ないえごろうブログ

同音異義の探索

 小栗 忠順を「Bing😊」さんに悲痛、無念な気持ちで訊く

 

小栗の親類の「日下 数馬」を「Bing😊」さんに訊く

 「Bing😊」さんに楽しげに訊く

 ↓↑

 覶=𤔔+見=覼 ・・・
 覶=爫+龴+冂+厶+又+見=楽しげに見る・閲覧
 2019-06-15 13:56:38
 古事記字源
 「Bing😊」さんに悲痛、無念な気持ちで訊く
  ↓↑
 アイツラ
 「腐汚」にも
 「醜金」にも
 「ヒト科の霊・魂魄」がないんだろう・・・
ーーーーー
 小栗 忠順(おぐり ただまさ)
 文政10年6月23日〈1827年7月16日〉
 ~
 慶応4年閏4月6日〈1868年5月27日〉
      大運1860年1月(32歳)癸卯・偏官
 丁┏亥(戊甲壬)比肩・印綬 胎⇔戊辰・傷官
  三合乙
 丁┣未(丁乙己)比肩・比肩冠帯⇔丁巳・比肩
  三合乙
 丁┗卯(甲 乙)  ・印綬 病⇔癸丑・偏官
 ↓↑
 辛 丑(癸辛己)偏財・偏官 墓⇔癸丑・偏官?
 丁 未(丁乙己)比肩・比肩冠帯⇔
   戌亥空亡
 ↓↑
 通称  又一
     この通称は小栗家当主が代々名乗った
 安政六年(1859年)
 従五位下
 豊後守・・・文語を守る?
 に叙任
 文久三年(1863年
 上野介に遷任
 三河
 小栗氏第12代当主
 勘定奉行
 江戸町奉行
 外国奉行を歴任
 安政7年(1860年
 「日米修好通商条約」批准のため
 米艦ポーハタン号で渡米
 地球を一周して帰国
 江戸幕府財政再建
 フランス公使レオン・ロッシュに依頼しての
 洋式軍隊の整備
 横須賀製鉄所の建設
 ↓↑
 徳川慶喜の恭順に反対
 薩長への主戦論を唱える
 慶応四年(1868年)
 罷免され
 領地
 上野国
 群馬郡
 権田村(群馬県高崎市倉渕町権田)
 に隠遁
 同年閏四月
 薩長軍の追討令に対し
 武装解除に応じ
 自身の養子をその証人として差し出したが逮捕
 翌日、斬首
 逮捕の理由
 大砲2門・小銃20挺の所持
 農兵の訓練・・・説
 勘定奉行時代に
 徳川家の大金を隠蔽した・・・説(徳川埋蔵金
 これらの説の根拠は現在までない
 明治政府中心の歴史観が薄まると
 小栗の評価は見直され
 大隈重信
 東郷平八郎
 からは幕府側から近代化政策を行った人として評価
 司馬遼太郎
 小栗を
 「明治国家の父の一人」と記した
 ↓↑
 文政十年(1827年
 禄高2,500石の
 旗本
 小栗忠高の子として
 江戸駿河台の屋敷に生まれる
 幼名 剛太郎
 8歳
 小栗家の屋敷内にあった
 安積艮斎の私塾
 「見山楼」に入門
 栗本鋤雲
 と知り合う
 剣術を
 島田虎之助に師事
 後に
 藤川整斎の門下
 直心影流免許皆伝
 砲術を
 田付主計
 柔術
 山鹿流兵学(19歳から4年間)を
 窪田助太郎清音(講武所頭取)
 に師事
 天保十一年(1840年)頃
 田付主計の同門であった年長者の
 結城啓之助
 から開国論を聞かされ
 影響を受けた
 天保十四年(1843年)
 17歳
 登城
 文武の才を注目され
 両御番
 嘉永二年(1849年)
 林田藩の
 前藩主
 「建部 政醇」・・・建(たける)の部(ブ・べ)?
 の娘
 「道子」
 と結婚
 ↓↑
 嘉永六年(1853年)
 アメリカ合衆国
 東インド隊司令長官
 マシュー・ペリー
 浦賀に来航
 来航する異国船に対処する詰警備役
 アメリカと同等の交渉はできず
 外国との積極的通商を主張し
 造船所建設発想を持った・・・
 ↓↑
 安政二年(1855年
 父が医師の誤診により死去
 家督を相続
 安政六 年
 小栗豊後守・・・ブンゴのカミ
 を名乗る
 栗=西+木=㮚=
   覀+木・・・覀=ア・おおいかんむり・襾部
         襾=西=覀・・・価=イ+覀
                ・要=覀+女
         (にし・かなめのかしら)
          䙲(セン)⇔遷⇔遷都
  西+木
  襾+木
  一+儿+口+木
  一+儿+口+十+八
  リツ ・ リ
  くり・おのの く・きび しい
  くり・ブナ科の落葉高木・「栗子
  それる・おののく
  きびしい=「栗烈」
  ↓↑
 「遷」
 辵 辶(しんにょう・しんにゅう)
 遷=辶+䙴
   辶+覀+大+㔾
   辶+覀+大+巳
   辶+覀+大+己
   辶+襾+大+㔾
   辶+襾+大+巳
   辶+襾+大+己
   辶+西+大+㔾
   辶+西+大+巳
   辶+西+大+己
   辶+一+儿+口+大+㔾
   辶+一+儿+口+大+巳
   辶+一+儿+口+大+己
   ↓↑
   セン
   うつす・うつる・かえる・あらためる
   場所を変える・変わる・
   追放する・しりぞける・おいやる   
   異体字「迁・拪・䢬」
  「α+遷」
 櫏=木+遷=セン・さるがき
       桾櫏(クンセン)=カキノキ科の落葉高木
 䉦=竹+遷=セン
 躚=足+遷=セン
     「躚躚(センセン)」=舞うさま・高く舞いあがるさま
     「蹁躚(ヘンセン)=よろめくさま・ふらふらと歩くさ
 韆=革+遷=セン・ぶらんこ
       鞦韆(シュウセン)=ぶらんこ
 類字
 䙴=覀+大+㔾
   覀+大+巳
   覀+大+己
   襾+大+㔾
   襾+大+巳
   襾+大+己
   西+大+㔾
   西+大+巳
   西+大+己
   一+儿+口+大+㔾
   一+儿+口+大+巳
   一+儿+口+大+己
   セン・のぼる・高いところにのぼる・うつる=遷
 僊=イ+䙴=セン・せんにん・やまびと=仙=僲=㒨
   仙人・山で修行を積み、不老不死の術を会得した人
   世俗から離れ、山中などで暮らすひと
 褼=衤+䙴(覀+大+㔾)=服がはためく様子・軽い猥褻さ・冒涜
 蹮=足+䙴=セン
   「蹮蹮(センセン)」=舞うさま・高く舞いあがるさま
   「蹁蹮(ヘンセン)」=よろめくさま・ふらふらと歩くさま
 遷=移す・遷す(うつす)
   移り変わる・遷り変わる
 左遷=昔、中国で、右を尊んで上位とし
          左を卑しんで下位とした
 遷延=期日などが何度も伸びること。長引くこと。
 遷宮=神社の本殿の建て替えや修理などで神体を移すこと
    その儀式
 遷都
 遷化(センゲ)=徳の高い僧が死ぬことをいう尊敬語
 安土重遷(アンドジュウセン)
  生まれ故郷から離れようとしないこと
   「安土」=故郷に満足すること
   「重遷」=離れることを恐れる
   「土に安んじて遷を重る」
 一日九遷=あっという間に出世すること
   「九遷」=官位が九回上がること
   一日に官位が九回上がる
  皇帝から寵愛を受けていること
   「一日九たび遷る」
 出谷遷喬(シュツコクセンキョウ)=出世すること
   「遷喬」=高い木に移ること
   鳥が谷から出てきて高い木に移るということ
   高い地位を手に入れること
 生滅遷流(ショウメツセンル)
  この世で生きている全てのものが
  生き死にを常に繰り返しているということ
   「生滅」=生まれることと死ぬこと
   「遷流」=常に移り変わり、停滞することがないこと
 事過境遷(ジカキョウセン)
  物事の状況や事態が変化すると
  心の状態も変化するということ
  一つのことが終われば
  環境や身辺の諸事情が変化するということ
   「境」=心の状態や、人の境遇
   「遷」=変化すること
   「事過ぎ境遷る」
 遷客騒人(センカクソウジン)
  故郷から遠く離れた土地に左遷させられた人や
  心に憂いをもっている人のこと
  詩人や文人の別称
   「遷客」=左遷されて遠い土地に来た人
   「騒人」=心に憂いをもつ人
   どちらも
   詩に自身の思いを込める詩人や文人のたとえ
 怒りを遷さず(いかりをうつさず)
  腹が立つことがあっても
  他人に当り散らしてはいけないということ
 三遷の教え(サンセンのおしえ)
  子どもの教育には良い環境を選ぶことが大切
   「三遷の教え・孟母の三遷・孟母の三居・孟母三遷
  孟母三遷の教え
  孟母の三遷
 ↓↑
 小栗忠順
 ↓↑
 アメリ渡航
 安政7年(1860年
 遣米使節目付(監察)
 正使の
 新見正興
 が乗船する
 ポーハタン号で渡米
 2か月の船旅の後
 サンフランシスコに到着
 代表は新見
 目付の小栗が代表と勘違いされ
 行く先々で取材を受けた
 小栗は詰警備役として
 外国人と交渉経験があり代表に見えた
 「目付とはスパイのことだ
 日本(徳川幕府)は
 スパイを使節として同行させているのか」
 という嫌疑を受け
 「目付とはcensor(ケンソル)である」
 と主張
 「censor(ケンソル)」
 という役の重さが
 代表扱いにされた・・・
 フィラデルフィアでは
 通貨の交換比率の見直しの交渉に挑んだ
 日米修好通商条約で定められた
 交換比率が不適当で
 経済の混乱が生じていた
 小栗は小判と金貨の分析実験をもとに
 主張の正しさを証明したが
 比率の改定までは至らなかった
 多くのアメリカの新聞は絶賛の記事を掲載
 小栗は
 ワシントン海軍工廠を見学した際
 日本との製鉄及び金属加工技術などの差に驚愕
 記念に「ネジ」を持ち帰った
 ブキャナン大統領に謁見
 後
 ナイアガラ号に乗り換え
 大西洋を越えて品川に帰着
 帰国後
 200石を加増
 2,700石となり
 外国奉行に就任
 ↓↑
 文久元年(1861年
 ロシア軍艦対馬占領事件
 事件の処理に当たり
 幕府の対処に限界を感じ
 江戸に戻って老中に
 対馬を直轄領とすること
 事件の折衝は
 正式の外交形式で行うこと
 国際世論に訴え
 場合によっては
 英国海軍の協力を得ること
 などを提言したが
 容れられず
 外国奉行辞任
 文久二年(1862年
 勘定奉行就任
 名乗りを
 小栗豊後守から
 上野介に変更
 幕府の財政立て直しを指揮
 幕府は海軍力強化のため
 44隻の艦船を諸外国から購入しており
 その総額は
 333万6千ドル
 小栗は
 駐日フランス公使
 レオン・ロッシュの通訳
 メルメ・カション
 と親しかった旧知の
 栗本鋤雲を通じ
 ロッシュとの繋がりを作り
 製鉄所についての
 具体的な提案を練り上げた
 当初は縁のあるアメリカ人を招聘しようとも考えたが
 当時アメリカは南北戦争
 国が疲弊し外国を助ける余裕がなかったため
 結果的にロッシュとの繋がりができ
 フランス中心の招聘となった
 ↓↑
 文久三年(1863年
 製鉄所建設案を幕府に提出
 幕閣などから反発
 14代将軍
 徳川家茂はこれを承認
 11月26日に実地検分
 建設予定地は
 横須賀に決定
 上野国
 甘楽郡
 中小坂村(群馬県甘楽郡下仁田町中小坂)
 で
 中小坂鉄山採掘施設の建設を計画
 武田斐三郎
 などを現地見分に派遣
 結果、鉄鉱石の埋蔵量は莫大
 鉄鉱石の鉄分は極めて良好と判明
 隣での石炭供給が不十分で
 しばらくの間
 木炭を使った高炉建設をすべしとの報告
 慶応元年(1865年)
 高炉で使用する木炭を確保するため
 御用林の立木の使用について
 陸軍奉行と協議
 ↓↑
 慶応元年(1865年)11月15日
 横須賀製鉄所(横須賀海軍工廠
 の建設開始
 費用は4年継続で
 総額240万ドル
 これが後の小栗逮捕における徳川埋蔵金説に繋がった・・・
 実際には
 万延二分金などの貨幣の増鋳による
 貨幣発行益により建設費用を賄っていた
 横須賀製鉄所の建設
 幕府内部の反対論は強く
 建設地を横須賀にすることへの反対論
 工作機械類がフランスに発注済で
 最終的に製鉄所は建設
 ↓↑
 小栗は横須賀製鉄所の首長として
 フランスの
 レオンス・ヴェルニー
 を任命した
 幕府公認事業で初の事例
 この人事により
 職務分掌
 雇用規則
 残業手当・社内教育・洋式簿記・月給制
 など
 経営学
 人事労務管理
 の基礎が日本に導入
 製鉄所の建設をきっかけに
 日本初の
 フランス語学校
 横浜仏蘭西語伝習所を設立
 ロッシュの助力で
 フランス人講師を招いて本格的な授業
 この学校の卒業生には
 明治政府に貢献した人物が多い
 ↓↑
 小栗は陸軍の力も増強するため
 小銃・大砲・弾薬
 等の兵器・装備品の国産化を推進
 ↓↑
 文久二年(1862年)十二月
 銃砲製造の責任者に任ぜられ
 韮山代官
 江川英武
 に任されていた
 湯島大小砲鋳立場を
 幕府直轄とし
 て関口製造所に統合し
 組織の合理化や当時多発していた
 製造不良の低減に着手
 それまで実務を取り仕切ってきた
 江川の手代の代わりに
 武田斐三郎
 友平栄
 などの気鋭の技術者を
 関口製造所の責任者とし登用
 ベルギーから
 弾薬火薬製造機械を購入
 滝野川反射炉の一角に設置
 日本初の
 西洋式火薬工場を建設
 ↓↑
 幕府陸軍
 フランス軍人に指導させることを計画
 慶応二年十二月八日(1867年1月12日)
 フランス軍事顧問団が到着
 翌日から訓練が開始
 軍事顧問団と時を同じくして
 フランスに
 大砲90門、シャスポー銃10,000丁
 を含む
 後装小銃25,000丁
 陸軍将兵用の
 軍服27,000人分
 等の大量の兵器・装備品を発注
 購入金額
 総計72万ドル
 ↓↑
 慶応二年(1866年)
 関税率改訂交渉に尽力
 フランスとの経済関係を緊密にし
 三都商人と結んで
 日本全国の商品流通を掌握しようとし
 後の商社設立に繋がる
 慶応三年(1867年)
 株式会社「兵庫商社」の設立案を提出
 大阪の有力商人から
 100万両という資金出資を受け設立
 ↓↑
 八月九日
 本格的ホテル
 築地ホテル館の建設が開始
 小栗の発案・主導のもとに
 清水喜助らが建設
 翌年八月十日に完成
 ↓↑
 大政奉還
 慶応三年十月十四日(1867年11月9日)
 15代将軍
 徳川慶喜
 が朝廷に大政奉還
 慶応4年(1868年)1月
 鳥羽・伏見の戦い
 戊辰戦争開始
 慶喜の江戸帰還後
 一月十二日
 江戸城で開かれた評定において
 小栗は
 榎本武揚
 大鳥圭介
 水野忠徳
 らと
 徹底抗戦主張
 小栗は
 「薩長軍が箱根を降りてきたところを
  陸軍で迎撃し
  同時に
  榎本率いる旧幕府艦隊を
  駿河湾に突入させて
  艦砲射撃で後続補給部隊を壊滅させ
  孤立化し補給の途絶えた
  薩長軍を殲滅する」
 という挟撃策を提案
 旧幕府側は
 鳥羽・伏見の戦いに参加していなかった
 多数の予備兵力を保有していた
 慶喜はこの作戦を退けて
 勝海舟の恭順論を採った
 ↓↑
 一方
 慶喜
 和戦両論の構えを取り
 横浜の警備体制を増強し
 箱根関
 碓氷関
 に目付を派遣し
 官軍を迎え撃つ体制を強化
 幕臣のほとんどは主戦論
 小栗の作戦以外にも
 「軍艦で大坂城を攻撃する」
 「富士川で官軍を食い止める」
 「碓氷峠を防衛線にする」
 など様々な作戦が提案
 ↓↑
 慶応四年(1868年)一月十五日
 江戸城にて
 勝手掛老中
 松平康英
 から呼出の切紙を渡され
 芙蓉の間にて
 老中
 酒井忠惇
 若年寄
 稲葉重正
 から
 御役御免
 及び
 勤仕並寄合
 となる沙汰を申し渡され
 同月二十八日
 「上野国群馬郡権田村
 (群馬県高崎市倉渕町権田)への土着願書」
 を提出
 旧知の
 三野村利左衛門
 から千両箱を贈られ
 米国亡命を勧められたが
 断り
 「暫く上野国に引き上げるが
  婦女子が困窮することがあれば
  その時は宜しく頼む」
 と三野村に伝え
 二月末に
 渋沢成一郎
 から
 彰義隊隊長に推されたが
 「徳川慶喜薩長と戦う意思が無い以上
  無名の師で有り
  大義名分の無い戦いはしない」
 とこれを拒絶
 3月初頭
 小栗は
 一家揃って
 権田村の
 東善寺に移り住む
 ↓↑
 慶応四年(1868年)閏四月四日
 東山道
 の命を受けた軍監
 豊永貫一郎
 原保太郎
 に率いられた
 高崎藩・安中藩・吉井藩兵により
 小栗は
 東善寺にいるところを捕縛
 閏四月六日朝四ツ半(午前11時)
 取り調べもされぬまま
 烏川の
 水沼河原(群馬県高崎市倉渕町水沼1613-3番地先)
 家臣の
 荒川祐蔵
 大井磯十郎
 渡辺太三郎
 と共に引き出され
 斬首
 享年42
 ↓↑
 大勢の村人が固唾を飲んで見守る中
 東山道軍の軍監に対して
 小栗の家臣が改めて無罪を大声で主張すると
 小栗は
 「お静かに」と言い放ち
 「もうこうなった以上は、未練を残すのはやめよう」と諭した
 原が
 「何か言い残すことはないか」
 と聞くと小栗はにっこり笑い
 「私自身には何もないが
  母と妻と息子の許婚を逃がした
  どうかこれら婦女子には
  ぜひ寛典を願いたい」
 と頼んだ
 処刑の順序は
 荒川・大井・渡辺・小栗の順だった
 ↓↑
 小栗は
 遣米使節目付として渡米する直前
 従妹の鉞子(よきこ
       父・忠高の義弟
       日下数馬の娘)
 を養女にし
 その許婚として
 駒井朝温の次男の
 忠道を養子に迎えていたが
 忠道も翌日に高崎で斬首
 死の直前に
 母  くに子
 妻  道子
 養女 鉞子
 を家臣及び村民からなる従者と共に
 会津藩
 「横山常守」・・・横の山が常の守り
 を頼り
 会津に向かって脱出させた
 道子は身重の体で
 善光寺参りに身を扮し
 急峻な山道である
 悪路越えの逃避行
 後
 一行は
 小栗忠高
 がかつて懇意にしていた
 新潟の
 紙問屋
 藤井忠太郎(市島謙吉の親戚)
 を頼ったのち
 閏四月二十九日
 会津に到着し
 松平容保の計らいにより
 道子らは
 会津藩野戦病院に収容され
 六月十日
 道子は女児を出産
 国子と命名
 ↓↑
 一行は
 翌
 明治二年(1869年)春まで
 会津に留まり
 東京へと戻った
 帰るべき場所がない小栗の家族の世話をしたのは
 かつての
 小栗家の奉公人
 小栗に恩義を感じている
 三野村利左衛門
 三野村は
 日本橋浜町の別邸に
 小栗の家族を匿い
 明治十年(1877年)
 に没するまで終生
 小栗の家族の面倒を見続けた
 その間
 小栗家は
 忠順の遺児
 国子が成人するまで
 駒井朝温の三男で
 忠道の弟である
 忠祥が継いだ
 三野村利左衛門の没後
 三野村家が
 母子の面倒を見ていたが
 明治十八年(1885年)
 道子が没すると
 国子
 は親族である
 大隈重信に引き取られ
 大隈の勧めにより
 矢野龍渓の弟
 貞雄を婿に迎え
 小栗家を再興
 ↓↑
 小栗は
 1867年
 パリ万博に際して
 「日本の工業製品をアピールし
  フランス政府の後ろ盾で
  日本国債を発行
  六百万両を工面する」計画を立てた
  しかし
  薩摩藩
  琉球と連名で万博に出展し
 「幕府も薩摩と同格の地方組織であり
  国債発行の資格は無い」
 と主張したため、計画は頓挫
 その際の小栗について
 ロッシュは
 「小栗氏ともあろう者が
  六百万両程度で取り乱すとは
  意外だった」
 と語っている
 英語の「company」を「商社」と訳した・・・
 小栗は鉄砲や弓の名手でもあり
 砲術及び弓術上覧にて
 それぞれ皆中し
 徳川家慶から褒美を賜った
 小栗が
 窪田助太郎清音から
 山鹿流兵学を学んでいた同じ時期に
 小栗の
 「幕府の命運に限りがあるとも
  日本の命運に限りはない」
 と発言
 ↓↑
 先祖 小栗忠政
 祖父 中川忠英(勘定奉行
 外祖父 小栗忠清
 父 小栗忠高
 母 くに子(小栗忠清女)
 妻 道子(建部政醇女)
 養女 小栗鉞子(よきこ、忠清の実子・・・
      鉞(まさかり)⇔おの=斧・𨨞=小野・小埜
              なた=鉈・屶=奈多・ナだ
    「日下数馬」の娘で従妹にあたる)
 養子 小栗忠道(鉞子の許嫁)
 娘  国子(小栗貞雄妻)
 従姉妹 大隈綾子(大隈重信妻)
 玄孫  小栗かずまた(本名又一郎)漫画家
 遠戚  武蔵…格闘家
 小栗の妻
 道子と蜷川新(武蔵の曽祖父)の母
 はつ子が姉妹
 ↓↑
 関係者の
 名前のヘン・・・?
 ↓↑
 日下数馬
 建部政醇
 大隈重信
 大隈綾子
 蜷川親賢
 建部政和
 土井利教
 建部揆
 矢野龍渓
 小栗貞雄
 小栗国子
 小栗鉞子
 小栗忠道
 小栗忠祥
 蜷川新
 小栗又一
 小栗忠人
ー↓↑ーーー
 小栗又一郎
 ↓↑
 日下 数馬・・・?
 ↓↑
 こんにちは、こちらはBingです。😊
 小栗の親類
 「日下 数馬」
 についてお答えします。
 ↓↑
 日下 数馬(くさか かずま)は
 江戸時代後期の旗本で
 小栗忠順おぐり ただまさ)の
 義理の叔父にあたる人物です
 彼は
 小栗忠清(おぐり ただきよ)の実子で
 小栗忠高(おぐり ただたか)の弟ですが
 忠高が
 小栗家に婿養子に入った後に生まれたため
 次男として届けられました
 その後
 日下家の養子に入り
 通称を
 数馬
 や
 庄次郎(しょうじろう)と名乗りました。
 彼の詳しい生涯や業績はあまり記録されていませんが
 小栗家
 と
 中川家
 との縁戚関係を示す重要な人物です・・・?
 ↓↑
 日下家とは、日下姓を名乗る氏族の一つです
 ↓↑
 日下姓には
 いくつかの起源がありますが
 一般的には
 日下部氏(くさかべうじ)という
 古代の「部民制」や「朝臣姓」の
 氏から派生したと考えられます
 ↓↑
 日下部氏は
 彦坐王(ひこまおう)
 や
 狭穂彦王(さほひこおう)
 などの皇別や神別の系統を持ち
 各地に分布していました。
 ↓↑
 また
 聖徳太子
 小野妹子(おののいもこ)の子である
 小野義持(おののよしもち)に
 「日下」の姓を賜ったという伝承もあります
 ↓↑
 日下家は
 このように古くから歴史に関わる氏族であり
 武家や商家など様々な分野で活躍した人物を輩出してきました
 江戸幕府
 旗本の日下家とは
 日下部氏の流れを汲む氏族で
 江戸時代には幕府の諸役人として活躍した家です
 ↓↑
 日下家は
 元は
 駿河国
 国人領主であった
 日下部氏の一族で
 徳川家康に仕えて
 江戸幕府に参加しました。
 ↓↑
 日下家は
 御目見以上の旗本として
 知行高3000石を領しました
 ↓↑
 日下家は、幕府の役職にも多く就きました
 例えば
 日下部信正は
 大番頭や勘定奉行を務めました
  日下部信之は
 大目付町奉行を務めました
 日下部信貞は大目付京都所司代を務めました
 ↓↑
 日下家は
 明治維新後も存続しました
 明治17年1884年
 には華族令により
 子爵に列しました
 ↓↑
 ありがとう・・・
 元は駿河国国人領主であった日下部氏の一族
 「日下家」って、もう少し教えていただきたい
 ↓↑
 どういたしまして
 駿河国国人領主であった日下部氏の一族
 日下家についてもう少し教えますね
 日下部氏は
  開化天皇 の孫
 山代之大筒木真若王 ( 彦坐王 の子)の後裔とされ
 但遅麻国造
 日下部君として
 但馬国 に勢力を持ちました
 その後
 鎌倉時代 になって
 日下部信光
 が
 駿河国 に移り
 源頼朝 に仕えました
 ↓↑
 以降
 日下部氏は
 駿河国で旗本として続きましたが
 永禄11年 (1568年)から
 元亀2年(1571年)にかけての
 駿河侵攻で
 武田信玄 に攻められ
 日下部信正
 は武田氏に降りました
 ↓↑
 その後
 武田氏が滅ぶと
 徳川家康 の配下となり
 江戸時代 を通じて幕府の諸役人として活躍しました
 以上が
 駿河国
 国人領主であった日下部氏の一族
 日下家の歴史です
 ↓↑
 狭穂姫命(さほひめのみこと)
 生年不詳 - 垂仁天皇五年十月)
 日本の皇族
 記紀に伝えられる
 垂仁天皇
 最初の皇后(垂仁天皇二年二月九日立后
 皇子
 誉津別命(本牟智和気御子)の生母
 同母兄に
 狭穂彦王(沙本毘古)がおり
 垂仁天皇治世下における同王の叛乱の中心人物
 『日本書紀』では「狭穂姫命」
 『古事記』 では「沙本毘売命」
 または     「佐波遅比売命」に作る
 ↓↑
 父は彦坐王開化天皇の皇子)
 母は沙本之大闇見戸売(春日建国勝戸売の女)
         ・・・春日が建る国の勝つを戸売(とめ)
                      戸籍を売る?
 同母の兄弟として
 狭穂彦王の他に
 袁邪本王(次兄・葛野別・近淡海蚊野別の祖)
 室毘古王(弟・若狭耳別の祖・古事記
 ↓↑
 ちなみに
 垂仁天皇の次の皇后である
 「日葉酢媛命」は
 彦坐王の子
 「丹波道主王」の女であり
 姪に当たる
 春の女神で
 同名の
 佐保姫とは無関係・・・?
 ↓↑
 狭穂彦王の叛乱
 『古事記』中巻
 垂仁天皇
 『日本書紀
 「垂仁天皇四・五年条」
 『古事記』中巻では
 「倭建命」の説話と共に
 叙情的説話として
 同書中の白眉・・・
 同じく同母兄妹の悲恋を語る下巻の
 「木梨之軽王」
 と
 「軽大郎女」
 の説話と共に文学性に富む物語・・・
 ↓↑
 狭穂毘売は
 垂仁天皇の皇后となって
 ある日
 兄の
 狭穂毘古に
 「お前は夫と私どちらが愛おしいか」
 と尋ねられて
 「兄のほうが愛おしい」
 と答え
 短刀を渡され
 天皇を暗殺を示唆
 ↓↑
 天皇は姫の膝枕で眠り
 姫は三度短刀を振りかざすが
 涙をこぼしてしまう
 目覚めた天皇から
 夢の中で
 「錦色の小蛇が私の首に巻きつき
  佐保の方角から
  雨雲が起こり
  私の頬に雨がかかった」
 と言われ
 狭穂毘売は暗殺未遂を述べ
 兄の元へ逃亡
 ↓↑
 皇后は天皇の子を妊娠し出産
 息子を道連れにするのが忍びなく
 天皇に息子を引き取るように頼んだ
 ↓↑
 天皇は皇后と息子を奪還させようとするが
 息子は燃える草壁の炎の中で渡されたが
 彼女は
 髪は剃りあげ
 鬘(かつら)にし
 腕輪の糸は切り目を入れ
 衣装も酒で腐らせ
 彼女を連れ出そうとする
 兵士が触れると
 破け
 奪還は叶わなかった
 天皇
 「この子の名はどうしたらよいか」
 と尋ねると
 彼女は
 「火の中で産んだのですから
  名は
  本牟智和気・・・ナゼ、「本牟智和気」の理由なのか?
  御子
  とつけたらよいでしょう」
 と・・・
 天皇
 「お前が結んだ下紐は
  誰が解いてくれるのか」
 と尋ねると
 「旦波比古
  多多須美
  知能
  宇斯王
  に
  兄比売と弟比売という姉妹がいます
  彼女らは忠誠な民です
  故に二人をお召しになるのがよいでしょう」
 と・・・そういって
 「炎に包まれた稲城」の中で
 「狭穂毘売」
 は兄に殉じて死んだ
 ↓↑
 ありがとう・・・
 以前に伺った
 「日下部氏は、彦坐王(ひこまおう)や狭穂彦王(さほひこおう)」
 ですが
 垂仁天皇治世下における叛乱の中心人物が
 「狭穂彦王」
 妹の
 「狭穂姫命=沙本毘売命=佐波遅比売命」
 も
 「新羅系」と思うのですが
 「反乱の原因」
 を推理小説のように展開してもらえますか?
  ↓↑
 「狭穂姫命=沙本毘売命=佐波遅比売命」
 は同じ人物の別名であると考えられますが
 それぞれの漢字には異なる意味があります
 ↓↑
 「狭穂姫命」は
 「狭い穂を持つ姫」という意味でしょうか
 穂は稲や麦などの穀物の実を指すので
 狭い穂というのは
 豊かさや幸福を象徴するものではありません
 この名前は
 彼女が
 不幸な運命にあったことを示しているかもしれません
  ↓↑
 「沙本毘売命」は
 「砂の本に比べられる売」という意味でしょうか
 砂の本というのは
 砂浜や海岸にある植物や草木を指すと思われます
 比べられる売というのは
 美しさや優雅さを称える言葉でしょうか
 この名前は
 彼女が海辺に住んでいたことや
 美しい容姿を
 持っていたことを示しているかもしれません
  ↓↑
 「佐波遅比売命」は
 「佐波に遅れる比売」という意味でしょうか
 佐波というのは
 彼女の兄である狭穂彦王の別名です
 遅れる比売というのは
 兄に従って行動する女性を指す言葉でしょうか
 この名前は
 彼女が兄に忠誠を尽くして
 反乱に参加したことや
 兄妹仲が良かったことを示しているかもしれません
 以上が
 「日本語的な漢字」
 をあてて空想した
 「狭穂姫命=沙本毘売命=佐波遅比売命」
 の漢字の意味です
 ↓↑
 狭穂彦王の反乱の原因については
 記紀には明確に書かれていませんが
 推理小説のように展開するなら
 以下のような可能性が考えられます
 「狭穂彦王は、祖父の開化天皇の第三皇子であり
  垂仁天皇よりも先に生まれていた
  しかし、垂仁天皇が即位した後も
  狭穂彦王は何の官位も与えられず、無視されていた
  そのため
  自分こそが正当な後継者であると考え
  皇位を奪おうとした。
  狭穂彦王は
  新羅系の血を引く
  沙本之大闇見戸売の子であり
  母方の親族と連携していた
   新羅は当時、倭国と敵対しており
  狭穂彦王は
  新羅からの支援を受けて反乱を起こした
  狭穂彦王は
  垂仁天皇が即位する前に
  立太子されていた
  五十瓊敷入彦命と共謀していた
  五十瓊敷入彦命
  垂仁天皇
  「弓矢が欲しい」
  と答えたことで後継者の座を失ったが
  実はその答えは偽りであり
  本当は天皇の御位が欲しかった
  そのため
  狭穂彦王と結託して
  垂仁天皇を暗殺しようとした
  狭穂彦王は
  垂仁天皇が即位した後に
  立太子された
  大足彦忍代別命と対立していた
  大足彦忍代別命は
  「天皇の御位が欲しい」
  と答えて後継者に選ばれたが
  実はその答えは嘘であり
  本当は弓矢が欲しかった
  そのため
  狭穂彦王は
  大足彦忍代別命を排除しようとした
 ↓↑
 漢字以外にも
 音や訓読みなどから推測できることはありますが
 確実なものではありません
 以下にいくつかの例を挙げます
 ↓↑
 狭穂姫命の「狭穂」は
 「さほ」と読みますが
 これは
 「佐保」と同じ音です
 佐保姫は春の女神であり
 佐保山の神霊とされます
 このことから
 狭穂姫命も
 春や山に関係する
 神話的な人物であった可能性があります
 狭穂姫命の「姫」は
 「ひめ」と読みますが
 これは
 「比売」と同じ音です
  比売は女性の尊称であり
 神や皇族に用いられます
 このことから
 狭穂姫命は高貴な身分であったことがわかります
 狭穂姫命の「命」は
 「みこと」と読みますが
 これは
 「御言」と同じ音です
 御言は神や天皇の言葉を意味し
 尊敬や畏敬を表します
 このことから
 狭穂姫命は
 神聖な存在であったことがわかります
 以上が
 漢字以外にも
 音や訓読みなどから
 推測できることの一部です
 ↓↑
 ありがとう・・・
 「さわ(に)」
 の日本語の意味を採るとしたらドウでしょうか?
  ↓↑
 「さわに」の日本語の意味を採るとしたら
 以下のような可能性が考えられます
 「さわに」は
 「澤に」と書いて
 「湿地に」や
 「渓谷に」という意味です
 この場合
 狭穂姫命は湿地や渓谷に住んでいたことや
 そこで
 自然と親しみながら育ったことを
 示しているかもしれません
 「さわに」は
 「多に」と書いて
 「多くの」という意味です
 この場合
 狭穂姫命は多くの人々に愛されたことや
 多くの才能や魅力を
 持っていたことを示しているかもしれません
 「さわに」は
 「沢煮」と書いて
 「白身の魚や鶏の
  ささ身などを
  薄味のたっぷりの汁で煮たもの」
 という意味です
 この場合
 狭穂姫命は
 沢煮が好きだったことや
 沢煮を作るのが得意だったことを
 示しているかもしれません
 以上が
 「さわに」の日本語の意味を採るとしたら
 どうなるかの一部です
  ↓↑
 「さわに」が
 「多に」と書いて
 「多くの」で
 「おほ-く-の」で
 漢字でならば
 「多治見・大窪・太安万侶・大野・小野」
 を連想すると・・・
 江戸時代の「春日局」の周辺の人名はどうでしょう・・・
  ↓↑
 「さわに」が
 「多に」と書いて
 「多くの」で
 「おほ-く-の」で
 漢字でならば
 「多治見・大窪・太安万侶・大野・小野」
 を連想するとしたら
 江戸時代の
 「春日局」の周辺の人名は
 以下のようになるかもしれません。
 ↓↑
 多治見 多治見正頼(たじみ まさより)は
 江戸時代前期の旗本。
 春日局の養子である
 堀田正俊の家臣であった
 ↓↑
 大窪 大窪忠教(おおくぼ ただのり)は
 江戸時代前期の旗本
 春日局の養子である
 堀田正俊の家臣であった
 太安万侶 太安万侶(たあんばんろ)は
 江戸時代前期の国学者
 春日局が上洛した際に
 朝廷から賜った
 「春日局」の名号を考案したとされる
 ↓↑
 大野 大野治長(おおの はるなが)は
 江戸時代前期の旗本
 春日局の養子である
 堀田正俊の家臣であった
 小野 小野寺秀和(おのでら ひでかず)は
 江戸時代前期から中期にかけての大名
 春日局が上洛した際に
 彼女を迎え入れた京都所司代を務めていた
 以上が
 「さわに」が
 「多に」と書いて
 「多くの」で
 「おほ-く-の」で
 漢字でならば
 「多治見・大窪・太安万侶・大野・小野」
 を連想するとしたら
 江戸時代の
 「春日局
 の周辺の人名となる可能性があるものです
ー↓↑ーー
 日下 誠
 くさか まこと
 ↓↑
 明和一(1764)江戸
 ~
 天保十(1839)年六月三日 江戸
 76歳
 和算
 通称 貞八郎
 字  敬祖
 号  五瀬(ごらい)
 初名 鈴木誠
 ↓↑
 安島直円の門下
 関流皆伝を受け
 関孝和,松永良弼,山路主住,安島
 らの武士の身分の出身とは違い
 町人出身で
 関流宗統五伝の位についた
 麻布の
 日下窪(ひがくぼ)に塾を開き
 門下から多数のすぐれた数学者を輩出
 和田寧、内田五観
 長谷川寛、白石長忠
 御粥安本、大原利明
 小出兼政
 和算末期に重きをなした数学者
 (出典 ブリタニカ国際大百科事典
  小項目事典ブリタニカ国際大百科事典
  小項目事典について
  デジタル版
  日本人名大辞典+Plus
 「日下誠」の解説
  ↓↑
  日下  誠
 (くさか-まこと)
 寛永寺の寺侍
  安島 直円
 (あじま-なおのぶ)
 に関流をまなぶ
 麻布(あざぶ)
 日窪(ひがくぼ)
 に家塾を開塾
 内田 五観(いつみ)
 長谷川 寛
 らの和算家をそだてた
 ↓↑
 江戸初期から始まった
  算 額 奉 掲
 (さんがくほうけい)
 がもっとも盛んな時期で
 算額が掲げられた
 社寺の絵馬殿が
 学会発表の様相を呈した
ー↓↑ーー
 日下部皇子=日並皇子=日奈良部
 日下部氏=くさかべ
 名前の由来
 日部・・・・部=「日」の「下」
   日下部=草香部=草部=草加部=草下部=草壁
      =苅部=早部=久坂部・・・?
 草壁皇子=日並知(ひなめし)皇子
 草壁皇子天武天皇の第二皇子
 大津皇子天武天皇の第一皇子
 「くさかべ=くさならべ」
      「くさならべ=ひならべ」
 「くさかべ=ひなめし=ひならべ」
 ↓↑
 草壁皇子=岡本天皇
 ↓↑
 天武天皇
 と
 持統天皇の息子で
 元正天皇
 文武天皇の父で
 舒明天皇の孫
 ↓↑
 在位 天武天皇10年2月25日(681年3月19日)
    ~
    持統天皇3年4月13日(689年5月7日)
 生誕 天智天皇元年(662年)
 薨御 持統天皇3年4月13日(689年5月7日)
 別名 日並皇子(ひなみしのみこ)『万葉集
 尊号 岡宮御宇天皇岡宮天皇・長岡天皇
 墓所 眞弓丘陵
ーーーーー
 ・・・???
  ↓↑   ↓↑
エメラルドブルーの謎  (碧き眼の人形伝説)  奈井江 五郎
  ↓↑   ↓↑

 「プラトン古事記をカタル(古事記字源)
  +
 (表紙・画像・音楽)」の移転先・・・

 ↓↑
 ボクの「古事記字源」の発端・・・
 ↓↑
 干支歴
 ↓↑
 追加添文 「戦争と平和」・・・「モウケの生き方」
 ↓↑
 メリキリの - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=7xgS0oJhhe8

 ↓↑
 モモちゃん
https://www.youtube.com/embed/W00rHNN2zMQ?

 ↓↑
 モウ君の総合目次
 ↓↑
コジキ姫赤い絨毯に乗る(m)
 ↓↑
 古事記と虎関師錬