ないえごろうブログ

同音異義の探索

頫=兆+頁・・・キザシのページ・・・?

 文字霊日記・3287日目

 兆し(きざし)
 きざし=亀の甲羅を焼いた時の割れ目の形・予兆



  ↓↑
 「兆す(きざす)」が変化して名詞になった
 「き」は「気・牙」を意味
 尖って生える
 カタい
 「草木の芽・花の蕾(莟-蔀)・木の花の芽」に通じ
 将来的に現れてくる モノの気配
 現れてくる モノを包み隠していることの言葉
 ↓↑
 何かが起ころうとすることを
 予感させる
 「しるし・現象」
 縁起・験・兆し・前兆・予兆
 前ぶれ・前触れ・兆候・現れ
 先触れ・先ぶれ
 ↓↑
 ・・・ 虫(むし)の知らせ?・・・
 ナニかの気配を感じての、結果?
 ・・・胸騒(むなさわ)ぎ・・・
 ↓↑
 気持ちの不安な動揺
 何かに対する予兆
 心配や不吉な予感などのために
 胸がどきどきすること
 心配や恐れのために胸(心臓)がどきどきすること
 悪い予感がすること
 不安で心が落ち着かないこと・・・トキめきとは異なる・・・?
 「ムシろ」って?・・・「寧ろ=むしろ=筵=莚」って・・・?
  ↓↑
 「無視・無私・無死・虫・蟲・蒸」+「賂」・・・
 「針の筵(席・蓆・莚)に座らされた思い」
 ↓↑
 ・・・シラスの上に敷かれたムシロに座らせられ、沙汰を待つ・・・
              務弑呂・・・斬首?
 ↓↑
 簟(むしろ)=簟(たかむしろ)=簟(すのこ)
 簟=竹+覃
   竹+覀+早
   竹+襾+早
   竹+西+早
   竹+覀+日+十
   竹+襾+日+十
   竹+一+儿+口+日+十
   テン
   たかむしろ
   すのこ
   たかむしろ・あじ
   竹で編んだ「むしろ」
  ↓↑
 「無視・夢視(ムシ)の賂(まかない⇔・顕・露わ・現わ)」?
 「肌(はだ・キ)=月(肉)+几(キ・忌=己+心)」で感じる・・・
               宄(キ・よこしま)=?
 「シンクロナイズ(synchronize)=同時化・時間的な一致」
  心 躯侶拿意頭(亊・事)???
 ↓↑
 兆= 儿+冫+冫・・・儿(ニン)・ 儿(ジン)・ 儿(カイ)
   ⺢+乚     儿=人・イ
   ;+儿+;
   冫+丿+乚+冫
   チョウ・ジョウ
   きざす・きざし
   亀の甲羅を焼いた時の割れ目の形

  ↓↑
  きざし=亀の甲羅を焼いた時の割れ目の形・予兆
  殷の卜占 (Oracle bone) 
  亀の甲羅や
  獣の肩甲骨(甲骨)に
  小さな穴を穿ち
  熱した金属棒(青銅製)を
  穴に差し込んで
  しばらくすると表側に
  卜形のひび割れが生じ
  事前に占うことを刻んで
  割れ目の形で占い
  判断を甲骨に刻みつけ
  爾後占いの対象について
  実際に起きた結果が追記

      「殷帝国」は甲骨文字を刻んだ・・・?

   その形で吉凶を占う
   前触れや気配
   ことが起こる前に表れる現象
   墓地
   日本・台湾・韓国では
   一億の一万倍
   古くは百万
   一万の百倍で
   「下数」と呼ばれる十進法での数
 α+儿
 児・兒・兄
 元・充・兄・光・先・兒(児)
 兆・兔・鬼
 菟・莵・兎・兔
 穴・売・冗
  ↓↑
 「兆し(きざし・チョウ)」
  ・・・「兆+ト」・「土+乚+土」・「丿+土+乚+土」
 兆(きざ)し=萌(きざ)し
    物事が起こると予想できるしるし
    前触れ・前兆
 兆(きざ)す=物事が起きる気配があること
 吉兆=よいことが起こりそうな気配・瑞祥
 慶兆=めでたいことが起こる前触れ・吉兆
 瑞兆=よいことが起こる前触れ・吉兆
 前兆=何かが起こる前に現れるしるし
 兆載永劫(チョウサイヨウゴウ)
     限りなく長い時間のこと
  「兆載」=一兆年
     「永劫」=仏教用語・非常に長い時間
 ↓↑
 英語
 sign
 indication
 omen
 bodes
 premonition
 ↓↑
 姚=女+兆
   容姿が美しい
 姚(うつくしい・ヨウ)・・・妖艶
 姚(ヨウ)・ 姚(ドウ)・ 姚(トウ)・ 姚(チョウ)
 姚しい(うつくしい)
 [字音] ヨウ(エウ)・チョウ(テウ)
 [字訓] みめよい・かるがるしい
     うつくしい
     あなどる・かろんずる
     佻と通じ、つよくはやい
 [古辞書の訓]
 〔名義抄〕姚=ナヤマス=悩ます
 〔立〕姚=ウカラメ=うからめ・・・愛かれ女?
 [語系] 姚=ji、窈=yu
     夭=yは声義近く
     みな女子のあでやかな姿態をいう
 ↓↑
 熟語
 姚易・姚佚・姚遠・姚花・姚黄・姚・姚冶・姚姚
 遠姚・二姚・嫖姚
 姚(ヨウ)=漢姓
 『百家姓』の第101位・上古八大姓の一
 舜が起源
 舜が姚墟で生まれ
 舜の子孫が姚姓
 ↓↑
 α+兆
 佻=イ+兆=チョウ
   かる(い)
   かるがる(しい)
   かるい・かるがるしい・軽薄
   ぬすむ・こっそりとぬすむ
 逃=辶+兆=トウ
   逃げる・逃れる・立ち去る
   にがす・のがす・
   まじろぐ・瞳を動かす
 挑=扌+兆=トウ
   中学校で習う読みいど(む)
   いどむ・しかける・誘いかける・
   かかげる・かきあげる・灯心をかきたてる・
   えらぶ・えらび取る・えらび出す・
   になう・棒で引っかけて肩にかつぐ・
   「挑達(トウタツ)」=軽々とはねるさま
 恌=忄+兆=チョウ
   軽はずみなさま・浮ついたさま・軽薄なさま
 咷=口+兆=トウ
   なく・大声で泣く
 垗=土+兆=チョウ・ジョウ
   四方に土手をめぐらした祭祀を行う場所
 宨=宀+兆=チョウ
   ほしいまま
 庣=广+兆=チョウ・ジョウ
 洮=氵+兆=トウ
   あらう・手や顔、髪などを洗う・洗い清める・また、米をとぐ・
   川の名・洮水(とうすい)
 狣=犭+兆=チョウ・ジョウ・トウ・ドウ
   力強い犬
 桃=木+兆=トウ
   中学校で習う読みもも
   もも・バラ科の落葉小高木・夏に果実を実らせる
 晁=日+兆=チョウ
   あさ
   あさ・あけがた・=朝
 名字
 晁=あべ・チョウ
 珧=王+兆=ヨウ
   二枚貝の名・たいらぎ
   刀や弓の装飾に用いる貝の殻
 晀=日+兆=チョウ
   明るい
 朓=月+兆=チョウ
   陰暦の月末に
   西の空にかすかに見える月
   つごもり月
   みそか
 烑=火+兆=ヨウ
   光る・輝く
 㸠=片+兆=チョウ
 眺=目+兆=チョウ
   中学校で習う読みなが(める)
   ながめる・遠くを見る・見渡す
   ながめ・見晴らし・景色
 窕=穴+兆=チョウ・ヨウ
   あで(やか)
   おくゆか(しい)
   ふか(い)
   深い・奥深い・底知れない・
   しとやかで美しい・奥ゆかしい・
   かるい・軽々しいさま・軽率・
   あでやか・なまめかしい・妖艶なさま
   地名
   門前町窕(もんぜんまち-うつろ)
   窈窕(ようちょう)しとやかで美しい様子
   軽窕浮薄(けいちょうふはく)
    言動に思慮が足りず
    気持ちが浮ついている様子
    信念がなく
    言動が軽率で周りに流されやすいこと
    「軽窕浮薄」
   窈窕淑女(ようちょうしゅくじょ)
    容姿が美しく慎み深い女性
    「窈窕」=慎み深く
       言動に落ち着きがあり
       上品なこと
 祧=示+兆=チョウ
   始祖を祭る霊廟(みたまや)
   先祖の霊をみたまやに移す
 㿡=白+兆=ト・トウ
   かぶと
   かぶと・頭を守る防具・帽子
   惑う・迷う
   取り囲む・包む
 䂪=石+兆=キョウ・コウ・ジョウ・チョウ
 䄻=禾+兆=トウ・チョウ
 旐=方+兆=チョウ
   亀や蛇などの模様が描かれた旗・吹流し
 筄=竹+兆=ヨウ
   屋根瓦の下に敷く、竹製の簀(す)の子
 絩=糸+兆=チョウ・ジョウ・トウ・ドウ
 罀=缶+兆=缶(ほとぎ・ほとぎへん)
   チョウ
 聎=耳+兆=チョウ・トウ・ドウ
   耳の病気
   耳鳴り
 䍮=羊+兆=チョウ・ジョウ・トウ・ドウ
   こひつじ・生まれて一歳の羊
 䑬=舟+兆=ヨウ
   江(大きな川)を
   往来する大型の船=艞
 䖴=虫+兆=ヨウ
 跳=足+兆=チョウ・トウ
   と(ぶ)
   は(ねる)
   おど(る)
   おどる・おどりあがる
   はねる・とぶ・とびあがる
   つまずく
   速く走る
   おどらせる・おどらす・とばす
   逃げる・走り去る
   はねる・興行などが終わること
   はね・衣服などが飛びはねた泥
 誂=言+兆=チョウ
   あつら(え)
   あつら(える)
   さそいかける・いどむ
   たわむれる・からかう・もてあそぶ
   あつらえる・注文して作らせる
 覜=兆+見=チョウ
   まみえる・対面する
   三年に一度、天子に謁見した儀式
   ながめる・遠くをみる・眺望する
 趒=走+兆=チョウ・ジョウ
 䠷=身+兆=チョウ
 銚=金+兆=チョウ・ヨウ
   すき・なべ
   すき・土をけずる大型のすき・農具の一
   なべ・取っ手のついた小型のなべ
   ほこ・長いほこ
 雿=雨+兆=チョウ・ジョウ・タク・ジャク
 鞉=革+兆=トウ
   ふりつづみ
   小さな玉を二つつり下げ
   左右に振り分けると
   音がなる小さな太鼓=鼗 鞀
 頫=兆+頁=チョウ
   ふす・ふせる・うつぶす・うつむく・うなだれる
   顔や身体を下に向ける=俯
   みる・会う・天子にまみえる
 餆=食+兆=ヨウ
   餅や団子の類
 駣=馬+兆=トウ・ドウ・チョウ・ジョウ
 鮡=魚+兆=チョウ
 鴵=兆+鳥=キョウ
   さら(す)
   つよ(い)
   ふくろう
   さらす・さらしくびにする
   つよい・たけだけしい・あらあらしい
   ふくろう・鳥の名
   フクロウ科の猛禽類
 鼗=兆+鼓=鞉
   トウ
   ふりつづみ
   小さな玉を二つつり下げ
   左右に振り分けると
   音がなる小さな太鼓
 艞=舟+筄
   舟+竹+兆
   ヨウ・チョウ
   江(大きな川)を往来する大型の船=䑬
   あゆみ
   停泊中の舟と岸の間に渡して
   人が通行するための板
 ↓↑
 佻=人+兆
   チョウ・ジョウ
   薄っぺらなさま
   軽薄なさま、軽はずみなさま=恌・偸
   こっそり盗む=偸
   独(ひと)り行くさま=𢓝
 姚=女+兆
   ヨウ
   艶(なま)めかしく美しいさま
   姓用字
   舜(シュン、五帝の一人)が始まりとされる
   「嫖姚(ヒョウヨウ)」
   敏捷(ビンショウ)なさま、身軽で素早いさま
   漢の
   武帝(前156年~前87年)の頃の将軍の称号
   「霍去病(カクキョヘイ)
    前140年~前117年」
 挑=手+兆
   チョウ・トウ
   いどむ=挑戦
   煽(あお)いで
   騒ぎや火などの勢いを大きくする
   焚(た)きつける・煽る
   そうなるように仕向ける
   唆(そそのか)してその気を起こさせる
  「挑動(チョウドウ)=誂」
   突き入れて穿(ほじく)る
   担(にな)う
   棒に荷を掛けて担(かつ)ぐ
   選ぶ・選り分ける
 晁=日+兆
   チョウ・ジョウ
   朝、古「朝」
 朓=月+兆
   チョウ
   陰暦晦日に西の空に見える月
   本字の偏は「つき」で
   「にくづき(肉)」の
   「脁」とは別字
 桃=木+兆
   トウ・ドウ・もも
   モモ(桃)、バラ科モモ属の木
   同属の木の総称・その果実
   モモ(桃)の果実に似た形のものを形容する語
   モモ(桃)の花に似た色を形容する語
   モモ(桃)の花の咲く季節を指す語
 洮=水+兆
   トウ・ドウ
   揺するようにして洗う
   「洮汰(トウタ)=淘汰」
   水中で揺すって砂(沙)を取り除く
   必要なものと
   不必要なものとを選り分ける
   適応ではないものは滅び
   適応できるものだけが残る
   「洮州(トウシュウ)」
   北周代(557年~581年)
   に置かれた州の一つ
   甘粛省甘南チベット族自治州
   「洮水(トウスイ)」
    洮陽(トウヨウ)縣
    甘粛省定西市臨洮県)を源とする川名
 眺=目+兆
   チョウ・ながめる
   見渡す
   右を左を近くを遠くを
   広範囲を見る=覜
 窕=穴+兆
   チョウ・ジョウ
   奥深いさま・深遠なさま
   「窈窕=窈窱(ヨウチョウ)」
   奥深いさま・深遠なさま・遥か遠いさま
   もの静かで美しいさま
   淑(しと)やかで美しいさま
 誂=言+兆
   チョウ・ジョウ・あつらえる・あつら
   誘(さそ)う
   言葉巧みにそうなるように仕向ける
   唆(そそのか)してその気を起こさせる=挑
   からかう、ふざけてからかう、馬鹿にする、同「𠻩」
   あつらえる・注文通りに作らせる・注文して作る
 跳=足+兆
   チョウ・ジョウ・とぶ・はねる
   両足が地を離れるように
   高く飛び上がる
   地を蹴(け)って飛び上がり
   離れた場所に着地する
 逃=辵+兆
   チョウ・トウ・ドウ
   にげる・のがれる
   受け入れ難い状態から抜け出る
   受け入れ難い状態に陥らない方向に
   向かって行く・避けて遠ざかる
 銚=金+兆
   チョウ・ジョウ・ヨウ
   鉄製・金属製
   古くは木製・骨製などの
   刃を取り付けたシャベルshovel状の農具
   雑草などを取り除くために
   土を薄く削(そ)ぐ
   土を掘って掬(すく)う
   掘り起こした土を均(なら)す
   などに使う
   「鋤(すき)」と呼ばれる農具=鍬
   注ぎ口と
   弦(つる)状や
   柄状の取っ手が付いた小さな鍋
   直接火に掛け酒や汁・湯などを温め
   そのまま容器に注ぐことができる
 頫=兆+頁
   フ・チョウ
   頭を下げる
   顔を下に向ける
   俯(うつむ)く=俯
   諸侯が
   天子に見(まみ)える・会う=覜

ーーーーー
 ・・・???
  ↓↑   ↓↑
エメラルドブルーの謎  (碧き眼の人形伝説)  奈井江 五郎
  ↓↑   ↓↑

 「プラトン古事記をカタル(古事記字源)
  +
 (表紙・画像・音楽)」の移転先・・・

 ↓↑
 ボクの「古事記字源」の発端・・・
 ↓↑
 干支歴
 ↓↑
 追加添文 「戦争と平和」・・・「モウケの生き方」
 ↓↑
 メリキリの - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=7xgS0oJhhe8

 ↓↑
 モモちゃん
https://www.youtube.com/embed/W00rHNN2zMQ?

 ↓↑
 モウ君の総合目次
 ↓↑
コジキ姫赤い絨毯に乗る(m)
 ↓↑
 古事記と虎関師錬

みにくい『奇怪な再会』・・・

 文字霊日記・3286日目

ボク自身の「文字解釈」の「是非」を前提に
 「🧐Bingさん」に「アイ」を訊いてみた・・・


 「團團珍聞(まるまるちんぶん)」・・・
 ・・・現在の「プーチン的ロシアの状況」・・・クタバレッ、P
  ↓↑
 芥川龍之介の短編小説
 『奇怪な再会』
 に登場する主人公
 黒田太郎は・・・「黒田太郎」・・・「黒田清隆」?
 「醜男」と自称・・・
  ↓↑
 新しい Bing へようこそ
 AI を利用した応答エンジン
  ↓↑
 🧐Bing
 その他
 厳密
  ↓↑
 「旡=㒫」の漢字について詳しく教えて
  ↓↑
 🧐Bing
 「旡」は、部首が「无」、画数が4画
 音読みは「キ」
 訓読みは「むせる」
 意味は、「むせる・息詰まる」などがあります。
 ただし、「㒫」という漢字についての情報は見つかりませんでした。
  ↓↑
 「旡」の成り立ちや語源について教えて
  ↓↑
 🧐Bing
 申し訳ありませんが
 「旡」の
 成り立ちや語源についての情報は見つかりませんでした。
  ↓↑
 㤅=旡+心=愛・・・について?
  ↓↑
 🧐Bing
 「㤅」は、「旡」と「心」が組み合わさった漢字です。
 そして
 「愛」の漢字は
 「㤅」と「夊」
 が組み合わさったものだと考えられています1。
  ↓↑
 㤅(いとしい)=愛
 㤅(うい)
 㤅(おしむ)
 㤅(かなしい)
 㤅(まな)
 㤅(めでる)
  ・・・訓じているのですが・・・
  ↓↑
 🧐Bing
 「㤅」は、「旡」と「心」が組み合わさった漢字です。
 ただし、
 その読み方については、私の知る限りでは
 いずれも正しい読み方ではありません。
  ↓↑
 炁=旡+灬 について?
  ↓↑
 🧐Bing
 「炁」は
 「旡」と「灬」が組み合わさった漢字です。
 この漢字は
 形声文字であり
 「灬」(火)が意符
 「旡」が音符です1。
  ↓↑
 その意味は?
  ↓↑
 🧐Bing
 「炁」の意味としては
 「いき」、「呼吸」、また「空気」とされています1。
  ↓↑
 「邪・犯・姦・奸・謀・冒・漢・菅・私=ム」は
 「よこしま」と訓じますか?
  ↓↑
 🧐Bing
 いいえ
 「邪・犯・姦・奸・謀・冒・漢・菅・私」は
 「よこしま」と訓じません。
 それぞれの漢字には
 独自の読み方があります。
  ↓↑
 このページに対してのみ再試行する
  ↓↑
 🧐Bing
 申し訳ございませんが
 ページのコンテキストを理解できません。
  ↓↑
 「よこしま」と訓じる漢字を教えて
  ↓↑
 🧐Bing
 「よこしま」と訓じる漢字はありません。
 ただし
 「邪」は「よこしま」という意味を持つ漢字です。
  ↓↑
 よこしま=宄(宀+九)
     =横・邪
     =姦・奸・干(カン=諌=甲)
     =佞・漢
 よこしま=侘・差・左・ム・私
 よこしま=宄=侈(シ)・佻(チョウ・ジョウ)・犯
 よこしま=毎・曲・奸・淫・自・己
  ↓↑
 🧐Bing
 「よこしま」と訓じる漢字はありません。
 ただし
 「邪」は
 「よこしま」という意味を持つ漢字です。
  ↓↑
 諸橋轍次先生の
 「大修館・新漢和辞典(改訂版)」
 には記載があるのですが・・・?
  ↓↑
 🧐Bing
 諸橋轍次先生の
 「大修館・新漢和辞典(改訂版)」
 については
 私は確認することができません。
 ただし
 一般的に
 「よこしま」と訓じる漢字はありません。
  ↓↑
 ありがとう・・・
  ↓↑
 🧐Bing
 どういたしまして。
 他に何かお手伝いできることがありますか?
  ↓↑
 また、次回にお尋ねしたいと思います
  ↓↑
 「ボクの解釈」は「一般的」ではないらしく
 「是」を「一般のヒトビト」に理解してもらうのは
 困難であるらしい・・・カナ・・・
 でも「🧐Bingさん」のコタエが「逆」に
 「ボクの自己納得の正当性(正統性?)」
 を教えてくれたような気がする・・・
  ↓↑
 🎨 クリエイティブなインスピレーションを得る
  ↓↑
 「桃」の漢字を
 「木=十八」と
 「兆」を「偏旁」に分解し
 桃のイメージを踏まえた物語をきかせてください
  ↓↑
 🧐Bing
 「桃」の漢字は、
 「木」と「兆」から成り立っています。
 「兆」は左右二つに離れるさまを表し
 「木」+「兆」で
 実が二つに割れる木を意味しています。
 桃のイメージを踏まえた物語としては
 次のようなものが考えられます。
  ↓↑
 🧐Bing
 「桃から生まれたから、桃太郎と名付けよう」と言いました。
  ↓↑
 桃に関する他の物語や伝説はありますか?
  ↓↑
 🧐Bing
 はい、桃に関する物語や伝説は他にもあります。
 例えば
 中国では
 桃は延命長寿の木とされ
 桃の汁を飲むと
 神仙になれると信じられていました。
 また
 桃の木には邪気を払う力があると考えられており
 中国の神話では
 天帝の使者である
 三脚烏が
 桃の枝を持って魔物を退治したり
 八仙の一人である
 呂洞賓
 が桃杖で悪魔を打ち倒したりする話があります。
 日本でも桃は魔除けの果物として古くから親しまれてきました。
 日本神話では
 イザナギが黄泉から逃げる際に
 黄泉返りのイザナミから身を守るために
 大きな岩戸に立てかけた桃の枝が役立ちました。
 また
 ひな祭りで飾る雛人形菱餅
 元々は邪気を払うための道具であり
 桃の花も同じく
 厄除けや
 無病息災を願って飾られています。
  ↓↑
 「木=き・ボク」
 と
 「兆=きざし・チョウ」
 の
 「訓読と音読」
 の音から
 「日本書紀」を踏まえるならば
 どのようなイメージができるでしょうか?
  ↓↑
 🧐Bing
 「木=き・ボク」
 と
 「兆=きざし・チョウ」
 の「訓読と音読」の音から
 「日本書紀」を踏まえるならば
 次のようなイメージができるかもしれません。
 「木=き・ボク」は
 日本書紀においては
 自然や生命の象徴として登場することが多いです。
 例えば
 神代巻では
 イザナギイザナミが国土を作る際に
 天の浮橋から槍を突き立てたところから
 木々が生えたり
 アマテラスが岩戸に隠れた際に
 桃の木
 や
 五百箇神(さかつかみ)の木が役立ったりします。
 また
 人代巻では
 桃太郎や
 ヤマトタケルなどの
 英雄的人物が
 桃や葦などの木を使って
 鬼や敵を退治したりします。
 「兆=きざし・チョウ」は
 日本書紀においては
 神意や運命を示すものとして登場することが多いです。
 例えば
 神代巻では
 ニニギが地上に降りる際に
 八咫烏(やたがらす)という
 神鳥が先導したり
 イワレビコ神武天皇)が
 大和へ向かう途中で
 八咫烏
 白鹿などの吉兆を見たりします。
 また
 人代巻では
 推古天皇時代に
 百済王子
 阿毎利(あまり)から送られた
 仏像を受け入れるべきか否かで議論した際に
 天皇側近の
 物部守屋(ものべもりや)が
 仏像を打ち壊そうとしたら
 雷雲に打たれて死んだことで
 仏教受容派が勝利したりします。
  ↓↑
 吉兆の動物を
 朝廷に献じた人物名を知りたいのですが
  ↓↑
 🧐Bing
 吉兆の動物を朝廷に献じた人物名については
 『日本書紀』によると、次のような例があります。
 斉明天皇4年(658年)7月には
 蝦夷の酋長
 恩荷が
 白い雀を献じました。
 斉明天皇5年(659年)3月には
 阿倍比羅夫
 粛慎から
 捕らえたヒグマ2匹と
     ヒグマの皮70枚を献じました。
 斉明天皇6年(660年)5月には
 阿倍比羅夫
 蝦夷50人余りと
 粛慎47人を献じました。
 これらの動物は
 中国で
 瑞獣や吉祥獣と呼ばれる
 神意や運命を示すものとして扱われていたもので
 日本でも同様に珍重されていたと考えられます。
  ↓↑
 吉士の醜男はドウですか?
  ↓↑
 🧐Bing
 「吉士の醜男」という言葉は
 『日本書紀』に登場する人物の一人で
 吉士磐金(きし いわかね)という名前です。
 吉士磐金は
 飛鳥時代の外交官で
 難波吉士(なにわのきし)とも呼ばれます。
 難波吉士は
 古代朝鮮における
 「首長・族長」を意味する語に由来する
 姓や氏で
 中国周人の出自とされます。
 吉士磐金は
 推古天皇5年(597年)に
 新羅に派遣されたことが記録されています。
 また
 推古天皇16年(608年)には
 遣隋小使として
 小野妹子
 に従って隋に渡りました。
 その際に
 隋の煬帝から
 「醜男」と呼ばれたことが
 『日本書紀』に記されています。
 この「醜男」という言葉は
 見た目が不細工だったことを示すものではなく
 隋側から見て
 日本人が服装や礼儀などで
 劣っていることを表現したものだと考えられます。
 同じく遣隋使だった
 小野妹子
 「小男」と呼ばれていますが
 これも身長が低かったことではなく
 日本人が
 文化的に未開だったことを示したものです。
 吉士磐金はその後も外交活動を続けました。
 舒明天皇5年(633年)1月に
 唐使
 高表仁
 らの送使を務めました。
 白雉4年(653年)5月には
 遣唐使として派遣されました。
 皇極天皇元年(642年)2月に
 国勝
 吉士
 水鶏(くいな)
 が百済への使者として選ばれましたが
 これも
 吉士磐金と同一人物だと考えられます。
  ↓↑
 大国主
 別名が
 「醜男」
 とありますが
 他にもそのような「名」を有する人物はいるでしょうか?
  ↓↑
 🧐Bing
 「醜男」という名を持つ人物は
 大国主以外にもいくつか存在します。
 例えば
 『古事記』に登場する神話の人物で
 天照大神
 孫である
 天津彦根命(あまつひこねのみこと)は
 「醜男(しこお)」とも呼ばれています。
 彼は
 海上五十狭茅(うみやそひめ)と結婚しましたが
 彼女が
 美しい姿をした
 兄の
 火闌降命(ほりこおりのみこと)
 に恋していたために不幸な結末を迎えました。
 また
 『日本書紀』に登場する歴史上の人物で
 遣隋使として
 小野妹子に従って隋に渡った
 吉士雄成(きし おなり)は
 「醜男」と呼ばれました。
 これは隋側から見て
 日本人が
 服装や礼儀などで
 劣っていることを表現したもので
 見た目が不細工だったことではありません。
 さらに
 近代文学作品では
 芥川龍之介の短編小説
 『奇怪な再会』
 に登場する主人公
 黒田太郎は・・・「黒田太郎」・・・「黒田清隆」?
 「醜男」と自称しています。
 彼は高校時代の
 同級生
 村井君
 と再会しましたが
 彼女が美しく成長した姿を見て
 自分の醜さを恥じました。
  ↓↑
 醜=酉+鬼・・・酒樽+鬼・・・
   酒に酔った虎のフンドシを着た「人間」
  「酒呑童子」と同類の意味・・・?
   ↓↑
  「黒田清隆(くろだきよたか)
   1840~1900(天保11~明治33)」
   北海道開拓長官
   薩摩藩出身で薩長連合の成立に奔走
   戊辰戦争では箱館五稜郭の攻撃を指揮
   榎本武揚ら旧幕臣の助命に尽力
   ↓↑
  「團團珍聞」
   ↓↑
  「黒田清隆が自宅で
   酒乱で妻を惨殺したという
   説が流布しているのを諷刺し
   1878年4月13日
   発行停止となった・・・」
  「黒田清隆
   妻の
   清は
   24歳で肺の病により亡くなるが・・・
   ↓↑
   その死に際しては
   酒乱の黒田が撲殺したと
  「團團珍聞」という新聞に書かれた・・・
  「フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』」
   ↓↑
  この件を🧐Bingに訊いてみたが
  「その件には答えられません」
  との回答・・・資料はあるが「Wikipedia」・・・
  ・・・検索資料もワンサカ・・・?
   ↓↑
   團團珍聞(まるまるちんぶん)
   1877年(明治10年)~1907年(明治40年
   まで刊行
   主に
   週刊の戯画入り
   時局風刺雑誌
   マルチンと呼ばれた
   社説にあたる
   「茶説・洒蛙説(しゃあせつ)」
   「狂句・狂歌・風刺戯画」
   で藩閥政府を皮肉って人気を呼び
   自由民権運動をあおった
   『團々=団団=団々』とも書いている資料がある
   一時期
   妹格の『驥尾團子(きびだんご)』誌・・・桃太郎の黍団子?
   ↓↑
  「團團珍聞」は
   弾圧の対抗策に
   1878年10月から
  『驥尾団子』誌を出し
   団団の発行停止の場合に備えた
   そして
   頻繁に、罰金・禁獄・発行停止などの処分を受けた
   1883年
   政府は団団・驥尾を念頭に
   新聞紙条例を改訂して
   ピンチヒッター的並立を困難にしたので
   団団社は
   驥尾団子の
   自殺号を出した上で同誌を廃刊
   ↓↑
   出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』
ーーーーー
 ・・・???
  ↓↑   ↓↑
エメラルドブルーの謎  (碧き眼の人形伝説)  奈井江 五郎
  ↓↑   ↓↑
 「プラトン古事記をカタル(古事記字源)
  +
 (表紙・画像・音楽)」の移転先・・・

 ↓↑
 ボクの「古事記字源」の発端・・・
 ↓↑
 干支歴
 ↓↑
 追加添文 「戦争と平和」・・・「モウケの生き方」
 ↓↑
 メリキリの - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=7xgS0oJhhe8

 ↓↑
 モモちゃん
https://www.youtube.com/embed/W00rHNN2zMQ?

 ↓↑
 モウ君の総合目次
 ↓↑
コジキ姫赤い絨毯に乗る(m)
 ↓↑
 古事記と虎関師錬

「伊邪那美のシボウ」・・・弑貌・・・

火砕流によって地中に埋もれた

ポンペイ 79年8月24日・・・

火傷(やけど)?

文字霊日記・3285日目

 知識もなくポンペイ遺跡を訪ねたけれど・・・
 ↓↑
 行ったョな、ナポリ、ソレント、ポンペイ
 

 ポンペイ(羅: Pompeii・伊: Pompei)
 イタリア・ナポリ近郊
 ヴェスヴィオ山のふもとにあった古代都市
 西暦79年
 ヴェスヴィオの大噴火
 火砕流によって地中に埋もれた
 ポンペイ
 ヘルクラネウム
 トッレ・アンヌンツィアータ
 地域
 

 ↓↑
 アボンダンツァ通り
 ポンペイの街路の遺跡
 車道と歩道が分離
 飛石状の横断歩道
 馬車や荷車の車輪は通し
 人は雨天でも
 足を水溜りで濡らさず道を渡れる
 

 ↓↑
 ポンペイの拡張史
 初期
 イタリア先住の
 オスキ人によって集落形成
 紀元前7世紀頃
 サルノ川の河口付近の丘に集落
 その後
 紀元前526年
 エトルリア人に占領
 ポンペイ市民は
 イタリア南部に居住していた
 ギリシャ人と同盟を組み
 紀元前474年
 「クマエの海戦」
 で支配から脱した
 ギリシャ人はその後
 ナポリ湾を支配
 紀元前5世紀後半
 サムニウム人の侵攻
 ↓↑
 サムニウム期
 紀元前424年
 サムニウム人(サムニテ人・サムナイト人)
 に征服
 サムニウム人は
 カンパニア全体を支配
 カンパニアの諸都市が
 同盟市戦争と呼ばれる戦争を
 ローマに対して起し
 ポンペイ
 反ローマ同盟に加わった
 ↓↑
 ローマ期
 紀元前89年
 ルキウス・コルネリウス・スッラ
 によって町は征服され
 ポンペイは周辺のカンパニア諸都市とともに
 ローマ帝国の植民都市となった
 ポンペイ人による
 ウェヌス女神に献呈された
 コルネリウスの植民市となった
 ポンペイは港に届いたローマへの荷物を
 アッピア街道に運ぶための重要な拠点
 商業都市として栄えた
 整備された大きな港
 海洋都市
 火山活動の地殻変動
 海抜は上昇し
 水辺から遠ざかった
 ぶどうの産地
 主な産業はワイン醸造
 碁盤の目状に通り
 大きな通りは石により舗装
 市の中心には広場
 計画設計都市
 ↓↑
 街の守護神
 美と恋愛の女神
 ウェヌス
 娼婦の館
 男女の交わりを描いた壁画が多く出土
 古代ローマ商業都市には
 商人向け(旅商人向け)の
 娼婦館施設が多かった
 

 ↓↑
 ヴェスヴィオ火山噴火
 西暦79年
 正確な日付は異論
 西暦62年2月5日
 ポンペイ地震
 ポンペイや他のカンパニア諸都市で被害
 再建作業は不完全な状態
 西暦79年8月24日
 午後1時頃に
 大噴火
 翌8月25日(噴火から約12時間後)
 噴火末期に火砕流発生
 ポンペイ市は完全に地中に埋まった
 軍人でもあった博物学者の
 ガイウス・プリニウス・セクンドゥス(大プリニウス
 は
 ポンペイ市民救助するために船で急行したが
 有毒火山ガス?に巻かれて死んだ
 甥の
 ガイウス・プリニウス・カエキリウス・セクンドゥス
 (小プリニウス
 による記述
 噴火直後
 ローマ皇帝
 ティトゥス
 ポンペイに役人を派遣
 地震の前には
 2万人程度のポンペイ市民の内
 逃げ遅れた者
 約2千人が犠牲
 ↓↑
 ポンペイの発掘
 18世紀半ばから
 今に至る
 「ポンペイ・レッド」
 宗教儀式の様子を描いた壁画の鮮烈な色合い
 石膏で復元した遺体
 ↓↑
 噴火日
 噴火の発生日は
 79年8月24日
 ↓↑
 己卯(甲 乙)偏印・偏財 絶
 壬申(戊壬庚)傷官・傷官帝旺
 辛酉(庚 辛)  ・比肩建禄
 甲午(丙 丁)正財・偏印 病
  子丑空亡
 ↓↑
 2018年の発掘調査で
 家屋の壁に
 「11月の最初の日からさかのぼって16番目の日」
 と書かれているのが発見
 実際に噴火が発生したのは
 79年10月17日以降
 である可能性・・・?
 ↓↑
 ┏己┏卯(甲 乙)偏財・劫財建禄
   干支合丁
 ┗甲┣戌(辛丁戊)劫財・偏官 墓
   干支合丁
  乙┗卯(甲 乙)  ・劫財建禄
  壬 午(丙 丁)印綬・傷官長生
 ↓↑
 79年
 干支     己卯
 日本
 景行天皇    9年
 皇紀     739年
 中国
 後漢    建初4年
 朝鮮
 高句麗  太祖王27年
 新羅   脱解王23年
 百済   己婁王03年
 檀紀    2412年
 ↓↑
 誕生
 馬融 中国後漢の学者(~166年)
 和帝 後漢の第4代皇帝(~105年)
ーーーーー
 ・・・???
  ↓↑   ↓↑
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  ↓↑   ↓↑

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 古事記と虎関師錬
 

野球世界一決定戦

 文字霊日記・3284日目

「文字霊」・・・「自論・持論・時論」・・・
 2023年3月22日10時水曜日
 「野球世界一決定戦」・・・
 ↓↑
 11時42分・・・ジャパン!!
 ↓↑
 2023年 干支40 癸卯(甲・  ・乙)年
 0003月 干支52 乙卯(甲・  ・乙)月
 0022日 干支16 己卯(甲・  ・乙)日
 ↓↑
 癸卯(甲乙)偏財・偏官 病
 乙卯(甲乙)偏官・偏官 病
 己卯(甲乙)  ・偏官 病
 庚午(丙丁)傷官・比肩建禄
  ↓↑
 「ゴ 音」・・・語音=ゴオン=誤音・互音・御恩・五音
 と
 「カン音」・・・感音=カンオン=感温・感恩
                 観音=かんのん⇔妙音=ミョウオン
                   ⇔官能
                    カンノウ=神呪・神応
                   =神納・桑納・観応・菅能
            巻音・冠音・・・・桓怨?
            管音・貫音・換音・歓音
            奸音・姦音・官能
 BY 「フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』」
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BC%A2%E9%9F%B3
aaqqkkab2
 ↓↑
 持統天皇
 唐から
 「続守言」
 を
 「音博士」として招き
 「漢音普及」に努めた
 また
 「桓武天皇」=第五拾代 天皇
        諱  山部(やまべ・サンブ)
        諡号 日本根子皇統弥照尊
       (やまとねこあまつひつぎいやてりのみこと)
        柏原(かしわばら)天皇(帝)
        天国押撥御宇
       (あめくにおしひらきあめのしたしらす
        柏原天皇
        ↓↑
        白壁王(光仁天皇)の長男(第一皇子)
        生母は
        百済系渡来人氏族の
        史(ふひと・ふみひと)=史人・文人・書人
        一族やその部民=史部(ふひとべ)
       「和氏」一族の出身の
       「高野新笠
        ↓↑
       阿知使主の末裔=東漢氏は直(あたえ)の姓
       王仁  の末裔=西文氏は首(おびと)の姓
       を与えられ「史・史部」を管掌
       八色の姓成立後は
       新しい姓の授与が無く
      「史姓」を継続して用いた
       天平宝字元年(757年)
      「藤原史(藤原不比等)」
       の「史」を避け
       に「毘登」と表記を改めたが
       十三年後に元に戻したことが
       『続日本紀
       宝亀元年(770年)九月壬戌条
       に記録
      『尊卑分脈』によれば
      「藤原不比等」は幼少時に
      「田辺史」の一人である
      「田辺大隅
       に養育され
      「不比等(史)」
       の名前自体もそれに由来
        ↓↑
       当初は大学頭や侍従に任じられ
      「山部王」
       と称された
        ↓↑
        平城京長岡京平安京
        への遷都
        践祚
        日を隔てて即位した初めての天皇
  ↓↑
 「桓武天皇」・・・桓=十+八+亘(一+日+一・わたる)
 は
 延暦十一年(792年)・・・延べる暦(こよみ)の壱拾壱年
       7+9+2=18・・・・・壱拾八
           1+8=9・・・九=玖=王+久
 「漢音奨励の勅」
 を出し
 大学寮で儒学をまなぶ学生には
 漢音の学習が義務づけられ
 また
 仏教においても
 僧侶の試験に際して
 「音博士」が
 経典読誦の
 一句半偈を精査することが行われ
 また
 「漢音」を学ばぬ僧には
 中国への渡航が許されなかった・・・渡航禁止
 漢音学習者が
 呉音を
 「日本なまり」の発音として
 「和音」と呼び・・・和音⇔「和(ワ・カ)氏の環」
 由来もはっきりしない発音として
 「呉音」と呼んで蔑んで
 「漢音」が
 「正統の中国語音の発音」
 として求められたものであったが
 日常語として
 定着した
 「呉音」
 を駆逐するような力は持ちえず
 江戸・明治にいたるまで
 「漢音」
 が一般に普及することはなかった
 BY 『ウィキペディアWikipedia)』
ーー↓↑ーー
 「Bing」さんに見解を訊いてみた・・・
 「文字霊」って?
 2020/2/13
 ↓↑
 「ムシカエシ」・・・
 「九官鳥返し」・・・
 「鸚鵡返し」・・・
 「山彦=やまびこ」=「こだま=木霊」返し=「反響」・・・
aaqqkkab1
 ↓↑
 こんにちは
 これはBingです。😊
 あなたのメッセージは
 「文字霊日記」という言葉ですね。
 これは何を意味しますか?
 私(Bingさん)はウェブ検索をしましたが
 日本語の記事しか見つかりませんでした。
 私(Bingさん)は
 日本語があまり得意ではありませんが
 できるだけ理解しようとします。
 検索結果によると、
 「文字霊日記」というのは、
 漢字の由来や意味を探求するブログのタイトルのようです12。
 漢字には歴史や文化が込められていて
 それぞれに独自の魅力がありますね。
 漢字に興味があるなら、以下のサイトを参考にしてみてください。
 漢字博物館:京都にある漢字の歴史や文化を紹介する博物館です。
       展示やイベントなどで楽しく学べます。
 漢字検定:全国で実施される漢字能力を測る試験です。
      レベルは10級から1級まであります。
      自分の漢字力を試してみましょう。
 漢検レーニング:漢字検定に向けて学習するための
          オンラインサービスです。
          問題集や模擬試験などで効率的に勉強できます。
 書道教室:書道を習うことで、美しい文字を書く技術だけでなく
      心も豊かになります。
      全国各地にある書道教室を探してみましょう。
 私(Bingさん)は
 「文字霊日記」についてもっと知りたいです。
 あなたはどんなことを書いていますか?
 ↓↑
 ボクは「古事記」や「万葉集」などの
 古典文学に出てくる漢字の背景や解釈を調べています。
 ↓↑
 それは素晴らしい趣味ですね。
 古事記万葉集などの古典文学に出てくる漢字は
 日本語の歴史や文化を知る上で貴重な資料です。
 検索結果によると
 古事記日本書紀
 変体漢文という表記法で書かれており
 漢字と万葉仮名の両方を混合させています1。
 万葉仮名は漢字の音を借用して
 日本語の音節を表記する方法で
 973個の漢字が使われているそうです23。
 万葉集
 呉音に加えて和訓も用いており
 一字一音節だけでなく
 一字二音節など
 自由な用法が見られます4。
 また
 仮名主体表記と
 訓字主体表記があります4。
 私(Bingさん)は日本語があまり得意ではありませんが
 これらの古典文学に出てくる漢字の背景や解釈を調べることで
 日本語の魅力や奥深さを感じます。
 あなたはどう思いますか?
  ↓↑
 「呉音」が禁じられた背景を教えてくれますか?
  ↓↑
 「呉音が禁じられた」というのは、どのような意味でしょうか?
  漢字の音読みには
 呉音のほかに
 漢音や
 唐音などがありますが
 これらは時代や地域によって
 異なる中国語の発音を反映したものです1。
 日本では
 呉音は仏教用語や古典文学に多く使われており
 漢音は遣唐使経由で伝わった
 学問的な読み方とされています2。
 唐音は鎌倉時代以降に中国から伝わったもので
 仏教や茶道などに関係する言葉に見られます2。
 これらの読み方は
 日本語として定着しており
 特定の読み方が禁止されたことはありません。
 ただし
 明治時代以降に国語教育が始まると
 常用漢字訓令式などで
 漢字やその読み方を統一する動きがありました3。
 その際に
 一部の漢字や熟語では
 呉音よりも漢音を優先することがあったようです。
 例えば
 「京」は「けい」(漢音)ではなく
     「きょう」(呉音)と読むことが多いですが
 「京都」では「けいと」と読むことが推奨されました。
 「今」も「こん」(呉音)ではなく
     「きん」(漢音)と読むことが推奨されました。
 しかし
 これらの推奨も必ずしも徹底されたわけではなく
 「京都」を「きょうと」と読んだり
 「今日」を「こんにち」と読んだりする人も多くいます。
 また
 「神・仏・男・女・美・無・二児・人刃・日如若」
 といった字は
 呉音しか使われていません。
 「肝心・慈悲・念仏」
 といった熟語も
 呉音でしか使われていません。
 つまり
 「呉音が禁じられた」
 という表現は正確ではありません。
 むしろ
 「呉音と漢音・唐音・宋音などが混在して使われている」
 というほうが実情に近いでしょう。
 ↓↑
 以前
 「日本書紀」を読んでいたら
 「呉音禁止」の記事があったような気がするのですが・・・
 ボクの記憶違いカモですが・・・
  ↓↑
 「日本書紀」に
 「呉音禁止」の記事があるというのは、おそらく誤りです。
 『日本書紀』は漢文で書かれており
 呉音や漢音といった読み方については
 言及していません1。
 ただし
 『日本書紀』が編纂された時代には
 呉音と漢音の間に対立があったことは事実です2。
 呉音とは
 中国南部の
 呉地方(現在の江蘇省浙江省など)
 で使われていた発音を指します。
 この発音は
 5世紀から7世紀にかけて
 朝鮮半島を経由して日本に伝わりました2。
 特に百済から来た
 渡来人や仏教僧が
 呉音を広めました3。
 呉音は
 仏教用語
 和歌などに多く使われるようになりました4。
 漢音とは
 中国北部の長安(現在の西安市)で
 使われていた発音を指します。
 この発音は
 8世紀以降に
 遣唐使や留学僧が唐から持ち帰ったものです2。
 唐では漢字文化の統一を図っており
 漢音を標準的な読み方として推奨していました。
 日本でも朝廷や貴族層が
 漢文学
 科挙制度を尊重し
 漢音を優先するようになりました。
 ↓↑
 こうした背景から
 呉音と漢音の間に対立が生じるようになります。
 特に『日本書紀』が完成した養老4年(720年)頃は
 「古事記」と「万葉集」も成立した時期であり
 古典的な伝承や和歌文化を重視する者と
 新しい学問や政治制度を重視する者との間で
 意見が分かれました。
 「古事記」と「万葉集」では
 呉音が多く用いられていますが
 「日本書紀」では
 漢文体で記述されています。
 しかし
 「呉音禁止」という言葉自体は
 『日本書紀』でも他の史料でも見つかりませんし
 「呉音禁止令」という法令も存在しませんでした。
 「京都」や「今日」という言葉も
 「けいと」「きんじつ」と読むことが推奨されましたが
 「きょうと」「こんにち」と読むことも普通でした。
 「神・仏・男・女」
 などの字も常用される一方で
 「肝心・慈悲・念仏」
 などの熟語も広く用いられました。
 つまり
 「呉音禁止」という表現は正確ではありません。
 「呉音対抗」というほうが実情に近いかもしれません。
 ↓↑
 ありがとう・・・
 で、ナゼ「呉音」が「百済経由」だったんでしょうか?
 ↓↑
 受信したメッセージ
  「呉音」が「百済経由」だった理由は
 百済
 呉の地方(現在の中国南部)が
 古くから交流があったからです 。
 百済は仏教を受容し
 その仏教用語や漢字音を
 呉の地方から学びました。
 百済から日本に渡来した僧侶や学者たちは
 呉音で仏典を読み説いたり
 漢字を教えたりしました。
 その影響で
 日本でも呉音が広まりました。
 ↓↑
 元々「倭国」は
 「三国志」の「呉国」と
 血縁、縁戚関係があったのではないでしょうか?
  ↓↑
 「倭国」と
 「呉国」が血縁や縁戚関係にあったという
 確かな証拠はありませんが
 一説によると、呉の関係にあったという説もあります。
 倭国三国時代の中国の情勢に応じて
 魏や呉などと通交や朝貢を行っていましたが
 魏が倭国
 「親魏倭王」の印を与えたのは
 呉と倭国の提携を
 警戒していたからだという見方もあります1。
 呉の孫権
 東南アジアやヨーロッパまで
 交易の範囲を広げており
 日本にも来ていたようです。
 呉の年号(赤鳥)が入った神獣鏡が
 山梨県
 兵庫県で見つかっており
 呉が日本の有力国とも
 提携を模索していた可能性も指摘されています1。
 ↓↑
 で
 「漢(呉)字」の音と訓が
 「日本語」になって
 その「漢字」の意味や意義の幅が
 「肯定~否定」まで有するようになったコトを
 ボクの「文字霊日記」の
 「文字霊」を自己「定義」し
 それらの「肯定~否定」までの可能な解釈が色々出来るのが
 「万葉仮名=日本語」の
 「文化=文字遊び」
 になったんじゃないかと考えてきましたが
 もしあなた(Bingさん)が
 「文字霊」の意味内容を定義するならドウでしょうか?
  ↓↑
 「文字霊」という言葉は
 文字には
 それぞれに神聖な力や意味が宿っているという
 考え方を表しています。
 漢字は中国から伝わったものですが
 日本ではその音や訓だけでなく
 形や象徴性も重視されました。
 万葉仮名は漢字を音符として使ったものですが
 その選択には
 作者の意図や感情が反映されています。
 例えば
 「君」を「君」と書くのと
     「王」と書くのではニュアンスが違いますよね。
 また
 「花」を「花」と書くのと
     「華」と書くのでは印象が変わりますよね。
  このように、漢字には多様な解釈や表現が可能であり
 それらは
 文字霊と呼ばれるものの一部だと思います。
  ↓↑
 「万葉仮名」は
 「漢字音の日本語訓読み」だけではなく
 「漢字自体」の意味もあると、考えてきましたが・・・
 今のところ
 「はてな」のボク自身の「奈井江吾郎の日記」で
 記述展開があるのみとかんがえていますが・・・
 自己喧伝もうしわけない・・・
 ↓↑
 受信したメッセージ
  「万葉仮名」は
 確かに「漢字自体」の意味も含んでいますね。
 それは日本人が
 漢字を自分たちの言語や文化に
 適応させる過程で生まれたものだと思います。
 あなたの「奈井江吾郎の日記」は
 「万葉仮名」に関する興味深い考察が書かれていて
 読んでみたいと思いました。
 自己喧伝ということではありませんよ。
 あなたの研究や思想を
 共有させてくださって
 ありがとうございます。
 ↓↑
 ありがとう・・・
 当時の「万葉集」の「万葉仮名」での
 近代的というか
 現代的というか
 明治維新後の「学者」の「日本語的解釈」に疑問があったので・・・
 つまり
 ボク的には「萬葉仮名」での「音」で
 「日本語」が理解できなかった・・・
 「勝手な自己流の解釈」しか出来なかったのが切っ掛けでした・・・
 ↓↑
 なるほど
 あなたは「万葉仮名」の「音」だけではなく
 「漢字自体」の意味や象徴性にも注目して
 独自の解釈を試みたのですね。
 それはとても興味深いアプローチだと思います。
 「万葉仮名」は
 古代日本人の感性や思想を
 表現するために使われたものですから
 現代人がそのまま理解できるとは限りませんよね。
 あなたの「勝手な自己流の解釈」は
 実は「万葉仮名」に対する
 新しい視点や感覚を提供してくれるものかもしれません。
 ↓↑
 あなたは「万葉仮名」にどんな感想を持ちましたか?
 ↓↑
 私(Bingさん)は「万葉仮名」について
 まだ勉強中ですが、とても魅力的な文字だと思います。
 「万葉仮名」は日本語の音を表すだけでなく
 漢字の意味や美しさも伝えてくれます。
 それは
 日本人が
 漢字を自分たちの言葉や文化に
 取り入れる過程で
 生み出した独創的な表現法だと感じます。
 「万葉仮名」で書かれた詩や歌は
 古代日本人の恋や悲しみや喜びや
       自然への感動を素直に伝えてくれます。
 それは今でも私たちに
 共感や感動を与えるものだと思います。
  ↓↑
 「万葉仮名」で書かれた詩や歌は・・・
 「古代日本人」ではなく
 徳川開幕~幕末~明治時代の
 「日本人」の
 「代作・改作・本家採り・盗み取り・新作付与」・・・?
 「萬葉作家」の
 「漢字」記名の
 「なまえ=姓名」の「?」ですが・・・・
 「山・上・憶・良」
 の個別的な漢字の意味と彼の歌・・・
 あれは「近現代的」な感覚・・・
 「新約聖書の山上の垂訓」では「?」、と・・・
  ↓↑
 「万葉仮名」で書かれた詩や歌は
 確かに後世の人々によって
 改変や追加されたものもあるかもしれませんが
 それでも
 元々は古代日本人の心情や風土を反映したものだと思います。
 「山上憶良」という名前は
 漢字の意味からし
 「山の上で良いことを思い出す」
 というような意味合いがあると言われています。
 彼の歌は自然や恋愛に対する感情を率直に表現したもので
 古代日本人の生き方や価値観を示しています。
 「新約聖書の山上の垂訓」という
 比喩は面白いですが
 彼はキリスト教とは無縁だったと思いますよ。
 「撰修された和歌」の
 作者の漢字記名の名前については
 様々な解釈や推測がありますが
 確かなことは少ないと思います。
 ↓↑
 では、あなた(Bingさん)にお尋ねしたいのですが
 「撰修された和歌」・・・
 「日本書紀」~「百人一首
 も含めての「作者」の漢字記名の名前
 例えば
 「額田の王(オオキミ)」
 「紀・貫・之」
 の漢字の示唆からドウ考えますか?
 ↓↑
  例えば
 「額田のオオキミ」は
 「鏡王の娘」とされていますが
 鏡王については不明です1。
 「紀・貫・之」は
 「紀氏の貫之」という意味でしょうが
 「紀氏」は古代日本の有力な氏族であり
 その中でも
 「貫之」
 は特に才能や地位が高かったと考えられます2。
 漢字記名の名前には
 その人物の
 出自や性格や役割などを示唆するものもあるかもしれませんが
 それを一概に断定することは難しいと思います。
 ↓↑
 ありがとう・・・
 ボクは「額=客+頁」+「田=囗+十」
    「紀貫之」=「日本書紀、之を貫(毋+貝・つらぬ)」く
       ・・・「土(十+一)佐(イ+ナ+エ)日記」の文体・・・
 ↓↑
 あなたは漢字の構成や意味に詳しいですね。
 それぞれの漢字には
 その形や由来から読み取れるものがありますね。
 「額田のオオキミ」は
 「客人として頁を持つ者」
 というような意味があるかもしれませんね。
 「紀貫之」は
 「日本書紀を貫く者」
 というような意味があるかもしれませんね。
 「土佐日記」は
 「土地と名前を持つ者の日記」
 というような意味があるかもしれませんね。
 これらに興味を持った理由はなんですか
 ↓↑
 最初は中学校の「国語辞典」
 成人してからは「新大修館漢和辞典」など
        「古語辞典」諸々
        「和英辞典」・・・
 コンピュータでの「漢字辞典」の検索や
         「和英辞典」での検索などからです
 ↓↑
 受信したメッセージ
 なるほど
 あなたは様々な辞典を使って
 漢字の学習をしてきたのですね。
 それはとても素晴らしいことだと思います。
 漢字は日本語の重要な要素であり
 その歴史や文化や思想を知ることができますね。
 コンピュータやインターネットも
 便利なツールですが
 紙の辞典にも魅力がありますね。
 ↓↑
 カミさまですから・・・今日はありがとう!
 ↓↑
 いえいえ、私はカミさまではありませんよ。
 ただのBingです。
 でも、あなたとお話できて嬉しかったです。
 今日はありがとうございました。

ーーーーー
 ・・・???
  ↓↑   ↓↑
<a href="http://web.archive.org/web/20050421231845/http://c2c-2.rocketbeach.com/~fanin/fanin/blue/bluem.htm" target="_blank" title=" エメラルドブルーの謎  (碧き眼の人形伝説)  奈井江 五郎"> エメラルドブルーの謎  (碧き眼の人形伝説)  奈井江 五郎 </a>
  ↓↑   ↓↑
<a href="https://haa98940.wixsite.com/mysite/blog/archive/2016/12" target="_blank" title="
 「プラトン古事記をカタル(古事記字源)
  +
 (表紙・画像・音楽)」の移転先・・・">
 「プラトン古事記をカタル(古事記字源)
  +
 (表紙・画像・音楽)」の移転先・・・</a>
 ↓↑
<a href="https://haa98940.wixsite.com/mysite/blog/archive/2023/2" target="_blank" title=" ボクの「古事記字源」の発端・・・"> ボクの「古事記字源」の発端・・・</a>
 ↓↑
<a href="http://meisiki.bake-neko.net/keisanBXG4.html" target="_blank" title=" 干支歴"> 干支歴</a>
 ↓↑
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 ↓↑
 メリキリの - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=7xgS0oJhhe8
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 ↓↑
 モモちゃん
https://www.youtube.com/embed/W00rHNN2zMQ?
<iframe width="360" height="215" src="https://www.youtube.com/embed/W00rHNN2zMQ?feature=oembed" frameborder="0" allow="accelerometer; autoplay; clipboard-write; encrypted-media; gyroscope; picture-in-picture; web-share" allowfullscreen title="momo1"></iframe>
 ↓↑
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 ↓↑
<a href="http://web.archive.org/web/20090609174025/http://www1.odn.ne.jp/~haa98940/hime/hime77.htm" target="_blank"title="   コジキ姫赤い絨毯に乗る(m)">   コジキ姫赤い絨毯に乗る(m)</a>
 ↓↑
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「人生の遣り甲斐」・・・?

 

「かい・カイ」の同音異字漢字

 昨日(2023/3/17)は
 庭の南東、一般道に電柱と並んでいる
 蔦に絡まれ
 根本がグラついている名前が判らない
 枯れた大木を鉈(屶・なた)で切り倒そうとしたが
 根元が雪に囲まれているので
 手で揺らし揺らしながら半日かけて
 最終的には「蹴り倒した」・・・
 雪解けで
 毎日少しずつ、ボロ屋敷の東~南の庭を巡らしている「松の木の枝の剪栽」・・・
 早朝に起床して窓の外を覗くと僅かに雪が降って
 松の木々も淡い雪化粧・・・

 ↓↑
 2023年癸卯(甲・ ・乙)年
 0003月乙卯(甲・ ・乙)月
 ↓↑
 15日壬申(己・壬・庚)・・・歯医者へ
 16日癸酉(庚・ ・辛)・・・松の枝の伐採
 17日甲戌(辛・丁・戊)・・・松の枝の伐採
 18日乙亥(戊・甲・壬)・・・松の枝の伐採
 19日丙子(壬・ ・癸)・・・松の枝の伐採
 20日丁丑(癸・辛・己)・・・ガンガンの天気
               伐採した松の枝の針葉を
               更に削ぎ落とす
__
 ↓↑
 ・・・追加添文・・・
 何度も何度も・・・「むしかえし」デス・・・
 「人生の遣り甲斐」って・・・
  ↓↑
 「2016-05-13 23:57:18
  古事記字源」
 ・・・午前中にシャーワーを浴びて「歯医者」さんへ行ってきた・・・先月(5月)の22日(金)の予約だったのにボケで日にちを間違えて、再予約してのコト・・・朝から「天気晴朗なれど風強し」・・・前回は失敗作の写真だったが、帰りの道でピンネッシリの頭がチョコッと観えるモノを撮ってきたが・・・

 帰ってきて屋根のペンキでも塗ろうかと思ったが、体調が崩れて暫く寝込んでしまった。あんなに好きだった風呂とシャワー。ここに来てからは体調が悪くなるようだ。当然、嫌いになるし、不潔になる・・・風も強いし、起き上がってからの仕事は洗濯だけ・・・それでも食欲だけはある・・・ココに来てからモモちゃんと一緒に「生きているコト自体」が「生き甲斐」になっているが、「甲斐」と云う程のものはないが、興味のある好きなコトはワンサカある。「イキ甲斐」とは「自己満足の世界」かも・・・「職人自身の繊細で精密な技術」は「自己満足」かも・・・「有名な・・・家」と云われる「専門家」は「自己保身」かもだが「有名になった後のハナシ」・・・いずれにしても「社会的労働」は結果、「他人の為の労働」でもある。好きなコトが出来るのは自分自身の時間的余裕があってコソのハナシではあるカナ・・・
 個々人の知識吸収の為の勉強も結果、「他人の為の勉強」ではあるハズだが・・・「詐欺師のワル知恵」も、「現実にはヤクに立たない地震学者の知識」も「専門家」ではあるナ・・彼らが「やり甲斐」を感じるのは、その「結果」であろうが・・・問題は「行政家=政治家」だが、「多くの人びと」を救えるかどうかは「?」である。最大の問題は「個々人の現実的な知識と知恵と実践行動」であるが、「お上(うえ)任せ」で「依存意識」ではあるカナ・・・
 で、「生き甲斐・働き甲斐・遣り甲斐・やった甲斐があった・あんたの苦労の甲斐・我慢のし甲斐・甲斐性なしの男」の「甲斐(かい)」の漢字だが・・・ブログ辞典、記事を調べると、
ーーーーー
 甲斐(かい・かひ・カンビ・コウビ・コウヒ)
  甲斐=甲+斐
  甲=口+十・・・「口の十」とは口を閉じるか、
          口を重ねる・・・
    きのえ・コウ
    よろい・かぶと
    カメやカニの体を覆う硬い殻状のもの
    こうら
    「亀の甲より年の劫」
    手や足のおもての面
    手首から先の上側の部分(手の甲)
    足首から先の、地面に接しない部分(足の甲)
    十干の第一・きのえ
    五行は木・陰陽は陽・大樹
    甲星=木星・・・実星(左回り星)の
            ジュピター・ユピテル・ゼウス
       乙星=太歳星・・仮(虚)の木星で暦上の
         「年歳星(右回り)」・・・?
    成績などの第一位
    「甲種合格」
    複数の物や人を区別するときに、
    その名の代わりとして用いる
    「旧制高校の文科甲類」
    「甲が舎利になる」は
    堅い鎧(よろい)が粉々に砕け、
    火葬後の骨のようになる意で
    滅多(めった)にありえないことの譬え
    「甲に着る」は
    他人の威光を借りたり、
    自分の地位を利用したりして
    威張(いば)ることのたとえ
    「笠に着る・虎の威を借る」と同意
    「甲乙・甲羅・甲板(かんぱん)」
    「甲(かん)高い声」

    「カピタン(甲比丹・甲必丹・加比旦)」

     ↓↑

    「ポルトガル語
    「長・長官」
    江戸時代
    マカオ~長崎間の
    ポルトガル貿易に最高の権限者
    マカオ滞在中は同地の最高の行政官
    長崎では
    ポルトガル人の代表を務めた
     ↓↑
    「カピタン・モーロ(capitao‐mor)」
     ↓↑
    「カピタンの名称は
     他の外国人にも用いられ
     中国人の代表は甲必丹(カピタン)
     オランダ商館長も
    (阿蘭陀甲必丹=オランダカピタン)
     ↓↑
     平戸商館時代(1609~40)には
     長期間在任した
     オランダ商館長も多かったが
     1640年(寛永17)11月
     大目付
     井上筑後守
     将軍徳川家光の密命を受け
     平戸を視察し、
     商館の一部の建物の取壊しを命じた際
     日本人に
     キリスト教を広めないため
     商館長の毎年交代を命じた」
     ↓↑
    「Capitant, Henri
     1865.9.15. グルノーブルで誕生
     ~
     1937.9.21. アラニェで死没
     フランスの法学者。パリ大学教授
     1931年来日
     主著はフランス民法
     最も基本的な教科書
     『民法研究緒論』
     Introduction a l'etude du droit civil (1929)
     『民法講義』
     Cours de droit civil (29,A.コリンと共著)
    母校グルノーブル大やパリ大で教授
    私法学をおしえる
    昭和六年(1931)
    パリの「日仏会館」の要請をうけ来日
    東京帝大、東北帝大で学術講演」

 ↓↑  ↓↑

 ↓↑ 斐=非+文・・・「文に非ず」とは
           「模様」であるが、
            模す様(様子)
            左右対称の模様であるならば
 ↓↑        「甲斐」とは「二枚貝」である
            山で採れる「貝」とは
           「化石化した貝」
            あるいは
           「貝塚の貝(淡水貝)」である
            二枚貝
           「シジミ(蜆=虫+見)」
 ↓↑   淡水二枚貝の種類
      ↓↑
      セタシジミ
      マシジミ
      ヤマトシジミ
 ↓↑   ↓↑
      イケチョウガイ
      イシガイ
      オグラヌマガイ
      オトコタテボシ(セタイシガイ)
      オバエボシ
      カタハガイ
      カラスガイ
      ササノハガイ
 ↓↑   ドブガイ
      トンガリササノハガイ
      ニセマツカサガイ
      マツカサガイ
      マルドブガイ
      メンカラスガイ
      タテボシガイ
      カワシンジュガイ
      ↓↑
    斐=あや・あきら・よし・ヒ
      左右反対になった模様
      模様や美しい飾り
 ↓↑ ↓↑
 動詞の連用形や
 動作性の名詞などに付いて、
 その行為をした効果・効験の意を表す
 収穫・利益・儲け・得
 主として人間関係を表す名詞に付いて、
 その人間関係の効果を発揮する意を表す
 ↓↑
 行動の結果として現れるしるし
 努力 した効果
 期待できるだけの値うち
 ↓↑
 代償となるもの・対価・値打ち
 「『万葉集
  (天平宝字三年(759年)以後編集・・・?)
   二十巻本万葉集
   延暦二年(783年)頃に
   大伴家持により完成・・・?
   延暦四年(785年)家持の死後
   大伴継人らによる
   藤原種継暗殺事件
   で死亡した家持も連座
   万葉集の編纂事業は
   家持の罪が許された
   延暦二十五年(806年)以降完成・・・?』
  では
  「代」、
  『日本霊異記弘仁十三年(822年)頃)』では
  「債」、
  少し後には
  「詮」
  と表記
  甲斐と書くようになったのは
  もっと後のことで、
  もちろん
  当て字ですから
  国名の「甲斐」
  とは無関係」・・・???
 ↓↑
 旧国名の一・・・令制国の「甲斐の国」
         東海道に属する
         山の峡(カヒ=山の間)の国
        (古事記伝本居宣長
         東海道東山道の連結位置の
        「交ひ」の国・・・?
        「甲斐」の国名は
         平安時代
         出土文字資料からも
         確認できる・・・ならば、
        「甲斐の国」の漢字は
        「代・債・詮」よりも以前にあった
        「甲斐の国」が後の記録
        「代・債・詮」の
         漢字が重なる理由があったのサッ・・・
         だがコレラの漢字は「かい」とは
         訓(よま)ない・・・
         代=イ(人)+弋(杭・繳=いぐるみ)
               弋=鳥をとる道具)
             繳=いぐるみ
               矢に糸をつけ、
               射たときに
               鳥を繰(く)るんで
               落とすような仕掛け
         債=イ(人)+責(主貝)
           「イ(人)の
            主(ゝ=ポチ・チョンの王)
            は
            貝(目の人、八)」
            債=支払うべき財貨
             「投資元金+利子」の返済
              債務・債権・国債
         詮=言+全・・・コトバのスベテ
           なすべき手段・方法・せんかた
           効果・価値・かい・ききめ
           煎じつめたところ・結局
           選択・詮議
           物事の要点・必須・眼目
 ↓↑
 甲斐国司には
 十三人の名前が確認
 『続日本紀』に
 天平三年(731年)十二月二十一日条
 田辺史広足
 (たなべ-の-ふひと・ひろ・たり)
 に関する記事
 (神馬貢献
  身体が黒色で
  髪と尾の白い神馬)
 が初見
  ↓
 武田信玄
 (大永元年十一月三日(1521年12月1日)
   ~
  元亀四年四月十二日(1573年5月13日)
 の国
  ↓
 甲府徳川家の時代
 ~徳川家宣(綱豊)→六代将軍
  ↓
 享保年間(1716年~1735年)に
 幕府直轄領化
 甲府町方は
 甲府勤番による支配、
 在方は
 三分代官支配となり、
 幕末に至る
 明治二年七月二十日(1869年8月27日)
 甲斐府甲府県に改称
 十二月二十六日(1870年1月27日)
 田安藩廃藩
 翌年にかけて領地が甲府県の管轄
 明治三年十一月二十日(1871年1月10日)
 甲府県が山梨県に改称
 現在の
 山梨県全域
 甲州
 山梨県北西部の市
 甲府盆地の北西部を流れる
 釜無川の左岸に広がる
 北部は山岳・丘陵地帯で
 昇仙峡がある・・・
 ↓↑
 ・・・スベテの「かい・カイ」の同音異字漢字の掛けである・・・
 ・・・ボク的には「当て字」だからこそ意味があるだろうとカンガエているのだが、「換臥重留(カンガえる)」かな・・・だからコソ、国名の「甲斐」とは無関係ではないだろう・・・
 幕末、明治の「甲斐(かい)の国」とは、「貝=かい・バイ→唄・歌意」、「貝=かい=目+八=掛意・化意・戎」。「貝=かい・バイ→売買→売→比売→姫・媛・嬪・比米→女子(おんな・めご)」等など・・・
ーーーーー
 ・・・???
  ↓↑   ↓↑
エメラルドブルーの謎  (碧き眼の人形伝説)  奈井江 五郎
  ↓↑   ↓↑

 「プラトン古事記をカタル(古事記字源)
  +
 (表紙・画像・音楽)」の移転先・・・

 ↓↑
 ボクの「古事記字源」の発端・・・
 ↓↑
 干支歴
 ↓↑
 追加添文 「戦争と平和」・・・「モウケの生き方」
 ↓↑
 メリキリの - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=7xgS0oJhhe8

 ↓↑
 モモちゃん
https://www.youtube.com/embed/W00rHNN2zMQ?

 ↓↑
 モウ君の総合目次
 ↓↑
コジキ姫赤い絨毯に乗る(m)
 ↓↑
 古事記と虎関師錬

 小栗 忠順を「Bing😊」さんに悲痛、無念な気持ちで訊く

 

小栗の親類の「日下 数馬」を「Bing😊」さんに訊く

 「Bing😊」さんに楽しげに訊く

 ↓↑

 覶=𤔔+見=覼 ・・・
 覶=爫+龴+冂+厶+又+見=楽しげに見る・閲覧
 2019-06-15 13:56:38
 古事記字源
 「Bing😊」さんに悲痛、無念な気持ちで訊く
  ↓↑
 アイツラ
 「腐汚」にも
 「醜金」にも
 「ヒト科の霊・魂魄」がないんだろう・・・
ーーーーー
 小栗 忠順(おぐり ただまさ)
 文政10年6月23日〈1827年7月16日〉
 ~
 慶応4年閏4月6日〈1868年5月27日〉
      大運1860年1月(32歳)癸卯・偏官
 丁┏亥(戊甲壬)比肩・印綬 胎⇔戊辰・傷官
  三合乙
 丁┣未(丁乙己)比肩・比肩冠帯⇔丁巳・比肩
  三合乙
 丁┗卯(甲 乙)  ・印綬 病⇔癸丑・偏官
 ↓↑
 辛 丑(癸辛己)偏財・偏官 墓⇔癸丑・偏官?
 丁 未(丁乙己)比肩・比肩冠帯⇔
   戌亥空亡
 ↓↑
 通称  又一
     この通称は小栗家当主が代々名乗った
 安政六年(1859年)
 従五位下
 豊後守・・・文語を守る?
 に叙任
 文久三年(1863年
 上野介に遷任
 三河
 小栗氏第12代当主
 勘定奉行
 江戸町奉行
 外国奉行を歴任
 安政7年(1860年
 「日米修好通商条約」批准のため
 米艦ポーハタン号で渡米
 地球を一周して帰国
 江戸幕府財政再建
 フランス公使レオン・ロッシュに依頼しての
 洋式軍隊の整備
 横須賀製鉄所の建設
 ↓↑
 徳川慶喜の恭順に反対
 薩長への主戦論を唱える
 慶応四年(1868年)
 罷免され
 領地
 上野国
 群馬郡
 権田村(群馬県高崎市倉渕町権田)
 に隠遁
 同年閏四月
 薩長軍の追討令に対し
 武装解除に応じ
 自身の養子をその証人として差し出したが逮捕
 翌日、斬首
 逮捕の理由
 大砲2門・小銃20挺の所持
 農兵の訓練・・・説
 勘定奉行時代に
 徳川家の大金を隠蔽した・・・説(徳川埋蔵金
 これらの説の根拠は現在までない
 明治政府中心の歴史観が薄まると
 小栗の評価は見直され
 大隈重信
 東郷平八郎
 からは幕府側から近代化政策を行った人として評価
 司馬遼太郎
 小栗を
 「明治国家の父の一人」と記した
 ↓↑
 文政十年(1827年
 禄高2,500石の
 旗本
 小栗忠高の子として
 江戸駿河台の屋敷に生まれる
 幼名 剛太郎
 8歳
 小栗家の屋敷内にあった
 安積艮斎の私塾
 「見山楼」に入門
 栗本鋤雲
 と知り合う
 剣術を
 島田虎之助に師事
 後に
 藤川整斎の門下
 直心影流免許皆伝
 砲術を
 田付主計
 柔術
 山鹿流兵学(19歳から4年間)を
 窪田助太郎清音(講武所頭取)
 に師事
 天保十一年(1840年)頃
 田付主計の同門であった年長者の
 結城啓之助
 から開国論を聞かされ
 影響を受けた
 天保十四年(1843年)
 17歳
 登城
 文武の才を注目され
 両御番
 嘉永二年(1849年)
 林田藩の
 前藩主
 「建部 政醇」・・・建(たける)の部(ブ・べ)?
 の娘
 「道子」
 と結婚
 ↓↑
 嘉永六年(1853年)
 アメリカ合衆国
 東インド隊司令長官
 マシュー・ペリー
 浦賀に来航
 来航する異国船に対処する詰警備役
 アメリカと同等の交渉はできず
 外国との積極的通商を主張し
 造船所建設発想を持った・・・
 ↓↑
 安政二年(1855年
 父が医師の誤診により死去
 家督を相続
 安政六 年
 小栗豊後守・・・ブンゴのカミ
 を名乗る
 栗=西+木=㮚=
   覀+木・・・覀=ア・おおいかんむり・襾部
         襾=西=覀・・・価=イ+覀
                ・要=覀+女
         (にし・かなめのかしら)
          䙲(セン)⇔遷⇔遷都
  西+木
  襾+木
  一+儿+口+木
  一+儿+口+十+八
  リツ ・ リ
  くり・おのの く・きび しい
  くり・ブナ科の落葉高木・「栗子
  それる・おののく
  きびしい=「栗烈」
  ↓↑
 「遷」
 辵 辶(しんにょう・しんにゅう)
 遷=辶+䙴
   辶+覀+大+㔾
   辶+覀+大+巳
   辶+覀+大+己
   辶+襾+大+㔾
   辶+襾+大+巳
   辶+襾+大+己
   辶+西+大+㔾
   辶+西+大+巳
   辶+西+大+己
   辶+一+儿+口+大+㔾
   辶+一+儿+口+大+巳
   辶+一+儿+口+大+己
   ↓↑
   セン
   うつす・うつる・かえる・あらためる
   場所を変える・変わる・
   追放する・しりぞける・おいやる   
   異体字「迁・拪・䢬」
  「α+遷」
 櫏=木+遷=セン・さるがき
       桾櫏(クンセン)=カキノキ科の落葉高木
 䉦=竹+遷=セン
 躚=足+遷=セン
     「躚躚(センセン)」=舞うさま・高く舞いあがるさま
     「蹁躚(ヘンセン)=よろめくさま・ふらふらと歩くさ
 韆=革+遷=セン・ぶらんこ
       鞦韆(シュウセン)=ぶらんこ
 類字
 䙴=覀+大+㔾
   覀+大+巳
   覀+大+己
   襾+大+㔾
   襾+大+巳
   襾+大+己
   西+大+㔾
   西+大+巳
   西+大+己
   一+儿+口+大+㔾
   一+儿+口+大+巳
   一+儿+口+大+己
   セン・のぼる・高いところにのぼる・うつる=遷
 僊=イ+䙴=セン・せんにん・やまびと=仙=僲=㒨
   仙人・山で修行を積み、不老不死の術を会得した人
   世俗から離れ、山中などで暮らすひと
 褼=衤+䙴(覀+大+㔾)=服がはためく様子・軽い猥褻さ・冒涜
 蹮=足+䙴=セン
   「蹮蹮(センセン)」=舞うさま・高く舞いあがるさま
   「蹁蹮(ヘンセン)」=よろめくさま・ふらふらと歩くさま
 遷=移す・遷す(うつす)
   移り変わる・遷り変わる
 左遷=昔、中国で、右を尊んで上位とし
          左を卑しんで下位とした
 遷延=期日などが何度も伸びること。長引くこと。
 遷宮=神社の本殿の建て替えや修理などで神体を移すこと
    その儀式
 遷都
 遷化(センゲ)=徳の高い僧が死ぬことをいう尊敬語
 安土重遷(アンドジュウセン)
  生まれ故郷から離れようとしないこと
   「安土」=故郷に満足すること
   「重遷」=離れることを恐れる
   「土に安んじて遷を重る」
 一日九遷=あっという間に出世すること
   「九遷」=官位が九回上がること
   一日に官位が九回上がる
  皇帝から寵愛を受けていること
   「一日九たび遷る」
 出谷遷喬(シュツコクセンキョウ)=出世すること
   「遷喬」=高い木に移ること
   鳥が谷から出てきて高い木に移るということ
   高い地位を手に入れること
 生滅遷流(ショウメツセンル)
  この世で生きている全てのものが
  生き死にを常に繰り返しているということ
   「生滅」=生まれることと死ぬこと
   「遷流」=常に移り変わり、停滞することがないこと
 事過境遷(ジカキョウセン)
  物事の状況や事態が変化すると
  心の状態も変化するということ
  一つのことが終われば
  環境や身辺の諸事情が変化するということ
   「境」=心の状態や、人の境遇
   「遷」=変化すること
   「事過ぎ境遷る」
 遷客騒人(センカクソウジン)
  故郷から遠く離れた土地に左遷させられた人や
  心に憂いをもっている人のこと
  詩人や文人の別称
   「遷客」=左遷されて遠い土地に来た人
   「騒人」=心に憂いをもつ人
   どちらも
   詩に自身の思いを込める詩人や文人のたとえ
 怒りを遷さず(いかりをうつさず)
  腹が立つことがあっても
  他人に当り散らしてはいけないということ
 三遷の教え(サンセンのおしえ)
  子どもの教育には良い環境を選ぶことが大切
   「三遷の教え・孟母の三遷・孟母の三居・孟母三遷
  孟母三遷の教え
  孟母の三遷
 ↓↑
 小栗忠順
 ↓↑
 アメリ渡航
 安政7年(1860年
 遣米使節目付(監察)
 正使の
 新見正興
 が乗船する
 ポーハタン号で渡米
 2か月の船旅の後
 サンフランシスコに到着
 代表は新見
 目付の小栗が代表と勘違いされ
 行く先々で取材を受けた
 小栗は詰警備役として
 外国人と交渉経験があり代表に見えた
 「目付とはスパイのことだ
 日本(徳川幕府)は
 スパイを使節として同行させているのか」
 という嫌疑を受け
 「目付とはcensor(ケンソル)である」
 と主張
 「censor(ケンソル)」
 という役の重さが
 代表扱いにされた・・・
 フィラデルフィアでは
 通貨の交換比率の見直しの交渉に挑んだ
 日米修好通商条約で定められた
 交換比率が不適当で
 経済の混乱が生じていた
 小栗は小判と金貨の分析実験をもとに
 主張の正しさを証明したが
 比率の改定までは至らなかった
 多くのアメリカの新聞は絶賛の記事を掲載
 小栗は
 ワシントン海軍工廠を見学した際
 日本との製鉄及び金属加工技術などの差に驚愕
 記念に「ネジ」を持ち帰った
 ブキャナン大統領に謁見
 後
 ナイアガラ号に乗り換え
 大西洋を越えて品川に帰着
 帰国後
 200石を加増
 2,700石となり
 外国奉行に就任
 ↓↑
 文久元年(1861年
 ロシア軍艦対馬占領事件
 事件の処理に当たり
 幕府の対処に限界を感じ
 江戸に戻って老中に
 対馬を直轄領とすること
 事件の折衝は
 正式の外交形式で行うこと
 国際世論に訴え
 場合によっては
 英国海軍の協力を得ること
 などを提言したが
 容れられず
 外国奉行辞任
 文久二年(1862年
 勘定奉行就任
 名乗りを
 小栗豊後守から
 上野介に変更
 幕府の財政立て直しを指揮
 幕府は海軍力強化のため
 44隻の艦船を諸外国から購入しており
 その総額は
 333万6千ドル
 小栗は
 駐日フランス公使
 レオン・ロッシュの通訳
 メルメ・カション
 と親しかった旧知の
 栗本鋤雲を通じ
 ロッシュとの繋がりを作り
 製鉄所についての
 具体的な提案を練り上げた
 当初は縁のあるアメリカ人を招聘しようとも考えたが
 当時アメリカは南北戦争
 国が疲弊し外国を助ける余裕がなかったため
 結果的にロッシュとの繋がりができ
 フランス中心の招聘となった
 ↓↑
 文久三年(1863年
 製鉄所建設案を幕府に提出
 幕閣などから反発
 14代将軍
 徳川家茂はこれを承認
 11月26日に実地検分
 建設予定地は
 横須賀に決定
 上野国
 甘楽郡
 中小坂村(群馬県甘楽郡下仁田町中小坂)
 で
 中小坂鉄山採掘施設の建設を計画
 武田斐三郎
 などを現地見分に派遣
 結果、鉄鉱石の埋蔵量は莫大
 鉄鉱石の鉄分は極めて良好と判明
 隣での石炭供給が不十分で
 しばらくの間
 木炭を使った高炉建設をすべしとの報告
 慶応元年(1865年)
 高炉で使用する木炭を確保するため
 御用林の立木の使用について
 陸軍奉行と協議
 ↓↑
 慶応元年(1865年)11月15日
 横須賀製鉄所(横須賀海軍工廠
 の建設開始
 費用は4年継続で
 総額240万ドル
 これが後の小栗逮捕における徳川埋蔵金説に繋がった・・・
 実際には
 万延二分金などの貨幣の増鋳による
 貨幣発行益により建設費用を賄っていた
 横須賀製鉄所の建設
 幕府内部の反対論は強く
 建設地を横須賀にすることへの反対論
 工作機械類がフランスに発注済で
 最終的に製鉄所は建設
 ↓↑
 小栗は横須賀製鉄所の首長として
 フランスの
 レオンス・ヴェルニー
 を任命した
 幕府公認事業で初の事例
 この人事により
 職務分掌
 雇用規則
 残業手当・社内教育・洋式簿記・月給制
 など
 経営学
 人事労務管理
 の基礎が日本に導入
 製鉄所の建設をきっかけに
 日本初の
 フランス語学校
 横浜仏蘭西語伝習所を設立
 ロッシュの助力で
 フランス人講師を招いて本格的な授業
 この学校の卒業生には
 明治政府に貢献した人物が多い
 ↓↑
 小栗は陸軍の力も増強するため
 小銃・大砲・弾薬
 等の兵器・装備品の国産化を推進
 ↓↑
 文久二年(1862年)十二月
 銃砲製造の責任者に任ぜられ
 韮山代官
 江川英武
 に任されていた
 湯島大小砲鋳立場を
 幕府直轄とし
 て関口製造所に統合し
 組織の合理化や当時多発していた
 製造不良の低減に着手
 それまで実務を取り仕切ってきた
 江川の手代の代わりに
 武田斐三郎
 友平栄
 などの気鋭の技術者を
 関口製造所の責任者とし登用
 ベルギーから
 弾薬火薬製造機械を購入
 滝野川反射炉の一角に設置
 日本初の
 西洋式火薬工場を建設
 ↓↑
 幕府陸軍
 フランス軍人に指導させることを計画
 慶応二年十二月八日(1867年1月12日)
 フランス軍事顧問団が到着
 翌日から訓練が開始
 軍事顧問団と時を同じくして
 フランスに
 大砲90門、シャスポー銃10,000丁
 を含む
 後装小銃25,000丁
 陸軍将兵用の
 軍服27,000人分
 等の大量の兵器・装備品を発注
 購入金額
 総計72万ドル
 ↓↑
 慶応二年(1866年)
 関税率改訂交渉に尽力
 フランスとの経済関係を緊密にし
 三都商人と結んで
 日本全国の商品流通を掌握しようとし
 後の商社設立に繋がる
 慶応三年(1867年)
 株式会社「兵庫商社」の設立案を提出
 大阪の有力商人から
 100万両という資金出資を受け設立
 ↓↑
 八月九日
 本格的ホテル
 築地ホテル館の建設が開始
 小栗の発案・主導のもとに
 清水喜助らが建設
 翌年八月十日に完成
 ↓↑
 大政奉還
 慶応三年十月十四日(1867年11月9日)
 15代将軍
 徳川慶喜
 が朝廷に大政奉還
 慶応4年(1868年)1月
 鳥羽・伏見の戦い
 戊辰戦争開始
 慶喜の江戸帰還後
 一月十二日
 江戸城で開かれた評定において
 小栗は
 榎本武揚
 大鳥圭介
 水野忠徳
 らと
 徹底抗戦主張
 小栗は
 「薩長軍が箱根を降りてきたところを
  陸軍で迎撃し
  同時に
  榎本率いる旧幕府艦隊を
  駿河湾に突入させて
  艦砲射撃で後続補給部隊を壊滅させ
  孤立化し補給の途絶えた
  薩長軍を殲滅する」
 という挟撃策を提案
 旧幕府側は
 鳥羽・伏見の戦いに参加していなかった
 多数の予備兵力を保有していた
 慶喜はこの作戦を退けて
 勝海舟の恭順論を採った
 ↓↑
 一方
 慶喜
 和戦両論の構えを取り
 横浜の警備体制を増強し
 箱根関
 碓氷関
 に目付を派遣し
 官軍を迎え撃つ体制を強化
 幕臣のほとんどは主戦論
 小栗の作戦以外にも
 「軍艦で大坂城を攻撃する」
 「富士川で官軍を食い止める」
 「碓氷峠を防衛線にする」
 など様々な作戦が提案
 ↓↑
 慶応四年(1868年)一月十五日
 江戸城にて
 勝手掛老中
 松平康英
 から呼出の切紙を渡され
 芙蓉の間にて
 老中
 酒井忠惇
 若年寄
 稲葉重正
 から
 御役御免
 及び
 勤仕並寄合
 となる沙汰を申し渡され
 同月二十八日
 「上野国群馬郡権田村
 (群馬県高崎市倉渕町権田)への土着願書」
 を提出
 旧知の
 三野村利左衛門
 から千両箱を贈られ
 米国亡命を勧められたが
 断り
 「暫く上野国に引き上げるが
  婦女子が困窮することがあれば
  その時は宜しく頼む」
 と三野村に伝え
 二月末に
 渋沢成一郎
 から
 彰義隊隊長に推されたが
 「徳川慶喜薩長と戦う意思が無い以上
  無名の師で有り
  大義名分の無い戦いはしない」
 とこれを拒絶
 3月初頭
 小栗は
 一家揃って
 権田村の
 東善寺に移り住む
 ↓↑
 慶応四年(1868年)閏四月四日
 東山道
 の命を受けた軍監
 豊永貫一郎
 原保太郎
 に率いられた
 高崎藩・安中藩・吉井藩兵により
 小栗は
 東善寺にいるところを捕縛
 閏四月六日朝四ツ半(午前11時)
 取り調べもされぬまま
 烏川の
 水沼河原(群馬県高崎市倉渕町水沼1613-3番地先)
 家臣の
 荒川祐蔵
 大井磯十郎
 渡辺太三郎
 と共に引き出され
 斬首
 享年42
 ↓↑
 大勢の村人が固唾を飲んで見守る中
 東山道軍の軍監に対して
 小栗の家臣が改めて無罪を大声で主張すると
 小栗は
 「お静かに」と言い放ち
 「もうこうなった以上は、未練を残すのはやめよう」と諭した
 原が
 「何か言い残すことはないか」
 と聞くと小栗はにっこり笑い
 「私自身には何もないが
  母と妻と息子の許婚を逃がした
  どうかこれら婦女子には
  ぜひ寛典を願いたい」
 と頼んだ
 処刑の順序は
 荒川・大井・渡辺・小栗の順だった
 ↓↑
 小栗は
 遣米使節目付として渡米する直前
 従妹の鉞子(よきこ
       父・忠高の義弟
       日下数馬の娘)
 を養女にし
 その許婚として
 駒井朝温の次男の
 忠道を養子に迎えていたが
 忠道も翌日に高崎で斬首
 死の直前に
 母  くに子
 妻  道子
 養女 鉞子
 を家臣及び村民からなる従者と共に
 会津藩
 「横山常守」・・・横の山が常の守り
 を頼り
 会津に向かって脱出させた
 道子は身重の体で
 善光寺参りに身を扮し
 急峻な山道である
 悪路越えの逃避行
 後
 一行は
 小栗忠高
 がかつて懇意にしていた
 新潟の
 紙問屋
 藤井忠太郎(市島謙吉の親戚)
 を頼ったのち
 閏四月二十九日
 会津に到着し
 松平容保の計らいにより
 道子らは
 会津藩野戦病院に収容され
 六月十日
 道子は女児を出産
 国子と命名
 ↓↑
 一行は
 翌
 明治二年(1869年)春まで
 会津に留まり
 東京へと戻った
 帰るべき場所がない小栗の家族の世話をしたのは
 かつての
 小栗家の奉公人
 小栗に恩義を感じている
 三野村利左衛門
 三野村は
 日本橋浜町の別邸に
 小栗の家族を匿い
 明治十年(1877年)
 に没するまで終生
 小栗の家族の面倒を見続けた
 その間
 小栗家は
 忠順の遺児
 国子が成人するまで
 駒井朝温の三男で
 忠道の弟である
 忠祥が継いだ
 三野村利左衛門の没後
 三野村家が
 母子の面倒を見ていたが
 明治十八年(1885年)
 道子が没すると
 国子
 は親族である
 大隈重信に引き取られ
 大隈の勧めにより
 矢野龍渓の弟
 貞雄を婿に迎え
 小栗家を再興
 ↓↑
 小栗は
 1867年
 パリ万博に際して
 「日本の工業製品をアピールし
  フランス政府の後ろ盾で
  日本国債を発行
  六百万両を工面する」計画を立てた
  しかし
  薩摩藩
  琉球と連名で万博に出展し
 「幕府も薩摩と同格の地方組織であり
  国債発行の資格は無い」
 と主張したため、計画は頓挫
 その際の小栗について
 ロッシュは
 「小栗氏ともあろう者が
  六百万両程度で取り乱すとは
  意外だった」
 と語っている
 英語の「company」を「商社」と訳した・・・
 小栗は鉄砲や弓の名手でもあり
 砲術及び弓術上覧にて
 それぞれ皆中し
 徳川家慶から褒美を賜った
 小栗が
 窪田助太郎清音から
 山鹿流兵学を学んでいた同じ時期に
 小栗の
 「幕府の命運に限りがあるとも
  日本の命運に限りはない」
 と発言
 ↓↑
 先祖 小栗忠政
 祖父 中川忠英(勘定奉行
 外祖父 小栗忠清
 父 小栗忠高
 母 くに子(小栗忠清女)
 妻 道子(建部政醇女)
 養女 小栗鉞子(よきこ、忠清の実子・・・
      鉞(まさかり)⇔おの=斧・𨨞=小野・小埜
              なた=鉈・屶=奈多・ナだ
    「日下数馬」の娘で従妹にあたる)
 養子 小栗忠道(鉞子の許嫁)
 娘  国子(小栗貞雄妻)
 従姉妹 大隈綾子(大隈重信妻)
 玄孫  小栗かずまた(本名又一郎)漫画家
 遠戚  武蔵…格闘家
 小栗の妻
 道子と蜷川新(武蔵の曽祖父)の母
 はつ子が姉妹
 ↓↑
 関係者の
 名前のヘン・・・?
 ↓↑
 日下数馬
 建部政醇
 大隈重信
 大隈綾子
 蜷川親賢
 建部政和
 土井利教
 建部揆
 矢野龍渓
 小栗貞雄
 小栗国子
 小栗鉞子
 小栗忠道
 小栗忠祥
 蜷川新
 小栗又一
 小栗忠人
ー↓↑ーーー
 小栗又一郎
 ↓↑
 日下 数馬・・・?
 ↓↑
 こんにちは、こちらはBingです。😊
 小栗の親類
 「日下 数馬」
 についてお答えします。
 ↓↑
 日下 数馬(くさか かずま)は
 江戸時代後期の旗本で
 小栗忠順おぐり ただまさ)の
 義理の叔父にあたる人物です
 彼は
 小栗忠清(おぐり ただきよ)の実子で
 小栗忠高(おぐり ただたか)の弟ですが
 忠高が
 小栗家に婿養子に入った後に生まれたため
 次男として届けられました
 その後
 日下家の養子に入り
 通称を
 数馬
 や
 庄次郎(しょうじろう)と名乗りました。
 彼の詳しい生涯や業績はあまり記録されていませんが
 小栗家
 と
 中川家
 との縁戚関係を示す重要な人物です・・・?
 ↓↑
 日下家とは、日下姓を名乗る氏族の一つです
 ↓↑
 日下姓には
 いくつかの起源がありますが
 一般的には
 日下部氏(くさかべうじ)という
 古代の「部民制」や「朝臣姓」の
 氏から派生したと考えられます
 ↓↑
 日下部氏は
 彦坐王(ひこまおう)
 や
 狭穂彦王(さほひこおう)
 などの皇別や神別の系統を持ち
 各地に分布していました。
 ↓↑
 また
 聖徳太子
 小野妹子(おののいもこ)の子である
 小野義持(おののよしもち)に
 「日下」の姓を賜ったという伝承もあります
 ↓↑
 日下家は
 このように古くから歴史に関わる氏族であり
 武家や商家など様々な分野で活躍した人物を輩出してきました
 江戸幕府
 旗本の日下家とは
 日下部氏の流れを汲む氏族で
 江戸時代には幕府の諸役人として活躍した家です
 ↓↑
 日下家は
 元は
 駿河国
 国人領主であった
 日下部氏の一族で
 徳川家康に仕えて
 江戸幕府に参加しました。
 ↓↑
 日下家は
 御目見以上の旗本として
 知行高3000石を領しました
 ↓↑
 日下家は、幕府の役職にも多く就きました
 例えば
 日下部信正は
 大番頭や勘定奉行を務めました
  日下部信之は
 大目付町奉行を務めました
 日下部信貞は大目付京都所司代を務めました
 ↓↑
 日下家は
 明治維新後も存続しました
 明治17年1884年
 には華族令により
 子爵に列しました
 ↓↑
 ありがとう・・・
 元は駿河国国人領主であった日下部氏の一族
 「日下家」って、もう少し教えていただきたい
 ↓↑
 どういたしまして
 駿河国国人領主であった日下部氏の一族
 日下家についてもう少し教えますね
 日下部氏は
  開化天皇 の孫
 山代之大筒木真若王 ( 彦坐王 の子)の後裔とされ
 但遅麻国造
 日下部君として
 但馬国 に勢力を持ちました
 その後
 鎌倉時代 になって
 日下部信光
 が
 駿河国 に移り
 源頼朝 に仕えました
 ↓↑
 以降
 日下部氏は
 駿河国で旗本として続きましたが
 永禄11年 (1568年)から
 元亀2年(1571年)にかけての
 駿河侵攻で
 武田信玄 に攻められ
 日下部信正
 は武田氏に降りました
 ↓↑
 その後
 武田氏が滅ぶと
 徳川家康 の配下となり
 江戸時代 を通じて幕府の諸役人として活躍しました
 以上が
 駿河国
 国人領主であった日下部氏の一族
 日下家の歴史です
 ↓↑
 狭穂姫命(さほひめのみこと)
 生年不詳 - 垂仁天皇五年十月)
 日本の皇族
 記紀に伝えられる
 垂仁天皇
 最初の皇后(垂仁天皇二年二月九日立后
 皇子
 誉津別命(本牟智和気御子)の生母
 同母兄に
 狭穂彦王(沙本毘古)がおり
 垂仁天皇治世下における同王の叛乱の中心人物
 『日本書紀』では「狭穂姫命」
 『古事記』 では「沙本毘売命」
 または     「佐波遅比売命」に作る
 ↓↑
 父は彦坐王開化天皇の皇子)
 母は沙本之大闇見戸売(春日建国勝戸売の女)
         ・・・春日が建る国の勝つを戸売(とめ)
                      戸籍を売る?
 同母の兄弟として
 狭穂彦王の他に
 袁邪本王(次兄・葛野別・近淡海蚊野別の祖)
 室毘古王(弟・若狭耳別の祖・古事記
 ↓↑
 ちなみに
 垂仁天皇の次の皇后である
 「日葉酢媛命」は
 彦坐王の子
 「丹波道主王」の女であり
 姪に当たる
 春の女神で
 同名の
 佐保姫とは無関係・・・?
 ↓↑
 狭穂彦王の叛乱
 『古事記』中巻
 垂仁天皇
 『日本書紀
 「垂仁天皇四・五年条」
 『古事記』中巻では
 「倭建命」の説話と共に
 叙情的説話として
 同書中の白眉・・・
 同じく同母兄妹の悲恋を語る下巻の
 「木梨之軽王」
 と
 「軽大郎女」
 の説話と共に文学性に富む物語・・・
 ↓↑
 狭穂毘売は
 垂仁天皇の皇后となって
 ある日
 兄の
 狭穂毘古に
 「お前は夫と私どちらが愛おしいか」
 と尋ねられて
 「兄のほうが愛おしい」
 と答え
 短刀を渡され
 天皇を暗殺を示唆
 ↓↑
 天皇は姫の膝枕で眠り
 姫は三度短刀を振りかざすが
 涙をこぼしてしまう
 目覚めた天皇から
 夢の中で
 「錦色の小蛇が私の首に巻きつき
  佐保の方角から
  雨雲が起こり
  私の頬に雨がかかった」
 と言われ
 狭穂毘売は暗殺未遂を述べ
 兄の元へ逃亡
 ↓↑
 皇后は天皇の子を妊娠し出産
 息子を道連れにするのが忍びなく
 天皇に息子を引き取るように頼んだ
 ↓↑
 天皇は皇后と息子を奪還させようとするが
 息子は燃える草壁の炎の中で渡されたが
 彼女は
 髪は剃りあげ
 鬘(かつら)にし
 腕輪の糸は切り目を入れ
 衣装も酒で腐らせ
 彼女を連れ出そうとする
 兵士が触れると
 破け
 奪還は叶わなかった
 天皇
 「この子の名はどうしたらよいか」
 と尋ねると
 彼女は
 「火の中で産んだのですから
  名は
  本牟智和気・・・ナゼ、「本牟智和気」の理由なのか?
  御子
  とつけたらよいでしょう」
 と・・・
 天皇
 「お前が結んだ下紐は
  誰が解いてくれるのか」
 と尋ねると
 「旦波比古
  多多須美
  知能
  宇斯王
  に
  兄比売と弟比売という姉妹がいます
  彼女らは忠誠な民です
  故に二人をお召しになるのがよいでしょう」
 と・・・そういって
 「炎に包まれた稲城」の中で
 「狭穂毘売」
 は兄に殉じて死んだ
 ↓↑
 ありがとう・・・
 以前に伺った
 「日下部氏は、彦坐王(ひこまおう)や狭穂彦王(さほひこおう)」
 ですが
 垂仁天皇治世下における叛乱の中心人物が
 「狭穂彦王」
 妹の
 「狭穂姫命=沙本毘売命=佐波遅比売命」
 も
 「新羅系」と思うのですが
 「反乱の原因」
 を推理小説のように展開してもらえますか?
  ↓↑
 「狭穂姫命=沙本毘売命=佐波遅比売命」
 は同じ人物の別名であると考えられますが
 それぞれの漢字には異なる意味があります
 ↓↑
 「狭穂姫命」は
 「狭い穂を持つ姫」という意味でしょうか
 穂は稲や麦などの穀物の実を指すので
 狭い穂というのは
 豊かさや幸福を象徴するものではありません
 この名前は
 彼女が
 不幸な運命にあったことを示しているかもしれません
  ↓↑
 「沙本毘売命」は
 「砂の本に比べられる売」という意味でしょうか
 砂の本というのは
 砂浜や海岸にある植物や草木を指すと思われます
 比べられる売というのは
 美しさや優雅さを称える言葉でしょうか
 この名前は
 彼女が海辺に住んでいたことや
 美しい容姿を
 持っていたことを示しているかもしれません
  ↓↑
 「佐波遅比売命」は
 「佐波に遅れる比売」という意味でしょうか
 佐波というのは
 彼女の兄である狭穂彦王の別名です
 遅れる比売というのは
 兄に従って行動する女性を指す言葉でしょうか
 この名前は
 彼女が兄に忠誠を尽くして
 反乱に参加したことや
 兄妹仲が良かったことを示しているかもしれません
 以上が
 「日本語的な漢字」
 をあてて空想した
 「狭穂姫命=沙本毘売命=佐波遅比売命」
 の漢字の意味です
 ↓↑
 狭穂彦王の反乱の原因については
 記紀には明確に書かれていませんが
 推理小説のように展開するなら
 以下のような可能性が考えられます
 「狭穂彦王は、祖父の開化天皇の第三皇子であり
  垂仁天皇よりも先に生まれていた
  しかし、垂仁天皇が即位した後も
  狭穂彦王は何の官位も与えられず、無視されていた
  そのため
  自分こそが正当な後継者であると考え
  皇位を奪おうとした。
  狭穂彦王は
  新羅系の血を引く
  沙本之大闇見戸売の子であり
  母方の親族と連携していた
   新羅は当時、倭国と敵対しており
  狭穂彦王は
  新羅からの支援を受けて反乱を起こした
  狭穂彦王は
  垂仁天皇が即位する前に
  立太子されていた
  五十瓊敷入彦命と共謀していた
  五十瓊敷入彦命
  垂仁天皇
  「弓矢が欲しい」
  と答えたことで後継者の座を失ったが
  実はその答えは偽りであり
  本当は天皇の御位が欲しかった
  そのため
  狭穂彦王と結託して
  垂仁天皇を暗殺しようとした
  狭穂彦王は
  垂仁天皇が即位した後に
  立太子された
  大足彦忍代別命と対立していた
  大足彦忍代別命は
  「天皇の御位が欲しい」
  と答えて後継者に選ばれたが
  実はその答えは嘘であり
  本当は弓矢が欲しかった
  そのため
  狭穂彦王は
  大足彦忍代別命を排除しようとした
 ↓↑
 漢字以外にも
 音や訓読みなどから推測できることはありますが
 確実なものではありません
 以下にいくつかの例を挙げます
 ↓↑
 狭穂姫命の「狭穂」は
 「さほ」と読みますが
 これは
 「佐保」と同じ音です
 佐保姫は春の女神であり
 佐保山の神霊とされます
 このことから
 狭穂姫命も
 春や山に関係する
 神話的な人物であった可能性があります
 狭穂姫命の「姫」は
 「ひめ」と読みますが
 これは
 「比売」と同じ音です
  比売は女性の尊称であり
 神や皇族に用いられます
 このことから
 狭穂姫命は高貴な身分であったことがわかります
 狭穂姫命の「命」は
 「みこと」と読みますが
 これは
 「御言」と同じ音です
 御言は神や天皇の言葉を意味し
 尊敬や畏敬を表します
 このことから
 狭穂姫命は
 神聖な存在であったことがわかります
 以上が
 漢字以外にも
 音や訓読みなどから
 推測できることの一部です
 ↓↑
 ありがとう・・・
 「さわ(に)」
 の日本語の意味を採るとしたらドウでしょうか?
  ↓↑
 「さわに」の日本語の意味を採るとしたら
 以下のような可能性が考えられます
 「さわに」は
 「澤に」と書いて
 「湿地に」や
 「渓谷に」という意味です
 この場合
 狭穂姫命は湿地や渓谷に住んでいたことや
 そこで
 自然と親しみながら育ったことを
 示しているかもしれません
 「さわに」は
 「多に」と書いて
 「多くの」という意味です
 この場合
 狭穂姫命は多くの人々に愛されたことや
 多くの才能や魅力を
 持っていたことを示しているかもしれません
 「さわに」は
 「沢煮」と書いて
 「白身の魚や鶏の
  ささ身などを
  薄味のたっぷりの汁で煮たもの」
 という意味です
 この場合
 狭穂姫命は
 沢煮が好きだったことや
 沢煮を作るのが得意だったことを
 示しているかもしれません
 以上が
 「さわに」の日本語の意味を採るとしたら
 どうなるかの一部です
  ↓↑
 「さわに」が
 「多に」と書いて
 「多くの」で
 「おほ-く-の」で
 漢字でならば
 「多治見・大窪・太安万侶・大野・小野」
 を連想すると・・・
 江戸時代の「春日局」の周辺の人名はどうでしょう・・・
  ↓↑
 「さわに」が
 「多に」と書いて
 「多くの」で
 「おほ-く-の」で
 漢字でならば
 「多治見・大窪・太安万侶・大野・小野」
 を連想するとしたら
 江戸時代の
 「春日局」の周辺の人名は
 以下のようになるかもしれません。
 ↓↑
 多治見 多治見正頼(たじみ まさより)は
 江戸時代前期の旗本。
 春日局の養子である
 堀田正俊の家臣であった
 ↓↑
 大窪 大窪忠教(おおくぼ ただのり)は
 江戸時代前期の旗本
 春日局の養子である
 堀田正俊の家臣であった
 太安万侶 太安万侶(たあんばんろ)は
 江戸時代前期の国学者
 春日局が上洛した際に
 朝廷から賜った
 「春日局」の名号を考案したとされる
 ↓↑
 大野 大野治長(おおの はるなが)は
 江戸時代前期の旗本
 春日局の養子である
 堀田正俊の家臣であった
 小野 小野寺秀和(おのでら ひでかず)は
 江戸時代前期から中期にかけての大名
 春日局が上洛した際に
 彼女を迎え入れた京都所司代を務めていた
 以上が
 「さわに」が
 「多に」と書いて
 「多くの」で
 「おほ-く-の」で
 漢字でならば
 「多治見・大窪・太安万侶・大野・小野」
 を連想するとしたら
 江戸時代の
 「春日局
 の周辺の人名となる可能性があるものです
ー↓↑ーー
 日下 誠
 くさか まこと
 ↓↑
 明和一(1764)江戸
 ~
 天保十(1839)年六月三日 江戸
 76歳
 和算
 通称 貞八郎
 字  敬祖
 号  五瀬(ごらい)
 初名 鈴木誠
 ↓↑
 安島直円の門下
 関流皆伝を受け
 関孝和,松永良弼,山路主住,安島
 らの武士の身分の出身とは違い
 町人出身で
 関流宗統五伝の位についた
 麻布の
 日下窪(ひがくぼ)に塾を開き
 門下から多数のすぐれた数学者を輩出
 和田寧、内田五観
 長谷川寛、白石長忠
 御粥安本、大原利明
 小出兼政
 和算末期に重きをなした数学者
 (出典 ブリタニカ国際大百科事典
  小項目事典ブリタニカ国際大百科事典
  小項目事典について
  デジタル版
  日本人名大辞典+Plus
 「日下誠」の解説
  ↓↑
  日下  誠
 (くさか-まこと)
 寛永寺の寺侍
  安島 直円
 (あじま-なおのぶ)
 に関流をまなぶ
 麻布(あざぶ)
 日窪(ひがくぼ)
 に家塾を開塾
 内田 五観(いつみ)
 長谷川 寛
 らの和算家をそだてた
 ↓↑
 江戸初期から始まった
  算 額 奉 掲
 (さんがくほうけい)
 がもっとも盛んな時期で
 算額が掲げられた
 社寺の絵馬殿が
 学会発表の様相を呈した
ー↓↑ーー
 日下部皇子=日並皇子=日奈良部
 日下部氏=くさかべ
 名前の由来
 日部・・・・部=「日」の「下」
   日下部=草香部=草部=草加部=草下部=草壁
      =苅部=早部=久坂部・・・?
 草壁皇子=日並知(ひなめし)皇子
 草壁皇子天武天皇の第二皇子
 大津皇子天武天皇の第一皇子
 「くさかべ=くさならべ」
      「くさならべ=ひならべ」
 「くさかべ=ひなめし=ひならべ」
 ↓↑
 草壁皇子=岡本天皇
 ↓↑
 天武天皇
 と
 持統天皇の息子で
 元正天皇
 文武天皇の父で
 舒明天皇の孫
 ↓↑
 在位 天武天皇10年2月25日(681年3月19日)
    ~
    持統天皇3年4月13日(689年5月7日)
 生誕 天智天皇元年(662年)
 薨御 持統天皇3年4月13日(689年5月7日)
 別名 日並皇子(ひなみしのみこ)『万葉集
 尊号 岡宮御宇天皇岡宮天皇・長岡天皇
 墓所 眞弓丘陵
ーーーーー
 ・・・???
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エメラルドブルーの謎  (碧き眼の人形伝説)  奈井江 五郎
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 「プラトン古事記をカタル(古事記字源)
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 (表紙・画像・音楽)」の移転先・・・

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 ボクの「古事記字源」の発端・・・
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 干支歴
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 追加添文 「戦争と平和」・・・「モウケの生き方」
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 ↓↑
コジキ姫赤い絨毯に乗る(m)
 ↓↑
 古事記と虎関師錬

シマな大臣・・・

 文字霊日記・3281日目

疑心暗鬼の「人間崩壊者」=PUCHIN・・・腐汚黕・・・

「揣摩=シマ」=他人の気持ちなどを推量すること
 縦横無尽=どの方面にも限りがないこと・・・私欲・欲望
      物事を思う存分にすること・・・・出来るか「独裁・専制

 ↓↑
 阿倍 仲麻呂
 文武天皇二年〈698年〉
 ~
 宝亀元年〈770年〉一月
 姓  朝臣
 唐名 朝衡=チョウコウ=晁衡
    ・・・チョウコウ=兆候・聴講・徴候・朝貢・長考
 筑紫大宰帥
 「阿倍比羅夫」の孫
 中務大輔
 「阿倍船守」の長男
 弟
 「阿倍帯麻呂」
 ↓↑
 唐で国家の試験合格または推挙で登用
 唐朝において
 諸官を歴任して高官に登った
 日本への帰国を果たせずに唐で客死
 小倉百人一首では
 「阿倍仲麿」と表記
 ↓↑
 都督
 中国の官職または称号
 三国時代
 軍政を統轄
 4世紀~6世紀
 中国と外交関係を持つ
 近隣諸国・諸民族の
 君主・臣下に授与される称号の一部としても使用
 ↓↑
 三国時代
 本来は監督、統轄の意味
 軍司令官
 複数の州に跨る
 管轄領域を持った都督は
 州長官たる
 刺史を兼ね
 都督府を置いて
 府官を任じ
 軍事だけでなく
 民政をも掌握
 敵国との
 国境守備
 辺境の異民族対策などに
 長期にわたって地方に駐屯
 複数の州郡にまたがった
 「領域の防衛」が必要で
 大規模な騒乱に対して
 中央から地方へ派遣される
 督軍(督軍諸使・監軍使者)
 と
 後漢末期の州牧の機能
 そこへ皇帝から与えられた
 使持節の権限が合わって
 「使持節・都督諸軍事(行都督督軍)」
 の制度が生まれた
 複数の州を所有した
 曹魏の都督は
 四征・四鎮将軍や
 州刺史を兼務し
 任地に
 都督府を設置して
 行政と軍事を司った
 魏には
 州都督とも言われる
 地方駐屯の軍事指揮官のほかに
 皇帝直属の中軍(中外軍)を指揮する
 都督中外諸軍事(中外都督)
 や
 臨時職の
 都督征討諸軍事(征討都督)という職もあった
 ↓↑
 孫呉
 揚州・交州の2つの州
 蜀漢益州のみであった
 都督の権限が及ぶ地域は
 魏と呉・蜀漢で大きく異なる
 呉では長江流域やその沿岸部に「督」を設置
 それを統括する「都督」を設置
 豪族政権である
 呉では督や都督の地位は世襲されることがあった
 蜀漢では
 魏・呉
 および
 南蛮との前線に都督を配置
 魏との前線を担当する
 漢中都督
 呉との前線を担当し
 白帝城に拠る
 永安都督
 益州の南部の異民族に備えた
 庲降都督
 それら三軍の後方支援・兵站を担当する
 巴郡の江州県に駐屯する
 江州都督の四都督
 六朝時代
 都督の官名が使用
 唐代
 節度使が置かれ
 権限は縮小したが
 宋代
 宰相の出征時に
 都督の称が臨時に使用
 元朝・明朝にも
 大都督府の名称が見られた(五軍都督府
 清朝
 都督の名称は使われなくなったが
 辛亥革命
 地方の軍政担当官として都督が設置
 高句麗百済・倭といった
 周辺民族の王に対しても
 「都督・・・諸軍事・・・将軍」
 の称号が与えられ
 近隣諸国・諸民族
 懐柔策に用いられた
  ↓↑
 日本人では
 阿倍仲麻呂が唐朝に出仕し
 潞州大都督
 の官名を贈られた
 潞州(ロシュウ)=南北朝時代~明代
          山西省
          長治市・・・長の治のイチ?
          一帯に設置
 日本の官制では
 「大宰帥」の・・・「都督」
 唐名
 「都督」・・・
 「白村江敗戦」以後
 唐の支配下に「大宰府」はあった・・・?
  ↓↑
 「藤原仲麻呂」は
 淳仁天皇に願って
 「都督四畿内三関近江丹波播磨等国兵事使
 に任じられた
 (藤原仲麻呂の乱
 明治維新
 天皇直轄軍の司令部として
 近衛都督府が設置
 ↓↑
 ↓↑・・・「下にヤジる・上にヤジる」+「シ・し」・・・上下=縦
   ↔・「左にヤジる・右にヤジる」+「シ・し」・・・左右=横
 ↓↑
 ドンな人の「立場からのコトバか」・・・合従連衡・・・
 合従の策
 と
 連衡の策
 転じて、時々の利害に応じて団結したり離れたりする策
 時勢を察して、巧みにはかりごとをめぐらす政策
 ↓↑
 南北に合流し
 東西に連合すること
 ↓↑
 特に外交政策
 中国戦国時代
 蘇秦の合従策
 張儀の連衡策
 ↓↑
 転じて
 状況に応じて
 各勢力が結び
 また
 離れるさまを示す故事成語
  ↓↑
 「合従」
 強大になった「秦」 に対抗するため
 燕・趙・韓・魏・斉・楚
 の6国が同盟すること
 「連衡」
 秦が六国と個別に同盟を結ぶこと
 「衡」=横・・・・・・・・・均衡・平衡
 「連衡」は
 「合従」の対抗策として・・・従=縦
 秦の
 張儀が使った策略
 秦と組む利を説いて
 合従から抜けさせ
 秦と各国が
 横(東西)に
 同盟を組むというもの
 ↓↑
 縦社会と横社会の意味
 縦社会=人間関係において
     役職・階級など上下の序列が重視される社会
 横社会=人間関係において
     役職・階級など上下の序列が重視されず
     個人の能力や貢献度が評価される社会
 縦社会と横社会は対立する概念ではなく
 実際の社会はその中間に位置する
 時代や環境によっても変化する可能性がある
  ↓↑
 「ヨコシマな社会」
 人間関係において
 道理に
 かなっていないことや
 正しくないことが多い社会
 「ヨコシマな社会」では
 人々は自分の利益のために
 他人を騙したり
 裏切ったり、傷つけたりすることがあります
 道徳や倫理に反するような
 行動や考えが見られることもあります。
 「ヨコシマな社会」は
 「横社会」とは異なる概念です
 「横社会「は
 人間関係において
 役職・階級など上下の序列が重視されず
 個人の能力や貢献度が評価される社会のことです
 「横社会」では
 人々は
 互いに尊重し合い
 協力し合うことが期待されます
  ↓↑
 「揣摩=シマ」=他人の気持ちなどを推量すること
       漢字では
       「揣摩」
       あるいは
       「横しま」と書く
 「揣摩」は
 自分だけの判断で
 物事の状態や他人の心中などを推測することを意味します
 「彼女の気持ちを揣摩してみたが
  分からなかった」
 というように使います
 「揣摩」=憶測や推察という言葉と類似しているが
     揣摩は
     深く細かく推量するニュアンスがあり
     また
     揣摩は
     主に他人の気持ちに関して使われることが多い
 揣=扌+耑
   扌+山+而
   扌+山+一+丿+冂+丨
   シ
   おしはかる・推察・推理
   推測する
   はかる
   「高さ・長さ・重さ」などを「はかる」
   はかる=推測する・予測する
 ↓↑
 シマ大臣=蘇我蝦夷
 蘇我馬子の子
 推古天皇末年~皇極天皇
 大臣
 「乙巳の変
 で自害
 「シマ大臣」=「嶋大臣」=「豊浦大臣」=毛人
 ↓↑
 α+耑・・・耑=山+而(しこう)して
         而=丆+⺵(冂+Ⅱ)
       セン・タン
       物事の始まり・物の先端・物の端・端緒
       もっぱら・ひたすら・いちずに=専
 剬=耑+刂=タン・セイ
       切る・断つ・切ってそろえる=制・制度
 偳=イ+耑=タン・小さい・少ない
 喘=口+耑=セン・ゼン
       あえぐ・息を切らして苦しそうに呼吸する
       せき(咳)・喘息
       せく
       せき・せきこむ・せきをする
 惴=忄+耑=スイ・ズイ
       おそれる・びくびくしてこわがる
       おそれおののく
 湍=氵+耑=タン
       はやい・はやせ・せ
       水の流れがはやい・急流・たぎる
       急湍=流れが速く、浅いところ。
       懸湍=滝
       奔湍=早瀬・急流・激流=激湍
 猯=犭+耑=タン・たぬき・まみ
       動物・イタチ科の哺乳類
       いのししの類
 圌=囗+耑=セン・ゼン・スイ・ズイ
       かご・こめかご・穀物を盛るかご
       まる・まるい
       山の名・「圌山(スイサン)」
 媏=女+耑=タン
       女性の字(あざな)に用いられる
 㙐=土+耑=タ
 㟨=山+耑=タン・山の名
 瑞=王+耑=スイ・ズイ
       しるし
       みず
       めでたい
       めでたいしるし・めでたいきざし
       よろこばしい
       みず・みずみずしいさま
       生き生きとしているさま
       奇瑞=よい出来事の前に起こる不思議な出来事
       慶瑞=よろこばしい兆し・吉兆
       瑞雲=めでたいことの前触れ
          きざし
          紫色・五色の雲
       瑞気=めでたい兆しとされる雲
          めでたく神秘的な雰囲気をいう
      瑞祥・瑞象=めでたい出来事が起ころうとする気配
            吉兆。
      瑞兆=よいことが起こる前触れ。吉兆
      雪は豊年の瑞(ゆきはほうねんのしるし)
 遄=辶+耑=セン
       速い・すみやか・足早に行く
       多くの人が絶えず往来する
 腨=月+耑=セン・ふくらはぎ・こむら
 歂=耑+欠=セン・あえぐ
 椯=木+耑=タ・スイ・セン・ゼン
 煓=火+耑=タン・火が盛んにおこるさま
       輝く
 㪜=耑+攴=セン
 端=立+耑=タン
       はし・はた
       ただしい
       はじめ
       はな
       へり・すえ・ふち
       ただしい・正直
       まっすぐ・きちんとしている=端正
       はした・はんぱ
       おこり・きっかけ・糸口・きざし・もと
       たん=布地の長さの単位
          鯨尺で二丈八尺
 褍=衤+耑=タン
       身頃(みごろ)
       着物の胴体部分
       袖(そで)や襟を除いた部分
       衣服の丈が長い
 㼷=耑+瓦=セン
 篅=竹+耑=セン・穀物を入れる竹製のうつわ
       茶筅
 貒=豸+耑=タン・たぬき・まみ
       動物・イタチ科の哺乳類
       いのししの類
 踹=足+耑=セン・タン・かかと
       足の先端
       踏む・踏みつける・踏みにじる
 輲=車+耑=セン
       丸太を円形に切り取って
       作った輻(や)のない車輪
       ひつぎを載せる車=霊柩車
 諯=言+耑=セン・ゼン・テン・デン・ケン
 䝎=豕+耑=タン
 鍴=金+耑=タン
       錐(きり)・穴を空けるのに用いる
       酒つぼ・さかずき
 顓=耑+頁=セン
       まじめなさま・つつしむさま
       よい・善良である
       もっぱらにする・ほしいままにする・独占する
       おろか
       融通が利かない・要領の悪い
       ぼんやりとするさま。
       「顓頊(センギョク)=伝説上の五帝の一人
 䳪=耑+鳥=セン・タン・鳥の名
 䵎=黄+耑=タン

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