官僚・学者
字 士威
本貫 廬江郡灊県・・・灊=四川省にあった川の名
灊=氵+鬵
氵+兓+鬲
氵+兂+一+口+冂+儿+丅
氵+兂+一+口+冂+丷+丅
氵+兂+一+口+冂+儿+丨
氵+兂+一+口+冂+丷+丨
類字 鬻(かゆ)・鬻ぐ(ひさぐ)
兓=儿(にんにょう・ひとあし)
シン
するどい・とがっている
兂=シン
かんざし=簪
鬲=カク・レキ
かなえ=鬲(かなえ)
器形は鼎(テイ)に似るが
三足の器の中で
器身から足全体が袋形になったもの
三本足のある蒸し器
足の部分が空洞で
そこに水を入れて
上に
「甑(こしき)」をのせて
火にかける・鼎(かなえ)の一種
中空構造の
三足を持った青銅の沸騰機
三本足のカラス=八咫烏=太陽・・・?
へだてる・へだたる
さえぎる
隔=阝+鬲⇔融=鬲+虫・核融合
甑(こしき)
古代中国の
米などを蒸すための土器=「需」
・・・「需」・・・?
「需要供給」
「需=雨+而」?
「而=ジ・二・しかして・しかも」
「耐=而+寸=たえる(耐久の強弱度)」
鬲(かなえ)=甑(こしき)=蒸し器
蒸籠(せいロウ)
竹や木などで作られた蒸籠と同じく
蒸す調理のために用いる
↓↑
何 佟之(カ トウシ)
↓↑
南朝斉の
奉朝請の
「何歆」の子
師につかずに独学で
礼論200篇を読破、暗誦
揚州従事
総明館学士
司徒参軍事
車騎参軍事
尚書祠部郎
を歴任
南朝
斉の
「建武」年間
鎮北記室参軍
皇太子
「蕭宝巻」
の講義に侍し
「丹陽邑中正」を兼ねた
「劉瓛」や「呉苞」といった
建康の碩儒はみな死去しており
独(ひとり)
「佟之」のみが健在
朝廷の
吉凶や礼の決まりはみな
「佟之」の意見が採用された
歩兵校尉・国子博士
を歴任し
驃騎諮議参軍となり
司馬に転じた
500年(永元二年)
「裴叔業」
「崔慧景」
の反乱で建康は騒然としたが
「佟之」は諸生を集め
いつもどおりに講義や議論
501年(中興元年)
驍騎将軍
502年(天監元年)
南朝 梁の
「武帝」が即位し
「佟之」は
尚書左丞
「礼の制定」の議論に
寄与
503年(天監二年)
在官のまま死去・享年55
武帝は
尚書左丞には贈官をおこなわない通例を破り
「黄門侍郎」の位を追贈
著した文章や礼の解釈は100篇ほど・・・
↓↑
子女
何朝隠
何朝晦
伝記資料
『梁書』巻48列伝第42
『南史』巻71列伝第61
・・・???・・・
ー↓↑----
桓武平家・・・百済系・・・舒明天皇(百済宮で死没)
馬韓=百済=熊津都督府
↓↑
・・・桓=木+亘・・・亘=一+日+一=日渡り
水平(海平・地平)線~水平(海平・地平)線の
日(太陽・煬)の移動位置
武=弌+止・・・「弌=一・壹・壱」・・・壹與が弋で止める
平=一+十(拾・足)+丷(ハ・八・捌)
・・・イチを拾(足)ってサバク
張政=チョウセイ=調整
源=氵+厂+白+小
源=氵+原
氵+厂+白+小
厵=原+原+原
ゲン
みみなもと
水の流れ出るもと・源流
物事のおおもと・始まり・始原
たずねる。さぐる・探し求める
起源・起原(きげん)物事の始まり。起こり。根源。
給源・供給源
源五郎=コウチュウ目ゲンゴロウ科の甲虫
池や沼などに生息
体は三センチメートルほどで卵形
源泉
光源
語源・語原
↓↑
医食同源
飲む薬と日常の食事は健康を維持するためのもので
根本は同じである
飲水思源
物事の基本を忘れずに大切にするべき戒め
受けた恩を忘れてはいけない
「水を飲みて源を思う」
↓↑
開源節流
支出を抑え、財源を増やす健全財政
川の流れに財政をたとえた
↓↑
源平藤橘
日本を代表する四つの貴族
源氏・平氏・藤原・橘氏
・・・「橘姫=倭姫」?・・・弟橘媛?
「倭姫命(やまとひめのみこと)」
「倭比売命」
「日本武尊=倭建命=倭男具名=小碓命」の叔母
「第十一代
垂仁天皇の
第四皇女」
↓↑
「弟橘媛」
「日本武尊=倭建命」の妃(きさき)
↓↑
「倭姫王(やまとひめのおおきみ)」
第三十四代
「舒明天皇=田村皇子」の第一皇子
「古人大兄」皇子の娘で
「中大兄皇=天智天皇」の皇后
「大海人王子=天武天皇」が
「中大兄皇=天智天皇」に
「倭姫」に王位の譲渡を願った・・・?
ー↓↑---
舒明天皇(じょめいてんのう)・・・舒=舎+予
明=日(ジツ・ニチ)+月(ジク・肉)
實・実・似知 字句
593年?
推古天皇元年?
~
641年11月17日
舒明天皇十三年十月九日
第三十四代天皇
在位:629年2月2日
舒明天皇元年1月4日
~
641年11月17日
舒明天皇十三年十月九日
↓↑
諱 田村(たむら・デンソン)
和風諡号 息長足日広額天皇
(おきながたらしひひろぬかのすめらみこと)
↓↑
推古天皇
在位36年3月7日(628年4月15日)
崩御
「蘇我蝦夷」は
後継者
「田村皇子」
か
「山背大兄王」
かの選択で
田村皇子を立てて天皇にした
↓↑
欽明天皇の嫡男である
敏達天皇の直系(田村皇子)
と
庶子である
用明天皇の直系(山背大兄王)
による皇位継承争い・・・
↓↑
最初の遣唐使派遣
唐からの
「高表仁」・・・高・・・高句麗・高麗?
表=龶+衣
仁=イ+二
の返訪
唐に
学問僧や学生が渡り
隋の頃に渡った者も含め
「高向玄理」
僧の
「霊雲」
「旻」
「南淵請安」
が帰国
百済
新羅
からの使節訪問
↓↑
母
「糠手姫皇女(田村の御名は彼女から継承された?)
が
「舒明天皇」
よりも20年以上長生きし
天智天皇三年(664年)死没
↓↑
押坂彦人大兄皇子
(敏達天皇皇子で、母は最初の皇后の広姫)
の子で
母は
糠手姫皇女(敏達天皇皇女で押坂彦人大兄皇子の異母妹)
↓↑
妃 田眼皇女
敏達天皇・推古天皇の皇女
↓↑
后 宝姫王(たからのひめみこ・皇極天皇・斉明天皇)
高向王の妃・・・高・・・高表仁・高句麗・高麗?
向
王
母 茅渟王女
↓↑
子女
漢皇子・・・漢(から・カン)・・・支那=中華=隋
葛城皇子(かずら・中大兄皇子・天智天皇)
間人皇女=孝徳天皇皇后
大海人皇子(天武天皇)
↓↑
夫人 法提郎女(ほていのいらつめ)=蘇我馬子女
古人大兄皇子(吉野太子)
采女 蚊屋采女(かやのうねめ、姉子娘?)=賀陽臣女?
蚊屋皇子(かやのみこ・賀陽王)=三島真人祖
名不詳
磯部皇子=久下氏祖?
↓↑
『日本書紀』の記録
『一代要記・帝王編年記』などに
布敷皇女(母は法提郎女)
押坂錦間皇女(母は粟田臣鈴子の女・香櫛娘)
箭田皇女(母は蘇我蝦夷の女 ・手杯娘)
の名・・・
↓↑
舒明天皇年表
↓↑
舒明天皇元年(629年)
1月4日 - 即位
↓↑
舒明天皇二年(630年)
1月12日 - 宝女王を皇后に立てる
3月1日 - 高句麗(大使宴子抜・小使若徳)
百済(大使恩率素子・小使徳率武徳)
が各々使者を遣わして朝貢
8月5日 - 遣唐使(大使犬上御田鍬・薬師恵日ら)を派遣
10月12日 - 飛鳥岡本宮(明日香村)に遷る
舒明天皇三年(631年)
3月1日 - 百済の義慈王が
王子の豊章を質として送る
9月 - 有間温泉に行幸
12月に帰る
舒明天皇四年(632年)
8月 - 唐が
高表仁を派遣し
犬上御田鍬らを送る
10月4日 - 唐の
高表仁
が難波津に到着
舒明天皇五年(633年)
1月26日 - 高表仁が
唐へ戻る
(「與王子爭禮
不宣朝命而還」『旧唐書』)
物部兄麻呂を武蔵国造に任じた
(『聖徳太子伝暦』)
舒明天皇六年(634年)
1月15日 - 豊浦寺(明日香村)塔の心柱を建てる
(『聖徳太子伝暦』)
舒明天皇八年(636年)
6月 - 岡本宮が火災に遭う。田中宮(橿原市田中町)に遷る
旱魃・飢饉が起こる
舒明天皇九年(637年)
蝦夷が反乱し
上毛野形名を将軍として討伐
舒明天皇十年(638年)
福亮僧正が
法起寺金堂(斑鳩町)を建立
(『法起寺塔露盤銘』)
舒明天皇十一年(639年)
7月 - 詔して、百済川
の辺に
大宮と大寺(桜井市吉備?)を造らせる
12月 - 伊予温泉に行幸
百済大寺の九重塔が建つ
舒明天皇十二年(640年)
4月 - 伊予から帰り
厩坂宮(うまやさかのみや。橿原市大軽町付近)
に滞在
10月 - 百済宮に遷る
舒明天皇十三年(641年)
10月9日 - 百済宮で崩御・・・百済宮
10月18日 - 宮の北に殯
ー--ー↓↑ー--
推本溯源
物事の根本を考えその全てを知る
根源を推察して、根源にさかのぼる
「本を推して源に溯る」
↓↑
世外桃源
この世とは違う平和な世界。理想郷・桃源郷
漁師が川をさかのぼって
森の奥に進むと洞穴があり
その洞穴を抜けると
桃の花が咲き乱れる美しい地があり
秦の乱から逃れてきた者たちが
平和に暮らす理想郷を見つけた
新羅・・・?
↓↑
桃源郷=俗世間を離れた平和な別天地
晋の時代、武陵の漁師が
川を水源までさかのぼり
桃の花が咲き乱れる林に迷い込むと
秦の時代の戦乱を避けた人々が
平和に暮らす理想郷があった
「武陵桃源=桃源」
↓↑
流れを汲みて源を知る
末を見て、その本を推し量ること
言動を見れば
その人の人柄や気持ちが自然にわかる
流れている水を汲み取り
水源の様子を察知する
↓↑
源清ければ流れ清し
上に立つ者の行いが正しければ
下の者の行いも正しくなる
ー----
平=一+八+十
平=干+丷
干+八
一+十+八
ビョウ
ヘイ
ヒョウ
ヘン
たいら・たいらか・高低や凸凹がない
たいらか・おやだや・やすらか
かたよっていない・公平・等しい
たいらげる・たいらぐ・おさめる・しずめる
普通・普段・日ごろ
漢字の四声(シセイ)のひとつ
平声(ヒョウショウ)
ととのう・治まる
ひら・普通・特別でない
ひらに・なにとぞ・どうか
↓↑
悪平等
形式だけ平等に扱い逆に不平等になる
↓↑
お平ら
客などに足をくずして楽に座るようにすすめる言葉
↓↑
御平(おひら)
底が浅く平らで被せ蓋のある椀・平椀
↓↑
開平=平方根の値を計算して出すこと
↓↑
公平=一つのものに片寄らず
全てのものを同じように扱うこと
↓↑
舌平目・舌鮃(したびらめ)
カレイ目ササウシノシタ科
ウシノシタ科の魚の総称
牛の舌のような形をしていて平たい
体長は三〇センチメートルほど
カレイやヒラメのように
片方に目が寄っている
食用
↓↑
一路平安=旅立つ人の道中の安全を祈る言葉
↓↑
依流平進(イリュウヘイシン)
経歴や年齢が多い順番の通りに出世すること
自然の成り行き
成り行きの通りに進む
「流れに依りて平進す」
↓↑
怨親平等
敵を憎まず、味方をひいきせず、両者を平等に扱うこと
仏教語
敵味方を区別することなく
平等に慈しみ、極楽往生を願うこと
↓↑
虚気平心=心を空にして落ち着けること
虚気=感情をなくすこと
平心=心を落ち着けること
「気を虚しくして心を平らかにす」
↓↑
虚心平気
疑念や不満、不信などをなくし、心を穏やかにすること
↓↑
驕る平家は久しからず
↓↑
修身斉家治国平天下
天下治世
自分の心と行いを正しく
家庭を整え
国家を治めて
天下を平和にすべき
↓↑
太平楽=天下泰平を祝う舞楽の一つ
↓↑
手の平を返す
↓↑
平仄(ヒョウソク)が合わない
話のつじつまが合わない
平仄=漢詩を作る時の
平声字
仄声字
の配列規則の乱れと無視
↓↑
平たく言えば
ー↓↑----
清和源氏
第五十六代
清和天皇の皇子・諸王を祖とする
賜姓皇族の一
姓(カバネ)は朝臣
↓↑
源氏
祖とする天皇別に21の流派(源氏二十一流)
清和源氏はそのうちの一
↓↑
清和天皇
の皇子のうち4人
孫の王のうち12人
が臣籍降下して源氏を称した
第六皇子
貞純親王の子
経基王(源経基)
の子孫が著しく繁栄
↓↑
中級貴族
経基の子
源満仲(多田満仲)
藤原北家の摂関政治の確立に協力し
中央武門としての地位を築き
摂津国
川辺郡
多田の地に武士団を形成
彼の子である
頼光
頼親
頼信
らも
藤原摂関家に仕えて勢力拡大
頼信流
河内源氏
が東国の武士団を支配下に置き
源頼朝
の代に
鎌倉幕府を開き、武家政権を確立
↓↑
嫡流が
源氏将軍
足利将軍家
として武家政権を主宰
一部は公卿となり
堂上家
として
竹内家が出た
↓↑
清和源氏の起源
清和天皇の
第六皇子
貞純親王の子である
経基王(六孫王)が
臣籍降下により
源姓を賜り
源経基と名乗った
↓↑
陽成天皇
源氏説
経基王は
貞純親王の子ではなく
貞純親王の兄
陽成天皇の子
元平親王の子・・・陽成源氏説
↓↑
明治の歴史学者
星野恒が
『史学雑誌』に発表した論文
「六孫王ハ清和源氏ニ非ザルノ考」
「清和源氏の祖は実は清和天皇ではなく
陽成天皇であるが
暴君の陽成帝の名を冠せず
清和源氏を名乗った」
石清水八幡宮祠官
田中家文書の中に
源頼信が
誉田山陵(応神天皇陵)
に納めたと称する
永承元年告文に
「先人新発
其先 経基
其先 元平親王
其先 陽成天皇
其先 清和天皇」
と明記・・・
経基の名跡を継いだ
源満仲
は藤原摂関家に仕えて
各地の受領を歴任
摂津国 川辺郡
多田(兵庫県川西市多田)
を本拠地として源氏武士団を形成
酒呑童子退治の
満仲の長男
源頼光も摂津国に拠点を置き
摂津源氏と呼ばれる武士団を形成
本拠である多田を継承した嫡流
源頼綱(頼光の孫)の系統を
多田源氏
満仲の次男
源頼親の系統は
大和国宇野(奈良県)を本拠地とし
大和源氏
三男
源頼信の系統は
河内国
壷井(大阪府羽曳野市壷井)を本拠とし
河内源氏と呼ばれる武士団を形成
↓↑
源満仲の子
三男の
源頼信は
長元元年(1028年)
房総三カ国(上総国、下総国、安房国)
で起きた
「平忠常の乱(長元の乱)」
を平定
頼信の子
頼義は
康平五年(1062年)から
陸奥国
奥六郡に蛮拠する
俘囚の長
「安倍」氏を討ち(前九年の役)
頼義の子
八幡太郎義家は
同族の
源国房
源重宗
と合戦を繰り広げ
寛治元年(1087年)
出羽国の俘囚長
清原氏の内紛を収め
(後三年の役)
頼信流の河内源氏は
東国に足掛かりを持つ
河内源氏は
それまでの
清和源氏庶流であった地位から
嫡流の地位を占めたが
白河法皇の警戒を招き
河内源氏は抑圧された
↓↑
河内源氏
摂津源氏のように京都を活動舞台にせず
板東を拠点としたのは
兄の
源頼光
源頼親
が藤原道長に側近として仕えたのに対し
頼信は
上野介
常陸介
など遠方で収入の少ない
東国受領となっていた
義家
義綱(美濃守)
義光(新羅三郎)
兄弟の頃には
清和源氏最大の勢力となった
(義家と義綱の仲は悪く
義綱は中央で昇進を重ねた)
源氏庶流は国の下級官人を辞し
地方の荘官などとなることにより勢力拡大
↓↑
義家の晩年
次男の
義親が朝廷に反抗し
弟の
「新羅三郎義光
(常陸源氏、甲斐源氏の祖)」
と
四男の
荒加賀
入道
義国(上野源氏、下野源氏の祖)
が嘉承元年(1106年)
「常陸合戦」を引き起こし
両者が勅勘
天仁二年(1109年)
義家の死後に家督を継承した
義家の三男
源義忠が暗殺され
主犯とされた弟の
義綱(美濃守)が
白河法皇の命を受けた
源義親の子
源為義
源光国(美濃源氏)
の討伐を受けて壊滅
事件後
真犯人が
「新羅三郎義光」
であったことが明らかになり
河内源氏内部分裂で権勢は失墜
河内源氏が拠り所にしていた
摂関家の摂関政治から
白河法皇の院政への移行があった
↓↑
源義忠の後を継いだ
源為義は
白河法皇に近侍
郎党、八男
鎮西八郎為朝らの乱行で信用を失い
摂関家へ接近
長男の
源義朝
は南関東に下向し
白河法皇に仕えて
父とは別行動をとり
武蔵守
藤原信頼に接近
義朝は
義忠の弟である
上野国と下野国に所領を有する
源義国とも結ぶことに成功し
院の影響下で京都へ復帰
父
為義は
義朝の弟
源義賢を
義朝の支配の及ばない北関東へ派遣
秩父氏の争いもかかわって
義賢は
義朝の長男
義平と対立
久寿二年(1155年)
大蔵合戦で
義賢が討死
義平側が勝利
白河法皇
鳥羽法皇
の寵愛を受けた
伊勢平氏の
平正盛・忠盛父子
美濃源氏の
源光保・光宗父子
らが復興し
武門の中で河内源氏の勢力は相対的に低下
↓↑
源為義と義朝の対立は
保元元年(1156年)
「保元の乱」
で決着し
父や弟を処刑した義朝は
後白河法皇側についた
下野源氏の
足利義康が急逝し
一族を圧倒して
河内源氏の総領になった
京都では
信西一門
二条天皇親政派
後白河院政派
が鼎立し
平治元年(1160年)
藤原信頼と結んでいた義朝は
後白河法皇を幽閉し
「平治の乱」を起こしたが
平清盛
らが秘密裏に法皇らを救出し
敗退して京を落ちて東国へ向かうが
道中で腹心の
鎌田政清の舅
尾張国
長田忠致
に殺害され
源光保らも
後白河法皇により
誅殺された
↓↑
治承四年(1180年)
平氏政権で
皇位継承の不満から
「以仁王」
に
源頼政(摂津源氏)が協力したが
(以仁王の挙兵)
乱は失敗
熊野に潜んでいた
義朝の弟の
源行家らが
以仁王の令旨を全国に伝え
河内源氏の
源頼朝
源希義(土佐冠者)
源範頼
源義円
源義経
ら兄弟や
源義朝の弟の
源義賢の子
頼朝の従兄弟にあたる
源義仲(木曾次郎義仲)
源義光の子孫の
武田信義・安田義定(甲斐源氏)
山本義経・柏木義兼(近江源氏)
義国の子孫の
足利義清(下野源氏)
新田氏庶流の
山名義範
里見義成
新田義重(上野源氏)
摂津源氏の
源頼綱を祖とする嫡流
多田行綱(多田源氏)
源頼綱の弟
国房を祖とする
源光長(美濃源氏)
大和源氏の
源親治らが各地で挙兵
「源平合戦」
「治承・寿永の乱」
が発生
↓↑
当初は平家が源氏を圧倒し
頼朝の弟の
希義が敗死
後に形勢が逆転して
平家は
源義仲に京都を追われ
源義仲軍
源頼朝軍
平家の三つ巴となったが
頼朝軍が圧倒し
寿永三年(1184年)
「粟津の戦い」
義仲軍
元暦二年(1185年)
「壇ノ浦の戦い」
で平家を滅ぼし
頼朝軍が勝利した
ー↓↑----
平姓
桓武平氏
仁明平氏
文徳平氏
光孝平氏
↓↑
桓武平氏
平高望の子孫は武士
平高棟の子孫は堂上家
↓↑
最初の平氏
桓武平氏の祖
平安京にちなんで「平(多比良)」
平高棟は
桓武天皇皇子
葛原親王の子
平実世は
桓武天皇の子
仲野親王の子
平惟世は
桓武天皇の孫
or
文徳天皇の孫
↓↑
平姓
平安遷都後の
天長年間~仁和年間(824年~889年)
まで与えられた・・・説
↓↑
高望王流
桓武平氏の始まりの地
東国
武家平氏の盤踞地
武家平氏の祖
上総介の
平高望
東国に独立政権を樹立した
下総の
平将門
将門を倒した常陸の
平貞盛
坂東八平氏
北条氏
坂東に土着した
高望王流桓武平氏の末裔
↓↑
平将門の乱
以降
関東では
貞盛流
平良文
の子孫が勢力を有し
1028年(長元元年)
「平忠常の乱」
源頼信が
忠常を降伏させ
河内源氏が関東における武家の棟梁的存在となり
千葉氏・三浦氏
などの
平姓諸流は
源氏の家人として扱われた
↓↑
貞盛の四男
維衡は伊勢に地盤
子孫は主に西国で勢力拡大
平忠盛は
西国で受領を歴任して勢力拡大
その子の
「平清盛」
肥後守・安芸守を歴任
西国に勢力拡大
「平治の乱」
義朝が討たれるまで
東国の平氏は清盛流とはほとんど関係がない存在
「治承三年の政変」後
清盛は東国の支配権強化に乗り出し
河内源氏の後裔である
源頼朝が蜂起
東国平氏は
頼朝に臣従
平家と戦う
↓↑
50代
桓武天皇の子
葛原親王
万多親王
仲野親王
賀陽親王
の子孫
↓↑
第三皇子
葛原親王の流れが繁栄
天長二年(825年)三月五日
葛原親王が子女を臣籍降下させ
平朝臣姓の賜姓を上表するがこの時は許されず
七月六日
再度上表して許された
葛原親王の子息で平朝臣姓となった者として
高棟王・善棟王・高望王
天長五年(830年)
従五位下に叙爵した
平清人
承和七年(840年)
叙爵した
平春香
葛原親王の子孫・・・?
↓↑
高棟流
葛原親王長男
高棟王は
天長二年(825年)
賜姓を受けて
平高棟となって
大納言まで進み
三男の惟範
その子の
時望・伊望
時望の孫
平惟仲も議政官まで栄達
後
時望の孫
親信の子孫は代々受領を務める中級貴族として存続
↓↑
親信の孫
範国の家系は
平安末期には
後白河法皇の寵愛の
建春門院
平滋子
が
高倉天皇を出産
弟の
平時忠や姉の
平時子(二位尼)
時子が嫁いだ
平清盛を始めとする平家一門の繁栄
時忠の弟
親宗の子孫(唐橋家)
叔父
信範の子孫(西洞院家・安居院家・烏丸家)は
鎌倉時代以降も公家として続いた
江戸時代には
西洞院家とその庶流
平松家・長谷家・交野家・石井家
が堂上家となった
地下家の
生島家もこの系統
親信のもうひとりの孫
行親の流れは鎌倉時代前期に
平経高を輩出
↓↑
平家
↓↑
伊勢氏
室町時代
有力な幕臣となる伊勢氏は
平維衡の子孫を称し
伊勢氏は代々政所執事を世襲
伊勢貞親は
第8代将軍
足利義政の
養育係を務め
成人後も幕政に大きな影響力を持った
第13代将軍
足利義輝の時代の
政所執事
伊勢貞孝は幕政を壟断
三好氏と対立して戦死
貞孝の死後
伊勢氏は力を失ったが
江戸時代には旗本として続いた
伊勢氏の傍流
備中伊勢氏出身といわれる
伊勢盛時は一代で
伊豆・相模を平定し
戦国大名
後北条氏(小田原北条氏)の祖となった
↓↑
良兼流
↓↑
繁盛流
↓↑
善棟流
↓↑
万多親王流
桓武天皇
第九皇子
万多親王の流れ
貞観四年(862年)
万多親王の七男
正躬王の子
住世王
以下12名が平姓を賜姓されて臣籍に下り
後次男の
正行王の子3名
四男
雄風王の子2名も平姓を賜姓
↓↑
仲野親王流
桓武天皇
第十二皇子
仲野親王の流れ
仲野親王の子の
茂世王・利世王・惟世王
などが平朝臣姓を賜姓されて臣籍に下った氏族
↓↑
賀陽親王流
桓武天皇第十皇子
賀陽親王の流れ
元慶二年(878年)
賀陽親王の六男
利基王の子
潔行王
が、賜姓
平潔行となった・・・
以下、略・・・
↓↑
ーーーーーー
・・・???・・・
(表紙・画像・音楽)」の
移転先・・・
https://haa98940.wixsite.com/mysite/blog/archive/2016/12
↓↑
ボクの「古事記字源」の発端・・・
https://haa98940.wixsite.com/mysite/blog/archive/2022/7
↓↑
干支歴
http://meisiki.bake-neko.net/keisanBXG4.html
↓↑
追加添文
「戦争と平和」・・・「モウケの生き方」
https://haa98940.wixsite.com/mysite/single-post/2006%E5%B9%B4%EF%BC%91%EF%BC%91%E6%9C%88%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%8E%E9%A0%83%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%83%BB