ないえごろうブログ

同音異義の探索

遠州、隻眼の「森の石松」の仇を「清水の次郎長」を獲った

 文字霊日記・3295日目

 森の石松(?~1860年7月18日(万延元年六月一日)
 清水次郎長の子分
 出身地
 三州半原村(愛知県新城市富岡)
 or
 遠州森町村(静岡県周智郡森町)
 とも・・・
 浪曲では「福田屋という宿屋の倅」・・・
 二代目
 廣澤虎造=広沢 虎造(ひろさわ とらぞう)
 1899年〈明治三十二年〉5月18日
 ~
 1964年〈昭和三十九年〉12月29日)
     大運1963年4月(63歳)⇔壬戌偏官
 己┏亥(戊甲壬)傷官・偏印 絶⇔甲辰偏印
 己┗巳(戊庚丙)傷官・偏財建禄⇔丙子比肩
 丙  戌(辛丁戊)  ・劫財 墓⇔壬子偏官
 己  丑(癸辛己)傷官・正財 養⇔辛丑傷官
    午未空亡
 ↓↑
 浪曲師・俳優
 東京府東京市芝区白金(港区白金)出身
 本名 山田 信一
 旧姓 金田 信一
 ↓↑
 三角形=triangle・・・纂佳句経?
 正方形=square・・・西方経?
 円  =circle・・・・延→直線=チョクセン=勅撰?
 ↓↑
 円周=エンシュウ=演習=遠刕=遠州
 円周(circumference)=円の周囲・周長
     サァ(ル)カァンファラァンス・サカムファレンス
    作有留化案附蛙覧務素・佐賀務附蛙聯(連)州???
 円周率 π=円周の直径に対する比率
 「殷」の勃興と終焉・・・「音楽の終焉」?
 ↓↑
 殷=アン・イン・オン・エン
 殷(オン)
 殷(エン)
 殷(イン)
 殷(アン)
 殷(かゆた)か
 殷(ねんご)ろ
 殷(やかにぎ)やか
 殷(さか)ん
 殷(おお)い
 殷(あか)い
 10種の読み方

 ↓↑
 周王朝の勃興と終焉
 円周
 円周率・・・終焉の無い無限の「パイ(π・Π)」
                   几帳・机
 円周卒(ソツ=卛・率・䘚・卆)
 ↓↑
   䘚=衣+十
    =卆
    =卒
    =率
    =卛
 ↓↑
   ソツ・シュツ
   おえる(終)
   おわる(終)
   しもべ(僕)
   ついに(終に)
   にわかに(俄かに)
   しもべ(従僕・僮)・召し使い
   突然・にわかに・急に
   級の低い兵士
   百人の軍隊
   終える・終わる
   ついに
   結局は・最後には・行きつくところは
   死ぬ
   高い身分の人が死ぬ
      卛=䜌+十=卒・卆・・・枠
    一兵卒
     率先
      卒業・・・親鸞・戀愛・恋慕
 ↓↑
 卛=糸+言+糸+十
   幺+小+言+十
   リツ・ソツ
   シュツ・スイ
   ひきいる
   おおむね
   かしら
   したがう
   わりあい
   ひきいる・導く
   したがう・つきしたがう・従いまもる
   おおむね・すべて・大体・大方
   あっさりしている・かざりけのない
   かしら・おさ・ひきいる者
   わりあい・歩合・程度
   きまり・規則・のり
 ↓↑
 周王
 四人の王
 共王・・・「共」和国?
 懿王・・・「懿」徳天皇
 孝王・・・「孝」明天皇
 夷王・・・蘇我蝦「夷」?
 ↓↑
 ・・・「中大兄皇子」・・・「中のお柄の往時」?
 名賀・那賀・長・永
 那加・那珂・名嘉・中
 ↓↑
 「ナ」+「が・ぎ・ぐ・げ・ご」
 「ナ」+「が」=長野・長居・奈雅井
 「ナ」+「ぎ」=凪・薙ぎ・和ぎ・椥
 「ナ」+「ぐ」=和ぐ・殴る
 「ナ」+「げ」=嘆・歎
 「ナ」+「ご」=名護・長太・名古・奈胡
 ↓↑
 二課・仁賀・苦
 「二」+「が・ぎ・ぐ・げ・ご」
 「二」+「が」=苦い・煮貝
 「二」+「ぎ」=二義・握・賑合い
 「二」+「ぐ」=似具・邇具
 「二+「げ」=逃げ・逃げる
 「二」+「ご」=濁る
 ↓↑
 糠・額・奴賀・額賀・怒賀
 「ヌ」+「が・ぎ・ぐ・げ・ご」
 「ヌ」+「が」=怒賀・奴賀
 「ヌ」+「ぎ」=脱ぎ・塗木
 「ヌ」+「ぐ」=脱ぐ・拭
 「ヌ」+「げ」=脱げ・貫け・抜け
 「ヌ」+「ご」=脱誤・怒誤
 ↓↑
 nega
 「ネ」+「が・ぎ・ぐ・げ・ご」
 「ネ」+「が」=願い
 「ネ」+「ぎ」=葱・禰宜・根木・根來
 「ネ」+「ぐ」=塒鵜・根倉
 「ネ」+「げ」=根毛・音化
 「ネ」+「ご」=根後・音語
 ↓↑
 野賀・逃・佚・迯・遁
 「ノ」+「が・ぎ・ぐ・げ・ご」
 「ノ」+「が」=遁る・逃・佚・竄=改竄
 「ノ」+「ぎ」=禾・乃木・能義・埜木
 「ノ」+「ぐ」=野具
 「ノ」+「げ」=禾・野下
 「ノ」+「ご」=廼語・盧語
 ↓↑
 太伯 (曹)
 太伯(タイハク)
 西周の諸侯
 曹の第2代の君主
 姓は姫
 名は脾・・・「脾=月(肉)+卑」・「脾臓
 「曹 叔 振鐸」の子として生まれた
 「曹 叔 振鐸」の後をうけて
 曹国の君主となった
 「仲君」の父
  『史記』管蔡世家第五
  「叔振鐸 卒,子 太伯 脾立。
   太伯 卒,子 仲君 平立。」
 ↓↑
 紀元前12世紀・紀元前11世紀頃の人物
 太伯(タイハク)
 虞仲(グチュウ)
 周王朝
 古公亶父の子で兄弟
 后稷を始祖
 周王朝の祖である
 后稷の母
 姜嫄
 「姜=羌」
 周は元々
 羊の遊牧文化を持つ
 非定住農耕民であったという説・・・
 ↓↑
 姓は姫(キ)
 二人とも
 「季歴」の兄
 「文王」の伯父
 ↓↑
 「太伯=泰伯」は長男
 呉(句呉)の祖
 「虞仲=名は雍・呉仲」
 ↓↑
 古公亶父
 長男の太伯
 次男の虞仲
 末子の季歴
 ↓↑
 季歴の子の
 昌(文王)が優れた子で
 あったので
 「古公亶父」は
 「わが家を興すのは昌であろうか」
 と言っていた
 ↓↑
 父の意を量った
 太伯と虞仲は
 季歴に後を継がせるため
 荊蛮の地へと自ら出奔
 後
 周の者が二人を迎えに来たが
 二人は
 髪を切り
 全身に刺青を彫って
 中華へ帰るに相応しくない人物として
 これを断った
 ↓↑
 太伯
 号 句呉(コウゴ)
 呉国を建国
 荊蛮の多くが従った
 太伯没後
 弟の
 虞仲(仲雍)
 が跡を継いだ
 ↓↑
 武王は
 虞仲の曾孫の
 周章を改めて
 呉に封じ
 その弟の
 虞仲(同名の別人)を
 北方の虞に封じた
 これにより
 太伯・虞仲は
 呉
 と
 虞
 の二カ国の祖となった
 ↓↑
 髪を短く切るのは
 海の中で邪魔にならないための処置
 刺青をするのは魚に対する威嚇
 二つの風習は
 呉地方の素潜りをして魚を採る民族
 中国の史書
 「倭」
 に関する記述で
 同じような風習を行っていると記録
 ↓↑
 『翰苑』巻30
 『魏略』逸文
 『晋書』東夷伝
 『梁書東夷伝
 などに
 「倭」について
 「自謂 太伯之後(自ら太伯の後と謂う)」
 南宋
 『通鑑前編』
 李氏朝鮮
 『海東諸国紀』
 や
 『日東壮遊歌』
 等にもある
 「呉の太伯の末裔説」
 の初出は
 3世紀後期の
 『魏略』で
 「呉の滅亡」は
 紀元前473年
 ↓↑
 南北朝時代の禅僧
 「中巌円月」
 が
 日本を太伯の末裔だと論じた
 北畠親房
 『神皇正統記応神天皇条は
 「異朝ノ一書」に
 「日本ハ呉ノ太伯ガ後也ト云」
 とあるのを批判
 室町時代
 一条兼良
 『日本書紀纂疏』巻一で
 太伯末裔説を批判
 イエズス会宣教師
 ジョアン・ロドリゲスの
 『日本教会史』には
 神武天皇
 太伯の2番目の弟
 季歴(虞仲と季歴を混同?)
 の第6代の子孫であるとしている
 江戸時代
 儒学者
 林羅山
 が
 『神武天皇論』で
 神武天皇
 太伯末裔説を肯定
 ↓↑
 九州
 宮崎県
 諸塚山
 句呉の太伯が
 生前に住んでいて
 死後に葬られたという伝承
 鹿児島神宮大隅国隅正八幡)
 全国の神社で
 唯一
 太伯が祭られている
 『新撰姓氏録』で
 松野連(まつののむらじ)は
 呉王
 夫差
 の後とある・・・
 ↓↑
 孟子
 『孟子』で
 「舜は
  諸馮に生まれて
  負夏に移り
  鳴條で亡くなった
  東夷の人である。
 文王は
  岐周に生まれ
  畢郢に死した
  西夷の人だ」
 と述べている
 ↓↑
 季歴の息子
 姫昌(文王)
 が周国を繁栄させ
 殷から
 「西伯」の地位を賜る
 殷の紂王は暴君だったため
 諸侯は姫昌に頼って
 革命を期待したが
 姫昌は
 紂王の臣下であり続けた
 姫昌の死後
 姫発(武王)
 は
 周公旦
 太公望
 召公奭
 らの補佐のもと
 前1046年
 「革命戦争(牧野の戦い)」
 武王は
 紂王に打ち克ち(克殷)
 周王朝を創始
 ↓↑
 成康の治
 武王の後を継いだ
 成王(在位前1042年~前1021年)
 は未だ幼少で
 殷の残存勢力には侮れないものがあり
 周公旦が摂政とした(周公旦即位説)
 殷の遺民たちを治めさせていた
 武庚禄父
 と
 周公旦の兄弟であるが
 周公旦が政権を握ることに不満を持つ
 管叔鮮
 蔡叔度
 が共謀して乱(三監の乱)
 周公旦はこれを鎮圧
 後7年して成王が成長した後
 周公は一臣下に戻った
 成王は
 周公旦
 召公奭
 を左右に政務に取り組み
 東夷
 を討った
 ↓↑
 成王の後
 康王(在位前1020年~前996年)
 召公奭
 畢公高
 を左右にし
 40年にわたり刑罰がなかった(成康の治)
 ↓↑
 4代目
 昭王(在位前995年~前977年)
 南方への遠征失敗し
 周は軍事的に攻勢から守勢に転じた
 5代目
 穆王(在位前976年~前922年)
 以降
 王の親征が無くなり
 祭祀王として
 祭祀儀礼を行うことで
 軍事的に弱まった王の権威を補っていく
 ↓↑
 6代目
 共王(在位前922年~前900年)
 7代目
 懿王(在位前899年~前892年)
 8代目
 孝王(在位前891年~前886年)
 9代目
 夷王(在位前885年~前878年)
 までの時期に
 礼制が改められ
 王が臣下を職務に任命する
 冊命儀礼
 などを通じて周王室への求心力の維持を図り安定
 夷王
 は
 紀侯
 靖公の讒言を信じ
 斉の
 哀公を
 「釜茹での刑(烹)」
 に処し
 諸侯に対する
 暴虐・暗愚さが次代の
 厲王
 らへと受け継がれていった
 ↓↑
 10代目
 厲王(在位前877年~前841年)
 大反乱で辺境に逃亡
 周定公
 召穆公
 の2人の大臣が
 合議制で
 「共に和して」政治
 英語の
 「republic=共和制」
 の故事由来
 実際は
 「共に和して」ではなく
 「共伯和」という名の人物
 が執政したので
 それを略して
 「共和」と呼んだ・・・
 「和」という名の人物・・・説
 ↓↑
 11代目
 太子
 静(宣王・在位前827~前782)
 を立てて輔政し
 宣王中興と呼ばれた
 ↓↑
 12代目
 幽王(在位前781年~前771年)
 申から迎えていた皇后を廃し
 褒姒を皇后とし
 申侯の怒りを買い
 申は
 犬戎
 を伴い王都へと攻め込んで
 幽王を殺し
 褒姒の子の
 伯服(伯盤)も殺された(申侯の乱)
 ↓↑
 13代目
 携王(在位前770年~前750年)
 即位
 これに反対する諸侯は
 東の洛邑(王城・成周・河南省洛陽市付近)
 へ
 王子
 宜臼
 を擁して移り
 平王(在位前771年~前720年)
 として立てて対立
 周は東西に分裂
 東の平王が勝利し
 周は
 東周と呼ばれ
 春秋時代に移行
 ↓↑
 春秋戦国時代
 平王の孫
 桓王
 は王権の再強化を図ったが
 「繻葛の戦い(前707年)」
 で一諸侯に過ぎない
 鄭に敗れ
 諸侯に対する統制力を喪失
 洛邑(王城・成周)周辺のみの小国となった
 湖北省
 随州市付近の
 曽
 の春秋時代の侯の墓に納められていた
 青銅器の銘文に
 「周室既卑(シュウシツ すでに ひくく)」
 と記録
 西周以来の伝統と権威を強調することで
 祭祀を主催する立場の維持を図った
 ↓↑
 春秋時代
 秦の
 景公
 の墓の出土品の銘文で
 秦の君主を本来
 周王の称号であったはずの
 「天子」と称され
 孔子
 西周の時代を理想化した
 礼制の整備が
 代目
 儒家や諸侯によって行われていくが
 周王室は主導権を失い
 祭祀を主催する立場すら失っていた
 ↓↑
 戦国時代
 覇者
 晋
 太公望の子孫
 斉(姜斉)
 といった
 周王室と結びつきが強い諸侯が滅び
 権威や存在意義が更に低下
 魏の
 惠王
 は「夏王・天子」を称し
 東周
 23代目の王
 顕王は
 秦に対して
 春秋時代に覇者に対して
 行っていた儀礼を行うことで
 秦の保護を受けようとしたが
 既に天子を称していた
 秦の
 恵文王は
 王を称し
 七雄の諸侯のみならず
 小国の宋
 や北辺の中山国の君主までもが
 王を称するようになった
 秦の
 昭襄王
 と
 田斉の
 湣王に至っては
 「西帝」
 「東帝」
 と帝号を称した
 周王室の影響力はわずかに
 王畿(洛陽附近)に限定
 末期には
 貞定王の末子
 掲(桓公)を始祖とする
 西周公(武公)
 とそこから分裂した
 東周君(昭文君)
 の勢力によって分裂
 周王朝最後の王
 赧王
 は
 西周の武公を頼って
 西周(河南)に遷都
 元の成周は
 東周君が支配
 ↓↑
 赧王の在位
 59年に及んだが紀
 元前256年
 西周
 は諸侯と通じて
 韓
 と交戦中の
 秦軍
 を妨害し
 秦の将軍
 楊摎の攻撃を受けた
 西周
 文公(武公の子)は
 秦へ謝罪しその領土を秦に献上
 赧王は秦の保護下に入ったが崩御
 西周
 文公も死去
 その民は東周へ逃亡
 秦は
 九鼎と周王室の宝物を接収
 文公の子を移した
 秦が
 王畿を占拠し
 西周と周王室本家は滅亡
 ↓↑
 東周
 昭文君
 は7年間存続したが
 紀元前249年
 秦の
 呂不韋によって攻め滅ぼされた
 『史記』秦本紀
 昭文君は殺されたと伝えられているが
 東周君に土地を与えて
 周の祭祀を続けさせたとも記録・・・
 昭文君の子が封じられた・・・
 ↓↑
 前漢
 武帝以降
 儒学が尊重され
 周王室の子孫も尊重され
 姫嘉
 という人物が
 周子南君に封じられた
 姫嘉の子孫は
 元帝の時代に
 周承休侯へ昇格され
 平帝の時には
 鄭公に
 後漢
 光武帝の時代には
 衛公に封じられた
 ↓↑
 周の官制
 金文によると周には
 卿事寮(ケイジリョウ)
 太史寮(タイリョウ)
 2つの組織
 卿事寮の長官は
 太保
 太師
 の2つがあり、のちに太師だけになる
 下に
 司馬(軍事担当)
 司土(司徒、土地管理担当)
 司工(司空)
 の職があり、各諸侯の下にも同じ職があった
 太史寮の長官を
 太史と呼び
 歴史の編纂・各種儀礼・祭祀などを行った
 ↓↑
 身分制度
 『春秋左氏伝』
 王の下に諸侯
 その下に
 大夫(タイフ)
 と呼ばれる貴族層
 その下に
 士
 と呼ばれる層
 その下が
 庶民
 取引対象の
 奴隷階層があった
 ↓↑
 殷周の文化
 王国維
 は
 「殷周制度論」
 において
 殷と周の間で諸制度の大変革があり
 周の制度は
 周公によって定められたと主張したが
 実際は
 周王朝
 殷王朝の礼制を踏襲し
 その基礎の元に発展させていった
 礼制に変革が起こったのは
 西周後半期
 ↓↑
 周と十干諡号
 殷は
 十干
 で祖先を呼ぶ
 十干諡号を使用
 河南省
 平頂山市応国墓地
 八号墓で出土した
 「05応公鼎」の銘文に
 応公の号として
 「珷帝日丁」
 『春秋左氏伝』僖公二十四年の記述に
 応国の君は
 武王の子孫とされ
 「珷帝日丁」とは
 武王のことを指し
 周が殷と同様に
 十干諡号を有していた
 ↓↑
 山東
 高青県
 陳荘村で
 西周
 斉国の貴族の墓群が発掘
 18号墓からは
 「祖甲斉公」
 という銘文が記された青銅器が発見
 斉の国君は
 2代目の丁公
 ~
 4代目の癸公まで
 十干諡号を用いた
 ↓↑
 青銅器には
 占卜の結果を鋳込んである
 金文
 殷代と比べて
 周代は文が非常に長いものとなっている
 ↓↑
 殷では
 祖先に対する
 崇拝と畏れが非常に強く
 祭祀を怠ったりすれば
 すぐにでも祟られるという考えを持っていた
 ↓↑
 建築
 周に入ってからそれまでの
 茅葺きから
 瓦が一般的になった
 ↓↑
 投壺(トウコ)が始まった
 壺(金属製)に向かって
 矢(木の棒)を投げ入れる遊戯(ゲーム)

ーーーーー
 ・・・???
  ↓↑   ↓↑
エメラルドブルーの謎  (碧き眼の人形伝説)  奈井江 五郎
  ↓↑   ↓↑
 「プラトン古事記をカタル(古事記字源)
  +
 (表紙・画像・音楽)」の移転先・・・

 ↓↑
 ボクの「古事記字源」の発端・・・
 ↓↑
 干支歴
 ↓↑
 追加添文 「戦争と平和」・・・「モウケの生き方」
 ↓↑
 メリキリの - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=7xgS0oJhhe8

 ↓↑
 モモちゃん
https://www.youtube.com/embed/W00rHNN2zMQ?

 ↓↑
 モウ君の総合目次
 ↓↑
コジキ姫赤い絨毯に乗る(m)
 ↓↑
 古事記と虎関師錬