ないえごろうブログ

同音異義の探索

笑うな・嗤うな・哂うな・・・ 厳禁嘲笑

 文字霊日記・3245日目

小泉 八雲
ハ+亅+白+水(氺)+八(捌)+雨+二+ム
パトリック・ラフカディオ・ハーン
PaTrick・rough・化・出意・嗚・頗・案

laugh・・・竹+夭=笑う=嗤う=倭等胡?
rough・・・「薔薇の名前」・・・
笑うな・嗤うな・哂うな・・・
厳禁嘲笑・・・

 小泉 八雲 (こいずみ やくも)
 ハ+亅+白+水(氺)+八(捌)+雨+二+ム
 ↓↑
 パトリック・ラフカディオ・ハーン
  (Patrick Lafcadio Hearn)
 1850年6月27日
 ~
 1904年(明治37年)9月26日)
     大運1903年12月(53歳)戊子劫財
 庚戌(辛丁戊)傷官・劫財 養⇔甲辰正官冲
  ┣三合丙・印綬
 壬午(丙 丁)正財・偏印建禄⇔癸酉偏財
 己酉(庚 辛)  ・食神長生⇔癸亥偏財
 乙丑(癸辛己)偏官・比肩 墓⇔癸丑偏財
  寅卯空亡
 ↓↑
 ギリシャ生まれ
 新聞記者(探訪記者)
 紀行文作家
 随筆家
 小説家
 日本研究家
 英文学者
agokan8
 ↓↑
 five senses
 視覚 (eyesight)
 聴覚 (hearing)
 触覚 (touch)
 味覚 (taste)
 嗅覚 (smell)
 五感に触れるものは「物質界」
 The material world appeal to the senses.
 ↓↑
 六感・・・the sixth sense
 物事の本質を直観的に感じとる心の働き
 勘やインスピレーション
agokan6
 微弱な電磁気を感じ取る能力
 「磁覚=ジカク=Magnetoception」
     自覚・・・自我や自分の行為を意識すること
          自己意識
          脳味噌機能での意識化
          意識化⇔言語化された記憶
              映像化された記憶
          自己認知度・自己理解度
          気づいていること
          気づくこと
          わかる
          conscious(コンシャス・こんさす)
          awareness(アウェアネス
          aware(アウェア)
       ・・「away= アウェイ・アウェー」=敵陣
              a way=エイ ワ イ
       on way=オン ウエイ
                  音  有獲意?
     字画・・・構成漢字の一線・一点
agokan5
 ↓↑
 生きている間の
 「認識世界」の根源は
 「五感(視覚・聴覚・触覚・味覚・嗅覚)」
 と、その
 「五感認識」した対象物を
 「形象化」し
 「音声言語へ互換(モノ⇔音声化)」
 そして
 「視覚言語へ互換(モノ⇔記号化)」
 した
 「脳味」への記憶である
 そして
 自己存在の状況を
 「カンガエルあし」
 としての結果を
 「身体機能化」させるながら・・・終焉・・・
agokan4
 ー↓↑ー--
  ギリシャ
 「ギリシャ語=希臘語」使用の
  グリーク(Greek)人
 彼ら自身は
 大洪水の生き残りの
 「ヘレネス・ヘレーン」
 を祖先とする
 「ヘレネス(ヘレーンの一族)」
  Hellēnes
 と称し
 「異国人・外国人・地方人」
      ギリシャ
     「ギリシャ語=希臘語」使用の
      グリーク(Greek language)
 の他者を
 「バルバロイ(意味のわからない言葉を話す者)」
 と呼んで区別
 バルバロス(βάρβαρος)
 バルバロイ(el:βάρβαροι)
 ↓↑
 ギリシア人=ヘレーンの子ら(ヘレネス
 彼ら以外の民族を
 「バルバロス(バルバロイ)」
 と呼んだ
 バルバロス=聞きづらい言葉を話す者
       醜い言語を話す者
 バルカン半島東部(ギリシアの北東)
 の
 トラキア地方に住む
 「トラキア」人
 「ペルシア」人
 ギリシア人には異民族の言葉が
 「バルバルバル」・・・「バベルの混乱=言語の混乱」
 と聞こえたから・・・
 「野蛮人」という意味はなかったが
 「トラキア人」が周辺の国々で奴隷扱いをされ
 「野蛮人」を指すようになった
 英語
 「barbarian(野蛮人)」
 の語源
 ↓↑
 ・・・バーバリー(Barbary)
 北アフリカマグリブ地方の別名
 原住民「ベルベル」に由来
 ↓↑
 バーバリー(Barbary)
 「trench coat」
 前の打ち合わせがダブル
 右肩に共布の二重覆い
 ベルト締め
 になっているコート
 ポケットが多く
 全体にゆったりとしたもの
 レイン(雨)・コート
 ダスター(塵)・コート
 として用いる
 第一次世界大戦
 イギリス兵が
 塹壕(トレンチ・trench)
 の中で着用した
 「防雨外套」・・・簔=みの=蓑
        雨合羽=straw rain‐coat
            straw rain‐cape
        マントル(英語 Mantle)
        マント(仏語 manteau・mɑ̃to)
        屋外で着用される袖なしの
        肩から身体を被う外套の一種
        釣鐘型の袖の無い
        身頃(みごろ)のみの形状の外套
ローブ(robe)
 ↓↑
 マケドニア人も
 ギリシャ語を話し
 ヘラクレスの血筋であるとされ
 一部の
 反マケドニア勢力を除けば
 「ヘレネス
 として広く認知されていた
 ↓↑
 「マケドニア
 王国の
 「アレクサンドロス
 大王の帝国建設などを経て
 広く中央アジアから
 地中海世界の各地にまで
 広がった
 「ギリシャ語を常用」
 するものをも指すように転じた
 英語の Greek
 仏語の Grec
 など
 イタリア半島の南部に
 移住した人々を
 古代
 「ローマ」人が
 その土地の名である
 「グラエキア (Graecia) 」
 から
 「グラエキ (Graeci) 」
 と呼んだことに由来
ー↓↑ー--
 ラテン文字(羅 abecedarium Latinum
       英 Latin alphabet
         ラテンアルファベット)
 それぞれの文字は
 子音か
 母音を表す
 ローマ文字(伊 alfabeto Romano
       英 Roman alphabet)
agokan2
  ↓↑
 初対面で相手の音声言語を
 相互に理解していない
 モノ同士の会話では
 「オンセイ」自体も
 「オンセイ」を
 「記録」した
 「表音文字」も
 「意味」が
 「不明・不理解」である
 だが
 「カンジ」の
 「線」と「点」
 「カク」の造形構成で
  その
 「表意」の・・・「憑依」?
 「イミ」が
 「ワカル」・・・
 文字は
 相互に
 「共通に認識」された
 「認識対象」の「具象化」である
 ↓↑
 音声が聞こえない
 「聴覚障害者」同士の
 世界認識の基本は「視覚認識」である
 ↓↑
 眼(目)が見えない
 「視覚障害者」同士の
 世界認識の基本は「聴覚認識」である
 ↓↑
 ラテン文字
 羅語 abecedarium Latinum
 英語 Latin alphabet
    ラテンアルファベット
 ラテン語などの表記文字
 アルファベット
 それぞれの文字は
 子音か母音を表す
 ローマ文字
 伊語 alfabeto Romano
 英語 Roman alphabet
 ラテン語文字
 古代ラテン人
   ローマ人が用いた
 表記は、文字を右書きで
     横に並べることで単語を表記し
     そのまま並べることで文章を構成
     単語間は分かち書き(隙間・空間)
 発音の文字の
 表記方法は各言語ごとに異なっており
 同じ綴りでも
 言語によって違う発音をする
 英語など
 古い時代に表記法が定められた言語においては
 表記と発音の間の乖離も大きい
 ↓↑
 ギリシャ人(ギリシャ
       Ἕλληνες=ˈelines
       Hellēnes=hellɛːnes
 バルカン半島周辺
 キプロスに出自を持ち
 ギリシャ語を母語とする民族
 ギリシャ人(ギリシャ共和国の国籍人)
 アルーマニア
 アルバニア人
 トルコ系
 ギリシャ国外からの移住者も含む
ー↓↑ー--
 古代ギリシャ時代
 ギリシャ語を話す
 ギリシャ
 自由民
 ギリシャ本土のみでなく
 小アジアやヨーロッパの各地に
 ギリシャから移住し
 建設された植民市の住民も含む
 マケドニア王国の
 アレクサンドロス大王
 帝国建設などを経て
 広く中央アジアから
 地中海世界の各地にまで広がった
 ギリシャ語を常用するものをも指す
 ↓↑
 中世・近世
 東ローマ帝国
 (ビザンツ帝国ビザンティン帝国
 オスマン帝国
 の統治下で
 ギリシャ地域
 植民地の
 小アジア
 エーゲ海の島々に広く居住し
 ギリシャ語を母語とし
 正教会
 キリスト教を信奉した人々のこと
 ↓↑
 バルカン半島北部の
 スラヴ人の南下で
 混血
 スラヴ人のほか
 アルメニア
 イタリア人
 クルド人
 などの居住者
 それらとの混血
 スラヴ人アルメニア人等の
 ギリシャ化などが進んだ地域住民
 ↓↑
 東ローマ帝国時代
 ローマ帝国市民としての自意識
 ロマイオイ
 ギリシア
  Ρωμαίοι
  ローマ人=ロメイ
 と自称
 「ヘレネス(エリネス)」
 は古代の異教徒
 地方都市や農村住民のこと
 212年
 「アントニヌス勅令」
 ローマ市民権
 ローマ帝国内の
 全自由人に与えられていた
 古代ローマ時代のことを
 「父祖の時代」と呼び
 古代ギリシャ人の子孫であることよりも
 古代ローマ帝国市民の末裔であることを
 誇りにしていた・・・
 10世紀
 東ローマ皇帝
 コンスタンティノス7世
 『テマの起源について』著書
 ヘラクレイオス朝時代(610~711)
 帝国の公用語
 ラテン語
 から
 ギリシャ語に改められたことを
 「父たちの、ローマ人の言葉を捨てた」
 と表現
 ↓↑
 東ローマ帝国
 知識人階層で
 ホメロスの詩
 を暗唱できるのが常識とされ
 中等教育では
 古典ギリシャ語の文法が教えられ
 古代ギリシャの古典文化が尊重された
 ↓↑
 東ローマ帝国末期
 パレオロゴス王朝
 ギリシャ古典文化が復興
 (パレオロゴス朝ルネサンス
 ギリシャ古典文化を身につけた
 ギリシャ人の一部は
 ヴェネツィア共和国による
 ペロポネソス半島
 キプロス島
 クレタ島
 などの支配
 1453年
 コンスタンティノープル陥落
 でイタリアなど西ヨーロッパに渡り
 ルネサンス期の古典復興に貢献
 ギリシャ人の中では、画家エル・グレコが有名である。
 ↓↑
 東ローマ帝国時代
 皇帝・高級官僚
 コンスタンティノープル総主教
 など支配階級が
 ギリシャ人によって占められていた
 ↓↑
 1821年
 ギリシャ国家独立
 ↓↑
 オスマン帝国時代
 東ローマ帝国の消滅後
 オスマン帝国の領内で
 人頭税を納める
 庇護民(ズィンミー)として
 正教会の信仰を維持することを認められ
 正教徒の自治体(ミッレト)を形成
 ブルガリア
 セルビア
 など
 オスマン帝国の正教徒社会の中で
 帝都イスタンブールを中心に
 帝国の中央部に住むギリシャ人たちは
 通訳官や地方長官として
 高い地位を得ていた
 ↓↑
 近代ギリシャ
 1822年
 ギリシャ王国が
 オスマン帝国から独立
 (1800年
  ギリシャ人国家
  イオニア七島連邦国成立)
 ↓↑
 第一次世界大戦
 オスマン帝国が敗北
 領土が西洋列強の手に分割
 ギリシャ王国にとっては
 小アジアギリシャ人の居住地帯を
 自領に加える最大の好機で
 1919年
 ギリシャ軍は小アジアに上陸し
 列強の同意を得
 スミルナ(イズミル
 を中心とする
 小アジア西南部の
 エーゲ海沿岸一帯を占領
 「ムスタファ・ケマル
 らによって
 アンカラ
 トルコ革命政権の激しい抵抗を受け
 1922年
 ギリシャ軍はイズミルから撤退
 アンカラ政府(トルコ共和国政府)
 と休戦
 住民交換協定締結
 人種区別は困難で
 宗教を基準
 トルコ語母語とする
 正教会信者(カラマンリ、カラマンル)
 もギリシャ人とされ
 スラヴ系やギリシャ系等の
 ムスリム
 テッサロニキ地方の
 イスラム教に改宗した
 ユダヤ人のほとんどは
 トルコ人として住民交換の対象となった
 ↓↑
 トルコの小アジア黒海沿岸部にも
 トレビゾンド帝国
 ギリシャ系国家が存在し
 オスマン帝国支配後も
 ポントス人等ギリシャ系住民の
 コミュニティが存在
 第一次世界大戦
 住民交換協定により
 黒海沿岸部居住のギリシャ系住民の多くが
 ギリシャ本国
 グルジア
 旧ソ連領へ出国
 グルジアとの国境付近には
 他の少数民族と混在する形で
   少数のギリシャ系住民が
 居住・・・
 ↓↑
 ギリシャキプロス
 オスマン帝国
 崩壊以前に
 イギリスの植民地
 キプロス島
 ギリシャに併合しようとする要求は
 島に数多く住むトルコ人たちとの軋轢
 ギリシャ併合を求める過激派の
 イギリス当局に対するテロを頻発
 1960年
 キプロス共和国
 としてどの国にも属さない
 独立国になったが
 1973年
 ギリシャ系大統領
 マカリオスが
 ギリシャ軍政政権の支援を受け
 クーデター
 トルコ軍はキプロスに介入し
 キプロス島北部を占領
 北キプロス・トルコ共和国建国
 キプロス共和国政府領域が
 全島の3分の2に縮小し
 統治する人々のほとんどがギリシャ系住民となった
 アルバニアギリシャ
 アルバニアの南部
 ギリシャ系住民が多くギリシャ語が使用
ー↓↑ー--
 王莽
 新王朝時
 上谷の太守
 并州牧に遷った
 (漁陽・上谷は隣接
  匈奴烏桓と境を接し
  侵略が多く統治の難しい場所
  并州は漁陽らが含まれる
  幽州の隣であり
  異民族に悩まされていた州)
 ↓↑
 新王朝が滅び
 更始帝
 更始帝
 郭伋を召して
 左馮翊に任命し
 民を鎮撫させた
 ↓↑
 更始帝が破れ
 光武帝が即位
 雍州牧として
 異民族と境を接する
 涼州へ赴任し
 呼び戻され
 尚書令に任命され度々諌争した
 ↓↑
 建武四年(28年・戊子)・・・建武
               後漢光武帝劉秀の
               最初の元号
 中山太守
 建武五年(29年・己丑)
 漁陽太守に遷った
 ↓↑
 郭伋は信賞必罰を徹底
 盗賊の首領を次々と誅した
 ↓↑
 匈奴に対し
 兵と馬を整備し
 攻守の計略を徹底した
 在職五年間で人口は倍になった
 ↓↑
 建武九年(33年・癸巳)
 潁川郡で盗賊が多発
 郭伋が太守として赴任
 ↓↑
 郭伋
 潁川郡に到着し
 群盗の罪を赦すと言い招き寄せ
 赦しを乞うた群盗を
 郭伋はみな帰農させた
 ↓↑
 郭伋は勝手に群盗を赦したことを
 光武帝咎めることは無かった
 ↓↑
 郭伋の名は
 江南まで及び
 昔赴任した
 幽州冀州からも続々と
 盗賊が降服
 ↓↑
 建武十一年(35年・乙未)
 光武帝に従わない
 盧芳が北方を占拠し
 再度
 郭伋を并州牧とし対抗させ
 光武帝
 盧芳
 匈奴
 の難に対処できるのは
 郭伋
 しかいないと
 朝廷へ召還することはなかった
 ↓↑
 盧+α・・・
 ↓↑
 鸕鶿草葺不合(うがやふきあえず)尊
 鸕鷀草葺不合
 鵜葺草葺不合
 ↓↑
 天津日高日子波限建-鵜葺草葺不合命
 彦波瀲武     -葺不合命
 彦波瀲武     -鸕鶿草葺不合尊
 日子波瀲武    -葺不合命
 ↓↑
 鸕=盧+鳥
 ↓↑
 盧芳・・・新代~後漢時代初期の武将
 ↓↑   字は君期
      涼州安定郡三水県
     (寧夏回族自治区同心県)の人
      兄は盧禽
      弟は盧程
      北方辺境で活動
      一時、皇帝を自称
      新末後漢初の群雄の1人
      王莽の統治期
      盧芳は
      武帝の曾孫・劉文伯を自称
      三水県の北方民族と共に挙兵
      更始二年(24年・甲申)・・・更の始、甲の申(猿)
      更始帝(劉玄)が長安に遷都
      盧芳は騎都尉に任命され
      安定以西の鎮撫を命じられた
      更始三年(25年・乙酉)
      更始政権滅亡
      三水の豪傑たちは
      漢の皇族を自称していた
      盧芳を上将軍、西平王として擁立
      西羌、匈奴と和約を結び
      匈奴
      単于単于與)は配下の
      句林王をして
      盧芳、盧禽、盧程を
      匈奴支配地域に招き
      盧芳を漢の皇帝として擁立
      建武四年(28年・戊子)
      単于輿は
      無楼且渠王を遣わし
      李興、閔堪など
      并州に割拠していた群雄と和親
      盧芳を漢皇帝として
      内地に還したいと告げ
      建武五年(29年・己丑)
      盧芳は
      李興、閔堪らから迎え入れられ
      九原県(五原郡)を根拠地とし
      北方辺境を割拠し
      五原、朔方、雲中、定襄、雁門
      5郡を占領
      建武六年(30年・庚寅)
      盧芳
      は腹心の五原太守
      李興とその兄弟を誅殺し
      腹心の
      朔方太守
      田颯
      雲中太守
      橋扈が
      盧芳に反して
      光武帝(劉秀)に降った
      盧芳は
      後漢
      大司馬呉漢や
      驃騎大将軍杜茂の度重なる討伐を撃退
      建武十二年(36年・丙申)
      盧芳が雲中を攻略でず
      部将の
     「随育」
      から光武帝に降伏するよう脅され
      盧芳は軍を放棄し
      匈奴の支配地に逃げ込んだ
      建武十六年(40年・庚子)
      盧芳は高柳(代郡)に入り
      閔堪とその兄
      閔林を使者とし
      光武帝に降伏を申し入れ
      光武帝は盧芳を代王に封じ
      閔堪を代の相
      閔林を代の太傅
      に任命
      盧芳らに匈奴との修好を担当させた
      建武十七年(41年・辛丑)
      入朝を求める
      光武帝からの詔を受け
      盧芳は洛陽へ向った
      途中で
      光武帝
      入朝は次の年
     (建武十八年・壬寅)に延期
      疑心を抱いた
      盧芳は
      代に戻って再び反逆
      部下の
      閔堪や閔林と数ヶ月にわたって
      攻防戦
      匈奴の救援を受け
      妻子と共に匈奴支配地域へ引き返し
 ↓↑    盧芳は、10年余り後に同地で病没
 盧芳の将であった
 随育(隋育・ズイイク)・・・随の育?
 が寝返り
 盧芳は匈奴の地へ落ちた
 ↓↑
 建武二十二年(46年・丙午)
 郭伋
 は老病であると上書し
 并州牧の罷免を願った
 光武帝
 郭伋を
 太中大夫
 に任命し、朝廷へ召還
 光武帝は莫大な財を
 郭伋に与えたが、
 自らの死期を知って
 郭伋はすべての財産を
 親族へ分け与えた
 翌建武二十三年(47年・丁未)
 激動の時を生きた
 郭伋
 は八十六歳で死没
 光武帝は葬式に列し
 郭伋の死を悼み、墓を下賜
 「後漢書・列伝二・盧芳伝」・・・
ーーーーー
 郭文貴・・・?
 「江沢民ファミリーの
  海外資産は
  1兆ドル」・・・???
 郭文貴
 が暴露 (2019年6月4日)
 米国に亡命した中国の富豪
 郭文貴は
 自身のSNS
 江沢民一族が海外で
 1兆ドルもの資産を有していると述べた
 そのうち
 5000万ドルはすでに洗浄
 郭氏
 4月13日
 ユーチューブで発表
 ↓↑
 郭嘉
 郭鎮、郭賀と郭禎、郭禧、郭鴻
 『後漢書』列伝2・盧芳伝
 ・・・???・・・

ーーーーー
 ・・・???・・・
   ↓↑   ↓↑
 「プラトン古事記をカタル(古事記字源)
  +
 (表紙・画像・音楽)」の
  移転先・・・
https://haa98940.wixsite.com/mysite/blog/archive/2016/12
 ↓↑
 ボクの「古事記字源」の発端・・・
https://haa98940.wixsite.com/mysite/blog/archive/2022/12
 ↓↑
 干支歴
http://meisiki.bake-neko.net/keisanBXG4.html
 ↓↑
 追加添文
 「戦争と平和」・・・「モウケの生き方」
https://haa98940.wixsite.com/mysite/single-post/2006%E5%B9%B4%EF%BC%91%EF%BC%91%E6%9C%88%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%8E%E9%A0%83%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%83%BB