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同音異義の探索

心外である、とツァラトゥストラはかく語りき・・・5

 心外である、とツァラトゥストラはかく語りき
 辛亥=シンガイ=新改・侵害・心外・・・
    セイメイの変・・・
    清明=セイメイ・・・
 清(シン)と
 明(ミン)の王朝のヘン?
  =声明・姓名・生命・声名・聖名・正明

 ↓↑
 11月11日・・・壱拾壱・十一・Ⅺ・壹拾・壹足
 江浙聯軍司令部が
 鎮江に成立
 11月24日~12月1日(旧暦9月11日)
 「徐紹楨」
 の指揮の下
 「黄興」
 も指揮に参加し連合軍は
 烏龍山、幕府山、紫金山、雨花台、天保
 等の拠点を占拠
 両江総督
 「張人駿」
 と江寧将軍
 「鉄良」
 は同日夜に
 日本軍艦に逃亡し上海へ亡命
 12月2日
 南京城を攻略
 長江以南の地域はすべて
 革命軍の支配下
 3日
 「宋教仁」
 の提案で都督府は
 蘇州から・・・蘇の州⇔蘇我
 南京へ移転
 ↓↑
 12月2日
 駐漢口
 イギリス領事の斡旋により
 武漢革命軍と清軍の間で
 停戦協定が成立
 ↓↑
 1911年12月28日
 迪化にて新疆督練公所教練官の
 「劉先俊」
 らが挙兵するも
 新疆巡撫袁大化によって鎮圧
 劉ら主要メンバーは処刑
 ↓↑
 1912年1月7日午後12時ごろ
 伊犁 混成協統領
 「楊纘緒(イリ革命党)」
   ・・・伊犁=イリ=入(いり)・・・?
ー↓↑ー---
 イリ・カザフ自治
 中華人民共和国
 新疆ウイグル自治区
 北部に位置する カザフ族 の副省級 自治
 州都
  グルジャ市
(「伊寧=イーニン」市)
 全国で唯一
 タルバガタイ(塔城)
 アルタイ(阿勒泰)
 の2地区を管轄
 ↓↑
 伊犁(イリ)草原
 別名 那拉提(ナラティ)草原
 新疆ウイグル自治区
 新源県東部に位置
 新源県
 那拉(ナラ)
 提鎮
  「那拉提(ナラティ)=最も早く太陽が見えるところ」
  奈良綴・・・?
 ↓↑
 唐代
 「突厥」旧属
 カルルク部の地
 1124年
 契丹貴族
 「耶律大石」・・・大石・・・磐余彦=神武天皇
 イリ Yīli(イーリー)
 の
 カルルク部
   ・・・軽留句・珂瑠留句・・・?
ー↓↑----↓↑
  軽皇子
  孝徳天皇
  596年
  推古天皇4年
  ~
  654年11月24日
  白雉5年10月10日
  第36代天皇
  在位 645年7月12日
     皇極天皇4年6月14日
     ~
     654年11月24日
     白雉5年10月10日
     諱 軽(かる)
 ↓↑    ↓↑
  「軽=珂瑠」皇子
  文武天皇
  683年
  天武天皇12年
  ~
   707年7月18日
  慶雲4年6月15日
  第42代天皇
  在位:
  697年8月22日
  文武天皇元年8月1日
  ~
  707年7月18日
  慶雲4年6月15日
  諱  珂瑠 (かる)=軽 (かる)

ー↓↑----↓↑
 1124年
 契丹貴族
 「耶律大石」・・・大石・・・磐余彦=神武天皇
 イリ Yīli(イーリー)
 の
 カルルク部
 を
 臣服させて
 西遼を樹立
 イリ将軍
 (満州語:総統伊犁等処将軍
  Zŏngtŏng Yīli dĕngchu Jiāngjūn)
  清朝期に設置された
  新疆の最高軍政長官
  天山山脈北部
  恵遠城
  (新疆ウイグル自治区霍城県恵遠鎮)
 に駐箚
 ~
 1871年
 ヤクブ・ベクの
 新疆侵入に乗じて
 ロシア帝国
 イリ地方を占領
 恵遠城も破壊の対象となり
 清朝
 欽差大臣の
 「左宗棠」
 を派遣し
 1876年までに
 ヤクブ・ベク軍を鎮圧
 1881年
 ロシアとの間で
 「イリ条約」が締結
 賠償金と引き換えに
 「イリ地方」
 は清朝支配下に戻った
  ~
  伊犁
  哈薩克
  自治
  人民政府
ー↓↑----
 崇神天皇(すじんてんのう)
 開化天皇9年または10年
 崇神天皇68年12月5日)
 第10代天皇
 在位 崇神天皇元年1月13日
    ~
    崇神天皇68年12月5日
    日本書紀
    御間城 入 彦  五十瓊殖 天皇
   (みまき いりびこ い にえのすめらみこと)
    古事記
    御眞木 入 日子 印 恵 命
   (みまき いりひこ いにえのみこと)
 ↓↑
 垂仁天皇(すいにんてんのう)
 崇神天皇29年1月1日
 ~
 垂仁天皇99年7月1日
 第11代天皇
 在位 垂仁天皇元年1月2日
    ~
    垂仁天皇99年7月1日
    日本書紀
    活 目 入  彦  五十狭茅 天皇
   (いくめ いり びこ いさち のすめらみこと)
    古事記
    伊久米 伊理 毘古 伊佐知命
   (いくめ いり びこ いさちのみこと)
    上宮記
    伊久牟 尼利 比古 大王
   (いくむ にり ひこ)
ー↓↑----
 伊犁(イリ)草原
 別名 那拉提(ナラティ)草原
 ↓↑
 1912年1月7日午後12時ごろ
 伊犁 混成協統領
 「楊纘緒(イリ革命党)」
 同執事官
 「李輔黄」
 書記官
 「馮特民
  鄧宝珊(同盟会)」
 哥老会回族首領
 「馬得元」・・・馬を得る元
 らが霍城県の
 恵遠城将軍署
 南北の軍械庫を襲撃
 「袁大化」・・・袁(ヱン・猿・長袖・longsleeves)の
     大化(大化の改新・乙亥の変・645年)
 は新疆提法使
 「楊増新」・・・楊の増新・・・楊貴妃
 にこれを鎮圧させようとしたが
 「楊増新」
 は迪化に駐屯したまま動こうとしなかった
 軍械庫では激しい応戦
 戦線が膠着
 前
 伊犁将軍の
 「広福」
 により停戦交渉
 伊犁 将軍
 「志鋭」
 は処刑され
 1912年1月10日
 伊犁 革命臨時政府の成立が宣言
 「広福」
 が臨時政府都督就任
 「楊纘緒」
 が総司令部長
 「賀家棟」
 が参謀部長
 「李輔黄」
 が前敵総指揮に就任
 3月
 「袁大化」
 が新疆都督に就任するも1か月で辞任
 後任の
 「袁鴻祐」
 も就任直前に暗殺
 代わって就任した
 「楊増新」
 による新疆統治が16年続く
 ↓↑
 中華民国の成立
 中華民国臨時政府
 一次内閣閣議
 11月1日
 清朝政府は
 「袁世凱
 を内閣総理に任命
 海外華僑や留学生及び国内世論の間に
 「袁世凱
 による初代大総統の気運
 11月9日
 「黄興」
 は
 「袁世凱
 に書簡を送り
 ナポレオンやワシントンの資格を持って
 ナポレオン、ワシントンの功績を作るべしとし
 「袁世凱
 に民主的に選出された総統となることを求めた
 11月16日
 パリ滞在中の
 「孫文
 も国民軍政府に対し
 「袁世凱
 の総統就任に
 同意の意向を示す電報を送信
 ↓↑
 1911年11月
 「黎元洪」
 を首班とする武昌団体と
 上海都督
 「陳其美」
 江蘇都督
 「程徳全」
 が代表する上海団体が
 同時に
 中央政府準備活動を展開
 11月9日
 「黎元洪」
 は湖北軍政府都督の名義により
 独立した各省に代表を武昌に派遣し
 中央政府組織のための
 会議開催を呼びかける電報を
 ↓↑
 11月11日・・・壱拾壱・壹拾壹
 上海都督
 「陳其美」
 江蘇都督
 「程徳全」
 等の三省軍政府都督は各省代表に
 上海での同様の
 会議開催を呼びかける電報を発信
 11月15日
 各省都督府代表聯合会が
 上海で開催され
 上海、江蘇、浙江、福建
 の省代表が参加
 武昌団体は会議は武昌での開催を主張
 武昌で
 最初に発生した革命であったため
 多くの省代表は
 武漢に到着し
 同盟会の主要指導者である
 「黄興
  宋教仁」
 等も武漢に入っていた
 上海団体の譲歩により
 各省代表が武漢に集結
 30日
 漢口で臨時中央政府組織
 及び
 『中華民国臨時政府組織大綱』
 制定のための会議開催が決定
 同時に
 上海にも各省1名の代表を駐在させ
 連絡機関を設置することが決定
 ↓↑
 11月21日
 各省代表は次々に武昌に到着
 漢陽は清軍の攻撃を受け
 陥落の危機にあったが
 各省代表は
 30日
 にイギリス租界の
 順昌洋行で
 第1回会議を開催
 14省の代表24名が参加し
 「譚人鳳」
 が議長に選出
 会議では
 臨時政府成立以前は
 湖北軍政府が
 中央軍政府の職権を代行し
 湖北軍都督が
 中央軍政府大都督を代行することが決定
 12月2日
 臨時政府組織大綱の制定が決定
 「雷奮
  馬君武
  王正廷」
 が組織大綱起草者に選出されると同時に
 「袁世凱
 の意向によっては
 臨時大総統に推挙することが確認
 12月3日
 会議は3章21条で構成される
 『中華民国臨時政府組織大綱』
 を採択
 即日全省代表の署名の下に公布
 南京を
 臨時政府の所在地とする
 総統制による
 共和体制の方針が確認
 各省代表は
 7日以内に
 南京に集結
 10省以上の代表が集結した場合は
 臨時大総統選挙を
 実施することも決定
 ↓↑
 初代臨時大総統
 「孫文
 12月4日
 「宋教仁
  陳其美」
 等は上海における各省代表の
 「沈恩孚
  兪寰澄
  朱葆康
  林長民
  馬良
  王照
  欧陽振声・・・欧(欧州)陽(日)に振り仮名?
  居正
  陶鳳集
  呉景濂
  劉興甲
  趙学臣
  朱福詵
  章炳麟
  趙鳳昌
  章駕時
  蔡元培
  王一亭
  黄中央
  顧忠琛
  彭錫範」
 などを召集し
 上海江蘇省教育総会にて会議を開催
 投票方式により
 「孫文
 への
 帰国要請と
 政治参加を求める公電発信を決定
 「黄興」
 を暫定大元帥
 「黎元洪」
 を副元帥とし
 大元帥による
 中華民国臨時政府の方針を求めた
 「黄興」
 は大元帥就任要請を強く固辞し
 17日
 「黎元洪」
 を大元帥
 「黄興」
 を副元帥と決定
 ↓↑
 国旗問題
 湖北代表は「鉄星 十八星旗」
 福建代表は「青天 白日旗」
 江浙代表は「五色旗」
 を国旗と主張を行い対立
 五族共和を代表する
 「五色旗」を国旗とし
 「鉄星 十八星旗」を陸軍旗
 「青天 白日旗」を海軍旗
 とする折衷案が採用
 ↓↑
 12月11日
 上海と漢口両地方の17省代表が南京に入り
 中央政府設置に向けた会議が続行
 12月14日
 各省代表は
 『臨時政府組織大綱』
 に基づき総統選挙を行う事を決定
 「黎元洪」
 及び
 「黄興」
 の両派に別れていた
 12月15日
 代表は
 「袁世凱
 の共和制賛成の方針を獲得し
 総統選挙は延期
 「袁世凱
 への政治的期待が高まった
 ↓↑
 12月25日
 フランスのマルセイユより
 「孫文
 が上海に帰国
 「孫文
 は多くの革命団体より支持を受け
 大総統就任が期待される人物であった
 立憲派及び旧勢力より
 「孫文
 は
 「袁世凱
 から
 大総統の座を奪い取るものであると認識
 ↓↑
 12月28日
 南京で臨時大総統選挙予備会議が開催
 29日
 臨時大総統選挙が実施
 ↓↑
 臨時政府組織大綱第1条
 「臨時総統は
  各省都督代表がこれを選挙し
  投票総数の
  3分の2以上の獲得で当選とされ
  投票権は各省1票」
 と規定
 選挙に参加したのは
 直隷、奉天山東、山西、河南
 陝西、湖北、湖南、江西、安徽
 江蘇、浙江、福建、広東、広西
 雲南、四川
 の17省45名の代表で
 「孫文
 は17票中16票を獲得し
 中華民国初代臨時大総統
 に選出された
 ↓↑
 1912年1月1日
 「孫文
 は南京にて
 中華民国の成立を宣言
 初代臨時大総統就任のための宣誓を行った
 『臨時大総統職宣誓書』
 の中で
 国民主権の国家
 漢満蒙回蔵諸民族による国家体制を強調
 1月2日
 「孫文
 は各省に
 陰暦の廃止
 太陽暦の採用
 及び
 中華民国暦の採用を通達
 1912年
 中華民国元年
 とした
 ↓↑
 1月3日
 各省代表は
 「黎元洪」
 を臨時副総統に選出
 同時に
 「孫文
 が提出した
 臨時政府各部総長
 次長名簿を承認
 正式に
 中華民国臨時政府が成立
 ↓↑
 臨時政府
 下部に10部
 陸軍部総長
 「黄興(参謀本部総長兼任)」
 海軍部総長
 「黄鍾瑛」
 外交部総長
 「王寵恵」
 司法部総長
 「伍廷芳」
 財政部総長
 「陳錦濤」
 内務部総長
 「程徳全」
 教育部総長
 「蔡元培」
 実業部総長
 「張謇」
 交通部総長
 「湯寿潜」
 が就任
 総統府秘書長
 「胡漢民
 法制局長
 「宋教仁」
 印鋳局長
 「黄復生」
 が任命された
 ↓↑
 1月11日
 各省代表会議は
 南京を臨時首都とし
 五色旗を中華民国国旗と定め
 五族共和の象徴とした
 1月28日
 各省代表会議により
 臨時参議院が設置
 各省代表は
 参議院議員となり
 「林森
  陳陶遺」
 がそれぞれ正副議長に就任した
 ↓↑
 内閣総理大臣
 「袁世凱
 武昌蜂起の後
 中国に権益を有す列強諸国は
 静観の立場を採り
 清朝政府
 革命政府
 の中での
 自己の権益に
 有利な政権を観察
 ↓↑
 1911年10月14日
 清は彰徳で病気療養中であった
 「袁世凱
 を湖広総督としたが
 「袁世凱
 が病を理由に就任を固辞
 10月22日
 湖南独立
 10月23日
 江西独立を受け
 10月27日
 「袁世凱
 を欽差大臣に任命し
 北洋軍を率いて
 武漢進攻に着手
 10月29日
 山西独立
 新軍第二十鎮による
 灤州兵諫の発生を受け
 11月1日
 清朝
 「袁世凱
 を内閣総理大臣に任命
 11月2日
 漢口攻撃後
 清軍の軍事行動を停止
 水面下で革命政府との
 講和協議が行われ
 11月3日
 清朝により
 『憲法重大信条十九条』
 が発表
 ↓↑
 11月13日
 「袁世凱
 が北京に到着して内閣総理大臣に就任
 16日
 責任内閣を組閣
 清朝の行政権が移譲され
 各国の政府承認を受けた・・・
 ↓↑
 11月26日
 「袁世凱
 は
 イギリス駐漢口総領事
 ハーバード・ゴッフ(Herbert Goffe)
 を通して
 民国軍政府及び各省代表に
 停戦
 宣統帝の退位
 「袁世凱」の総統就任の
 講和三条件を提示
 12月1日
 双方は
 『武漢地区停戦協定』
 を締結
 武漢地区は
 12月3日午前8時~12月6日午前8時まで
 の3日間の停戦が実現
 停戦後は休戦交渉が行われた
 ↓↑
 12月8日
 「袁世凱
 は
 「唐紹儀」
 を内閣総理大臣の全権代表として派遣
 12月9日
 「唐紹儀」
 は武漢に赴き
 「黎元洪」
 やその代表との会談を行い
 各省代表は
 「伍廷芳」
 を停戦交渉の全権代表に選出
 ↓↑
 清朝政府代表の
 「唐紹儀」
 と各省代表の
 「伍廷芳」
 は上海イギリス租界で交渉を開始
 「袁世凱
 は宣統帝の退位を支持することを条件に
 各省代表は
 「袁世凱
 の
 「中華民国大総統」
 への就任を支持した
 共和国から
 内戦や外国軍隊の介入を
 未然に防止する観点からも
 「孫文
 もまた中国の統一と
 「袁世凱
 を首班とする
 共和政府の樹立に同意
 ↓↑
 1912年1月1日
 中華民国臨時政府
 が正式に成立
 「孫文
 が臨時大総統に就任
 1月2日
 「孫文
 の大総統就任を知ると
 「袁世凱
 は
 「唐紹儀」
 の交渉代表資格を停止
 ↓↑
 1月16日
 「袁世凱
 は朝廷からの帰路
 東華門丁字街で
 同盟会京津分会組織の爆弾による
 暗殺計画に遭遇
 17日
 「袁世凱
 は革命勢力に対し
 暗殺活動の停止を要求
 ↓↑
 1月20日
 民国臨時政府は
 「袁世凱
 に対し、皇帝の退位と優待条件を提示
 1月22日
 「孫文
 は
 「袁世凱
 が宣統帝の退位に賛成すれば
 自らは大総統職を辞任し
 「袁世凱
 の就任を要請する声明を発表
 地位が保証された
 「袁世凱
 は清朝に対する圧力を強め
 慶親王
 「奕劻」
 と
 「那桐」
 への政治工作
 「隆裕太后
 の寵愛を受けた太監である
 「張蘭徳」
 に賄賂工作を行い
 「時局の大勢は既に決し
  もし革命軍が北京に到達すれば
  皇帝の生命の確保もおぼつかないが
  退位することで
  優待条件を受けることができる」
 と退位を勧めた
 ↓↑
 1月29日
 清朝は朝議により宣統帝の退位を決定
 2月3日
 「隆裕太后
 は
 「袁世凱
 に全権を委任
 民国臨時政府
 との皇帝退位条件の交渉に当らせた
 ↓↑
 退位詔書
 2月6日
 臨時参議院
 皇帝退位のための
 『優待条例』
 と
 「張謇」
 が起草した
 『退位詔書』を承認
 ↓↑
 大清皇帝尊号は
 今後も使用可能であり
 民国政府により
 外国君主と同等の待遇を受ける
 民国政府は
 毎年400万元を皇帝に支出する
 皇帝は
 暫時紫禁城に居住し
 後に頤和園に移る
 清室の宗廟は
 民国政府により保護を受ける
 光緒帝王の崇陵建設費用は
 民国政府が支出する
 宮廷内の雇人は継続して雇用される
 皇室の私有財産
 民国国軍により保護される
 禁軍は民国陸軍に編入する
 皇帝退位に伴う優待条件以外に
 清皇室
 及び
 満蒙
 回蔵各王族の
 待遇条件7条も同時に定められた
 ↓↑ 
 西園寺内閣は
 清と革命軍の
 妥協政策を
 イギリスに提案したが
 イギリスは
 「袁世凱
 と提携し
 共和制中華民国を成立させた
 日本陸軍
 辛亥革命を進出の機会ととらえ
 1912年1月
 居留民保護のため
 漢口に
 日本陸軍
 中清派遣隊 (中支那派遣隊)を
 漢口に派遣し
 1922年7月まで
 駐屯させた
 歩兵四個中隊
 7000人規模で
 北京天津の
 支那駐屯軍よりも大きいものであった
 この時
 ロシア、イギリスも派兵
 ↓↑
 1912年2月
 第一次満蒙独立運動を開始
 イギリスに主導権をとられたことで失敗
 日本陸軍
 日英同盟への不信をつのらせ
 他方
 外務省と日本海軍は
 日英同盟を重視し
 対立
 ↓↑
 2月12日
 清朝内閣総理大臣
 「袁世凱
 等の内閣勧告により
 宣統帝の母后である
 「隆裕太后
 は清皇室への優待条件を受け入れ
 『退位詔書
 を発布
 清朝最後の皇帝
 宣統帝の退位と
 「袁世凱
 が組織する共和政府への
 権限移譲が行われた
 有期限の元号は廃止
 1912年を
 元年とする
 無期限の
 民国紀元中華民国暦
 が施行された
 ↓↑
 『退位詔書
 は
 「張謇」
 により起草
 臨時参議院を通過したものである
 「袁世凱
 により
 全権組織された共和政府という表現は
 袁世凱により追加されたものである
 これにより清朝は滅亡し
 2000年以上続いた中国の帝政は廃止
  ↓↑
 「袁世凱
 は北京で
 第2代臨時大総統に就任
 宣統帝退位後の
 1912年2月13日
 「孫文
 は辞表を提出し
 臨時参議院に対し
 「袁世凱
 の大総統就任を推薦
 2月15日
 臨時参議院
 「袁世凱
 の
 第2代臨時大総統就任と
 南京を首都とすることを承認
 3月8日
 『中華民国臨時約法』
 を制定
 ↓↑
 3月10日
 「袁世凱
 は北京で
 中華民国
 第2代臨時大総統に就任
 諸外国からの
 政府承認が中華民国に行われた
 「袁世凱
 は北京兵変を理由に
 北京に遷都
  ↓↑
 「袁世凱
 は就任後強力な中央政府の保持に努め
 一部革命者による
 各省の分離独立の動きを阻止
 同時に
 列強との間に
 モンゴル
 チベット
 に対する主権承認交渉を行っている
 ↓↑
 1928年までの期間を
 「北洋時期」
 と称し
 期間内の中華民国政府は
 「北洋政府」と称される
 ↓↑
 1913年2月
 『臨時約法』
 中国史上初めての
 国会選挙が実施
 選挙の結果は
 国民党が第一党の地位を占め
 「宋教仁」
 を総理大臣とする内閣組閣準備が進められた
 3月20日
 「宋教仁」
 が上海で暗殺
 7月
 「孫文
 により第二次革命が計画され
 「袁世凱
 に対する武装蜂起が実行されたが
 鎮圧された
 第二次革命を阻止した
 「袁世凱
 は自ら皇帝を自称しようとしたが
 支持を得られずに失敗し
 病死
 (中華帝国
 ↓↑
 「袁世凱
 の死後
 中国は軍閥割拠
 「孫文
 は広州で
 護法政府を組織(第三次革命)
 中国の政治情勢は
 分断と動乱に突入
 ↓↑
 チベット
 「辛亥革命」に先立つ
 1906年~1910年
 四川省の総督
 「趙爾豊」
 が
 チベット東部地方一帯から
 ラサに至る地域を制圧
 チベットの国主
 「ダライラマ十三世」
 は1910年、インドに亡命
 ↓↑
 「趙爾豊」
 カム地方に
 西康省を設置
 「西蔵
 についても
 ガンデンポタンを廃して
 建省しようと試みたが
 1911年
 武昌蜂起の報に接して
 成都に帰還
 革命派との抗争に敗北して死去
 ↓↑
 ダライラマ十三世は
 インドからチベットに帰還し
 チベットの独立を宣言
 中国の統治機構の一掃を指示
 チベット軍は
 ラサから中国軍を一掃したのち
 東進を開始
 1蜀軍(=四川軍閥)に代わり
 カム地方東部に進出してきた
 雲南軍閥と激しい戦闘
 1913年
 イギリス参加の
 シムラ会議が始まり
 停戦が実現
 その後も
 チベットの全域の回復を目指す
 ガンデンポタン
 中国の地方軍閥
 (アムド地方の中央部を掌握する
  イスラム教徒の
  馬歩芳とその一族
  アムド地方の東南部
  カム地方の東部を掌握する四川軍閥
  カム地方の南部を掌握する雲南軍閥)
 とが対峙する形成が続く
 ↓↑
 参照
 by ウイッキペデア

----
   ↓↑   ↓↑
 「プラトン古事記をカタル(古事記字源)
  +
 (表紙・画像・音楽)」の
  移転先・・・
https://haa98940.wixsite.com/mysite/blog/archive/2016/12
 ↓↑
 ボクの「古事記字源」の発端・・・
https://haa98940.wixsite.com/mysite/blog/archive/2022/11
 ↓↑
 干支歴
http://meisiki.bake-neko.net/keisanBXG4.html
 ↓↑
 現在の「ボクのHP」は「モウ君の総合目次」として
 モウ君の総合目次 (bake-neko.net)
http://meisiki.bake-neko.net/kkmokuji.htm
 ↓↑
 追加添文
 「戦争と平和」・・・「モウケの生き方」
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