ないえごろうブログ

同音異義の探索

「古事記」への疑問・遊古史交・交故事考・考漢字振

 文字霊日記・3210日目

 「プラトン古事記をカタル(古事記字源)」
 の「追加無し添文」・・・


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 「古事記・序文・Ⅰ別項」

 最初から言ってしまえば「古事記」に使用されている「漢字」を「片仮名」、「平仮名」でヨンで展開し、「ハジメ」から「オワリ」まで、それに「同音異字」で「ヨマレるカンジ」や「エイゴ語」、「ギリシャ語」、「エジプト語(?)」を「与え」、その「イチジ・イック」のツナガリの可能性を追求したならば、「ナゾ」は「トキ・アカ・サレ・ル」のではないのか、と、一九九一年からズーッと考えてきたモノをまとめたモノである。
 すなわち、

 「英国=エイコク=ぶりてん=分利点」
 「英語=エイゴ=いんぐるす=音愚留守」
 「希臘国=キロウコク=えりにこ=得理似詁」
 「希臘語=ギリシアゴ=えりにこ=重理似子」

 「ギリシア」は「ギリシャ=義理者」、「埃及=エジプト=えじふと=絵字譜図」と敢えてヨムことをも含め・・・。
 とにかく、私のノート、メモ書きを「序文」として、マヅは読んでホシイのだ。もちろん、あなたの手には「漢和辞典」があることを前提として・・・

  遊古史交・・・交故事考・・・考漢字振

 「古事記」の「存在、意図」は何処にあるのか?

 「古事記」への疑問

 一、「タイトル」そのものの意味は?

 二、「序文」そのものの意味は?

 三、「古事記」に使用されている

   「漢字・文字」と「漢字・音」の意味は?

 四、「太安萬侶」その人は何者であったのか?

 五、「稗田阿禮」その人は何者であったのか?

 六、「天照大御神」とは誰なのか?

 七、「豊受大神」とは誰なのか?

 八、古事記に展開されている「場所」は何処であったのか?

 九、古事記に展開されている「時期」は何時であったのか?

 ごく常識的なモノで、既にこのような設定で研究し、その「解答(?)」を「古事記=文学=歴史書(?)」としての「枠内」で導き出されていらしゃる先生方もアマタ多い。だが、これは「太安萬侶」自身がその「古事記・序文」で「古事記」を書かざるを得なかった理由を述べている「理解範囲の枠」での研究、解答でしかない・・・ジャァ、それ以外におまえには「ナニ」があるのか?、と言うことだが・・・まさに、「ゴカン」は「ナニ」と言う研究と、その結果の「解答」が「ゴ・カ・ン」と「ナ・ニ」であったと言うワケである。
 スナワチ、私の場合は、これらの項目を日本人の学生が学校の「漢文授業」で使用する「漢和辞典」、その中で展開されている個別的な「漢字」の「日本語的(?)意味説明」と、たいがいには、その「漢和辞典」の後ろのページに展開されている「漢字自体の形成歴史に対する知識の説明」や、「日本人がいかにして歴史的に自国のコトバで漢文を読もう」として、その「法則」を形成してきたのか、その「読み方」を踏まえて検討したならば「古事記」が「何故存在」しなければならないモノのなのか、が明らかになった、と言うこと(?)で・・・単純なコトだった・・・のだが・・・。
 私に関して言えば、「辞典・辞書」は「目的のコトバ」の意味を知りたい時にだけ、その「ページ(頁)」と「項目」を調べたら、それで終わり。「漢和辞典」の前後のページの「能書」などは自慢じゃぁないけれど、読んだコトがなかった。それでも、「辞典」が「引けた」のは「あいうえお」、「アルファベット」順の「耳」が付いていたからだ。誰が「知りたいコトバの『耳みみ・ジ=丁付(チョウフ)』を引く」と言う辞典の索引方法を教えてくれたのか、私には記憶がない・・・ナントなく・・・自然に、と言うハズはないのだが・・・。
 それにしても「ページ(page)」が何故、「頁」の漢字が宛てられているのだろうか、あなたは「不思議」に思ったことはないだろうか?・・・この疑問は「漢字」に「とり憑かれた」わたしだけの特別なモノなのだろうか・・・とにかく、漢和辞典には

 「頁」・・・「ケツ・ゲチ・シュ・コウ・ヨウ・エフ」

 と「音」ではよまれ、「訓」では

 「頁」・・・「おおがい・かしら・こうべ・くびすじ・うなじ」

 とよまれているのだ。訓でこれを既知の漢字に宛てれば「大貝(おおがい)・頭(かしら)・首(こうべ)・首筋(くびすじ)・頚(うなじ=項=領)」であるが、

 おおがい=大解・多解・覆解・多害・大劾・大我意
 かしら  =可視裸(羅・螺・拉・等)・下肢裸
 こうべ  =神戸・交部(邊・辺)
 くびすじ =句備素字・句美諏字・句比素字
 うなじ  =有名字・得拿字・卯(月)拿字・烏(日)拿字・鵜納(茄)字

 と「同音の漢字」をアテルことも出来るのだ。

 「頁」は漢和辞典の「解字・象形」には「人の頭と身体・人がひざまずいて稽首(頭を腰より下にさげる)の礼を行っているさま」とある。
 「ページ(page)」は確かに英語にもかかわらず、私の使用しているワープロでは「ページ」と入力して漢字変換のキイを叩くと「頁」と変換されるのだ。・・・外来語が漢字になってしまうとはなんとも不思議であるのだが・・・漢字しかない中国では「英語の音」を漢字で採るのはあたりまえだろう・・・日本人は外来語は「カタカナ」で表記されると思い込んでいるフシがあるが、それは最近の話で、特に江戸時代、明治時代の文人は漢字で「当て字」として西洋のアルファベット、「横文字の外来語」を表記してきたのだ。

 頁・・・・・・・丁付・貼付
        ↓↓ ↓↓
        調布 長訃・・・調譜

  page・・・・記録・書物・歴史上の事件・挿話
 [peidz]
   ペィジ・・・・・ヘイジ
         ↓ ↓  
         平 時・平治・平字・柄時・並字

 「並ぶ字」ならば「page(ページ)」に並ぶ単語は「pageant(ページェント)」である。

 pageant= 小姓  ・近 習  ・見 習 い・給  仕
         コショウ ・キンジュウ・ケンシュウ・キュウジ
          ↓↑    ↓↑
          呼称  禁 中   検 収  球  璽
          ↓↑
          故障  金 中   献 酬  旧  時
          ↓↑
          湖沼  襟 中   研 修  宮  事
          ↓↑
          誇称  恨 中   懸 州  究  字=旧事
          ↓↑
          古書得 筋 柱 懸 収 球 事

        = その土地の「歴史的事件」を演ずる野外劇、見世物
          行列・虚飾・みせびらかし

 意味は「小姓」、「近習」、「見習い」、「給仕」
    「その土地の歴史的事件を演ずる野外劇、見世物」
    「行列・虚飾・みせびらかし」である。
 ・・・「球」とは「何か?」である・・・「球磨」あるいは「琉球」・・・?
 ついでに「ギリシャ語」を調べてみると、

 page・・・ギリシャ語では 「σελιδα(セリダ)」
                 ↓
                 施理拿・・・芹田・競他
                 台詞拿・・・迫出
                 科白出・・・背理出

              「νεαροs  υπηρετηs」
              (ネ アロ ス)  (イピ レ ティス)
               ↓         ↓
               音 亜賂 諏   意一 戻 帝 諏

 並字は字が並ぶ、並次は次々と並ぶ、閉字は閉じられた(綴じられた)字ならなんとなくわかりそうだが・・・訓が「おおがい」なら・・・「頁」は「大貝」・・・「大海」。「おうがい」なら・・・「横臥意」、「王我意」、「王害」、「王外」、「王涯」・・・「負う害」・・・「鴎外」。「おほがい」なら「麻穂苅」、「覆劾」・・・「被開」で、「将補解」なら・・・「まさに補う理解」で、納得出来そうだが・・・。「頁」が部首分解した「頁=一ノ目のハ(足)」ならもっと理解度は増す。何故なら「足(ハ)」は「あし=脚=葦=パピルス(紙)=亜詞=吾詞」で、「ハ」は「言葉」だからだが・・・これをヨメば「始めのヘツ(経柘)のマナ(真名)のタリ(他理)」となる。あなたには飛躍し過ぎて「理解困難(?)」かもしれないが・・・「吾詞(アシ)」は「語詞(ゴシ)」であり、「娃詞(アシ)」は「娃=月の女=天女」の「コトバ」で、「亜詞(アシ)」は「あまねし=海女子の史」で、「悪し」であることは、あなたにも追々理解されてくるハズである。・・・だが、何故、「足利(あしかが)」とヨムのか?

 あし・かが=加賀(化画・華画・蚊蛾)
 アシ・カガ=珂我(臥・俄・峨・蛾・娥)

 である。

 「古事記」、その「タイトル」そのものの意味は?

 「源・古事記」は西暦「712」年にその完成をみたと言われているが、その「源・古事記」は存在せず、これに関連する「注釈」モノとしては「亀山天皇」在位時期、「文永十年」、西暦「1273」年の「卜部兼文」の「古事記裏書」が存在しているらしいのだ。(これは中央公論社発行の「日本の歴史・別巻5・年表・地図」の「年表」に記されていることである。これからの歴史的事件、人物は殆どがこの年表による。私自身がその年表記載の文書とその内容のすべてを確認したモノではないので存在するモノとしての推測の域を出ない)
 「現存・古事記」は「真福寺・本」と言われている「応安五年」、西暦「1372」年、その寺の坊主であった「賢瑜(ケンユ)」が書写したものであるらしい。これは現在、名古屋の「博物館」にあり、もともとは名古屋の大須観音の「大須文庫」にあったものが東京に持ち出され、地元の有力者の働きで名古屋に里帰りされた「タカラモノ」なのである。これは確かに自分の目で確認できた。
 故に私たちは「源・古事記」が如何なるモノであったのか、現在的に明確には知ることはできないワケだ。ただ、ただ「源・古事記」に想いをはせて、その「原型」を推理するよりは手段がない、と云うワケである。
「卜部兼文うらべ・かねふみ」の「古事記裏書」、その「意図」するところは「漢字」で記されている「源・古事記」をどのように訓み、解釈するのか、と云う研究そのものにあった、と考えられる。この時代「源・古事記」があったとすれば、すでに「タイトル」さえも簡単には「訓めないモノ」であった。それを「卜部兼文」は「ヨもう」と研究したわけらしいのだが・・・「うらべ・かねふみ」と言う名前自体の漢字と音がアヤシイのだ。
 実際、彼が「実在した人物」だとしても・・・私はその彼の「研究内容」を知らないのだが。唯、「・・・らしい」と年表の「記事」を見て推測しているわけなのだ。
 だが、「古事記」が「漢字」で書かれているからには、誰でも「漢和辞典」さえ手に持てば「漢字・音」と「和・訓」で「多様」にヨメるモノなのである。しかも、私にはこれほど楽しい「ヨミカタ」の出来る「シロモノ」はないと思うのだ。
 私の「ヨミ方」は以下のとおり・・・

 古事記=コ・ジ・キ=ふるい・こと・ しるし
              ↓ ↓  ↓   ↓ ↓
              振留意 古都 始留史

 故 事 基=故事を基にした
 固 辞 期=固辞の時期
 固 持 姫=固持する姫
 誇 示 企=企てを誇示
 居 士 気=居士の意気
 孤 児 生=孤児として生まれた
 乞 食   =食物を請い求める。仏教僧の修行の一

 乞は「气=水蒸気=スイジョウキ」の省略形
 スイジョウキ
 誰 聶  危(基喜企)=誰かに聶けば危ない
 推 参耳 希=(水産時季)
 推 算未観紀=(水産味幹)
      姫=(鬼穐箕) 穐の記録の企て
 ↓               ↓
 水 蒸   気       安芸(長州藩

 みつ・むす・け=御津武佑=三・六 ・州・ 懸
 ↓  ↓  ↓          ↓   ↓       ↓
 水  上  姫       3+6=九州 家(華)
 ↓  ↓  ↓
 ミナガミ キ=皆が見る記=未だ、名の臥、美紀

 「日本書紀」を読み、それを踏まえ、各巻のテーマを明確にし、「古事記」に展開されている「各物語」と、そこに使用されているテーマに添った「漢字」の「同音異字」をすべて検討すれば、ある「事件」が重なっていることが「ミエテ」くる、ようなのだが・・・あなたはどう、考えるだろう。
 「賢瑜」の「書写」した「現存・古事記」の「意図」は何か疑ってみる「価値」はありそうだ。その理由は単純で、「書写」した、「応安五年」、西暦「1372」年の時代的な背景を重ねていることが見て取れるからである。
 すなわち、1316年7月10日に「北条高時」が執権に就き、その2年後、1318年2月26日に「後醍醐天皇」が即位したと言うことである。
 記録には1320年、「清原宗尚」が「古文孝経家説」を「金沢貞将」に授けるとあり、その翌年の1321年は「後醍醐天皇」の「親政」となった時代。しかも、天皇の父は「花園上皇」であり、この同じ時期に「花園上皇」は「古事記」、「古語拾遺」等を読む、の「記録(年表)」があり、「禁中で根合」しょうとして「藤原定房」の「諌め」によって止めた、との記録がある。この「記録」は重大な示唆を与えている。この記録の意味内容は不明だが、例え「私流」に誤解して読んだとしても、結果的には、

 「古事記」+「古語拾遺」=「根合」=混合・金剛・混交・金光・言交

 である。・・・「金剛界」は密教、「金光」は「金星の光(?)」だ。
 「古語拾遺(こごしふゐ)」は「大同2年(807)」に「斎部広成いんべ・ひろなり/サイブ・コウセイ」が著した「歴史書(?)」だが、古語辞典によれば、「古来、中臣氏と並んで朝廷の神事に奉仕した斎部氏の勢力が衰えたことを嘆き、天地開闢以来、文武天皇までの斎部氏の由緒、功績を漢文で書き記して朝廷に訴えた書」とある。
 「禁中で根合」、このことは別な意味で「賢瑜」の「書写」した「現存・古事記」の「意図」に秘められているモノではないか・・・すなわち、「古い事」の記録だが、そこに「根合=同音の文字を重ねる」と「現代歴史」が浮かび揚がってくるんじゃぁないか、と・・・梅原先生は検討する「価値」が無いと考えているらしいが、現在も立場は同じであろうか、ネッ・・・「サイブ・コウセイ=細部更正」で、「西部校正」か、「細部後世」なんだが?

 根合=木(キ)+艮(ウシトラ)+八(ヤッツ)+一(ヒトツ)+口(クチ)
   =混合・・・・ミツのヒを比べアワス

 原題・古事記・・・書記(孝徳天皇)にある「固辞の記」が原題のテーマ

 現代・故事記・・・故事(中国の漢籍類)を調べて記した

 呟醍・居士記・・・呟く後醍醐天皇は居士
           (彼は真言立川流に傾倒していたラシイ)

 源代・誇示記・・・源氏の代を誇示

 諺台・固持記・・・ことわざの台本(台詞=せりふ)を固持

 もちろん、これは堅苦しい学問としての「古事記」の「見方」ではなく、「私流」の「診方」で、「乞食楽」、「光時季学」、「麹学」、「糀学」、「乞食学」、「乞自棄・学」そのものである・・・。
 更に僧「梵俊」が「後醍醐天皇」に「朱子学」を講じ、翌年の1322年には「虎関師錬(コカンシレン)」が「元享釈書」を撰進する、と記されている。
 コレは・・・「中央公論社」に関係した「児玉幸多氏」に「歴史年表」を信じろ、と言われても・・・出来すぎであるんじゃぁないかと思うわけだが。
 この、名前の羅列、と著書名、「梵俊」、「後醍醐」、「朱子學」、「虎関師錬」、「元享釈書」・・・梵(ボン)、俊(シュン)、後(ゴ)、醍醐(ダイゴ)、朱子(シュシ)、學(ガク)、虎関(コカン)、師錬(シレン)、元享(ゲンキョウ)、釈書(シャクショ)の「同音異字漢字」をあなたが試みに書き出してみるとイイと思うのだが。
 ・・・ 虎(とら)の関(せき)の師の錬・・・フザケルんじゃないよ。
 たとえば・・・

 「梵・俊」 ・本(品=翻=叛=奔)・瞬(筍=春=順=淳=巡=准)
  ↓
  梵=木+木+凡
  ↓
  俊=イ+ム+ハ+夂

  ・ ・・

 「後・醍・醐」 ・語(悟=呉=后=子)・第(台=代=題)

  後=彳幺夂 ・五(護=娯=宕=午=互=牛=誤)

  醍=酉+日+一+卜+人

  醐=酉+古+月

  ・ ・・
 「朱・子・學」 ・主旨(趣旨=種子)・額(嶽=楽=鰐=顎=鍔)
  ↓
  朱=牛+八
  ↓
  子=了+一
  ↓
  學=メ+メ+臼+ワ+了+一・
  ・ ・
 「虎・関・師・錬」・股間(互換=語幹=語感=五感)・試練
  ・ ・
 「元・享・釈・書」・現況(検校=元凶=兼業=牽強)・尺書


 (・・・)の漢字をも調べてホシイ。一体全体、ナニが「虎関師錬コカンシレン=虎巻史練=股間試練」なんだか・・・これらの「漢字」の「音」と「造り」をみてピーンとくる人は、私と共に「古事記の虎」と「遊」んで、その「醍醐味」を「学(學)べる人」であるに違いない・・・と思うワケだ。
 「醍醐」は「純粋、極上の『バター』」で、「嘗める(ナメル)」と最高の味がするわけだが。「嘗める」に、宮廷の秘密儀式には「大嘗祭新嘗祭」がある。これは何を「ナメル」のか?・・・「乳」ではないのか?・・・すると稲作民族の儀式と言うよりは「牧畜民族の儀式」ではないのか。漢文故事に「臥薪嘗胆」がある。「マキの上にフシて、キモをナメル」である。仇敵を討つ為の辛苦漢難に耐える諺(ことわざ)である。「バター」は漢字で意味を採れば、「牛=丑」や「羊=未」の「乳酪(ニュウラク=入洛=柔絡=拾楽=呪落=嬬絡=聚落」、「乳脂肪(ニュウシボウ)」で、私の耳と頭は「チチラク=父落=遅々樂」、「チチシボウ=父死亡=遅々志望」と理解せよ、としてしまう。もちろん、「醍醐」は「酉(西一)+是(日正)、酉(西一)+胡(ウ=得・古月=コゲツ=子月)」・・・と。
後醍醐天皇は「オンナタラシ」で有名だが、「密教真言立川流=男女混交密伎の究極に悟りを得る」に傾倒し、「密教占術=宿曜経」にかなりイカレていたなら別の意味で納得もいくだろう。「スキモノ」とは「鍬」、「鋤」、「好モノ」だ。だが、ワタシは「オンナタラシ」等と精力ギンギンの意味ではなく「音名・多羅史」とヨミたいのだ。

 時代背景

 1316年7月「北条高時」が執権
 1318年2月「後醍醐天皇」が即位
 1320年   「清原宗尚」が「古文孝経家説」を「金沢貞将」に授ける
 1321年   「後醍醐天皇」の「親政」
          「花園上皇」は「古事記」、「古語拾遺」等を読む
          「禁中で根合」しょうとして「藤原定房」の諌めで中止
          「僧・梵俊」が「後醍醐天皇」に「朱子学」を講じた
 1322年   「虎関師錬」が「元享釈書」を撰進する
 1330年   「度会常昌」が「神懐論」を著す

 「元徳三年」、1331年に「後醍醐天皇」は捕らえられ、1332年、「光厳天皇」が即位、「後醍醐天皇」は「隠岐」に流された。この時から「南北朝」の系譜が始まったのだ。そして「1333年」に鎌倉幕府は壊滅し、「後醍醐天皇」は1334年「建武元年」に権力を握ったが、1338年には「北朝」の「光明天皇」によって「足利尊氏」が征夷大将軍になって、その朝廷権力は「二分」されたのだ。翌年の1339年には「北畠親房」が「神皇正統記」を著し、1340年には「卜部和記」が「神風和記」を著している。この時期、「南朝」で頑張っていたのは「楠政成くすのき・まさしげ」である。

 1331年 「後醍醐天皇」は捕らえらる
 1332年 「光厳天皇」が即位、「後醍醐天皇」は隠岐に流される
        「南北朝」の系譜の始まり
 1333年 鎌倉幕府は壊滅
 1334年 「後醍醐天皇」、「建武元年」に権力を握る
 1338年 「北朝」の「光明天皇」によって「足利尊氏」が征夷大将軍
 1339年 「北畠親房」が「神皇正統記」を著す
 1340年 「卜部和記」が「神風和記」を著す

 「応安五年」、西暦「1310~1372(応安五年)」年の時代的な背景を見て取れば、「賢瑜」の「書写」した「現存・古事記」のその「裏にある意図」を疑ってみる「価値」があると思うのは当然だろう・・・もちろん、この時代の「南・北朝」、特に「南朝」の「正統性」の基盤的な「思想」を「現存・古事記」の「漢字」とその行間に託したのに違いない、と云う推理なのだ。サラには「徳川光圀水戸黄門)」さんと「明治維新政府の意図」である。
 先ほど、「ナニ」があると言ったのは「ナニ=何=南=難=楠(くすのき)=軟=名似」と同音異字が重なると言うことなのだ。しかも南朝、「難聴」、軟調である。
ー-↓↑---
  古事記序文
  日月、目を洗うに彰はれ。海水に浮沈し。
  神祇身を滌ぐに呈はる。故、太素の沓冥なる。
  本教に因りて土を孕み島を産みたまいし時を
  識れり。
  元始の綿貌たる。
  先聖に頼りて神を産み、人を立てたまいしの世
  を察らかにする。
  是に知る、鏡を懸け、珠を吐き、而して、百王、
  相続す。
  喫剣、切蛇。以って萬神、蕃息する與。

  安の河に議り、而して平天下を平げ。小濱に論いて、
  而して國土を清めき。
  是を以て番仁岐命。
  初めて高千の嶺に降りたまいき。
  神倭の天皇秋津島を経歴したまう。
  化熊、爪を出て。
  天釼を高倉に於て獲。生尾、徑を遮り。
  大烏、吉野に於て導く。舞を列ねて、賊を攘い。
  歌を聞き仇を伏す。
  既に夢に覚て而して神祇を敬う。
  所以に賢后と称す。
  煙を望んで而して黎元を撫ぜ。
  於て今に聖帝に伝う。境を定め邦を開き。
  近淡海に制したまう。姓を正氏を撰ぶ。
  遠飛鳥に勒したまう。歩驟、各に異。
  文質、不同といえども。古を稽えて、
  以て、縄風猷、於て既に穎。
  今を照らし以て、典教を補い、
  於て絶えんことを欲する。
  飛鳥清原の大宮に曁び。
  御大八洲天皇の御世。
  潜龍、元を體し。存雷、期に応ず。
  夢に歌を聞き、而して想う、纂業。
  夜水に投じ、而て基を承むことを知る。
  然に天の時、未に至らず。
  蝉の蛻、於て南山。人事、共に洽くして。
  虎が歩み於て東國。皇輿、怱に駕し。
  山川を凌ぎ渡る。六師、雷震。
  三軍、電逝。杖矛、威を挙。
  猛士、煙起。絳旗、耀兵。
  凶徒、瓦解。未だ浹辰に移さず。
  氣滲自から清まり。
  乃ち牛を放ち、馬を息う。
  豈悌して華夏に於て帰す。
  旌を巻き、戈を聟め。
  舞詠して都邑に於て停る。
  歳次、大梁。
  月踵、夾鐘。清原大宮。
  昇て即、天の位。

  道、軒后に軼ぎ。徳、周王に袴。
  乾符を握りて、而して六合を統べ。
  天総を得て、而して八荒を包む。
  二氣乗じて之を正す。
  五行の斎、之を序のう。
  神理を設け、以って俗を奬める。
  英風を敷、以って國を弘める。
  重加、智海、浩瀚。潭く上古を探る。
  心鏡、葦煌。明かに先代を観たまい、
  是に於て天皇、之を詔す。
  朕聞く、諸家之所有する帝紀、及本辞。
  既に正寛が違う。
  多く虚偽を加える。今この時に當て。
  不改すれば、其を失す。未だ幾年も経ずして。
  其の旨、滅と欲せん。斯れ乃、邦家之経緯。
  王化之鴻基焉。故に、惟に帝紀を撰録せん。
  舊辞を討敷して。偽を削り寛を定めん。
  欲に後葉に流えん、と。時に舎人あり。
  姓は稗田、名は阿禮。年、是、二十八。
  人と為し聡明。度目、誦口。
  拂耳、勒心。即、勅語す阿禮に。
  令して誦習させむ帝皇の日継、
  及び先代の舊辞。
  然に運移、世異。
  未だ、其事、おこなわれず矣。
  伏して、惟うに皇帝陛下。
  得一、光宅。通三、亭育。
  紫宸に御して、
  而して徳馬蹄の極るところを被る。
  玄扈に坐して、
  而して、船頭の逮うところを化照す。
  日浮びて重暉。
  雲散、非煙。柯を連ね、穂の瑞をあわす。
  史、不絶書。列烽、重譯の貢。
  府無、空月。
  名高、文命と謂うべき。
  徳冠、天乙矣。
  於焉、ここに惜む。
  舊辞の誤忤。先紀の謬錯を正す。
        以和銅四年九月十八日。
        詔臣安萬侶。
        撰録稗田阿禮所之誦勅語舊辞。
        以献上者。
ー-↓↑---
  謹みて詔旨に随ひ、子細に採り拾ふ。
  然るに上古の時、言意竝に卜にして、
  文を敷き句を構ふること、字に於て即ち難し。
  已に訓に因りて述べるは、詞心に逮ばず。
  全く音を以て連ねたるは、事の趣更に長し。
  是れを以て今或は一句の中、音訓を交へ用ゐ、
  或は一事の内、全く訓を以て録す。
  即ち辞の理見えやすきは、
  注を以て意を明らかにする。
  況んや解り易きは更に注せず。
  亦姓の日下に、玖沙訶と謂ひ、
  名の帯の字に多羅斯と謂ふ。
  此くの如きの類は本に随つて改めず。
  大抵記す所は、天地の開闢より始めて、
  以て小治田の御世に訖ふ。
  故天御中主神より以下、
  日子波限建鵜草葺不合尊より以前を上巻と為し、
  神倭伊波禮毘古の天皇より以下、
  品陀の御世より以前を中卷と為し、
  大雀の皇帝より以下、
  小治田の大宮より以前を下巻と為す。
  抃せて三卷を録し、謹みて以て献上す。
  臣安萬侶、誠惶誠恐、頓首頓首。

    和銅五年正月二十八日
    正五位上勲五等
    太朝臣安萬侶、謹上。

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 ・・・???・・・
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 追加添文
 「戦争と平和」・・・「モウケの生き方」
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