ないえごろうブログ

同音異義の探索

支配階級の近親愛憎確執

3197日目・文字霊日記

「阿部 正弘」の祖先=「大彦命=大毘古命」と自称・・・

 八月四日、今朝、30㎝以上の長くて太い「キュウリ」を一本収穫・・・

 今のところ合計二本目、トマトは既に二個収穫して食べたが・・・
 庭の畑のトマトは赤く熟してはいない・・・薄緑色・・・
  ↓↑
 「Q瓜」の選択・・・窮理・究理・鳩里・九里・胡瓜・・・・
                  浦賀久里浜
  ↓↑
 日本国内の歴史的な
 渡来帰化人である
 新羅(斯盧・辰韓)・・・・・・白
 と
 百済(百濟・伯濟・馬韓)・・・赤
 の抗争
  ↓↑
 「阿部 正弘」
  &(と・アンド)・・・・「8の変形」or「Sの変形」or「∞の変形」?
    譯 and(∩・⋀)=あんど=安堵・安土・安渡
 「彼理・ 伯理」=「ペリー」・・・屁理意・経理意・・・屁理屈
      伯済=百濟・・・?
  ↓↑
 「マシュー・カルブレイス・ペリー
  Matthew Calbraith Perry」
  ↓↑
 1794年4月10日
 ~
 1858年3月4日
      大運1852年10月(58歳)甲戌偏官
 甲 寅(己丙甲)偏官・比肩長生⇔戊午比肩
 戊┏辰(乙癸戊)比肩・正官冠帯⇔甲寅偏官
 戊┗戌(辛丁戊)  ・傷官 墓⇔丙申偏印・魁罡
 戊 午(丙 丁)比肩・偏印帝旺⇔甲午偏官
   辰巳空亡 旧3/11(翼宿)  氏宿
 ↓↑
 アメリカ海軍提督・代将
 兄 オリバー・ハザード・ペリー
 江戸時代に艦隊を率いて鎖港をしていた日本へ来航し
 開港 への交渉を要求
 「ペルリ(漢字では彼理 / 伯理)」
 ↓↑
 1851年5月29日(嘉永四年四月三十日)
 米大統領
 フィルモア
 日本の開国と通商関係を結ぶ目的で
 東インド隊司令
 代将
 ジョン・オーリック
 に遣日特使としてその任務を与え
 1851年6月8日
 蒸気フリゲート
 「サスケハナ」
 東インド艦隊の旗艦とし
 極東に向かって出発
 だが
 オーリック
 は
 サスケハナ
 の艦長とトラブルを起こし解任
 1852年2月
 代将
 マシュー・カルブレース・ペリー
 にその任が与えられた
 

  徳川幕府末期の
  老中首座
  阿部 正弘
  ↓↑
  文政二年十月十六日
 (1819年12月3日)
 ~
  安政四年六月十七日
 (1857年8月6日)
       大運1848年9月(28歳)壬申印綬
 己 卯(甲 乙)偏財・比肩建禄⇔丁巳食神
 乙┏亥(戊甲壬)比肩・印綬 死⇔丁未食神
 乙┗巳(戊庚丙)  ・傷官沐浴⇔丙寅傷官
 壬 午(丙 丁)印綬・食神長生⇔甲午劫財
   寅卯空亡  旧10/16(参宿) 旧6/17(危宿)
 ↓↑
 祖先は
 「大彦命=大毘古命」・・・と自称・・・
 ↓↑
 第八代
 孝元天皇
 と
 欝色雄命の妹で皇后の
 欝色謎命(うつしこめのみこと=内色許売命)
             ・・・内=冂+人(ノ+㇏)
 との間に生まれた第一皇子
 第十一代
 垂仁天皇
 外祖父
 四道将軍の1人で、北陸に派遣
 阿倍臣・膳臣・阿閉臣・狹々城山君・筑紫国造・越国造・伊賀臣
 などの七族の始祖
 ↓↑
 阿部 正弘
 改名 剛蔵・正弘・祐軒・学聚軒
 別名 四郎五郎・主計頭・正一・叔道・叔卿
 戒名 良徳院殿高誉信義節道大居士
 墓所 東京都台東区谷中霊園
 官位 従五位下 伊勢守
         ・・・イセ=猪瀬・猪勢
            ・・・伊吹山の白猪神
    従四位下 侍従・贈従三位
 幕府江戸幕府奏者番
   寺社奉行加役
   寺社奉行
   老中
   勝手掛老中
 主君徳川家斉→家慶→家定
 藩  備後福山藩主
 氏族 阿部氏
 父  阿部正精
 母  高野貝美子
 養父 阿部正寧
 兄弟 正粹・正寧・正弘
    戸田忠温正室・井上正春正室
    久世広周正室
 妻 正室:松平治好の娘・謹姫
 継室 松平慶永の養女・謐姫
 子  篤之助・哲次郎・鋼蔵・寿子
 養子 正教
  幕末の老中
  備後(びんご)=広島県
  福山藩主
  1854年
  ペリーと
  日米和親条約を締結
  開国政策を推進
  洋学所・海軍伝習所
  創設
   ↓↑
  渡来系氏族
  難波吉士
  草壁吉士
  「吉士・吉師」=氏族集団
  「吉士」は新羅の官職
  6世紀ごろに渡来した
  新羅系の渡来帰化
  ↓↑
 新撰姓氏録
 摂津国
 皇別
 吉士・三宅人
 ↓↑
 河内国
 皇別
 日下連(旧姓 草香部吉士)
 大戸首(おおへのおびと)
 難波忌寸(旧姓 草香部吉士)
 難波(難波忌寸)
 各氏の本系
 ↓↑
 大彦命の後裔
 ↓↑
 平安時代成立の儀式・公事の書
 「北山抄」
 安倍氏
 大嘗会で
 吉志・大国・三宅・日下部・難波
 らの
 吉士系氏族を率いて
 吉士舞いを奏した
 ↓↑
 吉士舞に先立つ所作
 「高麗の乱声(らんじょう)」
 「吏部王記」
 (醍醐天皇の子 重明親王の日記)
 に
 安倍氏の先祖が
 新羅征伐の功があり
 大嘗会の日に報命し
 吉士舞を奏上
 ↓↑
 吉士系氏族
 吉士系氏族の複合的な同族組織を指す総称
 十九氏
 ↓↑
 吉士
 難波吉士
 草香部
 三宅
 日鷹
 坂本
 ↓↑
 調
 宅蘇
 飛鳥部
 多胡
 壬生
 大国・・・河内国石川郡大国郷
 社
 黒山・・・河内国丹比郡黒山郷
 小黒
 穂波
 三宅人
 難波
 大戸首
   ↓↑
  「吉志=吉師=企師」
  「稽知=吉之=吉次」
  「難波吉士」
  「難波日鷹吉士
  (なにわのひたかのきし)」
  「大草香吉士
  (おおくさかのきし)」
   周人を祖先にもつ
  「百済
   努理使主
  (ぬり の おみ)」を祖
  「調吉士・・・・・・・調理師=膳=肉+羊
  (つきのきし)」
   膳=月(肉・ジク)+善
     月(肉・ジク)+羊+䒑+口
     月(肉・ジク)+羊+丷+一+口
  「新羅王子
   天日槍
  (あめ の ひぼこ)」を祖
  「三宅吉士(みやけのきし)」
          に由来
          鞬=革+建
            ケン
            ゆみぶくろ・弓袋
            馬上で
            弓矢を入れる革製の袋
            鞬子=蹴って遊ぶ道具
               鞠=まり=毬
          吉=士+口
          支=十+又
 ↓↑
 と呼んでおり
 どちらも
 「王」の意味
 支配層が使用した夫余系諸語
 被支配層が使用していた韓系諸語
 ↓↑
 夫余系諸語
 具体的な記録が残るのは高句麗
 少数の単語に限られるため
 実態は不明
 ↓↑
 百済の建国神話
 『三国史記百済本紀』
 「鄒牟(朱蒙)」
 という人物が
 「北夫余」から
 「卒本夫余」の地へ逃れた当時
 「夫余王」
 には3人の娘がいたが
      男児がいなかった
 「夫余王」
 は
 「朱蒙」を見て非凡と評し
 「次女」を嫁がせた
 「夫余王」死後
 「朱蒙
 が王となり2人の子を儲けた
 兄を
 「沸流」
 弟を
 「温祚」
 しかし、
 「朱蒙」が
 北夫余にいた頃の息子が
 「朱蒙」の太子となって
 「沸流」
 「温祚」
 はこの太子との対立を恐れ
 10人の家臣や
 「百姓」
 と共に南方に旅立った
  ↓↑
 「漢山」へとたどり着き
 10人の家臣たちは
 この地こそ都にすべき土地であると主張
 「沸流」
 は
 「海辺」への居住を希望し
 人々を分けて
 「弥鄒忽(仁川)」に移動し居住
 「温祚」
 は家臣たちに従い
 河南の
 「慰礼城」を都とし
 10人の家臣の助力にちなんで国号を
 「十済」・・・十(拾・足)
        済(濟)
      経世済民経世済民=經世濟民 =経世済民
     「世 を 經 (をさ) め、 民 を 濟(すく) ふ」
     「経国済民」もほぼ同義
     . 略して「經濟」・・・中濟=大塩平八郎
     大塩平八郎
     寛政五年一月二十二日
     1793年3月4日
     ~
     天保八年三月二十七日
     1837年5月1日(45歳没)
         大運1832年10月(39歳)庚戌偏財
     癸丑(癸辛己)正官・傷官 養⇔丁酉劫財
     甲寅(己丙甲)偏印・偏印長生⇔甲辰偏印
     丙辰(乙癸戊)  ・食神冠帯⇔甲辰偏印
     甲午(丙 丁)偏印・劫財帝旺⇔庚午偏財
      子丑空亡
     大坂町奉行組与力
     別名 正高、後素
     通称 平八郎
     号  中斎
     妻  ゆう
        ひろ(茶屋大黒屋和市の娘)
     養子 格之助
  ↓↑
 「十済」
 とした
 前漢
 成帝の
 鴻嘉三年(前18年)
 「沸流」
 が選んだ移住地は
 土地が湿り水は塩分が強く
 安らかに暮らすことができなかった
 「沸流」
 は自分の決定を恥じて死んでしまい
 彼の家臣たちは全て
 「慰礼城」に帰属した
 「慰礼城」に移る際
 「百姓
  が楽しみ従ったことに由来し
  国号を百済と改めた
  温祚王
  高句麗と同じく
  夫余から出ているため
  扶余を氏の名前とした」
 ↓↑
 同書は分注で異伝
 百済の始祖は
 「沸流王」であり
 父の名は
 「優台」
 と言い、北夫余王
 「解扶婁」
 の庶孫であった
 「優台」の妻は
 「召西奴」といい
 長男の沸流
 次男の温祚
 が生まれ
 「優台」死後
 「召西奴」は
 「卒本」で暮らし
 その後
 「朱蒙」が
 夫余にいられなくなり
 「卒本」へ逃れ
 「朱蒙」はこの地に都を作り
 国号を高句麗とした
 「召西奴」を娶り王妃とし
 「朱蒙」は
 「沸流」ら兄弟を
 自分の子のように遇したが
 夫余にいた頃の息子である
 「孺留」が卒本に来ると
 彼が太子となり
 「朱蒙」死後に王となった
 「沸流」はこれを不満とし
 「温祚」と共に家臣たちを率いて
 南方に移り
 漢江を渡り
 「弥鄒忽」に到着し
 そこで
 百済を建国
 ↓↑
 中国史書の記述
 『宋書』卷九十七・列傳第五十七(百濟國條)
 「百濟國
  本與
  高驪
  倶
  在
  遼東之東千餘里
  其後
  高驪略有遼東
  百濟略有遼西
  百濟所治
  謂之
  晉平郡
  晉平縣」
  ↓↑
 『梁書』卷五十四・列傳第四十八(百濟條)
 「百濟者
  其先 東夷 有三韓
  一曰 馬韓・・・百済
  二曰 辰韓・・・新羅
  三曰 弁韓・・・加羅
  弁韓辰韓
  各十二國
  馬韓
  有五十四國
  大國 萬餘家
  小國數千家
  總十餘萬戸
  百濟 即其一也
  後漸強大
  兼 諸小國
  其國
  本與
  句驪
  在 遼東之東
  晉世
  句驪 既略有遼東
  百濟 亦據有遼西
  晉  平二郡地矣
  自置
  百濟郡」
  ↓↑
 『周書』卷四十九・列傳第四十一
  異域上(百濟條)
 「百濟者
  其先
  蓋
  馬韓之屬國
  夫餘之別種
  有 仇台者
  始國
  於
  帶方」
  ↓↑
 『隋書』卷八十一・列傳第四十六(百濟條)
 「百濟之先
  出自 高麗國
  其國王 有 一侍婢 忽懷孕
  王欲殺之、婢云
  有物狀 如 雞子
  來感於我、故有娠也
  王舍之
  後遂生一男
  棄之廁溷
  久而不死
  以為神
  命養之
  名曰 東明
  及長、高麗王 忌之、東明懼、逃至淹水
  夫餘人共奉之
  東明之後
  有 仇臺者
  篤 於 仁信
  始立 其國 於 帶方故地
  漢 遼東太守
    公孫度・・・公=ハ+ム
          孫=子(孑=ぼうふら=孑孑)+系
              ケツ・ケチ・ひとり
          度=广+廿+又=ド・たび=多比
    以女妻之
    漸以昌盛
  為 東夷強國
  初以 百家 濟海
  因號 百濟
 ↓↑
 南朝正史の記録と遼西領有説・渡海説
 『宋書』『梁書』『南史』
 などの歴代南朝の正史は
 百済
 遼西地方に領土を持っていたと記す
 『南斉書』には
 北魏が大軍をもって
 百済を攻め
 百済
 東城王がこれを撃退
 南朝最後の
 『陳書』は外国伝が全く欠け
 陳で知られていた
 百済についての情報は不明・・・
 ↓↑
 吉林省に位置した
 夫余国は
 285年
 鮮卑の首長
 「慕容廆」
 の攻撃を受けて一時滅亡
 その後
 西晋の支援を受けて四平周辺で復興
 346年
 再度
 鮮卑
 「慕容皝」
 の攻撃を受け
 五万余口が
 慕容氏の根拠地
 遼西地方に強制移住
 遼西地方にその後しばしば登場する
 「余氏(餘氏)」
 の勢力は
 この時強制移住させられた
 夫余の人々の子
 孫である・・・
 遼西地方の夫余の存在こそが
 百済(南扶余、王族は扶余・余を姓)
   ・・・余=あまり=海女里・・・海人里⇔阿毎王朝
 との混同によって
 「百済遼西領有説」を生み出した・・・
 ↓↑
 この夫余と百済の混同は
 百済
 海を済って南下した夫余によって建国
 『隋書』の記録の源流・・・
 ↓↑
 百済が勃興した土地
 漢城周辺は
 馬韓諸国中
 楽浪郡帯方郡に最も近い位置
 帯方郡に近接した
 伯済国は
 帯方郡の強い影響下で発展
 高句麗楽浪郡を排撃したころ
 伯済国を中心とする
 馬韓帯方郡を攻撃したが
 この地域一帯で土着化した
 楽浪遺民
 帯方遺民
 中国系流民が
 4世紀の
 百済の発展に寄与
 369年
 371年
 対高句麗戦勝利後
 百済
 東晋
 倭国
 との外交を展開
 楽浪遺民
 帯方遺民
 中国系人士の関与
 倭国との外交樹立を記念し製作された
 「七支刀」
 は中国系人士の手になる・・・
 ↓↑
 372年
 東晋への朝貢記事
 百済について記した最初の確実な国外記録
 「近肖古王
 は前年に高句麗から平壌を奪い
 高句麗王を戦死させ台頭し
 東晋への遣使を行った
 遣使により
 「鎮東将軍領楽浪太守」
 として冊封
 百済南朝を中心に
 歴代の中国王朝への朝貢
 387年
 太子
 「余暉」
 が東晋から冊封
 416年
 東晋から代わった
 宋から
 「腆支王」
 が
 使持節・百済諸軍事・鎮東将軍・百済
 後
 鎮東大将軍に進号
 ↓↑
 372年から
 漢城高句麗に奪われ
 滅亡する
 475年までの漢城時代において
 百済と中国王朝の通交は記録に残るものだけで
 20回にも及ぶ
 百済では広く中国製陶磁器が受容されていた
 ↓↑
 漢城が陥落した後
 熊津で再興・・・熊の津
         熊本の津=港・・・横島
 熊津時代
 ↓↑
 589年
 隋が統一王朝
 南北朝時代が終焉
 百済(および高句麗
 隋が統一事業を達成する前から
 新羅倭国に先んじて
 隋への入朝を開始し
 隋が
 陳を滅ぼした際には
 済州島に漂着した軍艦から
 この情報を得て
 祝賀使を送り
 長年対立を続けてきた
 高句麗に対する遠征を
 隋に繰り返し要請し
 隋が高句麗征討に乗り出し
 協力を申し出て支援
 ↓↑
 3度にわたる
 高句麗遠征が失敗
 618年
 隋が倒れ
 唐が成立
 624年
 高句麗新羅など
 唐に入朝
 645年
 対高句麗で積極策に転じ
 高句麗への遠征を繰り返した
 百済はその間に
 新羅に大勝
 唐の
 高句麗戦が不首尾に終り
 新羅からの救援要請を入れて
 百済への遠征を決定した
 ↓↑
 384年(百済枕流王1年)
 南朝
 東晋より
 摩羅難陀が
 百済に仏教を伝える
 385年(百済枕流王2年)
 王都漢山に仏寺を創建し
 僧侶10人を度す
 526年(百済聖王4年)
 百済
 謙益
 がインドより
 天竺僧と帰国
 『五分律』を翻訳
 541年(聖王19年)
 百済が梁に
 毛詩博士
 経義
 工匠や画師を求める
 ↓↑
 391年
 広(廣)開土王が・・・好太王=女の子の太った王?
 広=广+ム=廣+广+黄(龷田ハ)
 高句麗で即位
 「太古の昔より
  百済
  高句麗朝貢する「属民」であったが
  391年に
  倭がこれを臣民としたため
  高句麗
  396年に
  百済を破り
  これを「奴客」とした
  そして
  高句麗
  百済から
  58の城邑の700村を奪い
  百済王に忠誠を誓わせ
  王子らを人質としたが
  百済
  倭国と「和通」して
  高句麗に対抗しようとした
  400年には
  高句麗新羅へ進軍
  新羅王都を
  占領していた倭軍を撃破し
  新羅高句麗に服属した
  高句麗軍は朝鮮半島南部の
  任那加羅にまで進撃した
  高句麗
  404年の帯方地方への
  倭軍の攻撃も退け
  407年には再び
  50,000の大軍をもって
  百済を攻撃した
  高句麗はこの時
  百済はから7城を奪った
 ↓↑
 高句麗は同時期
 中国方面で
 後燕北燕とも衝突
 北魏華北で勢力を拡大すると
 426年
 の初の朝貢以後
 安定関係を構築
 427年
 高句麗
 長寿王は
 平壌に遷都し
 北魏との関係安定および
 北燕の滅亡に伴い
 盛んに南進の姿勢を示した
 この時期
 高句麗
 新羅の王都に軍を駐留
 その王の廃立にまで影響力を振った
 高句麗の圧力を受ける
 百済は支配からの離脱を目指す新羅と連携し
 高句麗に対抗
 高句麗
 455年以後繰り返し百済に侵攻
 475年
 百済の王都
 漢城が占領
 その後
 百済
 熊津で復興し
 新羅との連携によって
 高句麗に対抗
 ↓↑
 6世紀
 武寧王
 高句麗との関係はやや小康状態
 聖王代には
 538年
 高句麗と大規模な軍事衝突
 百済
 550年頃に国境の城の奪い合い
 551年に新羅との連合軍
 旧都漢城の奪回に成功
 552年
 漢城からの退却
 都市を新羅に掠め取られた
 新羅が脅威となる中
 百済高句麗との敵対関係は基本的に変わらず
 589年
 隋が統一すると
 遣使し
 繰り返し
 高句麗征討を要請
 協力を申し出ている
 隋が倒れ
 唐が成立した後も
 百済
 対
 新羅戦においては
 高句麗と結託し
 高句麗
 朝貢路を塞いでいることを訴えていた
 ↓↑
 642年
 「義慈王
 高句麗と和信
 対
 新羅戦に傾注
 655年
 百済高句麗と協同して
 新羅を攻撃
 領土を奪取
 新羅から
 唐へ
 救援要請が出さ
 陸上からの
 高句麗攻略が不首尾だった唐は
 海路
 百済を攻略し
 高句麗を包囲
 百済高句麗に先立ち滅亡
 ↓↑
 百済倭国
 『日本書紀』を中心に多様な記録が存在
 神功皇后の46年
 (246年⇒干支二運修正366年)
 伽耶諸国の1つである
 卓淳国の王が
 百済
 倭国との通交を求めていることを
 倭国の使者に伝え
 倭側が百済へ使者を派遣し国交が始まった
 三韓征伐によって
 百済高句麗新羅
 日本への朝貢を約した
 ↓↑
 歴代南朝史書
 438年
 倭王 珍が
 「使持節都督
  倭
  百済新羅任那・秦韓・慕韓
  六国諸軍事、安東大将軍倭国王
 の承認を要求
 451年
 南朝
 倭王済に対して
 倭本国、新羅任那、秦韓、慕韓
 の軍事権を承認
 南朝と国交のある百済だけは
 承認せず
 倭王武
 百済に対する
 軍事的支配権の承認を
 繰り返し要求したことが記録
 ↓↑
 倭の五王の最後の
 倭王武雄略天皇
 475年
 高句麗による漢城の占領と
 百済の滅亡に関連して
 南朝の宋に
 高句麗の非道を訴える
 上奏文を送った
 ↓↑
 6世紀
 新羅
 伽耶地方へ勢力を延ばし
 金官国加羅)が滅ぼされた後
 百済伽耶地方への勢力拡大を目論み
 その過程で
 安羅国に駐在していた
 任那日本府(在安羅諸倭臣)
 を交えて新羅への対抗を画策
 倭本国
 現地で独自の活動を行う
 「日本府」
 百済への不信感を募らせる
 伽耶諸国など
 各勢力の思惑により
 足並みがそろわず
 実質的な効果をあげることはなかった
 ↓↑
 倭国百済に対して
 548年
 労働者の派遣
 550年
 武器兵糧の支援
 551年
 食料の支援
 553年
 百済は二度に渡り
 倭国に援軍要請
 554年5月
 佐伯連指揮下の倭軍が百済へと渡海
 倭国百済への援兵として
 度々朝鮮半島に派兵
 570年代
 新羅
 「任那の調」を倭国へ送付
 660年
 百済が唐によって滅ばされた
 倭国百済復興を支援
 倭国に人質
 百済王子
 扶余豊璋を急遽帰国
 に阿倍比羅夫
 救援軍を派遣
 663年
 「白村江の戦い」完敗
 ↓↑
 朝鮮半島の戦乱で
 大規模な倭国への移住
 技術者や知識人
 ↓↑
 伽耶南部に関係者
 7世紀
 飛鳥の
 酒船石遺跡の
 亀形石
 花崗岩製の石造物が
 百済と密接な関係
 石造物は造形が
 百済の益山で発見された
 石造物と類似
 倭国において
 花崗岩製の石造物は極めて珍しいもの
 百済系工人によって
 これらの石造物が造られた可能性
 『日本書紀・推古紀』612年
 百済から来た
 「路子工(別名:芝耆摩呂)」
 が須弥山の形や呉橋を作ったとある
 西日本各地に残る
 朝鮮式山城は
 百済滅亡後に
 日本に亡命した百済人の指導で建設
 『日本書紀・天智紀』
 6世紀前半までは
 伽耶系のそれと比較して
 百済系の痕跡は限定的
 7世紀に入る頃から
 伽耶系の史料が減少するのに伴い
 百済系の史料が相対的に目立つ
  ↓↑
 『日本書紀』・・・では・・・?
ー↓↑ー--
 ・・・???・・・
   ↓↑   ↓↑
 「プラトン古事記をカタル(古事記字源)  + (表紙・画像・音楽)」の  移転先・・・
 ↓↑
 ボクの「古事記字源」の発端・・・
 ↓↑
 干支歴
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 追加添文 「戦争と平和」・・・「モウケの生き方」