ないえごろうブログ

同音異義の探索

ふぇにっくす・ごーすと・・・神風ドローン・・・

 文字霊日記・3203日目

 「映画」や
 「小説」、「物語」、「漫画」を観るように
  過去の記録
 「歴史」
  を傍観するわけにはいかない・・・

 「歴史」は
 「事実・事件」の
  記録言語を
  膨張、萎縮の多寡の形容で修飾し
  欠(闕)落、歪曲して
 「加減乗除
  させた文言文章の
 「創作作文・妄想作文・空想作文・感想作文」
 「物語」でも「小説」でもない
  ↓↑
 「現代史」って何なんだ?
  現時点から振り返れば
  すべて
 「過去の事実的出来事=事実的事件」だが
  一秒、一分前に・・・
 起きた「事実、事件」の「認識」としての
 「5W(何時・何処・何者=何物・何事・何故)」としての
 「時系列の記録」である
 現代の
 「記録的手段=録音・録画・写真・映像」は多々あるが
 それらの記録、表現、創造されたモノを
 「事実」として理解する
 「1H(How・どの様に)」は
 ジャンルとして認識された分別、区別し
 享受する個々人の「相互共通理解」の
 「音声」or「文字」としての
 「共通なコトバ」が必要である・・・
 だが
 「共通言語」として
 「共通理解」されるかどうかは・・・???
 今現在に理解されている
 「Word(ワード)」・・・・・・・・・・話蛙努?
 「language(ランゲージ)」・・・・・・覧解絵字?
 「vocabulary(ボキャボラリィ)」・・・簿脚模拉理意?
 「一言語」
 「一文字」
 には、時代的な「誤解使用・歪曲使用」もあり
 多数の意味、意義が纏わりつき
 元々の意義が消失してしまッテイルものもアル
 記録されるモノには
 時代の権力に
 「阿=おもねる=忖度する=阿(ア)」
 も
 「改竄」・・・竄=宀+鼠=宀+臼+瓜(爪?厂ム乀)+⠅+⠅
         =宀+臼+㇙+⟘+丶(丨+_+ヽ)+⠅+⠅+㇂(乚)
         =宀+臼+𠄌+ム+⠅+⠅+㇂(乚)
          ㇂=尻尾?
          ⵆ・⼎・︔・︓・¦・;」
 されるモノもある

  ↓↑
 プーチン
 「人殺し」を続けている・・・
 「8月15日」は既に過ぎ去った・・・
 だが敗戦も終戦も無い
 ロスケのウクライナ侵略は終わらない・・・
 だがいつまでも
 「モスクワの地下」
 で安眠できると思うなョッ・・・
 殺人鬼の領袖
 プーチン、ラブロフ・・・くたばれ・・・
  ↓↑

 「drawn =drawの過去分詞形・やつれた・緊張した・引き分けの」
 「UAV=無人機を意味するUnmanned Air(Aerial) Vehicleの略称」
 「マルチコプター=無人ヘリコプター」
 英語
 「drone = 雄バチ・特に雄のミツバチ(蜜蜂)」
 「drone=外来語・元々はオスの蜂(ハチ)を指す言葉」
  新型自爆ドローン=神風ドローン
 「フェニックスゴースト(Phoenix Ghost)」
 「フェニックスゴースト(Phoenix Ghost)」
  ↓↑
 「ロシア侵略占領地を攻撃」しているらしい・・・
 くたばれ、プーチン
 「フェニックス(Phoenix)」
 と名付けられた
 「drone=オスの密蜂(ハチ)」
 ・・・「ドローン(drawn)」・・・?

  ↓↑
 「ベンヌ」・・・弁努(濡=氵+需=氵+雨+而)
 エジプト語の「不死鳥=ベンヌ
 「アトゥム・ラー・オシリス」の魂
 長い嘴をした黄金色に輝く「青鷺(アオサギ)」
 or
 爪長鶺鴒=赤と金の羽の鷲
      鷺(サギ)の頭をした人間=詐欺師?
 「ベンベンの丘」で
 「ベンヌ(不死鳥)」が
 「タマゴ(卵)であった太陽」
  を抱いて暖めて孵化させた
 「ベンヌ」=ホルス、フェニックスの原型
 「立ち上がる者(ウェベン)」が由来
 「鮮やかに舞い上がり、そして光り輝く者」
 「ラーの魂」
 「自ら生まれた者」

ー↓↑---
 煬帝=楊広(本名)=英(別名)=阿𡡉(小字)
 天和四年
 (569年)
 ~
 大業十四年三月十一日
 (618年4月11日)
 ↓↑
 645年の
 斯盧(シロ・サロ・さら)・・・沙羅(さら)・・・?
  ↓↑  ↓↑
  鸕野  讃良(さら)=持統天皇
  諱 鸕野 讚良
   (うののさらら
    うののささら)
    「娑羅羅 馬飼造」が養育・・・?
  和風諡号
  『続日本紀
  703年(大宝三年)十二月十七日
  火葬
  「大 倭  根子天 之廣 野日女 尊」
  (おほやまとねこあめのひろのひめのみこと)
        ネコ=猫・・・高宗の「蕭淑妃」
       ネズミ=「則天武后」=武照=鼠=子
ー↓↑---
 高宗=唐の第3代皇帝
    太宗の第9子
    母 鮮卑の拓跋出自の
      長孫無忌の妹の
      長孫皇后
 在位
 貞観23年6月1日~弘道元年12月4日
 (649年7月15日~683年12月27日)
 都  長安
 姓  李
 諱  治
 字  為善
 小字 稚奴
 諡号 天皇・・・天皇
    大聖
    大弘孝皇帝
 廟号 高宗
 生年
 貞観2年6月15日
 (628年7月21日)
 ~
 弘道元年12月4日
 (683年12月27日)
       大運673年8月(45歳)甲子偏財
        ~
       大運683年8月(55歳)乙丑正財    
 戊┏子(壬 癸)偏印・傷官 死⇔癸未傷官
 己┏未(丁乙己)印綬印綬冠帯⇔甲子偏財
 庚 寅(己丙甲)  ・偏財 絶⇔丁巳正官
 壬┗午(丙 丁)食神・印綬沐浴⇔丙午偏官
   午未空亡
 ↓↑
 父  太宗(第9子)
 母  文徳皇后長孫氏
 后妃 王皇后(廃位)
    武皇后(武則天則天武后)・・・鼠
    蕭淑妃(廃位)・・・・・・・・・猫
 ↓↑  ↓↑
    徐婕妤(唐太宗賢妃徐恵の妹)
    劉宮人・鄭宮人・楊宮人
 ↓↑  ↓↑
    韓国夫人 武順・・・・韓国の夫人?
        (武則天の姉妹)
    魏国夫人 賀蘭氏・・・魏国の夫人?
        (武則天則天武后の姪
         武順の娘)
 ↓↑
 陵墓 乾陵・・・乾=戌亥=狗(犬)猪=北北西
 年号
 永徽650年~655年
 顕慶656年~661年
 龍朔661年~663年
 麟徳664年~665年
 乾封666年~668年
 総章668年~670年
 咸亨670年~674年
 上元674年~676年
 儀鳳676年~679年
 調露679年~680年
 永隆680年~681年
 開耀681年~682年
 永淳682年~683年
 弘道683年
ー↓↑---
  鸕野  讃良(さら)=持統天皇
  諱 鸕野 讚良
   (うののさらら
    うののささら)
  『日本書紀
  720年(養老四年)
  「高 天 原 廣 野姫  天皇
  (たかまのはらひろのひめのすめらみこと)
  ↓↑          ↓↑
  新羅         斯盧
 「しんら・しら」・・・「さら・さろ・しろ」
 と発音するのが一般的
 「城=き」の意味を語尾に付し
 「しらぎ」・・・「しろき」
 新羅建国
 辰韓(シンカン)
 斯盧(しろ・さろ)国
 新羅(シンラ・しらぎ)
 「三国史記
 「奈勿(なもつ)王」
 即位年
 新羅建国期
 六部(ろくぶ)の統合の
 貴族連合体制の時期
 ↓↑
 「キョンジュ(慶 州)」市
       ケイシュウ
 ↓↑
 韓国
 慶尚北道
 南東部に位置する市
 「テベク(太白=タイハク)山脈」
 と
 「トハム(吐含=トガン)山地」
 に挟まれた盆地に位置
 「辰韓=斯盧国」の地
 三国時代
 統一時代
 「新羅の王都」
 高麗時代
 「トンギョン(東京)」
 李氏朝鮮(朝鮮王朝)
 「観察使営」設置
 「ヨンナム(嶺南)地方」
 行政、文化の中心地
 1661年
 「観察使営」
 が
 テグ(大邱直轄市)に移った
 「武烈王」の王陵など多数の古墳
 仏教の史跡、文化財も多
 仏国寺・石窟庵
ー↓↑---
 新羅(前57年~935年)
 「斯蘆(しろ、サロ)」
  斯=其+斤
    卄+一+八+斤
    一+丨+八+斤
    シ
    かかる
    かく
    この
    これ
    きる・切りさく・切り離す
   「この・これ・ここ」
    近くの物事を指し示す意
   「かく」
   「このように」の意
   「すなわち」
   「~であれば~となる」
   「~したら~する」
   ↓↑
   蘆=艹+盧=芦=艹+戸=艹+㇒+尸
     艹+虍+田+皿
     艹+卜+丿+乛+七+田+皿
     ロ
     あし・・・蘆名=芦名・葦名・足名・蘆品
     よし
     イネ(稲)科の多年草
 ↓↑
 「斯蘆(しろ・サロ)」・・・「さら」?
 と称していたが
 503年
 「新羅(シンラ・しらき・しらぎ)」
 を正式な国号とした
 ↓↑
 朝鮮半島北部  高句麗
   半島南西部 百済
   半島東南部 新羅
 ↓↑
 7世紀中頃まで
 朝鮮半島中部以南をほぼ統一
 高麗
 李氏朝鮮
 の半島国家の祖形
 「高麗」
 に降伏し滅亡
 ↓↑
 三国時代(7世紀中盤まで)
 新羅高句麗百済
 ↓↑
 統一新羅時代(668年~900年)
 新羅の半島統一
 「新羅」+「渤海」・・・南北国時代・・・?
        燕國=公孫淵=公孫一族
            ・・・皇孫・神尊
             コウソン=功存
             幸村(眞田)
             神州=信州=長野
 信州=信濃国の別称=長野県
    中国大陸の地名=信州 (四川省) =重慶市北東部
    南朝梁・隋によって設置
    信州 (河南省)=河南省・周口市
 ↓↑
 後三国時代(10世紀)
 新羅から
 後高句麗
 後百済
 が分裂
 ↓↑
 史実性
 4世紀
 第17代
 「奈勿王」以後
 ↓↑
 6世紀中頃
 半島中南部
 「加羅諸国
 を滅ぼし配下に組み込む
 唐
 と
 新羅
 が同盟
 ↓↑
 660年
 「唐・新羅連合軍」
 が
 百済を滅ぼし
 ↓↑
 663年
 3月 阿倍比羅夫ら、新羅征討のため出発
 6月 百済の余豊璋、鬼室福信を斬り首級を塩漬け
 10月5日(天智天皇二年八月二十八日)
 「 白村江の戦い
 唐・新羅連合軍vs百済・倭連合軍
 倭国水軍壊滅
 10月13日(天智天皇二年九月七日)
 百済が降伏
 半島難民が日本へ逃亡
 唐 「単于都護府」を
   「雲中」に設置・・・「雲中」?

  単于-都護府(ゼンウ-トゴフ)
 唐代の「六 都護府」の一
 ↓↑
 内蒙古
 「突厥(トッケツ)=突厥 (552~744)」
 アルタイ山脈を本拠地
 トルコ系遊牧騎馬民族の国家
 当初は、柔然に服属
 6世紀頃
 アルタイ山脈
 鉄と製鉄技術と交易の利益を背景に
 大帝国
  ↓↑
 「突厥(トッケツ)」
    ・・・厥(まげる)⇔蕨(わらび)
       厥=厂+欮
         厂+屰+欠
         厂+䒑+屮+丿+乛+人
         厂+丷+一+凵+丨+丿+乛+人
         クツ・ケツ
         その・それ
         石を掘る
         まげる(曲げる)・くぼむ(窪む)
         ぬかずく(額ずく)=丁寧なお辞儀
         のぼせる・嘔吐する
       厥角稽首(ケッカクケイシュ)
        礼儀正しく、心のこもった敬礼
        「厥角=稽首」=地面に頭を着けてする礼
 ↓↑
 などの諸部族を統治するため
 650年に設置
 664年に「雲中都護府」から改称され
 テュルク系の部族の
 「薛延陀 (セツエンダ)」
 が滅亡し
 唐は
 外モンゴル
 「鉄勒」
  諸部族に
 「六都護府・七刺史(シシ)州」・・・刺史(シシ)
 設置
 オルドスの北辺に
 「燕然-都護府」・・・燕(つばめ)然(しかるべき)?
 を設置
 「都護府・刺史」らによって
 中国王朝の脅威
 北方遊牧民族 に対して備えた
 突厥の部族には
 649年
 「雲中-都督府」
 「定襄-都督府」
 を設置
 663年
 「燕然-都護府
 を
 「瀚海-都護府
 と改名し、その統治を
 外モンゴル地域に移した
  ↓↑
  瀚=氵+翰
   氵+龺+人+羽
   氵+十+日+人+羽
   カン
   ひろい・大きい・広大
   翰=龺+人+羽
     十+日+人+羽
     カン
     てがみ
     とぶ
     ふで・ふみ・みき
     山鳥の名
     羽・鳥の羽
     高く飛ぶ
     白い・白い馬
     はしら(柱)・みき(幹)
 白瀚=しらなみ
  瀚(ひろ)い
 浩瀚=書物の巻数や頁数
    数量が非常に多いこと
    大部
 載籍浩瀚(サイセキコウカン)
  沢山の書物があること
 「載籍」=書籍・書物
 「浩瀚」=巻数が多い
 ↓↑
 668年
 高句麗を滅ぼし
 三国を統一
 後
 唐が
 朝鮮全土を
 「藩属国化」し
 「都督(総管)府」=唐属国化の
           軍事、行政、監督機構
 旧
 百済領  熊津 「都督府」・・・熊=ユウ=邑=酉
 新羅   鶏林州「都督府」・・・鶏・雞
 高句麗領 安東 「都護府」・・・安藤・阿藤
 ↓↑
 朝鮮半島
 熊津都督府…顕慶5年(660年)
       百済を滅ぼしその旧域に設置
 鶏林州都督府…龍朔3年(663年)4月
        新羅の版図に設置
        新羅王の文武王を
        鶏林州大都督に任命
 安東都護府…総章元年(668年)9月
        高句麗を滅ぼし平壌に設置
        朝鮮北部および満州を支配
       上元3年(676年)2月
        新羅高句麗遺民との
        抗争に敗退し
        遼陽へ後退
        儀鳳2年(677年)
        新城に移転
        697年
        大祚栄との抗争の影響で廃止
        神龍元年(705年)
        大祚栄との和解で再び設置
        「安史の乱
        で再び廃止
        都護府
       「都護府・都督府」=唐の侵略した
                 各地に置く
                 占領機関の名称
 ↓↑     ↓↑
        天智紀六年閏十一月
       「十一月丁巳朔乙丑
        百済鎮将
        劉仁願
        熊津 都督府
        熊山県令
        上柱国
        司馬法
        等を遣して
        大山下・・・大山の下
        境部連・・・国境の辺の連
        意志積・・・石積り?
        等を
        筑紫
        都督府・・・都・督・府
        に送る」
 ↓↑  ↓↑
     水城=唐占領軍によって攻略された残骸
        唐占領軍の防塁として
        後から造営・・・?
 ↓↑
 九州
 大宰府  都督
     「都督府-古址」
      乙金村(大野城市乙金)
      大庄
     「高原善七郎」
      明治四年
      に自費で
     「都督府-古址」の碑を建立
     「高原善七郎」
      は太宰府周辺の
      文化財の調査・保存・顕彰に努めた
      白村江の敗戦後
      天智天皇三年(664年)
      唐使来朝
      倭国は辺境防衛の
      防人(さきもり)
      情報伝達
      烽(とぶひ)
      を
      対馬島壱岐島筑紫国
      に配備
      筑紫国に水城
      筑紫国大野城
      大宰府防衛のため築城
 ↓↑   ↓↑
      太宰府天満宮-都督
      大宰権帥=実質的な大宰府の長官  
      福岡県太宰府市宰府(さいふ)神社
      旧官幣中社
      神社本庁別表神社
      紋は梅紋
      菅原道真(菅公)を祭神の天満宮の一
      901年
      大宰府に左遷
      2年後に死亡
      30年ほどの間に
     「道真謀反」にかかわった
      天皇1人・皇太子2人・右大臣1名
      その他の高級貴族が死亡
     「怨霊」・・・
      ↓↑
     「遣唐使(検討し)廃止」の意図・・・?
     「日本民族の独立」を断行・・・?
      ・・・
      ↓↑
     「刀伊(トイ)の入寇」
      寛仁三年(1019年)
     「靺鞨=女真=金=満州」・・・?
      の一派集団が
      壱岐対馬を襲い
      筑前に侵攻した事件
      日本に捕虜になった3名
      すべて「高麗人」
      権大納言
      源俊賢は高麗の責任を主張
      『小右記
      海賊の中に
     「新羅人
     「刀伊(トイ)」
      に捕虜になった
     「内蔵 石女」
     「多治比 阿古見
      は高麗軍に救助され帰還
 ↓↑   ↓↑
      725年
      唐の
      安東都護の
     「薛泰」
      は
     「黒水靺鞨に
      黒水州都督府」
      を置き、その首領を
     「都督」とし
      各部部族長を
     「刺史」として
      この地を監督することを奏上
      後に「渤海」が強盛となり、唐が衰微
      その南部の
     「拂涅・虞婁・越喜・鉄利部」
      などは
     「渤海」に併合された
     「契丹」の興隆後
      契丹人は
      彼らを
      「女真(女直)」
      と呼び始め
     「靺鞨」
      の名前は使われなくなった・・・
 ↓↑   ↓↑
     「建州」の統一
      明の武将
     「李成梁」
      遼東一帯を統括
      建州女直
      を
      海西女直
      と争わせ
      彼は
      スクスフ部の
      ニカンワイラン
      ヌルハチ
      を支援
      1587年
      ヌルハチ
      建州女直
      を統一させた
      マンジュ国を建設したヌ
      ルハチは
      明朝が
      豊臣秀吉朝鮮出兵の隙に
      海西女直を撃破
      女真族を統一し
     「後金」
      を建国
 ↓↑
 唐が
 「吐蕃
 と戦争
 ↓↑
 新羅
 と
 高句麗遺民軍が反乱
 ↓↑
 670年3月
 「唐・新羅戦争」
 6年続いた後
 新羅が勝利
 唐は
 熊津 都督府
 安東 都護府
 を
 遼東に移し
 朝鮮半島から撤退
 新羅朝鮮半島中南部を統一
 首都
 「金城(慶尚北道慶州市)」
 ↓↑
 9世紀末
 旧「百済高句麗
 が復興
 後百済
 後高句麗
 となり鼎立
 後三国時代
 ↓↑
 その後
 後高句麗から起こった
 「高麗」
 に帰順して滅亡
 ↓↑
 新羅の歴史
 『三国史記新羅本紀・敬順王紀
 上代
 始祖から
 第28代
 真徳女王末年(654年)まで
 ↓↑
 中代
 第29代
 武烈王(金春秋)即位から
 第36代
 恵恭王末年(780年)まで
 ↓↑
 下代
 第37代
 宣徳王から滅亡まで
  ↓↑
 「斯蘆」=日本語  では「しろ」
      朝鮮語  では「サロ」・・・サラ・サル
      漢字上古音では「シラ」・・・シリ・シル
   ↓↑
  「さぁ・しぃ・すぅ・せぇ・そぉ」
   +
  「ラァ・リィ・ルゥ・レェ・ロォ」
 ↓↑
 万葉集=「新羅奇」
        奇=大+可=竒=亠+ハ+可
          大+丁+口
          大+一+亅+口
          キ
          あやしい
          くし
          めずらしい
          変わっている
          すぐれている・非凡
          不思議
          くしくも
          思いがけない・予想外
          二で割り切れない=奇数
          不運・運に恵まれない
 出雲風土記=「志羅紀」
         記紀古事記日本書紀
       「新羅城」の意味・・・?
 「辰韓
 朝鮮半島南東部の
 辰韓十二国のうちの
 斯蘆国
 「新羅本紀」
 建国
 前漢
 孝宣帝
 五鳳元年、甲子年
 紀元前57年・・・
 『三国史記
 著者の
 「金富軾」
 慶州出身で
 新羅王家の一族だが
 高麗王家に仕え
 平壌が高麗から独立した反乱を鎮圧し
 武勲を上げた人物
 ↓↑
 『三国史記
 新羅建国年
 紀元前57年
 『漢書』等の記録によれば
 紀元前108年
 漢の
 武帝
 朝鮮半島
 漢四郡を設置
 昭帝が
 紀元前82年
 朝鮮半島南部の
 真番郡を廃止
 『三国史記
 慶州盆地に朝鮮
 「箕子(キシ)」
 朝鮮
 からの移民が住む6つの村
 閼川楊山
 突山高墟
 觜山珍支
 茂山大樹
 金山加利
 明活山高耶
 が
 「卵」・・・・「UFO」?
 から生まれた
 「赫居世」
 を王に推戴したのが新羅の始まり
 ↓↑
 新羅の建国神話
 「三姓の王」の交代
 初 代 赫居世 朴氏
 第四代 脱解  昔氏
 第13代 味鄒  金氏
        (始祖は味鄒より数代前の閼智)
 三姓が由来が異なって
 6つの村(新羅六部の前身)
 が関わる建国神話
 ↓↑
 朴氏の始祖説話
 朴氏の初代
 赫居世(赫居世=居西干)
 辰韓の六村の長の一人が
 蘿井(慶州市塔里面)の林で
 馬の嘶くのが聞こえ近寄ったところ
 馬が消えて大きな
 「卵」があった
 「卵」を割ると中から
 幼児が出てき
 10歳を越えた頃
 六村の人たちは彼を王位につけた
 「卵」
 が
 「瓠(ひさご)」
  瓠=夸+瓜
    大+亏+瓜
    大+一+丂+瓜
    大+二+瓜
    カク
    コ
        ひさご
    ふくべ
    ひょうたん
    瓢・瓠・匏(ひさご)
    瓠・瓢(ふくべ)
   「瓠落(カクラク)」
    丸く中が空虚なさま
 ↓↑
 瓠(ひさご)
 ほどの大きさで
 「辰韓
 の語で
 「瓠」を表す
 「朴」を姓とした
 ↓↑
 紀元前57年
 13歳で王位(居西干)に就き
 国号を
 「徐那伐」
 とした
 ↓↑
 閼英井(南山の北西麓の羅井)
 に龍(娑蘇夫人)が現れ
 その左脇(『三国史記』では右脇)
 から生まれた幼女が長じ
 容姿端麗にして人徳を備えていたので
 「赫居世」
 は彼女(閼英夫人)を王妃に迎えた
 人々は赫居世と閼英夫人とを
 二聖と称した
 『三国遺事』
 赫居世と閼英夫人はともに
 中国から
 辰韓に渡来した中国の王室の娘
 「娑蘇夫人」の子・・・
 『三国史記』敬順王条末尾
 編者
 金富軾
 が中国の接待官から
 類似の話を聞いた記録が残されている
 「赫居世」
 の臣下には
 倭国から来たとされる
 倭人
 「瓠公」がおり
 辰韓が属国であると主張する
 「馬韓王」
 に対峙させた・・・
 ↓↑
 昔氏の始祖説
 初代
 脱解(第4代脱解尼師今)
 『三国史記
 「倭国 東北一千里の
  多婆那国(但馬・丹波地域)
  の王妃が妊娠後
  7年たって大きな卵を生んだが
  多婆那王は不吉であるとして
  卵を捨てるように命じた
  王妃は捨てるに忍びず
  絹の布で卵を包み
  宝物と共に箱に入れ
  海に流した
  その後
  金官国に流れ着いたが
  金官国の人々は警戒し
  これをとりあげなかった
  次いで
  辰韓
  阿珍浦
  に流れ着き
  そこに住んでいた老婆が箱を拾って開けると
  中から一人の男の子が出てきたので
  育てることにした
  ↓↑
  姓氏がわからなかったので
  ある人が
  箱が流れ着いたときに
  鵲(カササギ
  がそばにいたので
  鵲の字を略して
 「昔」を姓とし
  箱を開いて生まれ出てきたことから
 「脱解」
  と名付けた
 「脱解」は
 「瓠公」の邸宅を見て
  吉兆の地であると判断し
  相手を騙して土地を取り上げ
  これが後の
  新羅の拠点である
  月城になった
  新羅の第2代王
  「南解」
  は
  「脱解」
  が賢者であるのを見て
  娘(阿孝夫人)を与え
  第3代の
  儒理王は死に際して
  脱解に後事を託し
  脱解が王となった
 ↓↑
 金氏の始祖説
 始祖
 金閼智
 第13代
 「味鄒(味鄒尼師今)」
 の7世祖
 脱解の治世に
 首都
 金城の西方の
 始林の地で
 鶏の鳴き声を聞こえたので
 夜明けになって
 瓠公に調べさせたところ
 金色の小箱が木の枝に引っかかって
 その木の下で
 白い鶏が鳴いていた
 報告を受けた
 脱解が役人に小箱を回収させ開かせると
 中から小さな男の子が現れた
 容姿が優れていたので
 脱解は喜んでこれを育てた
 長じて聡明であったので
 「閼智(知恵者の意味)」
 と名づけ
 金の小箱に入っていたので
 「金」を姓とした

 合わせて
 始林の地を
 鶏林と改名
 後に金氏が
 新羅王となると
 その始祖である
 閼智にちなんで
 国号も
 鶏林とした
 ↓↑
 新羅の初出記事
 『資治通鑑』巻104・太元2(377年)年条
 高句麗とともに
 前秦朝貢したという記事
 4世紀頃が国家形成・・・
 ↓↑
 4世紀頃
 原三国時代
 弁韓
 辰韓
 考古学的遺物が分化する時期
 朝鮮半島島南部
 洛東江を境にして
 東側は新羅
 西側は伽耶
 476年
 『三国史記』「新羅本紀」
 新羅人は始祖から
 真徳女王までを上代
 武烈王から
 恵恭王までを中代
 宣徳王から
 敬順王までを下代
 ↓↑
 周辺諸国新羅
 377年
 前秦
 への遣使が
 高句麗と共同で
 行われ
 初期の新羅高句麗に対し
 相当程度
 従属的な地位にあった
 382年
 新羅は再度単独で前秦への遣使
 高句麗の承認があった
 新羅は建国初期から
 倭人の脅威にも晒され
 『三国史記』「新羅本紀」
 倭人の侵入があり
 戦いを繰り返していた
 百済
 同調する
 伽耶諸国
 とも対立し
 倭が軍事支援を行っていた
 ↓↑
 韓国で発見された
 中原
 高句麗碑などの発掘史料
 広開土王碑など多くの史料
 新羅高句麗の属民とし
 朝鮮半島で行われた大きな戦い
 高句麗
 百済を「属民」としていたが
 391年
 倭国
 が
 百済新羅
 を「臣民」としたため
 出兵し倭軍を撃退
 その戦いの中
 400年頃
 新羅の王都が
 倭軍に占領され
 高句麗
 新羅に出兵し
 倭軍を蹴散らし
 「任那加羅」まで追った
 広開土王碑文
 『三国史記
 『日本書紀
 にこれらと対応する記録として
 新羅
 高句麗
 倭の両方に
 王子
 宝海(卜好)
 美海(未斯欣)
 を人質として送った
 中原
 高句麗碑は
 高句麗
 新羅領内で人夫を徴発
 碑文は
 高句麗王と
 新羅寐錦(王)の関係を
 兄弟に擬制
 高句麗王を兄としている
 ↓↑
 新羅
 高句麗からの自立
 5世紀の半ば頃
 450年
 新羅高句麗の辺将を殺害
 高句麗新羅征討を計画
 新羅が謝罪し
 一旦問題は収まった
 454年
 高句麗
 新羅領に侵入して戦闘
 翌年
 高句麗百済の戦いで
 百済へ援軍を送る
 新羅は次第に
 高句麗に対し
 自立を明確にしていった
 ↓↑
 新羅の発展
 西暦500年
 即位の
 智証麻立干(在位:500年-514年)
 国号
 新羅とし
 王号を旧来の
 「麻立干」から
 「王」へと変更
 503年
 日付を持つ
 『迎日冷水碑』
 で
 「智証(至都蘆)」が
 「葛文王」を称し
 524年の日付を持つ
 『蔚珍鳳坪碑』
 法興王(在位514年~540年)
 「寐錦王」と称していることから確認
 ↓↑
 智証王の跡を継いだ
 法興王は更なる改革を続け
 520年
 「律令」を発布
 独自の官位制を制定
 140年ぶりの
 中国(南朝、梁)への遣使
 522年
 大伽耶(高霊)
 と婚姻
 532年
 伽耶地方の
 金官国を降伏させ併呑
 536年
 独自年号
 「建元」を制定
 527年
 仏教を導入
 「法興」
 の名はこの業績にちなむ
 王は廃仏派の群臣たちと対峙し
 処刑された
 異次頓
 侶阿道
 とともに新羅仏教の三聖人に数えられている
 「法興王」
 ↓↑
 真興王(在位540年~576年)
 高句麗と争い
 551年
 小白山脈を超え
 高句麗の10郡を奪った
 552年
 高句麗
 と
 百済の争いで
 漁夫の利を得る形で
 漢城(ソウル)
 を手中に収めて
 「新州」を置き
 朝鮮半島の西海岸に勢力を伸ばした
 475年
 百濟の
 漢城(ソウル)は
 高句麗によって奪われた都市で
 新羅の行動は
 百済との関係悪化を招いた
 553年
 百済の聖王が率いる軍勢を
 新羅軍が撃破
 聖王を戦死させた
 562年
 伽耶地方の
 大伽耶を滅ぼし占領
 洛東江下流域の
 伽耶諸国が新羅支配下に入った
 王都では仏教の隆盛とともに
 寺院建築、仏教儀礼
 花郎
 と呼ばれる青年組織が制度化

 564年
 北斉朝貢
 翌年
 「使持節東夷校尉楽浪郡公」
 に冊立
 568年
 南朝の陳に朝貢
 独力による
 南北両王朝との外交関係の構築は
 新羅高句麗百済と並んで
 東アジアの中で確固たる地位を確保した
 高句麗
 570年
 初めて
 倭国に使者を送って外交関係の構築を模索
 ↓↑
 589年
 隋が中国を統一
 高句麗百済新羅
 隋に朝貢
 隋と国境を接する
 高句麗
 軍事的圧力を強く受け
 隋の侵攻を受ける
 隋の高句麗遠征は失敗
 王朝は倒れ
 618年
 唐が興った
 新羅
 高句麗百済
 と同じように
 唐から冊封を受けた
 唐は当初三国の和解を促しつつ
 情勢の安定化を試みたが
 640年代
 高句麗への遠征を再び繰り返した
 ↓↑
 642年
 高句麗
 「淵蓋蘇文」
 がクーデターで
 実質的な支配者となり
 唐の侵攻に備えた
 百済では
 義慈王(在位641年~660年)
 即位
 新羅に侵攻
 新羅は敗北
 伽耶地方
 40城余りを失い
 大耶城(慶尚南道陝川)
 失陥の際に
 城主が妻子もろとも殺害
 城主の妻は
 新羅の王族
 金春秋の娘
 「大耶城の役」
 翌年
 高句麗百済が和睦
 倭国とも連携
 新羅は孤立
 新羅
 「善徳女王」
 「金春秋」
 旧金官国の王族に連なる
 「金庾信」
 が結束
 ↓↑
 643年
 新羅
 唐に救援要請したが得られず
 逆に女王を退け
 唐の皇族を
 新羅王に据えることを要求され
 親唐派と反唐派の対立を生じ
 上大等
 「毗曇」
 が女王の廃位を求めて反乱
 「善徳女王」急死し
 「毗曇」の反乱は半月程度で鎮圧
 「金春秋(武烈王)」
 は
 「真徳女王」
 を立てて唐との関係構築を模索
 律令制度を取り入れる改革を始め
 650年
 新羅独自で用いていた年号(太和)を廃止
 唐の年号を用い
 唐との連携を強めた
 ↓↑
 655年
 高句麗
 百済
 から攻撃を受け
 唐に救援と出兵を依頼
 唐は
 658年
 高句麗遠征を行ったが失敗し
 方針を変更し
 百済
 660年に攻撃
 新羅もこれに呼応して百済に出兵
 百済の将軍
 「堦白」
 を撃破
 百済の首都
 泗沘が唐によって攻略
 熊津も陥落
 百済は滅亡
 百済の遺臣は復興を目指し
 倭国高句麗の支援を頼みに
 唐・新羅に対し反乱を起こしたが
 663年
 「白村江の戦い
 で倭水軍大敗
 百済復興は失敗
 ↓↑
 唐は高句麗への攻撃を再開したが失敗
 666年
 高句麗
 「淵蓋蘇文」
 死去
 息子たちが対立
 667年
 唐は
 高句麗に再遠征
 新羅
 文武王(在位661年~681年)
 は唐に呼応して
 30人の将軍と共に
 高句麗に攻め入った
 668年
 唐軍が
 高句麗の首都
 平壌を陥落させ
 高句麗滅亡
 唐軍は
 20万とされる捕虜を連行
 新羅軍も
 7000人の捕虜を得て王都へと戻り
 先祖廟に高句麗百済の滅亡を報告
 ↓↑
 渤海の台頭
 新羅高句麗最後の王
 宝蔵王(在位642年~668年)
 の外孫
 「安勝」を
 「高句麗王=報徳王」
 に封じ
 「高句麗の使者」
 を
 「倭国」に朝貢させた
 以後しばらくの間
 新羅の使者が帯同し
 高句麗使が
 倭国へ送られた
 これは
 新羅
 高句麗を保護下に置いていることを
 外交的に示威
 「報徳王」
 の冊立とともに
 新羅王権の正統性を示し
 唐が設置した
 安東都護府
 に対抗する姿勢を示した
 ↓↑
 新羅
 旧百済領の一部を併呑していたが
 唐は百済故地に置いた
 熊津都督府の都督に
 旧百済王族の
 「扶余隆」
 を据え
 新羅王と会盟を行わせ
 制圧した城や遺民の返還を要求した
 新羅は謝罪使を派遣し
 朝鮮半島全体を
 「羈縻州
 とする唐の論理を逆手にとって
 「百済新羅は共に唐の羈縻州であり
  境界をわかつべきではない」
 と主張して自らの行動を正当化
 670年
 軍事行動を起こし
 旧百済領に侵攻し
 672年
 2度目の謝罪使を派遣
 侵攻と謝罪を繰り返しつつ勢力を扶植
 唐は
 674年
 新羅征討軍を起こし
 675年
 新羅は3度目の謝罪使を派遣したが
 唐皇帝
 高宗(在位649年~683年)
 の逆鱗に触れ
 文武王の官職剥奪の問題にまで進展
 新羅は謝罪外交と並行して
 軍事的処置を取り
 676年
 伎伐浦で唐軍を破って
 旧百済領全域の支配を掌握
 唐は
 熊津都督府
 遼東の
 建安城
 安東都督府を
 遼東城に後退
 唐はなお
 新羅征討を計画したが
 チベット
 吐蕃の勢力によって
 朝鮮半島に兵力を回す余裕がなくなり
 678年
 新羅征討を断念
 新羅朝鮮半島中部以南から
 唐の勢力を排除
 安勝
 高句麗亡命政権
 684年
 に取り潰した
 ↓↑
 旧高句麗領には
 旧高句麗遺民
 靺鞨
 などが中心となって
 「渤海」が興った(698年)
 渤海
 東北地方(満州)南部
 朝鮮半島北部
 ロシア沿海州
 に相当する地域に勢力
 8世紀
 黒水部に対する
 渤海の勢力拡張を巡る紛争から
 唐と渤海の対立が深まり
 732年
 渤海が唐の登州(山東省蓬莱市)を襲撃
 唐は新羅渤海攻撃を要請
 新羅による攻撃はほとんど戦果なしだったが
 唐と新羅の関係は改善
 翌年
 新羅渤海攻撃の功績によって
 浿江以南の地を冊封
 渤海
 8世紀後半の
 文王の頃には
 高句麗の後継者であることを意識し
 「高麗国王」を名のった
 新羅渤海の間では緊張が高まり
 両国の対唐
    対日本
 関係にも影響を及ぼした
 ↓↑
 官吏の養成機関
 国学
 州・郡・県を基本と為す
 郡県制での地方支配体制
 旧新羅任那加羅領に3州
 旧百済領に3州
 旧高句麗領に3州
 の9つの州を設置
 副都五京によって
 地域支配
 ↓↑
 745年頃~750年代後半
 飢饉や疫病が発生
 755年
 日本の九州北部をはじめ
 日本へ亡命し
 帰化した新羅の民が多数いた
 移民の数が多いため
 天平宝字三年(759年)九月
 大宰府
 新羅からの帰化人に対して
 帰国したい者があれば
 食料等を与えたうえで
 帰国させよとする勅を出した
 翌年には
 帰国を希望しなかった
 新羅人13人を
 武蔵国に送還
 ↓↑
 668年以降
 日本は遣新羅使を派遣
 672年
 「壬申の乱
 大海人皇子天武天皇
 親新羅政策
 持統天皇(在位690年~697年)
 天武天皇の外交方針を継ぎ
 親新羅政策を執ったが
 対等の関係は認めず
 新羅が日本に従属し
 朝貢するという関係であり
 新羅は日本への朝貢関係をとった
 ↓↑
 持統天皇元年(687年)
 朝廷は帰化した新羅人14人を
 下野国
 新羅の僧侶
 百姓の男女22人を
 武蔵国に土地と食料を給付し生活が出来るようにした
 持統天皇三年(689年)
 帰化した新羅人
 下毛野に移し
 持統天皇四年(690年)
 帰化した新羅人
 武蔵国
 下毛野国
 に居住させた
 霊亀元年(715年)
 尾張国人の
 席田君邇近
 及び
 新羅人74人が
 美濃国を本貫地とし
 席田郡に移されるた
 天平五年(733年)
 ↓↑
 735年(天平7年)
 日本へ入京した新羅使が
 国号を
 「王城国」
 と改称したと事後通告したため
 日本の朝廷は無断で
 国号を改称した無礼を責め
 使者を追い返した
 日本と対等な関係を要求した為に悪化
 渤海が成立し
 日本へ遣日本使を派遣
 ↓↑
 736年(天平八年)
 遣新羅大使
 「阿倍 継麻呂」
 は新羅で非礼な扱いを受け
 朝廷は伊勢神宮など諸社に
 新羅の無礼を報告し
 調伏のための奉幣
 以後
 新羅使を大宰府に止めて帰国させ
 入京を許さなかった
 「阿倍継麻呂」
 は新羅からの帰国途中に病死
 遣新羅使の帰国後
 平城京
 天然痘とみられる疫病が流行
 疫病が新羅から
 持ち込まれたと信じられた
 ↓↑
 752年(天平勝宝四年)
 新羅王子
 「金泰廉」
 ら700余名の新羅使が来日
 日本へ朝貢
 使節団は
 奈良の大仏の塗金用に
 大量の金を貢いだ
 「三国史記」の
 752年記載には
 当時新羅
 景徳王には王子がおらず
 太子
 「金乾運」
 が
 758年に生まれ
 「金泰廉」
 は新羅の王子を詐称した商人・・・
 「金泰廉」
 は自ら
 天皇陛下の臣下を自任し
 莫大な物を売却したのに
 買新羅物解
 にその目録が記されている
 翌年
 日本の使臣が新羅を訪問したが
 無礼な態度を理由に
 謁見できず追い出された
 激怒した日本は
 新羅を征伐する計画を構想
 ↓↑
 753年(天平勝宝五年)
 長安の大明宮での
 唐の朝賀で
 遣唐使
 大伴古麻呂
 が
 新羅の使者と席次を争い
 唐は
 新羅
 日本の従属国である事実を受け
 新羅を下位に置いた
 新羅
 景徳王は
 遣新羅使
 に謁しなかった
 ↓↑
 藤原仲麻呂
 新羅征討計画
 天平宝字二年(758年)
 「安禄山の乱
 報が日本にもたらされ
 「藤原仲麻呂
 は大宰府をはじめ
 諸国の防備を厳にすることを命じた
 天平宝字三年(759年)
 新羅が日本の使節に無礼
 仲麻呂新羅征伐の準備
 軍船394隻
 兵士4万700人
 を動員する
 遠征計画
 孝謙上皇
 と
 仲麻呂
 との不和により実行されなかった

 8世紀末
 新羅の国内が混乱
 再び日本に慇懃な態度をとり
 宝亀十年(779年)
 新羅
 日本へ服属する御調(みつき)を携え使者を派遣
 新羅の混乱により多数の難民が
 日本列島へ亡命
 大量に帰化を申請
 日本側は
 「蛮国」の人民が
 天皇の徳を慕って帰化を願い出た事を嘉し
 帰化を許可
 ↓↑
 780年
 正規の遣新羅使は停止
 以後
 遣唐使の安否を問い合わせる使者が
 数度送られたのみ
 民間の交易交流は続けられ
 唐・日本・新羅商人により
 日本の文物を唐・新羅
 唐・新羅の文物を日本へ
 と運んだ
 新羅商人に
 「張宝高
 がいる
 ↓↑
 下代(780~935年)
 780年
 武烈王の王統が絶え
 王位継承争い
 王位簒奪
 王都内
 での反乱が頻繁
 骨品制により
 新羅王族のみが
 上位官僚を占め
 官僚制度は行き詰まり
 災害や飢饉
 反乱や内戦
 渤海(698年~926年)
 との対立
 新羅は滅亡
 ↓↑
 恵恭王の時代
 第36代
 恵恭王の在位中
 律令体制の推進派
 と
 旧来の貴族連合的体制
 への復帰派との間に
 対立、反乱が多数発生
 ↓↑
 768年7月
 吉飡(7等官)大恭
 阿飡(6等官)大廉
 の兄弟の反乱
 貴族連合体制復活派の反乱
 王都を
 33日間包囲
 王の軍隊が平定
 770年8月
 大阿飡(5等官)
 「金融」の反乱
 「金融」は
 「金庾信」の後裔
 律令体制推進派
 ↓↑
 775年6月
 伊飡の金隠居の反乱
 元侍中の
 「金隠居」
 は
 「金融の反乱」後に退官
 反乱を起こした
 貴族連合体制復活派の反乱
 ↓↑
 775年8月
 伊飡の廉相
 侍中(現職)の
 「正門」
 が反乱を企て発覚誅滅
 「正門」は
 「金隠居」の退官の後に侍中に就任
 律令推進派の反乱
 776年正月
 新羅政府は教書を出し
 律令体制を強固に推進した
 「景徳王」
 が唐風に改名した百官の名称を
 旧来のものに戻した
 貴族連合体制派への譲歩
 律令体制推進の政策を廃止しようとするものではなく
 同年3月
 倉部(徴税)の史(3次官)を8名増員
 名目的には
 律令体制の推進を控えながらも
 国家財政や人民支配の強化という点において
 貴族層・官僚層の間には共通の意識が持たれていた
 780年2月
 伊飡の
 「金志貞」
 が反乱を起こし宮中を包囲
 同年4月
 上大等の
 「金良相(宣徳王)」
 が伊飡の
 「金敬信(元聖王)」
 とともに挙兵し
 「金志貞」
 を滅ぼす
 「恵恭王」
 も王妃ともに殺害された
ー----
 ・・・???・・・ナニを云いたいんだかは・・・
 その意図の是非を問わず
 侵略戦争とは多民族国家への
 武力侵入と略奪である・・・
 権力闘争、覇権闘争とは
 「血縁関係の近親者同氏」の
 「私服、私怨」の争いである・・・
 「宗教・思想・哲学」とは全く無関係な
 「損得、利害関係」の「利権」の争いである・・・
 ・・・ダレが結果として「儲かる」のか・・

ー----
  ↓↑
 「プラトン古事記をカタル(古事記字源)
  +
 (表紙・画像・音楽)」の
  移転先・・・
https://haa98940.wixsite.com/mysite/blog/archive/2016/12
 ↓↑
 ボクの「古事記字源」の発端・・・
https://haa98940.wixsite.com/mysite/blog/archive/2022/8
 ↓↑
 干支歴
http://meisiki.bake-neko.net/keisanBXG4.html
 ↓↑
 追加添文
 「戦争と平和」・・・「モウケの生き方」
https://haa98940.wixsite.com/mysite/single-post/2006%E5%B9%B4%EF%BC%91%EF%BC%91%E6%9C%88%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%8E%E9%A0%83%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%83%BB