ないえごろうブログ

同音異義の探索

シラギにはクダラナイ・・・コマはタカミのケンブツ

 3196日目・文字霊日記

 「統一新羅百済+高句麗+新羅+α」・・・「古事記+日本書紀
  統一教会・・・吉志+阿部vs百済王氏(くだらのこにきしうじ)
         百済朝臣百済公、百済連、百済宿禰
         岸  安部⇔山口県・・・李承晩の亡命政権画策地?
ー↓↑---
 1950年6月25日
 朝鮮民主主義人民共和国北朝鮮)が
 大韓民国南朝鮮)に
 攻撃を開始、朝鮮戦争勃発
 李承晩政府は
 1950年6月27日
 日本の外務省に
 「6万人規模の
  亡命政権
  山口県に樹立したい」
 と打診
 当時の
 田中龍夫
 山口県知事は
 「日本の住民も配給が不足している状況」
 と難色も
 韓国人5万人を収容する
 「緊急措置計画書」
 を作成
 ↓↑
 計画
 山口県
 阿武郡など4地域に
 20か所の避難キャンプを設置し
 臨時兵舎1棟に200人ずつ
 計250棟の兵舎を建設し
 5万人を収容予定
 計画書は
 米軍に提出され
 田中知事は
 予算支援も要請
 釜山が陥落を免れたことで
 亡命計画は実行されなかった
 ↓↑
 韓国メディア・KBS
 山口県の図書館で
 計画書を発見
 「亡命要請」
 を裏付ける日本側の文書が
 「初めて確認された」
 2015/06/24(水)
 ↓↑
 韓国メディア・KBSが
 山口県の図書館で
 計画書を発見
 「亡命要請」
 を裏付ける日本側の文書が
 「初めて確認された」
 2015/06/24(水)
 ↓↑
 「KBS」
 韓国放送公社
 (Korean Broadcasting System、KBS)
 韓国のラジオ放送とテレビ放送を
 共に流す公共放送局
 2001年以降は
 「韓国放送」も併用
ー↓↑---

 からす(鴉・雅・烏)・・・雅(みやびやか・カ・ゲ)
 に似る黒い
  キュウカンチョウ
 (九官鳥、Gracula religiosa)
 鳥綱
 スズメ(雀)目
 ムクドリ(椋鳥)科
   ・・・椋=木+京
        十+八+亠+口+亅+ハ
        拾+捌+音+口+鉤(鈎・鍵)+葉知   
 キュウカンチョウ(九官鳥)属
       ・・・救韓調・旧観調・九巻調?
 全長30-40センチメートル
 全身の羽衣は光沢のある黒
 嘴はオレンジ色・・・緒聯字意賂
 眼下部から後頭部にかけて
 黄色い肉垂れ・・・字句多例
 ↓↑
 インコ(鸚哥)同様・・・鸚=嬰+鳥=カイが並ぶオンナをトル
             哥=歌
 人語を発する
 人や動物の声の真似、鳴き真似
 音程や音色だけでなく
 声色も真似する
 物真似の対象が判別できる
 声真似等ができるのは
 擬態の一種と見られ
 インコ類と違い
 舌で発音するのではなく
 鳴管から直接発音
 「九官鳥」の名前由来
 江戸時代
 九官と名乗る中国人が
 この鳥を持ち込んだときに
 「この鳥は吾(われ)の名を言う」
 と説明したものが
 誤って理解されたまま定着した
 「本朝食鑑」・・・本の朝の食を鑑(みる・監察)
 ↓↑
 「アスクレピオスの杖」・・・鴉(蛙)州句例比呉州
      ・・・ヒポクラテス=医学の父
 医療・医学の象徴
 世界保健機関のマーク
 世界各国で救急車の車体に描かれ
 軍医や衛生兵などの
 兵科記章に用いられている
 杯に
 1匹のヘビの巻きついたモチーフ
 「ヒュギエイアの杯」・・・比喩義依意蛙
 と呼ばれ
 薬学の象徴
 ↓↑
 キュロス1世・・・記由賂素
 アンシャン王・・・案者務
 キュロス2世の祖父
 キュロス2世
 アケメネス朝の初代皇帝
 大キュロス=キュロス大王
 小キュロス
 アケメネス朝の王子
 アルタクセルクセス2世の弟
 有る多句施留句施州    音

 ↓↑
 地名
 キュロス (ギリシャ)
 古代マケドニア王国の都市
    真懸土似蛙
 キュロス (シリア) 
 セレウコス朝創始者
 施例胡故州
 セレウコス1世
 によって建てられた都市
 ↓↑
 キュロス2世(Kuruš
       古代ギリシア
       Κῦρος キューロス
       ペルシア語 کوروش‎)
 紀元前600年頃~紀元前529年)
 アケメネス朝ペルシア
 初代国王(諸王の王)
 紀元前550年~紀元前529年
 古代エジプトを除く
 全ての
 古代オリエント諸国を統一
 現代のイラン人は
 キュロス
 をイランの建国者と称えている
 ↓↑

 名前
 I am Cyrus, Achaemenid King
 Pasargadae.JPG
 古代ペルシア語名
 クルシュ
 古代ギリシア語名
 キューロス
 古典ヘブライ語
 コレシュ
 同名の王子
 「小キュロス」
 と区別して
 「大キュロス」
 キュロス大王
 同名の
 アンシャン王
 キュロス1世と区別して
 「キュロス2世」
 と呼ばれる
 ↓↑

 キュロス
 紀元前600年頃
 ペルシア王国の王である父
 カンビュセス1世
 と母
 マンダネ
 (メディア王アステュアゲスの娘)
 の間に王子として生まれた
 ペルシア王国は
 メディア王国に従属する小王国
 ペルシアの王都
 アンシャンにあり
 ペルシア国王は
 アンシャン王の称号も保持
 アンシャンは
 エラムの故地で
 エラム
 エラムの諸制度を引き継いでいたが
 エラム王国自体は衰退し
 西部の
 スサ
 周辺のみを領有
 紀元前559年
 キュロス即位
 ペルシア王国
 第7代の王
 (紀元前559年~紀元前550年)
 となった
 ↓↑
 メディア王国・・・女出意鴉(蛙・雅)
 への反乱
 紀元前552年
 メディアに反乱を起こした
 (en:Persian Revolt
  en:Battle of Hyrba)
 紀元前550年
 メディア王
 に恨みを抱いていた
 メディアの将軍
 ハルパゴスの裏切りもあり
 (en:Battle of the Persian Border)
 メディアの首都
 エクバタナを攻略し
 メディア王
 アステュアゲスを打倒し
 祖父の国である
 メディアを滅ぼし
 統一王朝としての
 アケメネス朝が始まった
 キュロスは
 エクバタナを制圧し
 メディア領土全域を制圧、支配した
 ↓↑
 リュディア王国征服
 不死身の1万人(不死隊)
 と呼ばれた軍団を率いて
 小アジア西部の
 リュディア王国に攻め
 紀元前547年秋
 プテリアの戦い
 では引き分け
 10月
 テュンブラの戦い
 では
 リュディア王
 クロイソス・・・句賂意蘇素
 を破り
 首都
 サルディス攻囲戦で・・・猿出意諏
 リュディアを征服

 ヘロドトス・・・経賂土譯素
 によれば
 キュロスは
 クロイソスを火刑に処そうとしたが
 クロイソスが
 アポロンに嘆願すると
 突如雨が降って
 火を消したため
 キュロスは
 クロイソスの命を助けた
 後
 クロイソスは
 キュロスに参謀的な役割で仕えた
 後
 ハルパゴス・・・葉留葉語素
 に命じて
 カリア、リュキア、イオニア
 ギリシア人ポリス
 といった
 アナトリア西端の
 エーゲ海沿岸地方を恭順させた
 紀元前546年
 旧ペルシア地方に
 新首都
 パサルガダエ・・・葉佐留雅拿回
 の建設を始めた
 ↓↑
 エラム征服
 紀元前540年
 スサ・・・須佐
 を陥落させ
 エラムは滅亡
 ↓↑
 新バビロニア征服
 キュロス2世の
 バビロン侵攻直前の
 古代近東
 東方各地を転戦して征服
 紀元前539年
 オピスの戦い・・・帯州⇔帯方郡
 で
 ナボニドゥス・・・名簿似同諏
 率いる
 新バビロニア王国を倒した
 10月29日
 バビロンに入城
 「諸王の王」
 と号した
 紀元前538年or紀元前537年
 「クロスの勅令(キュロスの勅令)」
  ・・・句賂諏(くろす)
         句呂素
          侶=意の背骨=太安万侶
     黒州=里+灬(烈火)+洲
       ⇔白村江の海戦=敗戦烈火の倭の水軍
        はくすき(栢耜)の江
        栢(柏・かしわ・ハク・ヒャク)
        耜(すき・シ・ジ)=鋤=金+助
 ↓↑
 を発し
 バビロン捕囚・・・葉毘(備)論の補修(補習・捕集)
 ユダヤ人=猶太・・・ヘブライ人・・・経部等意
   ・・・イスラエル=Israel=以色列
 をはじめ
 バビロニアにより
 強制移住させられた諸民族を解放
 キュロス
 は、被征服諸民族に対して寛大で
 後世に理想的な帝王として仰がれ
 ユダヤ人を解放して帰国させ
 旧約聖書では
 メシア(救世主)・・・女史蛙(烏・鴉)
 と呼ばれている
 (イザヤ書45章1節)
 このとき
 キュロスは
 新バビロニア
 ネブカドネザル2世
 によって略奪されていた
 エルサレム神殿
 什器を返還し
 エルサレムに神殿の再建を命じた
 この再建は
 紀元前520年ごろに
 第二神殿が完成した時には
 キュロスはすでに死亡したが
 キュロス以降も継続
 ユダヤ人は
 アケメネス朝の統治下においては
 一度も反乱を起こさなかった
 キュロスは子の
 カンビュセス2世に
 バビロンの統治を命じ
 旧バビロニア統治機構
 そのまま利用して統治を進めた
 キュロスは
 宣撫文書として
 キュロスの
 円筒印章・・・円筒印章=エントウインショウ
            =遠東印象(印証・引照)
        円=圓(つぶら・まるい
            ヱン・エン)
               エ=たくみ=巧・内匠
            ヱ=ア(了)+一=終始
     ・・・円周率=パイ=π・Π・pie
              =杯=たかつき
                 高坏・高槻・高月
 を作らせ
 ペルシア(波斯)・・・経留詞吾(蛙・鴉)
 の統治の正当性を主張させた
 ↓↑
 中央アジア征服
 彼はさらに東方辺境に転戦
 バクトリア
 ソグディアナ
 を征服し
 サカ・・・佐賀・相模
 を従属させ
 総督として
 スメルディス王子を置いた
 東は
 ヤクサルテス川(古希: Ἰαξάρτης)
 から西は
 小アジアに至る広大な
 ペルシア王国を建設
 ↓↑
 マッサゲタイ
 との戦いと崩御
 キュロス2世
 戦没時の
 アケメネス朝領土
 ヘロドトスは著書
 『ヒストリアイ』・・・比州都里吾意
 で
 キュロスは
 トミュリス女王・・・女王・富(冨・登美)由理州
 率いる
 マッサゲタイ人との戦いで
 戦死したという説を伝えている
 しかしすでに一部の
 統治権を譲渡されていたこともあり
 皇太子である
 カンビュセス2世への政権移譲は
 滞りなく行われ
 カンビュセス2世は
 紀元前525年
 エジプトを征服
 オリエント(orient)・・・緒理円都
 に広大な統一帝国を誕生させた
 「キュロスの墓」
 王都
 パサルガダエに築かれ
 陵墓は現在でも残っており
 2004年に
 パサルガダエの都市遺跡の一部として
 世界遺産に登録
 ↓↑
 オリエントの4大国
 メディア
 リュディア
 新バビロニア
 エジプト
 のうち、エジプトを除く3つを併呑し
 エラム
 フェニキア
 といった独立勢力や東方の地域までを含む
 広大で多様な地域を統治するため
 キュロスは
 王国を
 20の州に分け
 各州ごとに
 サトラップ(総督、太守)をおいた
 サトラップ制
 メディア王国の制度をそのまま利用
 キュロスは宗教に関しては寛容で
 アケメネス朝・・・亜紀(安芸)女子州
 の統治期を通じ守られた
 帝国の公用語
 アンシャン時代から引き続き
 エラム語であり
 アケメネス朝一代を通じて変わらなかった
 ↓↑
 キュロスの
 円筒印章(大英博物館蔵)
 キュロスは
 紀元前6世紀半ば
 メディア、リディア、新バビロニアを滅ぼし
 メソポタミアを統一
 この円筒印章には諸民族を解放し
 弾圧や圧政を廃し
 寛容な支配を推し進めた様が描かれており
 人類初の人権宣言とも称される
 ↓↑
 ナボニドゥス年代誌
 ナボニドゥスの円筒形碑文
 新バビロニア帝国の最後の王
 ナボニドゥスの治世を扱っている
 『ナボニドゥス年代誌』
 にはエラムの滅亡やバビロン占領後の
 キュロスの行動が記録
 同時期の
 ナボニドゥスの
 円筒形碑文においても
 キュロスの治世が賞賛された文が記載・・・???
ー↓↑ー--

 キシ&アベ・・・統一のキョウカヒのゴオン・・・?
  ↓↑
 コロナ感染40000人(東京・7/29)なのに・・・浮いている?
  ↓↑
 「源平合戦」・・・渡来、亡命、帰化人の「紅白・白辯」の合戦・・・?
  ↓↑
 「アダムの国」 と 「イヴの国」=混血統一
    ↓↑        ↓↑
  被救済者の国    救済者の国
   救済者の国   被救済者の国
     ?      ?
     天使     悪魔
     K国     J国
     新羅+唐    百済+高句麗
     新羅+隋
 一冊 3000万円の本
    1237億円の被害・・・
 訴訟訴訟 3万4千件・・・
 「反社会組織」デはナイ「宗教」があるのか・・・?
 「時の国家権力者の利害」に反抗、反逆する者、組織者は
 すべて
 「反社会人、反社会組織」になる・・・
 「神社仏閣」は
 ヤクザの「御開帳・鉄火場・曲芸、芸人」の縄張りだった
 日露戦争にもヤクザは「国家の一兵卒」になった・・・
 だが
 「暴力団」は「国家」を越えて「国際化」した・・・
 もちろん、地域居住のニンゲンは
 「国家」なんかは何のソノ・・・
 「グローバル」化されていく・・・
 相対的な「危険地域」は「安全地域」を駆逐さるるのは
     「悪貨」 が 「良貨」を駆逐するの同象である・・・
 「第三の男(The Third Man)」は
 戦後、ウィーンの
 「不正ペニシリン」の蔓延、横流しを巡ってのヨーロッパ事情だった・・・
 あの「美人の女」には「利他の心情は無い」・・・?
  ↓↑
 「鵯越(ひよどりごえ)」・・・鵯=卑+鳥
  卑弥呼のトリをこえる=鵯(ひよどり)
            =壹與(臺與)13歳?
 「逆(さか)落(お)とし」・・逆(さか)音し?
    佐賀・相模         性脅し・業脅し?
ー↓↑ー--
 百濟=伯濟
    ・・・郭淮(2世紀~255年2月23日)・・・郭務悰⇔加賀夢想?
     字 伯濟・・・?
     太原陽曲人
     三国时代
     曹魏の将軍
     255年去世
     死後
     魏少帝
     曹髦が
     追封
     他に
     大將軍と為す
     諡 貞侯
 4世紀前半
 660年前後
 朝鮮半島
 西部
 南西部の国家
 半島北部から満州地方に
 高句麗
 南東部に
 新羅
 南部に
 伽耶諸国
 ↓↑
 漢城時代(~475年)
 熊津時代(~538年)
 泗沘時代(538年~)
 ↓↑
 漢城
 京畿道を中心
 高句麗の攻撃によって
 首都漢城が陥落
 一時的に滅亡し
 忠清南道にあった
 熊津(公州)へと移動
 武寧王高句麗を撃退し
 国力を回復
 南方の伽耶加羅)地方へと勢力を拡張
 538年
 首都を泗沘に建設
 伽耶地方を含む周囲への拡大を図った
 ↓↑
 中国で南北朝時代が終焉
 統一王朝
 隋が成立
 後
 唐が成立し
 高句麗を制圧するため
 百済攻略企図
 新羅を支援して
 百済を攻撃
 660年
 百済滅亡
 臣下が
 倭国の支援を受けて
 百済復興運動
 663年
 「白村江の戦い
 敗戦後
 唐が半島から撤退し
 百済
 新羅に組み込められた
 ↓↑
 百済
 初代王である
 「温祚王
 が
 「夫余」から遷って建国し
 国号を
 「十済」
 「温祚王」の兄の
 「沸流」に従っていた人々が
 「温祚王」の国に合流し
 「百姓」
 が従って
 「百済
 と改名
 『隋書・百済伝』
 移動の際に
 「百家」
 で海を済り
 「百済
 という国名となったと伝承
 ↓↑
 日本語
 「くだら」・・・不詳・・・「下らない」?
 ↓↑
 馬韓諸国
 「伯済国」
 「漢城(ソウル)」
 首都とし
 4世紀前半頃までには成立・・・
  ↓↑
 『三国史記』(1143年成立)
 百済の建国
 紀元前18年・・・?
 3世紀後半・・・?
 4世紀前半・・・説
 漢城を都とした百済
 『三国史記百済本紀』
 第12代
 「契王」
 以前の記録は伝説的・神話的
 ↓↑
 漢城時代(475年前後)
 ↓↑
 ソウル市にある
 「石村洞3号墳」
 高句麗影響の
 積石塚
 ↓↑
 三国時代
 百済
 高句麗と武力衝突
 371年
 「近肖古王
 (『三国史記』第13代)
 の治世下
 高句麗
 平壌城を陥落させ
 「故国原王」
 を戦死させた
 平壌占領の翌年
 百済の使者が
 東晋に入朝
 「近肖古王」は
 「鎮東将軍領
  楽浪太守」
 として封建
 同時期
 「倭国」との通交
 「七支刀(七枝刀・ななつさやのたち)」
 儀礼用の剣が倭国へ贈られた
 『日本書紀
 七支刀の銘文から
 369年
 「近肖古王」治世第24年に作成
 『日本書紀』に見える
 百済
 「照古王」は
 「近肖古王
 を指すと考えられる・・・
 『三国史記
 「近肖古王
 の治世に博士
 「高興」
 が
 「百済」に文字を伝え
 初めて記録がされるようになった・・・
  ↓↑
 「近肖古王」の治世は
 「百済
 が朝鮮半島における
 国家体制が整備された時代
 周辺諸国との関係を通じ
 百済には多様な集団が関わる・・・
 倭国との連携強化
 百済の権力層に
 倭国系の
 姓氏を帯びる集団(倭系百済官僚)が登場
 楽浪遺民
 帯方遺民
 などの中国系人士
 外来の多様な集団を
 権力内部に取り込み
 百済は発展
 ↓↑
 第15代
 「枕流王」
 南朝を経由して西域の僧侶
 「摩羅難陀」
 が百済に渡り
 王から歓待
 翌年
 彼のために
 漢城(漢山)に仏寺が建設
 最初の
 百済への仏教伝来・・・
 ↓↑
 391年
 高句麗
 「広開土王(好太王)」
 が即位
 百済に占領された領土の回復を図り
 396年
 漢江以北
 大同江以南の地域を奪回
 ↓↑
 百済は、倭国に支援を求め
 「阿莘王」6年(397年)
 には太子
 「腆支」
 が倭国へ人質として出され
 倭国の軍事的な介入が行われた・・・
 百済は、新羅とも結んで
 高句麗
 と対抗
  ↓↑
 「広開土王」碑文
 391年以来
 倭が海を渡り
 百済
 と
 新羅
 を臣民とし
 396年
 高句麗
 百済を破り
 百済王を服属
 399年
 百済王が倭国と和通し
 400年
 新羅へ出兵し
 倭軍を駆逐
 404年
 帯方に侵入した倭を撃退
 407年
 百済へ出兵し
 6城を奪った
 ↓↑
 427年
 高句麗
 「長寿王」
 は奪回した平壌へ遷都
 華北
 「北魏
 との関係が安定し
 455年以後
 高句麗による
 百済への侵攻が繰り返された
 百済
 新羅と結び
 「蓋鹵王の18年(472年)」
 北魏にも
 高句麗攻撃を要請
 ↓↑
 醜類漸盛
 遂見凌逼
 構怨連禍
 三十餘載
 財殫力竭
 轉自孱踧
 若
 天慈曲矜
 遠及無外
 速遣一將
 來救臣國
 ↓↑
 醜類(高句麗)は隆盛になり
 我が百済を侵略
 怨みを重ね禍いを連ねること
 三十余年
 (百済は)
 財力も戦力も使いはたし
 しだいに弱り苦しんでいる
 ↓↑
 もし天子が弱くあわれな者に慈悲深く
 はてしなく遠くまで及ぶのでしたら
 速やかに一人の将軍を派遣し
 臣の国を救ってください。
 『三国史記百済本紀/蓋鹵王18年』
 ↓↑
 百済は伝統的に
 中国の南朝と通交
 北魏
 高句麗が熱心に遣使していることに触れ
 百済への支援はされなかった
 ↓↑
 「蓋鹵王21年(475年)」
 高句麗
 「長寿王」
 が自ら率いた大軍によって
 王都漢城を包囲、敗勢が決定的
 「蓋鹵王」
 は脱出を試みたが捕縛され殺害
 漢城陥落
 『三国史記
 『日本書紀
 書紀が引用する
 『百済記』
 で言及記録
 ↓↑
 二十一年
 秋九月
 麗王巨璉
 帥兵三萬
 來圍王都漢城
 王閉城門
 不能出戰
 麗人分兵爲四道夾攻
 又乘風縱火
 焚燒城門
 人心危懼
 或有欲出降者
 王窘不知所圖
 領數十騎
 出門西走
 麗人追而害之
 ↓↑
 二十一年(475年)秋九月
 (高句)麗王
 巨璉(長寿王)
 は三万人の軍隊を率いて
 王都の漢城を包囲
 王は城門を閉ざし
 戦うことができなかった
 麗軍は、軍隊を分けて
 四つの街道を通って
 挟み撃ちにした
 ↓↑
 また風に乗じて火を放ち
 城門を焼き
 人たちはあやぶみ懼れ
 あるものは(城を)出て
 降伏しようとする者もいた
 王は追い詰められ
 どうしてよいかわからず
 数十騎を率いて
 (城)門を出、西方に逃走
 麗軍が(王を)追撃し殺害
 『三国史記百済本紀/蓋鹵王21年』
 ↓↑
 廿年冬
 高麗王
 大發軍兵
 伐盡百濟
 爰有小許遺衆
 聚居倉下
 兵糧既盡
 憂泣茲深・・・
 百濟記云
 蓋鹵王乙卯年冬
 狛大軍來
 攻大城七日七夜
 王城降陷
 遂失尉禮
 國王及大后、王子等、皆沒敵手
 ↓↑
 (雄略天皇)二十年冬
 高(句)麗王が大軍をもって攻め
 百済を滅ぼした
 その時少しばかりの生き残りが
 倉下(へすおと)に集っていた
 ↓↑
 食料も尽き憂え泣くのみであった
 ・・・
 百済記に云わく
 「蓋鹵王の乙卯年冬
  狛(高句麗)の大軍が来た
  大城を攻めること七日七夜
  王城は陥落し遂に
  尉礼(百済)の国を失った
  王及び大后王子たちは皆、敵の手に没した」
 『日本書紀・巻14
  大泊瀬幼武天皇雄略天皇
  20年冬』
 ↓↑
 熊津時代(475~538年)
 ↓↑
 百済
 475年
 王子
 「文周」
 は救援を求めるために
 新羅に派遣
 彼は新羅の援軍を連れて帰還
 既に漢城は陥落
 翌月
 「文周王」
 として即位
 都を南方の
 熊津(忠清南道公州市)に遷し
 百済を復興
 高句麗から逃れた貴族たちが
 熊津に流入
 王族と共に主要官職を抑えていた
 「解」氏なども加わっていた
 ↓↑
 「文周王」は
 王弟
 「昆支」
 を内臣佐平
 「解仇」
 を兵官佐平にあてた
 「昆支」が死ぬと
 「解仇」が実権を握り
 478年
 「解仇」によって
 「文周王」は暗殺
 太子
 「三斤(13歳)」
 が即位したが
 権限は
 「解仇」が握った
 翌年
 「解仇」が
 恩率(第二等官位)
 「燕信」
 とともに反乱
 「三斤王」
 はかつて
 「腆支王」
 の即位に反対した
 別の貴族真氏を登用し
 これを討伐
 反乱鎮圧に動員された
 百済の兵力は
 2,500名
 反乱した
 「解仇」側の兵力は不明
 ↓↑
 479年
 「東城王」
 即位
 「解氏・真氏」
 などの既存中央氏族に代わり
 新官僚で王権が強化され
 王の統制力が向上した・・・
 「東城王」
 は新羅と結んで
 高句麗の軍事的圧迫に対抗し
 小国分立の
 伽耶地方への拡大を図った
 ↓↑
 「東城王」
 暗殺後
 501年
 「武寧王」即位
 熊津を中心とする
 百済を発展させるため
 南朝
 倭国
 との関係を深め
 領内の支配強化を目指した
 領内に22の拠点を定め
 王の宗族を派遣し
 地域支配の強化
 南西方面での勢力拡張を図った
 『日本書紀
 日本から
 百済
 「任那四県」
 割譲の記録
 513年
 伽耶地方の有力国
 「伴跛」
 から
 「己汶・帯沙」
 を奪い
 朝鮮半島南西部での支配を確立し
 東進して伽耶地方の中枢に迫った
 ↓↑
 「武寧王
 は南朝
 「梁」
 に新羅使を同伴して入朝
 新羅伽耶諸国を
 付庸していることを語り
 倭国へは
 南方進出の了解や軍事支援と引き換えに
 「五経博士
 を派遣
 倭国への
 軍事支援要請
 技術者の派遣
 は百済の継続的な対倭政策
 ↓↑
 泗沘時代(538~642年)
 伽耶争奪と遷都
 「武寧王」の跡を継いだ
 「聖王」は
 538年
 都を
 熊津から
 泗沘(忠清南道扶余郡)
 に遷した
 泗沘は熊津と同じく
 錦江沿いにある都市だが
 防御に適した熊津に対し
 泗沘は錦江下流域の
 沖積平野を見下ろす
 丘陵地帯で
 水陸の交通の要衝
 国号
 「南扶余」
 と改名
 国号は国際的に定着することはなかったが
 百済には
 高句麗と同じく
 夫余を祖とするという伝承
 高句麗への対抗意識を明瞭にした国号
 ↓↑
 伽耶地方
 百済
 と
 新羅
 との間で軋轢
 倭国
 伽耶地方を藩屏と見做していた
 伽耶地方の中心的国家
 「金官国
 524年
 新羅伽耶地方侵攻で
 倭国へ救援要請
 倭国
 近江
 毛野臣を派遣
 527年
 「磐井の乱
 により渡海できず
 529年
 「伽耶」の
 「安羅」
 に到着した
 「毛野臣」
 は調停を目指して
 百済新羅の双方に参会を求めたが
 百済新羅共々
 倭国の調停に大きな期待を置いておらず
 「毛野臣」
 は交渉に失敗し
 532年
 「金官国」滅亡
 「安羅」
 は倭国に頼るのを諦め
 「毛野臣」を排除し
 百済に援軍を要請
 531年
 百済軍が
 安羅に駐屯
 ↓↑
 百済
 伽耶を巡って
 新羅との利害関係の不一致
 550年頃
 高句麗と全面的な衝突
 倭国に向けては
 兵糧、武具、軍兵の支援を求める使者が派遣された
 『日本書紀
 551年
 漢城高句麗から奪回
 552年
 百済漢城を放棄
 新羅
 漢城を占領
 百済新羅の関係が悪化
 新羅に対抗するため
 「聖王」
 は倭国からの支援を求め
 諸博士や仏像・経典などを送る
 大伽耶倭国の援軍で
 「聖王」
 554年
 新羅
 「函山(管山)城」
 を攻撃したが
 伏兵にあって戦死
  ↓↑
 「威徳王」即位
 562年までに
 伽耶地方の大半が
 新羅の手に落ちた
 「威徳王」
 は王弟
 「恵」
 を倭国に派遣
 親百済政策の
 維持と援軍の出兵を要請
 「蘇我稲目
 は親百済姿勢は維持したが
 援軍の派兵には同意しなかった
 伽耶地方の制圧を巡り
 倭と新羅の関係は悪化し
 百済伽耶地方の奪回を目指し
 倭国との伝統的な関係は維持
 新羅
 「任那の調(みまなのみつき)」
 を倭国に送付
 百済
 577年
 に新羅に侵攻した際には
 軍事援助は得られなかった
 「威徳王」
 は伽耶の奪回を果たすことはできず
 579年
 新羅への積極策を改め
 武力行動に慎重になった
 ↓↑
 589年
 隋・唐
 隋が中国を統一
 南北朝時代が終焉
 ↓↑
 589年
 百済は使者を建て
 隋の統一を慶賀し
 隋との関係構築に努め
 598年
 隋の
 高句麗遠征に参加
 ↓↑
 高句麗
 隋軍を撃退し
 百済領への侵攻
 ↓↑
 百済
 隋に対して更なる
 高句麗征討を要請
 ↓↑
 新羅への攻撃では
 高句麗と連携
 倭国とも協力
 ↓↑
 602年
 百済
 新羅
 「阿莫山城(全羅南道南原郡雲峰面)」
 を攻撃
 ↓↑
 603年
 高句麗
 新羅
 北漢山城(ソウル市鍾路区新営)
 を攻撃
 倭国
 「任那の調」の実施を求め
 591年、602年
 に筑紫への駐兵を行い
 新羅への軍事的圧力をかけた
 倭国から
 百済高句麗
 新羅攻撃での連携を行うための
 使者が派遣されている
 『日本書紀
 ↓↑
 高句麗
 が
 突厥
 との同盟を意図し
 隋との関係が悪化

 611年、613年、614年
 の3回に亘り
 隋は高句麗への遠征を行ったが失敗
 高句麗遠征と
 国内での大規模土木事業
 ↓↑
 618年
 隋王朝が崩壊
 唐王朝成立
 ↓↑
 611年
 百済
 隋による
 高句麗遠征に乗じ
 新羅を攻撃し
 一城を占領
 ↓↑
 624年
 百済
 高句麗
 新羅
 と同じく
 唐に入朝
 冊封を受けた
 ↓↑
 642年
 百済
 「義慈王
 が
 新羅に侵攻
 40余りの城を陥落させた
 落城は伽耶地方の城
 『三国史記新羅本紀』
 百済
 伽耶地方の奪取を達成
 百済
 「新羅王」となる
 「金春秋」
 の娘婿とその子供らを全員殺害
 ↓↑
 643年
 百済
 高句麗と和睦し
 高句麗との争奪戦の中で
 新羅に掠め取られた
 漢城の奪回を目指した
 「義慈王
 独裁権の強化と反対派の粛清を進め
 642年
 高句麗
 「淵蓋蘇文」
 がクーデターにより実権を握り
 新羅
 「善徳女王」
 を中心として
 「金春秋」
 「金庾信」
 の3名が結束
 倭国では
 「舒明天皇
 が死に
 「皇極天皇
 が即位
 「蘇我蝦夷
 「蘇我入鹿
 親子が実権を握り
 「陵(みささぎ)」建設を開始
 ↓↑
 百済
 高句麗と協同し
 新羅への侵攻
 「善徳女王」
 死後の
 「新羅王」
 「金春秋(武烈王)」
 は唐への援軍要請
 唐は
 高句麗征討において
 同盟国となっていた百済を倒し
 高句麗の背後を抑え
 660年
 水陸合わせ13万の大軍を
 百済へ差し向け
 新羅
 「金庾信」
 の指揮で出兵
 660年3月
 唐の
 「蘇定方」将軍が
 山東半島から海を渡って
 百済に上陸
 百済侵攻を開始
 7月
 王都「泗沘」が占領
 「義慈王
 は熊津に逃れたが
 降伏
 百済滅亡
 ↓↑
 唐軍の主力が旧百済領を離れると
 「鬼室福信」
 「黒歯常之」
 「僧道琛」
 などの百済遺臣が反乱
 倭国
 百済を全面的に支援決定
 人質の百済王子
 「扶余豊璋」
 を急遽帰国させ
 「阿倍比羅夫
 らからなる救援軍を派遣
 「斉明天皇
 は筑紫国朝倉橘広庭宮に遷った
 ↓↑
 「豊璋」
 は百済王に推戴され
 実権を握る
 「鬼室福信」
 と対立し殺害
 倭国は軍勢を朝鮮半島へ派兵
 唐本国から
 「劉仁軌」
 の率いる唐の増援軍が到着
 ↓↑
 663年
 「白村江(白馬江)」
 で決戦
 倭国大敗
 各地を転戦する軍を集結させ
 亡命を希望の
 百済貴族を伴って帰国
 「豊璋」
 高句麗に逃亡
 668年
 高句麗も唐に敗北
 百済は完全に滅亡
 ↓↑
 唐は
 高句麗の都
 「平壌」に
 「安東都護府」を設置
 「百済」故地に
 「熊津都督府
 5つの都督府を設置
 「熊津都督」に全体の統轄を命じた
 664年
 「劉仁軌」
 の上表を受け
 「義慈王」の太子
 「扶余隆」を
 「熊津都督」に任じ
 665年8月
 唐は
 就利山で
 「扶余隆」
 と新羅
 「文武王」
 に
 「劉仁軌」
 の立会の下に
 熊津都督府支配地域(旧百済
 新羅の国境画定の
 会盟を行わせた
 「扶余隆」
 は百済の歴代国王が
 唐から与えられていた
 「帯方郡王」
 に任じられ子孫に称号が継承
 百済の亡国の太子が
 唐によって
 新羅王と同格と扱われ
 高句麗最後の王
 「宝蔵王
 「遼東都督任命」と対比できる
 「扶余隆」
 の熊津都督任命が単に
 百済遺民の
 慰撫を目的としているだけではなく
 百済
 高句麗安東都護府・遼東郡王)
 を滅亡前の
 「冊封国」ではなく
 「羈縻州
 として組み込み
 新羅(鶏林州都督府・楽浪郡王)
 を
 「羈縻体制」とし
 中華帝国への編入とした
 ↓↑
 新羅は、建前上は
 唐の臣下という立ち位置を維持しつつ
 「百済新羅
  共に唐の領土で
  国境はない」
 とし
 百済高句麗の遺民を蜂起させつつ
 領土を蚕食し
 唐へは
 謝罪使を派遣し
 支配地を広げた
 唐は
 新羅の領土拡張と謝罪使に対し
 新羅王の王位剥奪を考えたが
 西方の
 「吐蕃
 の侵入で都長安が危険に曝され
 朝鮮半島の支配維持できなくなり
 百済の故地は
 新羅支配下に入った
 ↓↑
 百済滅亡後
 百済の旧高官たちが新羅に降った
 660年
 論功行賞では
 佐平の忠常、常永
 達率の自簡などの
 百済遺臣に新羅の地位が与えられた
 「白村江の戦い」後
 多数の百済人が
 倭国へ亡命
 百済王子
 「豊璋」の弟
 「善光(禅広)」
 の子孫は倭国の朝廷から
 「百済王(くだらのこにきし)」
 の姓を賜り
 日本の氏族としての
 「百済王氏」
 を中心として倭国に根付いてた
 「白村江」
 で敗れた後
 「豊璋」
 は高句麗の滅亡後に唐に捕縛
 流刑に処された
 ↓↑
 唐へ渡った
 百済王族、貴族
 百済王子
 「扶余隆」
 百済の武将
 「黒歯常之」
 「祢軍」
 など6人の百済人とその子孫たちの墓が
 2016年
 10か所が発見
 彼らは唐に仕え
 3世代にわたり
 その動向が墓誌に残されていた
 ↓↑
 高句麗、夫余、沃沮・濊
 夫余系諸語
  ↓↑
 『梁書百済伝』
 「今・・・・・現在
  言語・・・・言葉
  服章・・・・衣装
  略・・・・・ほゞ
  與
  高麗
  同』
  『梁書百済伝』
  ↓↑
 『周書』
 百済王の姓は
 「夫余」
 自ら
 「於羅瑕」・・・オラカ
 と称していた
 一方民衆はこれを
 「鞬吉支」・・・・古代朝鮮の
         「王・首長」
          意味する称号
         「於羅瑕」(鞬吉支)
          が渡来人の称号として
          日本で用いられ
          姓となり
          氏ともなった・・・
          ↓↑
          本居宣長の『古事記伝
          新羅
          17等の
          京位(中央役人の官位)中の
          14位
ー↓↑ー--
  百済最後の国王
  「義慈王
 倭国(皇極=斉明天皇天智天皇
 と同盟
 王子
 「豊璋」
 と
 「善光(扶余勇・禅広王・余禅広)」
 を倭国の人質とした
 660年
 「唐+新羅」同盟により
 「百済」滅亡
 百済王室は唐の都に連行
 百済復興のため
 倭国で人質だった
 「豊璋」
 は倭軍と共に帰国し
 軍事作戦で対立した
 「鬼室副信」
 を殺害後
 「白村江の海戦」
 でに敗れ
 「高句麗
 に亡命
 唐軍の捕虜となり長安に連行され流刑
 「倭国」には
 「善光」
 が百済王族として生き残った
 ↓↑
 奈良時代末期
 「百済俊哲」
 が陸奥守・鎮守将軍・征夷副使
 「百済武鏡」
 は出羽守
 「百済敬福」
 以来東北地方の経営と征夷事業に関与
 ↓↑
 平安時代初期
 「桓武天皇
 の母
 「高野新笠
 が百済系渡来氏族の
 「和氏」出身で
 天皇外戚とみなされ
 一族の娘を
 「桓武天皇嵯峨天皇
 らの後宮宮人とし縁戚となった
 百済の本貫地
 河内国
 平安時代中期
 外戚関係も薄れ、下級官人となったが
 和気氏・・・和気清麻呂
 伴氏・・・・大友家持
 佐伯氏・・・弘法大師空海
 などとともに
 天皇即位などの儀式の際に氏爵を受け
 従五位下の官人を輩出する
 「百済王氏」
 への
 氏爵は
 戦国時代まで行われていた・・・
 ↓↑
 百済王神社
 「三松氏」は
 「百済王氏」の後裔を自称
 ↓↑
 平安時代後期
 常陸国の税所の
 在庁官人の最高位
 「百済氏」も元は百済王氏の子孫
 ↓↑
 「百済氏」=「税所氏」・・・麻生?
 と呼ばれ
 常陸平氏
 「大掾氏」
 に敗れ、同氏の一族に組み込まれていった
 ↓↑
 飛鳥時代
 扶余 豊璋=百済
 百済王善光(601年~693年)
  持統天皇より百済王の氏姓を賜る
  正広肆(従三位相当)
  贈
  正広参(正三位相当)
 百済王昌成(?~674年)
 百済王遠宝
 百済王朗虞(661年~737年)
  従四位下・摂津亮
 百済王南典(666年~758年)
  備前守
 奈良時代
 百済王慈敬
 百済王孝忠
 百済王敬福(697年~766年)
  従三位 刑部卿
  『公卿補任天平廿一午条百済王 敬福』
  「南典弟也」
 ↓↑
 奈良時代末期~平安時代初期
 百済王理伯
 百済王武鏡
  出羽守
 百済王明信(?~815年)
  藤原継縄室・尚侍
 百済王俊哲
  陸奥鎮守将軍
    征夷副使
 百済王仁
  備前守
 百済王教法
  桓武天皇 女御
 百済王教仁
  桓武天皇 後宮
 百済王教徳
 ↓↑
 平安時代前期
 百済王教俊
 百済王貴命
  俊哲の娘=嵯峨天皇女御
 百済王慶命
  嵯峨天皇後宮=尚侍
 ↓↑
 平安時代中期
 百済王勝義(779年~855年7月)
 百済王貞連
 (くだらのこにきし テイレン
           さだつら)
 ↓↑
 安時代後期の人物
 一部は
 百済朝臣
 百済宿禰・・・
 ↓↑
 百済王 (昌泰 3(900)8・20 河内権介)
 百済貞運 (延長元(923)12・13 内舎人
 百済王貞運 (天慶 2(939)5・15 武蔵守)
 百済王貞運 (天慶 2(939)5・17 武蔵守,前上総守,従五位下
 百済貞運 (天慶 2(939)12.11/12.29 武蔵守)
 百済王興勢 (天慶 9(946)10・28 散位従五位下
 百済王 (応和元(961)6・5 図書頭)
 百済 (安和 2(969)7・8 山城大掾
 百済 (治承 4(1180)4・21 従五位下
 百済清重 (長徳 2(996)正・25 播磨権少掾
 百済王為孝 (長徳 3(996)正・28 周防権掾,正六位上
 百済述高 (長和 4(1015)11・16 播磨国有年庄寄人)
 百済王基貞 (応徳 3(1086)12・16 禁野司小口,従五位下
 百済惟助 (長治 2(1105)8・20 異国警固斫本司 兼監代)
 百済王清重 (永久 4(1116)12・20 播磨権掾,正六位上
 百済年旧 (永久 4(1116)12・20 上野少掾
 百済花押 (仁平元(1151)4・8 散位)
 百済雅国 (長寛 3(1165)年 7・25 従五位下
 百済重次 (承安 2 年(1172)12・30 豊前国日足庄官 人代)
 ↓↑
 鎌倉・室町期の人物
 百済王時里 (治承 4(1180)4・21 従五位下
 百済岑基 (建久 9(1190)2・26 従五位下
 百済王光房 (寛元 4(1246)3・8 従五位下
 百済王貞秀 (弘安 11(1288)3・8 従五位下
 百済高延 (貞和元(1349)12・21 従五位下
 百済王遠倫 (永正 18(1521)3・17 従五位下
 ↓↑
 百済郡(くだらのこおり)
 摂津国にあった郡
 舒明天皇三年(631年)
 「豊璋と善光」兄弟が来日
 父親の
 第31代
 義慈王
 高句麗新羅
 と争い
 660年
 唐・新羅連合軍によって
 滅ぼされ
 天智天皇元年(662年)
 「豊璋」
 倭軍と共に百済に帰国
 663年
 「白村江の海戦」で大敗
 高句麗へ逃亡後
 唐軍に捕虜後、流刑
 ↓↑
 天智天皇3年(664年)
 「善光」は摂津国の難波に居住
 一族ともども
 中央貴族として朝廷に仕え
 「百済王氏」という姓を下賜
 持統天皇五年(691年)
 食封100戸を追加
 計200戸
 「百済寺」建立(大阪市天王寺区の堂ヶ芝廃寺)
 ↓↑
 百済郡設置
 「百済
  何里車長
  百済
  若末呂」裏面に
 「(霊亀)元年」
 と書かれた
 「長屋王木簡」が初見史料
 設置の時期
 654年(天智三年)
 or
 649年(大化五年)
 斉明朝の
 「難波百済寺
 「評(群)」の成立時期
 他には
 東国への殖民として
 武蔵国において
 高麗郡
 新羅郡(新座郡と改称)
 が立てられた・・・
 ↓↑
 百済
 消滅・・・
 「百済王氏」が
 本拠を「摂津国」から「河内国」に移住
 当時
 陸奥国で金を発見した
 「百済王敬福
 天平勝宝二年(750年)
 河内守を命じられ
 一族の本拠を河内国へと移した・・・
 後
 「江南四郊」の代名詞として用いられ
 「欠郡(かけのこおり)」
 の名称は
 「百済郡」
 の消滅に由来して生じた名称・・・? 

  「吉士(キシ)」⇔貴志=きし=岸⇔安倍・・・?
  徳川幕府末期の
  阿部 正弘
  文政二年十月十六日
 (1819年12月3日)
   ~
   安政四年六月十七日
 (1857年8月6日)
       大運1848年9月(28歳)壬申印綬
 己 卯(甲 乙)偏財・比肩建禄⇔丁巳食神
 乙┏亥(戊甲壬)比肩・印綬 死⇔丁未食神
 乙┗巳(戊庚丙)  ・傷官沐浴⇔丙寅傷官
 壬 午(丙 丁)印綬・食神長生⇔甲午劫財
   寅卯空亡  旧10/16(参宿) 旧6/17(危宿)
 ↓↑
 祖先は
 「大彦命=大毘古命」・・・と自称・・・
ー↓↑ー--

 ・・・???・・・
 (表紙・画像・音楽)」の
  移転先・・・
https://haa98940.wixsite.com/mysite/blog/archive/2016/12
 ↓↑
 ボクの「古事記字源」の発端・・・
https://haa98940.wixsite.com/mysite/blog/archive/2022/08
 ↓↑
 干支歴
http://meisiki.bake-neko.net/keisanBXG4.html
 ↓↑
 追加添文
 「戦争と平和」・・・「モウケの生き方」
https://haa98940.wixsite.com/mysite/single-post/2006%E5%B9%B4%EF%BC%91%EF%BC%91%E6%9C%88%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%8E%E9%A0%83%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%83%BB