ないえごろうブログ

同音異義の探索

武装有りの独裁権力者・・・

 文字霊日記・3239日目

 武装無き「国家(コスタリカ)」の勝利
 武装準備「国家(ジポン)  」の敗北

 武装無き預言者・・・ドイッチャー
 アイザック・ドイッチャー
  (Isaac Deutscher)
 1907年 4月3日
 ~
 1967年 8月19日
       大運1965年7月(58歳)丁酉正財
 丁┏未(丁乙己)正財・正官 養⇔丁未正財
 癸┗卯(甲 乙)劫財・傷官 死⇔戊申偏官
 壬 午(丙 丁)  ・正財 胎⇔乙卯傷官
 辛 丑(癸辛己)印綬・正官 衰⇔丁丑正財
   申酉空亡
 ↓↑
 イギリス の
 マルクス主義 歴史学者
 ジャーナリスト
 政治活動家
 ポーランドユダヤ
 ソ連 問題評論家
  レフ・トロツキー
 ヨシフ・スターリン
 の 伝記 を著した
 ↓↑
 1907年4月3日
 オーストリア=ハンガリー帝国
 ポーランドガリツィア地域
 ユダヤ教徒の家庭に誕生
 成年期
 ユダヤ教に不敬な行為に及んでも
 現実的な罰が当たらずと自覚
 無神論者となった
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 クラシンスキ
 マリア・コノプニツカ
 を愛読し詩人に憧れ
 16歳
 初の詩集を
 ポーランド語で発刊
 詩の題材は
 ユダヤ教
 ポーランド神秘主義
 歴史や神話
 ポーランド
 イディッシュ文化
 との橋渡しに努めた
 ブライ、ラテン、ドイツ、イディッシュ
 の各語の
 詩をポーランド語に翻訳
 クラクフ
 ヤギェウォ大学
 学外生として
 文学、歴史、哲学を履修後
 18歳
 ワルシャワへ移り
 哲学と経済学
 マルクス主義者となる
 ↓↑
 1927年頃
 非合法のポーランド共産党に入党
 党の地下出版物の編集作業
 1931年
 第一次五ヶ年計画の
 ソ連を訪問、経済状況視察
 モスクワ大学
 ミンスク大学
 で教授就任の申し出を辞退
 ポーランドで地下活動
 共産党内で
 反スターリン主義グループを立ち上げ
 ナチズム
 と
 社会民主主義
 とが
 「相似である」
 とする
 共産党
 方針に反対し
      (社会ファシズム論)
       Sozialfaschismus
       social fascism)
       社会民主主義
       ファシズム
       同一とする用語
       ファシズム勢力より
       社会民主主義勢力の
       打倒を優先すべきとする
       主張
       社会民主主義主要打撃論
 異議を唱えた
 ↓↑
 1920年代後半~1930年代前半
 ヨシフ・スターリン
 コミンテルン
 の支持で
 各国の共産党が主張
 ナチス伸張期の
 ヴァイマル共和国時代の
 ドイツ共産党の実践によって顕著
 結果的に
 「NSDAP=国民社会主義ドイツ労働者党
  ドイツ語の略称
  National
  sozialistische
  Deutsche
  Arbeiter・・・アルバイト=労働・仕事・勉強
  partei」
 がドイツの政権を獲得し
 ドイツ共産党
 が
 非合法に追い込まれ
 この方針への反省がおこなわれ
 1935年
 コミンテルン第7回大会で
 自己批判
 ↓↑
 社会ファシズム
 社会民主主義
 と
 ファシズム
 を双子として同一視
 ↓↑
 ドイッチャーは
 共産党の不倶戴天の敵とした
 コミンテルン
 公式見解に反対
 異議を唱え
 1933年
 「ヨーロッパを覆う蛮行の危険」発表
 ナチズムに対抗する
 「人民戦線」
 の結成の呼び掛けで
 「ナチズムの危険性を誇張し
  共産主義者の団結に
  混乱を来たした」
 と共産党から除名処分
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 イギリス時代(1939年~1947年)
 1939年4月
 ポーランドを離れ
 ロンドンに渡る
 ポーランドユダヤ人向けの
 新聞社で記者
 トロツキスト
 革命的労働者同盟にも参加
 1939年9月
 ドイツが
 ポーランドへ侵攻
 英字誌で執筆を開始
 エコノミストの常連寄稿者となった
 ↓↑
 1940年
 スコットランド
 ポーランド軍に入隊
 破壊活動分子として捕虜生活
 1942年
 釈放され
 再びエコノミストに戻り
 ソ連や軍事問題の専門家として
 ヨーロッパ主任特派員に就任
 オブザーバー紙にも
 特派員として寄稿
 1946年~翌年
 ジャーナリズムから離れる
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 1949年
 処女作「スターリン
 『武装せる予言者(1954年)』
 『武力なき予言者(1954年)』
 『追放された予言者(1954年)』
 のトロツキー伝三部作を完成
 第三巻に収録されている内容の殆どは
 トロツキーの妻
 ナターリア・セドーヴァ
 が封印を解くまで未公開とされてきた
 イギリス前首相
 トニー・ブレア
 は2006年
 「生涯で最も感銘を受けた書物」
 とした
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 1960年代
 ベトナム戦争
 反戦で教祖的存在
 1965年
 カリフォルニア大学バークレー
 学内討論会参加
 冷戦批判
 1966年~翌年
 ケンブリッジ大学
 トレヴェリアンについての講義
 ニューヨーク州立大学
 6週間の教鞭
 1967年春
 ニューヨーク大学
 プリンストン大学
 ハーバード大学
 コロンビア大学
 客員教授
 「未完の革命」
 「トレヴェリアン」
    ジョージ・マコーリー・トレヴェリアン
   (George Macaulay Trevelyan)
    1876年2月16日~1962年7月21日)
    イギリスの歴史学者
 の連続講義の内容は
 1967年
 ローマで急死した直後に出版
 ↓↑
 ドイッチャーは
 「非ユダヤユダヤ人」自称
 無神論
 社会主義者
 ユダヤ教遺産の重要性を強調
 「イディッシズム
      (イディッシュ語(独語 Jiddisch
               英語 Yiddish)
       東欧のユダヤ人間で使用されている
               ヘブライ語
               独語方言に近い言葉」
 を嫌い
 ユダヤ系の労働組合には見向きもしなかった
 彼にとって
 「ユダヤ人」
 の定義とは
 宗教でもナショナリズムでもなく
 「迫害を受けた者と無条件に連帯」
 し
 「ユダヤの歴史の息吹を感じる」
 者であるとした
 第2次世界大戦前は
 反シオニズムの急先鋒であったが
 ホロコースト以後は
 生き残ったユダヤ人による
 イスラエル建国を
 「歴史的必然」
 と見なした
 1960年代
 パレスチナ難民問題を機に
 イスラエル批判
 1967年
 第三次中東戦争以後
 イスラエル軍
 パレスチナ占領地からの撤退を主張
 ↓↑
 参照、参考は
 by Wikipedia
 ↓↑
 武装有り権力者・・・

ーーーーー
 ・・・???・・・
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 「プラトン古事記をカタル(古事記字源)  + (表紙・画像・音楽)」の  移転先・・・
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 ボクの「古事記字源」の発端・・・
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 干支歴
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 追加添文 「戦争と平和」・・・「モウケの生き方」