ないえごろうブログ

同音異義の探索

「井・眞・成」=セイシンセイ =精神性=政審所為・・・?

 文字霊日記・3202日目

 「井・眞・成」=セイシンセイ =精神性=政審所為・・・?

 ツルのキュウリ・キュウリのツル
 「脈=ミャク=陌」の「窮理=キュウリ=鳩里」
 ↓↑
 巻きひげ
 薇(発条・ぜんまい・全妹?)髯(髭・鬚・須・卑下?)
 蕨(わらび)    全妹→ゼンマイ=全毎→毎=𠂉+毋?
           全姉→ゼンシ =全史→史=口+乂?
           全弟→ゼンテイ=全綴→綴=糸+叕?
           全兄→ゼンケイ=全経→経=糸+圣?
           母も父も同じ血統の
               競走(キョウソウ)馬
           ↓↑
           父が同じでも兄弟とは呼ばず
           母が同じ場合のみ「兄弟姉妹」
           父も同じ場合が「全」+「兄弟姉妹」
           父が違う場合が「半」+「兄弟姉妹」

 「玄宗皇帝=ゲンソウコウテイ=幻想行程」の日本人
 玄宗皇帝
 在位期間 先天元年8月3日 - 天宝15載7月12日
 (712年9月8日 - 756年8月12日)
 都城 長安
 姓  李・・・李=木+子
 諱   隆基
 諡号 至道大聖大明孝皇帝
 廟号 玄宗
 垂拱元年8月5日
 685年9月8日
  ~
 上元2年4月5日
 762年5月3日
      大運756年9月(71歳)丁丑印綬
 乙酉(庚 辛)正官・食神 死⇔壬寅偏財
 乙酉(庚 辛)正官・食神 死⇔乙巳正官
 戊寅(戊丙甲)  ・比肩長生⇔甲寅偏官
 戊午(丙 丁)比肩・偏印帝旺⇔庚午偏印
  申酉空亡
 ↓↑
 父   睿宗
 母   竇徳妃・・・
    竇=穴+賣
      宀+八+士+買
      宀+八+士+罒+貝
      トウ
      トク
      あな
      あなぐら
      みぞ
      物をたくわえておく穴
      くぐり戸
      溝・水道・水路
      竇(あな)
      竇(あなぐら)
      竇(みぞ)
    異体字
    窦=穴+卖
      宀+八+十+买
      宀+八+十+乛+头
      宀+八+十+乛+大+丶
      卖=十+买=売=賣
        十+乛+头
        十+乛+大+丶
        バイ
        うる・うれる
        あきなう・品物をうる
        うる・だます・裏切る
        うる・広める・宣伝する
     头=大+"=斗+丶=頭
     卖+α
     渎・牍・觌・㱩・犊・椟・赎・窦・黩

     买=バイ・かう=金をはらって品物を得る
       求める・あさる・まねく
     荬=バイ・「苣荬菜=キク科の植物」
 ↓↑
 竇=穴+賣・・・賣(売)買・・・比売(賣)=姫・媛・嬪
   宀+八+士+買
   宀+八+士+罒+貝
   トウ
   トク
   あな
   あなぐら
   みぞ
   物をたくわえておく穴
   くぐり戸
   溝・水道・水路
   竇(あな)
   竇(あなぐら)
   竇(みぞ)
 異体字
 窦=穴+卖
   宀+八+十+买
   宀+八+十+乛+头
   宀+八+十+乛+大+丶
   卖=十+买=売=賣
     十+乛+头
     十+乛+大+丶
     バイ
     うる・うれる・あきなう・品物をうる
     うる・だます・裏切る
     うる・広める・宣伝する
 ↓↑   ↓↑
     头=大+"=斗+丶=頭
 ↓↑   ↓↑
     卖+α
     渎・牍・觌・㱩・犊・椟・赎・窦・黩
 ↓↑   ↓↑
     买=バイ・かう=金をはらって品物を得る
          買う・求める・あさる・まねく
     荬=バイ・苣荬菜=キク科の植物
 ↓↑
 后妃 王皇后
 陵墓 泰陵
 年号 先天=712年~713年
 開元 713年~741年
 天宝 742年~756年

 ↓↑
 楊貴妃=楊 玉環・・・爪楊枝(つまようじ)
 ↓↑
 開元7年6月1日
 (719年6月22日)
 ~
 天宝15載6月14日
 (756年7月15日)
        大運753年10月(34歳)甲戌偏官
 己┏未(丁乙己)劫財・劫財    衰⇔丙申偏印
  支合 丙
 庚┗午(丙 丁)食神・偏印・印綬帝旺⇔乙未正官
 戊┗午(丙 丁)  ・偏印・印綬帝旺⇔丙申偏印
 戊┗午(丙 丁)比肩・偏印・印綬帝旺⇔甲午偏官
   子丑空亡
 ↓↑
 字   鴎(鷗)法・・・森鴎(鷗=區+鳥)外
 小字  玉奴・玉環
 称号  楊貴妃
 道号  太真(眞=匕+県)
 身位  王妃→貴妃
 出生  蜀州
 死去  馬嵬(山+鬼・異体字「㠕=山+阝+鬼」)
ー↓↑ー--

 つる=蔓
    植物の茎で、細く直立せず
    地面をはうか、他の物にまきついたり
    「巻きひげ」・・・ぜんまい=発条・薇
    などで付着するものの総称
    鉉=鉱脈(コウミャク)
       脈=つる・ミャク
    弦=弓の弦
    鶴=嘴と脚が長い水鳥の類
    釣瓶(つるべ)=井戸水を汲む桶

    鉤(鈎・こま)
     陰匿鉤距(イントクコウキョ)
      姿を隠したまま
      裏から人を陥れようとすること
     「鉤距」=外部の人に
          知られていない事情を探ること
     鉤章棘句(コウショウキョクク)
      読みにくい文章・奇怪で難しい文章
      釣り針のように
      引っかかりの多い文章
     「棘句」=とげ(刺)のある句
     鉤心闘角(コウシントウカク)
      高さのある建物が
      密集し数多く建っている様子
      知恵を振り絞って争いをすること
     「鉤心」=車軸・屋根の中心が集まっているところ
     「闘角」=角を突き合わせて戦うこと
    鉤縄規矩(コウジョウキク)
     物事の法則や基準になるもの
    「鉤」=曲線を引く時に使う道具
    「縄」=直線を引く時に使う道具
    「規」=円を描く時に使うコンパス
    「矩」=直角を描く時に使う定規
 ↓↑
 葛=艹+曷
   ・・・葛城皇子中大兄皇子天智天皇
            ↓↑
          古人大兄皇子は異母弟
          舒明天皇の第一皇子
          母は
          蘇我馬子の娘
          蘇我法提郎女(ほほてのいらつめ)
          蘇我入鹿とは従兄弟
          娘は
          倭姫王(天智天皇の皇后)
           ・・・倭姫=倭武の叔母も同名
          643年11月
          蘇我入鹿
          斑鳩宮で
          山背大兄王とその一族を滅ぼし
          645年6月
         「乙亥の変」で
          中大兄皇子らによて
          蘇我蝦夷、入鹿が殺され
          古人大兄皇子は
          皇極天皇退位を受け
          皇位に即く事を勧められたが断り
          出家して吉野へ隠退
          645年9月12日
          吉備 笠垂・・・「笠前・新笠」
         (きびのかさのしだる)
          の
         「古人大兄皇子」
          謀反有りと密告を受け
          中大兄皇子が攻め殺させた
               ↓↑
               古人大兄皇子
          古人皇子=古人大市皇子=吉野太子
          とも呼称(穪=禾+爾
               称=禾+尓
               稱=禾+爯
                 禾+爫+冉)
               大兄=大市
                兄==市・・・?
         ↓↑
 穪=禾+爾=称=稱
   禾+一+八+冂+丨+㸚
   禾+一+八+冂+丨+爻
   禾+一+八+冂+丨+㐅+乂
   禾+一+八+冂+丨+㐅+丿
   ショウ
   あげる
   穪(あげ)る
   穪(かな)う
   穪(たた)える
   穪(とな)える
   穪(はか)る
   たたえる・ほめる・ほめたたえる
   となえる・となえ・名づける・呼び名
   はかる・目方をはかる・重さをはかる
   はかり・天秤・重さをはかる道具
   かなう・適合する・つり合いがとれる
   艹+日+匂
   艹+日+匃
   艹+日+勹+匕
   艹+日+勹+亾
   艹+日+勹+人
   カツ
   くず
   かずら
   かたびら
   つづら
   くずかずら
   くずぬの
   つる草の総称
   かずらの蔓で作った箱
   一裘一葛(イッキュウイッカツ)
    非常に貧しい暮らし
    「裘」は冬に着る毛皮の服
    「葛」は夏に着る薄い布の服
    一枚ずつしか持たず
    他の着替えを持たない貧乏
   瓜葛之親(カカツのシン)
    親類、縁者
    植物の瓜や葛の蔓が絡み合うこと
   人事葛藤(ジンジカットウ)
    人間と人間の争い
    「人事」=人間にかかわりのある事柄
    「葛藤」=かずらや藤がもつれて絡むさま
ーー↓↑ー--
  井   真 成
 (セイ  シンセイ
  い   ま なり・・・今也?
  ゐ   ま なり
  ゐ の ま なり)
  文武天皇三年(699年)
  ~
  天平六年=開元二十二年(734年)
  唐代の日本人留学生・官吏
  中国の古都
  西安墓誌が発見
 ↓↑
 「井 真成」
 中華人民共和国で発見された墓誌
 日本人留学生として記されていた姓名
 ↓↑
 陝西省
 西安市内の工事現場から発見
 中国西北大学が
 2004年10月12日
 に発表
 個人の所蔵物だったが
 西北大学付属博物館が収集
 ↓↑
 墓誌
 開元二十二年(西暦734年)
 正月(朔~十or廿)日に死去
 「尚衣奉御」
 の官職を追贈と記録
 中国で発見された
 最初の
 日本人の墓誌
 唐国への留学生の墓誌の唯一の発見例
 現存の
 石刻資料のなかで
 日本の国号を
 「日本」
 と記述した最古の例
 ↓↑
 墓誌原文
 ■は判読不明文字
 ↓↑
 贈 尚衣奉御井墓誌文并序
 公
 姓  井
 字  眞成
 國號 日本
 才稱 天縱故能
 命遠邦馳騁上國蹈禮樂襲衣冠束帶
 朝難與儔矣豈圖強學不倦聞道未終
 遇移舟隙逢奔駟以開元廿二年正月
 日乃終于官弟春秋卅六皇上
 傷追崇有典詔贈尚衣奉御葬令官
 卽以其年二月四日窆于萬年縣滻水
 原禮也嗚呼素車曉引丹旐行哀嗟遠
 兮頽暮日指窮郊兮悲夜臺其辭曰
 乃天常哀茲遠方形旣埋于異土魂庶
 歸于故鄕
 ↓↑
 墓誌の訓読
 贈、尚衣奉御、井公墓誌文、并序。
 公、
 姓は井
 字は眞成
 國號は日本。
 才は天縱に稱ひ
 故に能く命を遠邦に■
 騁を上國に馳せり。
 禮樂を蹈み
 衣冠を襲ひ
 束帶して朝に■
 與に儔び難し。
 豈に圖らんや
 學に強めて倦まず
 道を聞くこと未だ終へずして
 ■移舟に遇ひ
 隙奔駟に逢へり。
 開元廿二年正月■日を以て
 乃ち官弟に終へり。
 春秋卅六。
 皇上■傷して
 追崇するに典有り。
 詔して
 尚衣奉御を贈り
 葬むるに官をして■せしめ
 卽ち其の年の二月四日を以て
 萬年縣滻水■原に窆るは禮なり。
 嗚呼
 素車は曉に引きて丹旐哀を行ふ。
 遠■を嗟きて暮日に頽れ
 窮郊に指びて夜臺に悲しむ。
 其の辭に曰く
 「乃の天の常を■
  茲の遠方なるを哀しむ。
  形は旣に異土に埋むるとも
  魂は故鄕に歸らんことを庶ふ」
  ↓↑
 墓誌の概訳
 姓は井
 字(あざな)は真成
 国は日本と号す
 天賦の才能が認められ
 選ばれて国命で
 遠国の
 日本から
 唐朝にやってきた
 衣冠束帯を着けて朝廷に上った様子は
 堂々としていた
 ところが思わぬことに
 一生懸命
 勉学に励み
 学業がまだ終わらない中で
 急に病気になり
 開元22年(734年)の1月に
 官舎で亡くなった
 36歳だった
 皇帝は大変残念に思い
 特別な扱いで詔を出して
 尚衣奉御を追贈し
 葬儀は公葬にした
 2月4日
 萬年県の郊外
 滻水東岸の原に埋葬することにした
 体は異土に埋葬されたが
 魂は故郷に帰るにちがいない
 「氣賀澤保規・中国史
ー-↓↑ー-
  伝説の遣唐使
  井  真成
  い  まなり
  意  真名理・・・?
  意  真菜莉・・・?
  意  真魚利・・・?
  ↓↑
  委  申 請・・・?
  ヰ  シンセイ
  ゐ
  伊
  ↓↑
  井=廾+一
    ナ+丨 
    二+丿+丨
    一+一+丿+丨
    ショウ
    セイ
    い
    いげた(井桁)
    いど(井戸)
    まち・人の住んでいるところ
    井戸の周りに
    人が集まり住むことから
    地面に穴を掘り
    地下水を汲んだり
        汲み上げたりするもの
    「井の中の蛙
    川や泉などで
    生活のための水を汲む場所
   「山の井」
    易(エキ)の六十四卦の一
    二十八宿の一・ちちりぼし
    青天井=青空・空を天井にたとえた・野天
    井桁=井の形に組んだ井戸の縁
    井筒=井戸の地上部分を囲っている部分
       中に落ちないようにするため
       木や石などの材料で
       井戸の穴を囲ったモノ
    井戸=地面を深く掘って
       地下水を汲み上げ
       用水として利用するための施設
    井戸端=井戸に近い場所・井戸のほとり
        井戸端会議
  相碁井目(アイゴセイモク)
   人それぞれの実力の差
   何をするにも差ができ
   囲碁の腕前にたとえた
  雲竜井蛙(ウンリヨウセイア)
   地位や知恵の格差の大小
   大空を翔る竜
   井戸の中にいる蛙
   竜は地位や知恵が高いこと
   蛙は低いこと
  甘井先竭(カンセイセンケツ)
   才能がある人ほど、衰退するのが早い
   「甘井」=うまい水の出る井戸
    うまい水が出る井戸は
    人がより多く集まるために
    水がなくなるということから
    「甘井先ず竭(つ)く」
         竭(かれる)
         竭(ことごと)く
         竭(つ)きる
         竭(つ)くす
         竭=立+曷
             曷=日+匃
               日+勹+亾
               日+勹+人
           立+日+匂
           立+日+匃
           立+日+勹+匕
           立+日+勹+亾
           立+日+勹+人
           カツ
           出し切る・なくなる
           水がつきはてる
           ことごとく
           もちあげる・高くかかげる
  ↓↑ 
  橘井杏林(キッセイキョウリン)
   医者の美称、敬称
  市井之徒(シセイのト)
   普通の人・素行の悪いならず者
   「市井」=町の共用の井戸
        井戸の周りに町を作ってた
        人家が集中している場所
        「徒」=多くの人々
  井蛙之見(セイアのケン)
   広い世間を知らず
   狭い見識にとらわれていること
   井の中の蛙、大海を知らず
  ↓↑
  渇に臨みて井を穿つ=慌てても間に合わない
   喉がかわいてから井戸を掘っても手遅れ
  坎井の蛙(カンセイのア)
   考えや見聞が狭く
   広い世界があることを
   知らない人を嘲笑する言葉
  井底の蛙(セイテイのア)
   見識や知識が狭く
   他に広い世界があることを
   知らない人を嘲笑するコトバ
   天井から目薬
   じれったくて、もどかしいこと
   回りくどくて効果のないこと
   二階から目薬
  ↓↑
  名字では
    井(わかし)
  阿 井  =あい
  相 井  =あいい=そうい=そおい
  阿 井 川=あいかわ
  青 井  =あおい
  阿迦井  =あかい=あがい
  今 井(いまい)
  新 井(あらい)
  平 井(ひらい)
  福 井(ふくい)
  大 井(おおい)
  萬 井(まんい・よろずい)
    井 戸
    井 上
  桂 井
  蔓 井
  藤 井寺
  葛 井寺(ふじいでら)
    
  大阪府
  藤井寺市
  藤井寺
  真言宗御室派の寺院
  聖武天皇より
  古子山
  葛井寺紫雲山金剛琳寺)
  の勅号を得た
  葛井連の前身
  「白猪氏」
  は百済
  「辰孫王」の後裔
  「王辰爾」の甥である
  「胆津」を祖とし
  『日本書紀』によれば
  吉備国
 「白猪屯倉
  の田部の丁を定めた功績により
 「白猪氏」・・・白猪=伊吹山の「白猪」神
  の姓を賜った・・・
  奈良時代
  養老四年(720年)
 「白猪氏」は
 「葛井連(藤井連)(ふじいのむらじ)」
 に改姓
 「葛井(ふじい)寺」は
 一族の
 「葛井連(むらじ)広成」が創建した・・・
 「葛井一族」
  からは
 「大安寺」僧である
 「慶俊」が出ている
 ↓↑
 大同元年(807年)
 「葛井氏」の出身である
 「藤子(葛井連道依娘)」
 と
 「平城天皇
 の間に生まれた皇子
 「阿保親王」・・・阿(おもね)て保(たも)つ
 によって再建
 「阿保親王
 の皇子
 「在原業平
 が奥の院を造営
 本尊千手観音坐像は奈良時代の作品
  ↓↑
  山号 紫雲山
  本尊 日本最古の十一面千手観世音菩薩(千手観音)
  聖武天皇勅願寺
  神亀二年(725年)に創建
  開山 行基
  西国三十三所第五番札所
  真言 おん ばざら だらま きりく そわか 
  ご詠歌 参るより
      頼みを
      かくる葛井寺
      花のうてなに
      紫の雲
  ↓↑
  藻 井=?
      ペルシャ絨毯の絵柄を
      天井に張り付けたような感じの
      建築装飾構造・・・?
      古くから中国の木造建築の装飾技術
      鉄の釘を使わずに
      深い感覚の藻井を積み上げる
      藻井の2つの形状
      円形の藻類井戸
      四角形の藻類井戸
      原文網址
      https://kknews.cc/other/k2r86bb.html
  ↓↑
 葛井氏説
 井上氏説
 帰化人の末裔、井上氏の一族
 葛井氏なら一字にする
 「葛」姓にするハズ・・・
 葛井氏は
 720年(養老四年)
 に下賜された姓(『続日本紀』)で
 「井 真成」
 がその3年間に唐に派遣された事実との年代的矛盾
 「井上忌寸」
 「葛井連」
 は同じ
 河内国
 志紀郡を拠点とする
 渡来系氏族
 「情 真誠」説
 「井」姓
 唐の時代から
 長安周辺の
 古代の周原地区
 (陳西省
  岐山県
  扶風県)
 に集中的に多い姓
  ↓↑
 高級官吏説
 「717年の留学生ではなく
  733年の遣唐使の随員(高級官吏)」
 唐の制度では
 官立学校の在学期間は最長9年までで
 「17年間留学した」
 ハズがない・・・
 日本が遣唐使を送ったのは
 20年に1回程度
 頻繁に遣使した新羅などとは異なり
 次の派遣で帰国するまでは
 残留が認められた・・・
  ↓↑
 死後追贈された役職
 「尚衣奉御」
 皇帝の衣服を管理する部門の
 責任者で従五品上の官
 新羅の例から
 元の官位より一階進めて遺贈
 「井 真成」
 は従六位下と推定
 遣唐使使節の随員の
 「准判官」
 となり日本記録には残らず
 遣使仮増位で従五位下とされ
 死に際し一階上の
 「尚衣奉御」が遺贈
  ↓↑
 「井 真成」
 の死は皇帝に報告され
 葬儀の費用は唐政府が負担
 三等官以上の外国使節に対する扱い
  ↓↑
 入唐間もない
 「尚衣奉御」の遺贈に合った身分ならば
 日本でも高級官吏
 遣唐使節での死去なら
 日本側の記録に残らないことはなく
 留学生として同行し
 「阿倍仲麻呂
 のように唐朝官吏に抜擢されたが
 若くして客死して昇任せず
 唐側の記録には残らなかった・・・
  ↓↑
 「井 真成」
 が死んだ場所が
 短期滞在外国使節用の宿泊所の官第(かんてい)で
 「井 真成」
 が唐朝にとって客だった・・・
 長安在住の唐代官人は
 自宅から通勤するのが通例である
ー↓↑----
 天平六年=734年
 干支 甲戌
 唐  開元二十二年
 ↓↑
 元正上皇
 聖武天皇
 ↓↑
 知太政官
 舎人親王
 ↓↑
 左大臣
 欠員
 ↓↑
 右大臣
 藤原武智麻呂(2/23-)
 ↓↑
 大納言
 藤原武智麻呂(-2/23)
 ↓↑
 中納言
 多治比県守
 ↓↑
 参議
 藤原房前
 藤原宇合
 藤原麻呂
 鈴鹿
 葛城王
 大伴道足
 ↓↑
 2月4日
 出羽柵を秋田村高清水岡(秋田市)へ移設
 5月14日
 畿内七道に地震
 8月10日
 初めての相撲節会の記録
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 8月15日
 地震による
 世情不安で天下に大赦
 12月30日
 日食
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 唐王朝
 唐室
 李氏の高祖・太宗・高宗三代
 の
 母(女系)はすべて
 鮮卑
 唐室李氏男系
 漢人の名門貴族
 隴西李氏
 「李耳(老子)」
 の子孫と自称
 『晋書』
 西涼の初代王
 「李暠」が遠祖
 西魏末年
 唐室李氏は
 西魏より
 大野(ダイヤ・おほの)
 という
 鮮卑姓を与えられ
 一時的にこの姓を名乗った
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 建国         618年6月18日
 突厥を服属させる   630年
 高句麗を滅ぼす    668年
 武則天の簒奪(武周) 690年~705年
 タラス河畔の戦い   751年
 安史の乱       756年~763年
 黄巣の乱       874年~884年
 滅亡 五代十国時代へ 907年6月1日
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 712年(先天元年)
 李隆基(玄宗)は
 睿宗から譲位され即位
 翌年、太平公主を処刑
 玄宗の治世前半
 「は開元の治」
 唐の絶頂期
 唐の羈縻支配
   冊封政策
 751年
 トランスオクシアナ
 の支配権を巡って
 アッバース朝
 タラス河畔の戦い
 に敗北
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 玄宗
 宰相の
 李林甫
 貴妃の一族
 楊国忠
 の専横
 楊国忠
 節度使
 安禄山
 と対立
 755年
 「安禄山の乱
 節度使玄宗が増加した官職
     辺境に駐留する藩師に
     軍事指揮権
     一部の行政権を与えた制度
 北方3州の節度使を兼ね大軍を握った
 安禄山
 華北を席巻
 洛陽を陥落させ
 大燕皇帝
 と称した
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 長安を占領され
 玄宗
 蜀に逃亡
 途中で
 楊貴妃
 楊国忠
 は誅殺
 玄宗
 粛宗に
 譲位
 763年
 名将
 郭子儀らの活躍や
 回鶻(ウイグル
 の援軍(太子の葉護ら)によって
 乱を平定
 安禄山
 と
 史思明
 の名をとって
 「安史の乱
 軍事力増強のため
 藩鎮を増やした結果
 内地の節度使も増加
 五代十国時代まで
 各地に節度使が置かれた状態は続いた
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 中興の祖
 憲宗
 中央の命令に服さない節度使を討伐
 後
 不老長寿の薬といわれた
 丹砂(水銀)をはじめ怪しげな仙薬を常用
 精神に不安定をきたして
 宦官をしばしば殺害
 恐れた宦官により殺された
 孫の
 文宗
 は権力を握った宦官を誅殺しようと
 「甘露の変」と呼ばれる策略を練ったが失敗
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 ・・・???・・・
 (表紙・画像・音楽)」の
  移転先・・・
https://haa98940.wixsite.com/mysite/blog/archive/2016/12
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 ボクの「古事記字源」の発端・・・
https://haa98940.wixsite.com/mysite/blog/archive/2022/8
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 干支歴

http://meisiki.bake-neko.net/keisanBXG4.html
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 追加添文
 「戦争と平和」・・・「モウケの生き方」
https://haa98940.wixsite.com/mysite/single-post/2006%E5%B9%B4%EF%BC%91%EF%BC%91%E6%9C%88%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%8E%E9%A0%83%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%83%BB