ないえごろうブログ

同音異義の探索

倭国に居候でも三竦みのゲバゲバ・・・やめてくれ・・・

 3199日目・文字霊日記

 ウシにヒカれて・・・ゼンコウ字・・・毎理・・・ 

 ↓↑

日本書紀』巻14
 大泊瀬幼武天皇
 雄略天皇
 二十年冬



 ↓↑
 廿年冬
 高麗王
 大發軍兵
 伐盡 百濟
 爰有小許遺衆
 聚居 倉下(へすおと)
 兵糧既盡
 憂泣茲深
 ...百濟記云
 蓋鹵王 乙卯年冬
 狛(高句麗)大軍來
 攻 大城七日七夜
 王城降陷
 遂 失 尉禮(百済)國
 王及
 大后
 王子等
 皆沒敵手
 ↓↑
 501年
 武寧王即位
 熊津
 を中心とする
 南朝
 倭国
 との関係を深め
 領内に22の拠点を定め
 王の宗族を派遣し地域支配を強化
 『日本書紀
 日本から百済
 任那四県を割譲
 513年
 伽耶地方の有力国
 伴跛から
 己汶
 帯沙を奪い
 南西部での支配を確立
 伽耶地方の中枢に迫った
 ↓↑
 武寧王
 南朝
 梁に新羅使を同伴して入朝
 新羅伽耶諸国を付庸
 倭国へは
 五経博士を派遣
 倭国への
 軍事支援要請
 技術者の派遣
 は百済の継続的な対倭政策



 泗沘時代(538–642年)
 聖王
 538年
 熊津~泗沘(忠清南道扶余郡)に遷都
 両方とも
 錦江沿いにある都市
 国号を
 南扶余
 と改名
 高句麗と同じく
 夫余を祖とし
 高句麗への対抗を意識した国号
 ・・・同族相争う・・・新羅も・・・
 百済は西側から加羅に勢力を拡大
 新羅は東側から加羅に勢力を拡大
 倭国伽耶地方を藩屏とした
 ↓↑
 金官国
 524年
 新羅伽耶地方侵攻
 倭国へ救援要請
 倭国
 近江毛野臣を派遣
 527年
 「磐井の乱
 で渡海できず
 529年
 毛野臣は
 伽耶の一国
 安羅に到着し調停を目指して
 百済
 新羅
 の双方に参会を求めたが
 倭国の調停に期待せず
 毛野臣
 は有効な手段を講じることなく
 532年
 金官国滅亡
 安羅は
 倭国の毛野臣を排除し
 百済に援軍を要請し
 531年
 百済軍が安羅に駐屯
 ↓↑
 50年頃
 百濟は
 北方国境地帯の城の奪い合いで
 高句麗と全面的な衝突
 倭国
 兵糧、武具、軍兵の支援を求めた
 『日本書紀
 551年
 漢城
 高句麗から奪回
 552年
 漢城を放棄
 新羅
 漢城を占領
 聖王は倭国からの支援を見返りに
 諸博士や仏像・経典などを贈る
 554年
 大伽耶倭国からの援軍
 554年
 新羅の函山(管山)城
 を攻撃したが
 伏兵にあって戦死
 ↓↑
 百済
 威徳王即位
 562年までに
 伽耶地方の大半が新羅に落ちた
 威徳王は王弟
 恵を倭国に派遣し
 親百済政策の維持と援軍の出兵を働きかけたが
 倭国
 「蘇我稲目
 は国内を重視し、援軍の派兵には同意しなかった
 新羅
 「任那の調(みまなのみつき)」
 を倭国に送付し
 577年
 百済
 新羅に侵攻した際
 倭国の軍事援助は得られず
 威徳王は
 伽耶の奪回はできず
 579年
 を最後に
 新羅への武力行動に慎重になった
 ↓↑
 589年
 隋が中国を統一
 589年
 百濟は使者を派遣
 598年
 隋の高句麗遠征に参加
 高句麗は隋軍を撃退し
 百済領への侵攻
 百済は隋に対して更なる高句麗征討を要請
 602年
 百済
 新羅の阿莫山城(全羅南道南原郡雲峰面)
 を攻撃
 603年
 高句麗新羅北漢山城(ソウル市鍾路区新営)攻撃
 倭国
 「任那の調」の実施を求め
 591年と602年に筑紫への駐兵を行い
 新羅への軍事的圧力
 倭国から
 百済高句麗
 新羅攻撃での連携を行うための使者が派遣
 『日本書紀
 ↓↑
 高句麗突厥との同盟を意図
 隋が
 611年、613年、614年
 高句麗遠征を行ったが失敗
 618年
 隋朝が崩壊
 唐王朝
 611年
 百濟は
 隋による高句麗遠征の隙を狙い
 新羅を攻撃
 一城を占領
 624年
 百済
 高句麗新羅と同じく唐に入朝
 冊封を受けた
 ↓↑
 642年
 前年即位の百済
 義慈王が自ら兵を率いて
 新羅に侵攻
 40余りの城を陥落させた
 百済
 「金春秋」
 の娘婿とその子供らを全員殺害
 643年
 高句麗と和睦
 新羅に掠め取られた漢城の奪回を目指した
 義慈王
 は国内でも専制的な体制構築
 ↓↑
 642年
 高句麗
 「淵蓋蘇文」
 がクーデター
 新羅
 善徳女王
 金春秋
 金庾信
 結束による権力体制が成立
 倭国
 舒明天皇死亡
 皇極女帝即位
 蘇我蝦夷蘇我入鹿親子が実権
 ↓↑
 百済
 高句麗
 新羅への侵攻を続け
 善徳女王
 死後
 「金春秋(武烈王)」
 は唐への援軍要請を繰り返した
 唐は
 高句麗征討で
 高句麗の同盟国
 百済を倒し
 高句麗の背後を抑える意図で
 660年
 水陸合わせ13万の大軍を
 百済へ進行させ
 新羅
 「金庾信」
 の指揮下で出兵
 ↓↑
 660年3月
 唐の
 「蘇定方」将軍
 の軍が山東半島から海を渡って
 百済に上陸
 7月
 王都
 泗沘が占領され
 義慈王
 熊津に逃れたが
 降伏
 百済は滅亡
 ↓↑
 百済の遺臣
 鬼室福信
 黒歯常之
 僧道琛
 などが反乱
 倭国に人質の
 百済王子
 「扶余豊璋」
 帰国させ
 「阿倍比羅夫
 らの救援軍を派遣
 斉明天皇
 筑紫国
 朝倉
 橘広庭宮に遷都
 ↓↑
 「豊璋」は百済王に推戴されたが
 「鬼室福信」
 と対立し、これを殺害
 唐本国から
 「劉仁軌」
 の率いる
 唐の増援軍が到着
 663年
 倭国の水軍と
 「白村江(白馬江)」
 で決戦
 倭国大敗
 亡命を希望する百済貴族を伴って帰国
 豊璋は密かに高句麗に逃れたが
 668年
 高句麗滅亡
 ↓↑
 百済滅亡後
 百済の高官たちが
 新羅に降った
 660年
 論功行賞では
 佐平の
 忠常、常永
 達率の
 自簡
 などの百済遺臣に
 新羅の地位が与えられた



 百濟王子
 「豊璋」の弟
 「善光(禅広)」・・・「善光寺
 の子孫は
 倭国朝廷から
 百済王(くだらのこにきし)
 の姓を賜り
 日本の氏族としての
 「百済王氏」
 を中心として倭国に根付いた
 豊璋は高句麗の滅亡後
 唐に捕縛
 流刑
 最終的に唐へと渡った
 百済王族、貴族もいた
 西安や洛陽で発見された
 「入唐百済人の墓」によって明らかとなっている
 百済王子 扶余隆
 百済武将 黒歯常之、祢軍
 など6人の百済人とその子孫たちの墓が
 2016年現在、合わせて10か所発見
 彼らは唐に仕え
 3世代にわたり
 その動向が
 墓誌に残されていた・・・
 ↓↑
 善光寺(ぜんこうじ)
 7月15日
 施餓鬼会(せがきえ)
 7月と8月の2回執行
 お盆に合わせ
 三界万霊有縁無縁の諸精霊が
 極楽へと生まれることを祈願する
 7月31日
 盂蘭盆会(うらぼんえ)
 6月と7月の2回執行
 僧侶が鳴らす双盤に合わせ
 妻戸台の
 大太鼓が参詣者によって叩かれる
 8月15日
 施餓鬼会(せがきえ)
  7月と8月の2回執行
 お盆に合わせ
 三界万霊有縁無縁の諸精霊が
 極楽へと生まれることを祈願
 ↓↑
 善光寺(ぜんこうじ)
 長野県
 長野市
 元善町
 無宗派の単立仏教寺院
 本尊=一光三尊阿弥陀如来
 は日本最古の絶対秘仏
 開帳は前立本尊で行う
 ↓↑
 山号
 「定額山(じょうがくさん)」
 天台宗の「大勧進」と25院
 浄土宗の「大本願」と14坊
 「大本願」=尼寺
 浄土宗=大本山善光寺大本願法主
 ↓↑
 「四門四額(しもんしがく)」
 東門=「定額山善光寺」
 南門=「南命山無量寿寺」
 北門=「北空山雲上寺」
 西門=「不捨山浄土寺
 ↓↑
 宗派の別なく宿願が可能な霊場
 女人禁制があった旧来の仏教の中では
 稀な女性の救済が挙げられる
 ↓↑
 三国渡来の絶対秘仏の霊像
 丈一尺五寸の本尊
 一光三尊阿弥陀如来
 が本堂
 「瑠璃壇」厨子内に安置
 七年に一度の御開帳で
 金銅阿弥陀如来
 及
 両脇侍立像(前立本尊)
 が絶対秘仏の本尊の分身として公開
 ↓↑
 百観音(西国三十三所
     坂東三十三観音
     秩父三十四箇所
 の番外札所
 結願寺の
 秩父三十四箇所
 三十四番水潜寺で
 「結願したら
  長野の善光寺に参る」
 ↓↑
 本堂
 宝永4年(1707年)竣工
 設計
 甲良宗賀(幕府大棟梁甲良氏3代)が担当
 本尊
 阿弥陀三尊像(一光三尊阿弥陀如来像)を安置
 ↓↑
 仁王門
 鐘楼・梵鐘
 雲上殿
 大勧進
 大本願
 釈迦堂
 宝物館
 ↓↑
 ぬれ仏(延命地蔵尊)
 享保7年
 善光寺聖・法誉円信
 が全国から喜捨を集めて造立
 明暦の大火の
 「八百屋お七」の霊を慰めたもの
 「百屋お七のぬれ仏」
 ↓↑
 六地蔵
 爪彫如来
 親鸞が滞在した際に残した
 爪彫りの
 阿弥陀如来・・・
 ↓↑
 御供所
 仏に献ずる供物を調理したり
      寺僧が集まったりする
 ↓↑
 法然
 法然が宿泊
 法然の像を安置
 ↓↑
 六字名号碑
 融通念仏を血脈に加えた時の石碑
 ↓↑
 牛に引かれて善光寺参り
 思いがけず他人に連れられて
 ある場所へ出掛けること
 他人の誘いや思いがけない偶然で
 よい方面に導かれること
 ↓↑
 昔、長野の善光寺近くに住んでいた
 不信人で欲深い老婆が
 さらしていた布を
 隣の家の牛が
 角に引っかけて
 走り出したのを見て
 その牛を追っていくうちに
 善光寺にたどり着き
 それがきっかけで
 度々善光寺に参詣するようになり
 信仰の道に入ったという言い伝え
 ↓↑
 「牛に引かれて善光寺詣り」
 Goslings lead the geese to water.
 (雛がガチョウを水辺に連れて行く)
 ↓↑
 欲深い老婆は牛を追いかけ
 善光寺まで来てしまった
 善光寺の金堂前で、ふと足元を見ると
 牛のよだれが垂れて
 そのよだれが文字のように見え
 書かれていたのは
 「うしとのみ
  おもひはなちそ
  この道に
  なれをみちびく
  おのが心を
 (牛とのみ、思い過ごすな、仏の道に
  汝をみちびく、己が心を)」
 という文字
 ↓↑
 老婆は、欲を捨てて信仰の道に入る
 布を探すことは辞めて家に帰り
 信心深く過ごしていた
 お参りした観音堂
 観音様の足元に
 牛に奪われた布が置いてあるのを見つけ
 老婆は
 牛と思ったのは観音様の化身だった
 さらに信心深くなり
 極楽往生を遂げることができた・・・
 ↓↑
 からすの赤ちゃん
 作詞・作曲
 海沼 實(かいぬま みのる)
 1909年(明治42年)1月31日
 ~
 1971年(昭和46年)6月13日
  ↓↑
 海沼實
 1932年(昭和7年)に上京
 東洋音楽学校(東京音楽大学)入学
 護国寺
 「音羽ゆりかご会」を創設
 「お猿のかごや」
 (1938年(昭和13年)作詞 山上武夫)
 を出し同郷の作曲家
 「草川信」
 に師事して作曲を学んだ
 ↓↑
 「からすの赤ちゃん」
 「三苫やすし」作詞の
 「なぜな啼くの」
 に作曲するも
 「細田義勝」
 による作品が一足先に世に出て
 同作品に即興的な作詞を施して発表した
 発表時
 「三苫」に遠慮して
 作詞者名に
 「矢島邦子」
 としているが
 母方の叔父に当たる
 「矢島邦」をもじったもの
 戦後レコード化されて大ヒット
 ↓↑
 からすの赤ちゃん
  (作詞=海沼實)
 ↓↑
 からすの
 赤ちゃん   なぜなくの
 こけこっこの おばさんに
 あかいお帽子 ほしいよ
 あかいお靴も ほしいよと
 かあかあ   なくのね
 ↓↑
 めえめえ
 山羊(やぎ)さん なぜなくの
 お里の      母さんに
 おねむに     なったよ
 あまいおっぱい  頂戴(ちょうだい)ねと
 めえめえ     なくのね
 ↓↑
 迷子の鳩さん   なぜなくの
 みみずく     おじさんに
 夜路(よみち)は こわいよ
 ほおずき提灯   かしとくれと
 ほろほろ     なくのね
 ↓↑
 狐の赤ちゃん   なぜなくの
 三日月      おばさんに
 木の葉でかんざし 買っとくれ
 小石で花ぐし   買っとくれと
 こんこん     なくのね
 ↓↑
 原詩
 「三苫 やすし」
 「なぜなくの(啼くの)」
 ↓↑
 お山の 鴉は  なぜなくの
 夕焼け お日さんに 言うことにゃ
 赤い  ぞんぞ 頂戴な
 赤い  帯   頂戴なと
 カアカア    なくのね
 ↓↑
 田圃の 蛙は  なぜなくの
 雨降り お月さんに いうことにゃ
 傘を  かして 頂戴な
 みのを かして 頂戴なと
 ゲッコゲッコ  なくのね
 ↓↑
 牧場の 子馬は なぜなくの
 父さん お馬に いうことにゃ
 お靴を 買って 頂戴な
 お鈴を つけて 頂戴なと
 ヒンヒン    なくのね
 ↓↑
 かわいい お人形  なぜなくの
 お眼めが さめると いうことにゃ
 おいしい おめざを 頂戴な
 早く   起こして 頂戴なと
 マアマア なくのね
 ↓↑
 烏 なぜ啼くの
 烏は山に
 可愛七つの
 子があるからよ
 可愛 可愛と
 烏は啼くの
 可愛 可愛と
 啼くんだよ
 山の古巣へ
 行って見て御覧
 丸い眼をした
 いい子だよ
 (1995年に著作権消滅)
 ↓↑
 大正10年(1921年
 児童文学雑誌
 『金の船』7月号
 に掲載
 ↓↑
 からす なぜ鳴くの
 からすは山に
 可愛い七つの
 子があるからよ

 可愛い 可愛いと
 からすは鳴くの
 可愛い 可愛いと
 なくんだよ
 ↓↑
 山の古巣(ふるす)に
 行って見て御覧
 丸い眼をした
 いい子だよ
 ↓↑
 ウシに曳かれて善光寺・・・長野県への移民は「百濟」から・・・
 ↓↑
 吉備津比古・・・ナゼ、吉の備えなのか・・・?
         漢字からすれば
        「吉師・吉士・吉志・岸」で「新羅」系だろう 
 ↓↑
 『日本書紀
  彦 五十 狭芹 彦  命
 (ひこいさ せり ひこのみこと)
  吉備津 彦  命
 (きびつ ひこのみこと)
  ↓↑
 『古事記
  比古 伊佐 勢理 毘古 命
 (ひこ いさ せり ひこのみこと)
     伊邪 那岐・伊弉 諾・・・奘=さかん=左官・佐官
     伊邪 那美・伊弉 冉
           ・・・冉=ゼン・ネン
              しなやか
              ゆく・すすむ・ゆっくりと進む
              ひげなどのように
              やわらかに
              ゆっくりと伸び進むさ
     冉=冄=髯=髟+冉・・・
       植物ならウリ科の「冉=蔓・つる・子づる・孫づる)」
  ↓↑
  大 吉備津 日子 命
 (おほきびつ ひこのみこと)
 その他の表記
 吉 備 都 彦
 ↓↑
 第7代
 孝霊天皇
 と
 妃の
  倭   国 香媛
 (やまとのくにかひめ
  絙  某 姉・・・倭迹迹日百襲姫命の母
 (はえ いろ ね)
  ・・・絙=糸+亘=くみひも・カン・ガン・コウ
       ゆるい・緩(ゆる)む・・・弛(たる)む
       組みひも・印綬
       大縄・太い綱・・・注連縄・〆縄
     某=甘+木・・・海女・海人・海部
 碆(はえ)=波+岩=バエ・ハエ=はや・・・?
         岩礁(ガンショウ)=礁(べー)
礁=石+焦(こげる・こがす・あせる)
          =石+隹+灬
         碓=石+隹=うす・タイ・・・小碓命
 潮岬付近から
 紀伊水道、四国南岸を経て
 九州東岸の
 都井岬に至る海域の
 「ハエ・ハヤ・ハイ・ベー」
 呼ばれる岩礁名・・・?
 日置(へき)・・・日本(ひのもと)?
 日=ニチ・ジツ・ひ・か・・・ヘ?
 蠅=蝿=はえ=生え・映え・栄え
     這え虫・・・
     蛆(うじ)虫から
     蝿が生える
     蚕=蛆蒸=うじむし=繭玉=絹糸
          桑ムカデ・・・扶桑=倭・大和・日本
          宇治=ウジ=氏・右治
          むし=無視・無死・無私・蟲・ムカデ
  ↓↑
  絙  某  弟
  蠅  伊呂 泥・・・妹
  蠅  伊呂 杼
 (はえ いろ ど)
  共に
  「和知都美命」の女(むすめ)
 ↓↑
  意富 夜麻登  玖邇 阿礼  比売  命
 (おほ やまと  くに あれ  ひめの みこと)
  イフ ヤマトウ クジ アレイ ヒバイ メイ
 との間に生まれた皇子
 ↓↑
 同母兄弟姉妹
 『日本書紀
 「倭 迹迹日百 襲 媛命
  夜麻登登 母母曽 毘売」
 「倭 迹迹 稚屋 姫命
  倭 飛羽矢若屋 比売」
 『古事記
 2人に加え
 「日子 刺肩別 命」
 を記載
 異母兄弟
 吉備氏関係の
 稚   武    彦 命
 若日子 建 吉備津日子命
 ↓↑
 『日本書紀
 「四道将軍
 崇神天皇
 十年
 九月九日条
 吉備津彦
 西道に派遣
 ↓↑
 大彦命
 北陸に派遣
 ↓↑
 武渟川別
 東海に派遣
 ↓↑
 丹波道主命
 丹波に派遣
 ↓↑
 崇神天皇
 十年
 九月
 二十七日条
 武埴安彦命
 その妻の
 吾田媛
 の謀反
 ↓↑
 五十狭芹彦命(吉備津彦命
 が
 吾田媛
 ↓↑
 大彦命・・・阿倍(阿部)の祖
 と
 彦国葺
 が
 武埴安彦命
 を討った
 ↓↑
 崇神天皇
 十年
 十月
 二十二日
 に出発し
 崇神天皇
 十一年四月二十八日
 に平定報告
 ↓↑
 崇神天皇
 六十年七月十四日条
 吉備津彦
 と
 武渟川別
 は
 出雲振根
 を誅殺
 ↓↑
 『古事記
 孝霊天皇の時
 弟の
 「若日子建吉備津彦命
 (稚  武   彦命)」
 とともに派遣されたのは
 針間(播磨)の
 「氷河之前」
 に忌瓮(いわいべ)を設置
 針間を道の口として
 「吉備国
 を平定
 崇神天皇段での
 派遣の説話はない・・・
 ↓↑
 墓・霊廟
 「大吉備津彦命」の墓
 岡山県
 岡山市
 中山
 茶臼山
 古墳
 墳丘長108メートルの
 前方後円墳
 ↓↑
 吉備津神社岡山県岡山市備中国一宮)
 吉備津彦命の霊廟
 吉備津神社社伝
 吉備の中山の麓に
 茅葺宮を建て
 281歳で死亡
 ↓↑
 後裔
 氏族
 弟の
 「稚武彦命」
 を吉備臣(吉備氏)祖とする
 『古事記
 「吉備津彦命
 を
 吉備上道臣の祖
 稚武彦命
 を
 吉備下道臣
 笠臣の祖とする
 ↓↑
 『続日本紀
 天平神護
 元年(765年)
 五月
 二十日条
 播磨国
 賀古郡の
 馬養造人上が
 「仁徳天皇の御宇に
  吉備津彦の苗裔の
  上道臣
  息長借鎌が
  播磨国
  賀古郡
  印南野に住み
  その6世孫の
  上道臣
  牟射志
  が聖徳太子に仕えて
  馬司に任ぜられたので
  『庚午年籍
  では馬養造とされたが
  これは誤りであるから
  印南野臣の姓を賜りたい」
 と言上し
 「印南野臣」
 が賜姓された
 ↓↑
 『新撰姓氏録
 和泉国未定雑姓
 椋椅部首
 「吉備津彦五十狭芹命」の後
 『先代旧事本紀・国造本紀』
 国造
 志賀 高穴穂朝(成務天皇)の御世
 吉備臣同祖の
 吉備都命六世孫の
 「午佐自命」
 を国造に定め
 豊後国
 国埼郡
 国前郷
 周辺にあたる
 葦分国造
 纏向日代朝(景行天皇)の御世
 吉備津彦命の子の
 「三井根子命」
 を国造に定めた
 肥後国
 葦北郡
 葦北郷周辺
 ↓↑
 吉備津神社岡山県岡山市備中国一宮)
 の縁起
 吉備津彦命が吉備平定にあたって
 「温羅(うら・うんら・おんら)」
 という鬼を討った
 吉備津彦命
 犬飼健命(いぬかいたけるのみこと)
 楽々森彦命(ささもりひこのみこと)
 留玉臣命(とめたまおみのみこと)
 という3人の家来とともに討ち
 その祟りを鎮めるために
 「温羅」の首を吉備津神社の釜の下に封じた
 「桃太郎」のモチーフ・・・
 吉備津神社
 鳴釜神事は
 上田秋成
 『雨月物語』中の
 「吉備津の釜」に記録
 ↓↑
 吉備は
 「真金(まかね)吹く吉備」で
 鉄の産地
 温羅は製鉄技術の渡来人
 鉄文化を象徴する人物
 吉備津神社の本来の祭神は
 「温羅」・・・
 ↓↑
 全国の吉備津彦命を祀る
 神社
 吉備津神社岡山県岡山市) 備中国一宮・総本社
 吉備津彦神社(岡山県岡山市備前国一宮
 吉備津神社広島県福山市) 備後国一宮
 田村神社香川県高松市)  讃岐国一宮
 吉備津神社         岡山県周辺に分布
 御崎神社          岡山県周辺に分布
 艮御崎神社
 (うしとらみさきじんじゃ
  うしとらおんざきじんじゃ)岡山県周辺に分布
 ↓↑
 吉備津彦の三人の家来
 犬養縣主(犬)岡山県笠岡市の「縣主神社」
 猿女君 (猿)岡山市北区の「鼓神社(二宮鼓神社)」
 鳥飼臣 (雉)岡山県都窪郡早島町の「鶴崎神社」
 ・・・説
 「鬼」=牛(うし・ゴ)=都怒我阿羅斯等
            (つぬがあらしと)
             古代朝鮮人
             加羅国王の息子
            「都怒賀阿羅斯止」
            「都怒何阿羅志止」
            「都奴加阿羅志等」
             と表記
            別名
            「于斯岐阿利叱智干 岐
            (うしきありしちかんき)」
 ↓↑
 「備後」
 名称と由来
 吉備(きび)国を
 備前国(ビゼン⇔美作国も再分割)
 備中国(ビチュウ)
 備後国(ビンゴ)
 に三分して設置
 平安時代
 『和名類聚抄』に
 「備後国
 (きびのみちのしりのくに)」
 と読む
 ↓↑
 明治維新の直前の領域
 広島県
 府中市
 庄原市
 世羅郡
 神石郡の全域
 +
 福山市の大部分
 (大門町の一部を除く)
 尾道市の大部分
 (瀬戸田町各町・因島洲江町・因島原町を除く)
 三次市の大部分
 (秋町・粟屋町を除く)
 三原市の一部
 (大和町萩原・大和町福田・大和町蔵宗
  大和町篠・大和町上徳良
  大和町
  下徳良
  &
  円一町、宮沖、皆実、宮浦、頼兼、大畑町
  八幡町垣内、久井町坂井原、久井町羽倉
  久井町泉以東)
  東広島市の一部(豊栄町飯田・豊栄町吉原)
  岡山県笠岡市の一部(用之江の一部)
  島根県
  仁多郡
  奥出雲町の一部(八川字三井野)
 ↓↑
 7世紀後半
 吉備国
 備前国(後に美作国も再分割)
 備中国
 備後国
 に三分して設定
 ↓↑
 海岸部
 瀬戸内海の中間点に位置
 鞆の浦福山市
 尾道尾道市
 港として栄え続けた
 神護景雲二年(768年)
 全国から
 9人の善行の者が選ばれ
 終身の田租が免ぜられる表彰
 備後国
 葦田郡
 の人で
 網引公金村
 8歳で父に代わって公務に就き
 父母に孝養を尽くして
 爵二級に叙された・・・
 ↓↑
 江戸時代
 有力外様大名
 山陽道に睨みをきかす
 備後国
 南東部
 と
 備中国
 南西部
 の一部に
 備後福山藩が設置
 初代の
 水野勝成
 をはじめとする有力譜代大名
 徳川一門が藩主
 尾道
 安芸広島藩領の港町として栄えた
 三原には広島藩の支城が設けられ
 代々広島藩筆頭家老の
 「浅野家」
 が城主を務めた
 三次にも当初
 広島藩支藩があったが取り潰された
 後に
 一部は
 「豊前中津藩領」となる
 ↓↑
 水野
 福山藩が断絶後
 府中市北部
 甲奴郡
 は幕府天領
 神石郡などの一部は
 豊前国
 中津藩領になった
 ↓↑
 明治維新後の廃藩置県
 備後国東南部に
 福山市を県庁とする
 福山県が設立
 隣接の
 倉敷県と統合され
 福山市を県庁とする
 深津県が設立されたが
 短期間で県庁が
 笠岡市に変更となり
 小田県へと改称
 1875年(明治八年)
 小田県が
 岡山市に県庁を置く
 岡山県編入された
 1876年(明治九年)
 備後地方のみ分割され
 広島県へと編入されたまま今日に至る
 ↓↑
 近世以降
 御調郡 安芸広島藩
 甲奴郡=幕府領・安芸広島藩豊前中津藩
 世羅郡=安芸広島藩
 三谿郡=安芸広島藩
 奴可郡=安芸広島藩
 三上郡=安芸広島藩
 三次郡=安芸広島藩
 恵蘇郡=安芸広島藩
 深津郡=福山藩
 沼隈郡=福山藩
 芦田郡=福山藩
 品治郡=福山藩
 安那郡=福山藩、豊前中津藩
 神石郡=幕府領、福山藩、豊前中津藩
 ↓↑
 慶応四年5月16日(1868年7月5日)
  =幕府領が倉敷県の管轄
 明治四年7月14日(1871年8月29日)
  =廃藩置県により
   福山県、広島県、中津県
   の飛地となる
   11月15日(1871年12月26日)
  =第1次府県統合により
   沼隈郡・深津郡・安那郡
   品治郡・芦田郡・神石郡
   が深津県
   御調郡世羅郡三谿郡
   三上郡奴可郡甲奴郡
   三次郡恵蘇郡
   が広島県の管轄
 明治五年6月5日(1872年7月10日)
  =深津県が小田県となる
 明治八年(1875年)12月20日
  =小田県の管轄区域が
   岡山県の管轄
 明治九年(1876年)4月18日
  =全域が広島県の管轄
 昭和28年(1953年)12月1日
  =比婆郡(旧・奴可郡
   八鉾村の一部(油木字三井野の一部)が
   島根県
   仁多郡
   八川村に編入越境合併
 昭和41年(1966年)11月1日
  =岡山県
   笠岡市
   茂平
   字堂面
   及び
   阪里の区域の各一部を編入
  (大門町野々浜字カチヤ坂の一部)
   が
   岡山県笠岡市編入
 備後国府は
 芦田郡
 広島県府中市元町付近に所在・・・
 ↓↑
 神社
 延喜式内社
 『延喜式神名帳
 小社17座17社が記載
 大社はない。
 ↓↑
 総社神社(小野神社境内社
 総社
 一宮
 総社=総社神社
  (府中市元町、北緯34度34分37.42秒
         東経133度14分28.05秒)
    小野神社境内社元の場所は不明
 一宮
 吉備津神社
 (福山市新市町宮内
  北緯34度34分09.61秒
  東経133度16分15.85秒)
 社伝
 平安時代
 備中国
 吉備津神社岡山県岡山市
 から分立したというが
 実際には12世紀ごろに創建
 一宮と称されるのは中世以降
 素盞嗚神社福山市新市町戸手
       北緯34度33分09.66秒
       東経133度16分45.67秒)
 吉備津神社とともに
 一宮に数えられる場合がある

 二宮=真宮神社(福山市新市町常)
 一宮である吉備津神社
 三宮である府中市栗柄町の南宮神社
 と共に
 備後崇敬三社
 ↓↑
 二宮=二宮神社福山市神辺町八尋
         北緯34度33分49.72秒
         東経133度24分54.94秒)
 三宮=南宮神社
 安国寺利生塔
 備後安国寺 (福山市鞆町後地)
 備後護国神社福山市丸之内一丁目)
 戊辰戦争以来の
 旧備後国内出身者の
 戦歿者
 と
 福山藩主
 阿部家歴代が祭神
 国司神社(くにしじんじゃ)
 (広島県福山市芦田町上有地423)
 吉備国国司として
 吉備大宰を務めた
 「石川王」が祭神
 ↓↑
 安那(やすな)郡
 全6郷
 『和名類聚抄』は
 「夜須奈」とも
 「婀娜(あな)」とも訓
 『日本書紀
 広国押武金日天皇
 2年5月9日(535年6月24日)条
 「婀娜国」
 1898年(明治31年)10月1日
 深津郡と統合
 深安郡の一部となる
 深津郡
 全3郷
 養老5年4月20日(721年5月20日
 安那郡の一部を割いて成立
 1898年(明治31年)10月1日
 安那郡と統合
 深安郡の一部となる
 ↓↑
 神石(かめし)郡
 全4郷
 「かみし・ジンセキ」
 「亀石」とも表記される
 『日本書紀
 天渟中原瀛真人天皇
 2年3月17日(673年4月8日)条
 「亀石郡」とある
 奴可郡
 全4郷
 1898年(明治31年)10月1日
 三上郡恵蘇郡と統合
 比婆郡の一部となる
 沼隈郡
 全4郷
 品治(ほんぢ・ほんち)郡
 全7郷
 「品遅」とも表記
 1898年(明治31年)10月1日
 芦田郡と統合され廃止
 蘆品郡の一部となる
 葦田郡
 全6郷
 「芦田・蘆田」とも表記
 和銅2年10月8日(709年11月13日)
 品遅(品治)郡から3里を編入
 1898年(明治31年)10月1日
 品治郡と統合
 蘆品郡の一部となる
 甲奴郡
 全3郷
 「甲努」とも表記
 芦田郡より分離し成立
 和銅2年10月8日(709年11月13日)
 甲努郡甲努村に郡を建てる
 三上郡
 全5郷。1898年(明治31年)10月1日
 廃止され
 比婆郡の一部となる
 恵蘇郡
 全3郷
 1898年(明治31年)10月1日
 三上郡奴可郡と統合し
 比婆郡の一部となる
 御調(みつき・みつぎ)郡
 全7郷
 「御月・三月」とも表記
 1898年(明治31年)4月1日
 尾道町尾道市となる
 世羅郡
 全4郷
 三谿郡
 全5郷
 1898年(明治31年)10月1日
 廃止され
 双三郡の一部となる
 三次郡
 全4郷
 1898年(明治31年)10月1日
 三谿郡と統合
 双三郡の一部となる
 吉刀郡
 『拾芥抄』に記載
 ↓↑
 律書残篇
 延喜式はともに14郡
 これ以前に
 甲奴郡
 葦田郡から
 深津郡が
 安那郡から分かれ
 もとは12郡・・・
 鎌倉時代中期成立
 『拾芥抄』
 吉刀郡を加え
 十五郡を載せる
 1898年(明治31年)4月1日
 御調郡尾道町に市制を施行
 御調郡から離れて
 尾道市となる
 14郡1市となる
 1898年(明治31年)10月1日
 郡制施行のため9郡を廃し
 4郡を置く
 9郡1市となる
 ↓↑
 江戸時代
 ↓↑
 安芸広島藩
 福島氏 (49万8000石)

 浅野氏(42万6000石)
 備後福山藩

 水野家(10.1万石)
 →天領
 →奥平松平家(10万石)
 →阿部家(10万石)

 三次藩広島藩支藩、5万石)
 ↓↑
 国司
 ↓↑
 備後守
 波多朝臣足人=天平勝宝6年(754年)任官[3]
 上道正道=天平宝字8年正月(764年)任官
 藤原園人延暦8年(789年)任官
 藤原氏助=寛平元年(889年)任官
 藤原忠平=寛平9年(897年)任官(権守)
 橘惟風=延長元年(923年)任官
 藤原元名=延長5年(927年)任官
 源信明=天暦元年(947年)任官
 藤原朝成=天暦3年(949年)任官(権守)
 藤原致忠=天徳3年(959年)任官
 藤原行成=長保元年(999年)任官
 藤原祐家=康平2年(1059年)任官(権守)
 源資賢=久安2年(1146年)任官
 源行家=寿永2年(1183年)任官
 源家長=1210年頃
 ↓↑
 備後介
 ↓↑
 山口佐美麻呂:宝亀3年(772年)任官
 石川諸足=宝亀5年(774年)任官
 市往福貞
 大江維時
 藤原道隆=貞元元年(976年)任官(権介)
 藤原行成= 正暦元年(990年)任官(権介)
 藤原為通=永治2年(1142年)任官(権介)
 藤原実宗=保元4年(1159年)任官
 丹波雅忠
 今出川公直
 ↓↑
 守護
 鎌倉幕府
 1184年~?   土肥実平
 1223年~?   長井時広
 1264年~?   長井泰重
 1286年~?   長井頼重
 1320年~?   長井貞重
 室町幕府
 1335年~1338年 朝山景連
 1338年~1339年 仁木義長
 1339年~1340年 石橋和義
 1340年~1342年 細川頼春
 1342年~1349年 高師泰
 1349年~1351年 細川頼春
 1351年     =上杉重季
 1351年~1356年 岩松頼宥
 1356年~1365年 細川頼有
 1365年~1371年 渋川義行
 1371年~1379年 今川貞世
 1379年~1389年 山名時義
 1389年~1390年 山名義熙
 1390年~1392年 細川頼之
 1392年~1400年 細川頼長・細川基之
 1401年~1433年 山名時熙
 1433年~1454年 山名持豊
 1454年~1462年 山名教豊
 1462年~1476年 山名是豊
 1476年~1487年 山名政豊
 1489年~1497年 山名俊豊
 1499年~1512年 山名致豊
 1512年~1528年 山名誠豊
 1552年~1561年 尼子晴久
 1562年~1563年 毛利隆元
ー↓↑ー--
 ・・・???・・・
 (表紙・画像・音楽)」の
  移転先・・・
https://haa98940.wixsite.com/mysite/blog/archive/2016/12
 ↓↑
 ボクの「古事記字源」の発端・・・
https://haa98940.wixsite.com/mysite/blog/archive/2022/8
 ↓↑
 干支暦
http://meisiki.bake-neko.net/keisanBXG4.html
 ↓↑
 追加添文
 「戦争と平和」・・・「モウケの生き方」
https://haa98940.wixsite.com/mysite/single-post/2006%E5%B9%B4%EF%BC%91%EF%BC%91%E6%9C%88%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%8E%E9%A0%83%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%83%BB