ないえごろうブログ

同音異義の探索

牡丹=ぼたん=button=釦・・・チャック・・・chuck

 文字霊日記・3215日目

 黄昏(たそがれ)・・・

 札幌ドーム、最期のタタかい・・・負けた・・・
 腐汚沈(プウチン)の足掻きの最後は・・・
 溺れる者はカクにシガミツクも・・・シガミツク・・・
 徴兵拒否する人間は逃亡・・・
 徴兵するプウチンは武器をㇳって殺傷現場にはイかない
 チカシツでボタンを押すのか外すのか・・・
 ボタンを捥(も)ぎ取るのか・・・
 ムカシ、フランス映画の「ボタン戦争」って云う映画を観たが・・・
 『わんぱく戦争』
 (仏: La Guerre des boutons、英: War of the Buttons)
  1962年公開のフランス映画
 「ルイ・ペルゴー」
 の小説『ボタン戦争』が原作
 映画『わんぱく戦争』予告編

https://www.youtube.com/watch?v=HQoAJHjb9pU
ー↓↑ー--
 ・・・???・・・
   ↓↑   ↓↑
 「プラトン古事記をカタル(古事記字源)
  +
 (表紙・画像・音楽)」の
  移転先・・・
https://haa98940.wixsite.com/mysite/blog/archive/2016/12
 ↓↑
 ボクの「古事記字源」の発端・・・
https://haa98940.wixsite.com/mysite/blog/archive/2022/9
 ↓↑
 干支歴
http://meisiki.bake-neko.net/keisanBXG4.html
 ↓↑
 追加添文
 「戦争と平和」・・・「モウケの生き方」
https://haa98940.wixsite.com/mysite/single-post/2006%E5%B9%B4%EF%BC%91%EF%BC%91%E6%9C%88%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%8E%E9%A0%83%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%83%BB

新羅の成り行き・・・ナゼか「枕草子」・・・

 3214日目・文字霊日記

 ねじる・・・ 
 トルク (torque)・・・???・・・
 力学で
 ある固定され 回転軸を中心にはたらく
 回転軸の周りの力のモーメント
 一般的には「ねじりの強さ」=力矩・ねじりモーメント
 トルク=力と距離をかけた値
 物体を回転させる力
 力のモーメントと同じ
 トルクはボルトを締める時に
 必要なねじりモーメント
 ↓↑
 T=P×L
 力が小さくても
 Lが大きければ
 トルクTの値も大きい
 P=力
 L=モーメントの中心から
 力の作用点までの距離
 ↓↑
 偶力=物体を回転させる力
 物体を移動させることではなく
 互いの力の大きさが同じで
 反対向きの力
 M=P×L
 M=P(L-x)+Px=PL
 ↓↑
 枕草子・・・任那の成り行き・・・?
 弁官・弁韓・弁辰・金官伽耶→お伽の耳の邑
 馬韓辰韓弁韓⇔韓
 ↓↑
 來る(くる)
 來す(きたす)
 來る(きたる)
 來し(きし)
 來し(こし)
 懐来・懐來(カイライ・傀儡)
 相手が慕って来るようにさせること
 懐けきたすこと
 古来・古來(昔から今に至るまで・古くから)
 性来・性來(せいらい・しょうらい)
 生まれた時から備えている性質
 本来の性質・本性・生まれつき
 来
 ライ
 くる
 きたす
 きたる
 きし
 こし
 くる・きたる・やってくる
 きたす・こさせる
 このかた・ある時点から現在まで・今まで
 これから先・まだきていない先のこと
 助字・句中や句末に置いて、語調を整える
 普通は訓読では読まない
 ねぎらう・いたわる・はげます
 韓国=戦国時代の七雄の一
 韩国=
 韓=龺+韋
 十+日+口+㐄
 いがき・から・かん・はん
 龺+α
 龺乹倝乾朝戟韩䎐
 韓雲孟竜=男の同性愛
 韓愈と孟郊
 世間からは同性愛と噂さ
 「雲」と「竜」=相互依存関係
 韓海蘇潮
 唐の詩人
 韓愈と
 北宋の詩人
 蘇軾の文体
 韓信匍匐(ホフク)
 将来の目的実現のため
 恥辱や苦労を耐えること
 「韓信」=羞じに耐えて股の下をくぐった
  漢の劉邦に仕え
  功績を上げた名将
 韓文之疵=主張や発言の辻褄が合わないこと
 「韓文」=名文家の韓愈の書いた文章
 ↓↑
 古事記字源

ーーーーー
 枕草子
 枕=木+ 冘
 十+八+冖+儿
 冘=冖+丿+乚
 イン・ユウ・ユ
 進む・行く
 ためらう・ぐずる
 草=艹+早
 艸+日+十
 子=了+一
 (一三六段)
 百三十六段・壱佰参拾六段
 壱参六段・陌参足陸段
 1+3+6=10=十=壱拾=足
 1×3×6=18=十八=拾捌=足捌
 「頭辨の・・・トウのベン
  蔵人頭を兼務する弁官
 ↓
 蔵人(くろうど・藏人)
 律令制下の令外官の一
 天皇の秘書的役割を果たした
 唐名
 侍中(じちゅう)・・・字中
 夕郎(せきろう)・・・籍中
 夕拝郎(せきはいろう)・・・籍は遺漏
 蔵人所
 事務を行う場所
 内裏
 校書殿の北部に置かれた
 蔵の出納・管理を職掌とする下級官人
 倉人とも書く
 奈良時代
 造東大寺司に置かれ
 史生・案主等の
 下位に位置付けられた
 810年(弘仁元年)三月に設置された
 蔵人も「蔵人所」が
 「校書殿(きようしよでん)」に置かれた
 ・・・「蔵人」は字面からすれば
 「蔵の番人・管理人」であるが
 「帳簿・書籍」の蔵である
 ・・・歌舞伎では
 忠臣蔵
 「大石蔵之助」・・・
 息子は「主税」である・・・

 弁官・・・弁=わきまえる
 ↓
 弁=ム+廾
 異体字
 =辯(辩)・辨・辧・瓣・辮(辫)
 辦(办)
 花弁→花しべ→はなしべ=話し部
 ↓
 花蕊・花蘂=カズイ・花のしべ
 雄しべと雌しべ
 花心
 王建
 蜀一国を平定
 903年朝廷より蜀王に封
 唐滅亡後
 五代十国前蜀の高祖
 妻
 「花蘂夫人(カズイフジン)」
 名は「小徐妃」(しょうじょひ)
 女流詩人で
 「宮詞(キュウシ)」を作る
 また、後に
 「花蘂夫人」とは別人の
 「二花蘂夫人
 (にカズイフジン)」が登場
 姓は「費 or 徐」?
 --
 前蜀を乗っ取った
 孟知祥(もうちしょう)
 五代十国
 後蜀の初代皇帝
 在位期間は明徳元年(934年)
 姓・諱は孟知祥
 字は保胤
 諡号
 文武聖英烈明孝皇帝
 廟号は高祖
 咸通十五年四月21日
 (874年5月10日)
  ~
 明徳元年七月二十六日
 (934年9月7日)
 父は孟道
 皇后は李皇后(李克用の姪)
 陵墓は和陵
 邢州龍岡に孟道の子として生まれる
 父や叔父と共に
 後唐の荘宗の武将
 後唐前蜀を滅ぼすと、
 荘宗より
 西川節度使に封
 長興元年(930年)
 後唐に叛旗挙兵
 長興二年(932年)
 蜀の地より後唐勢力を駆逐
 懐柔策の明宗より蜀王に封
 応順元年(934年)
 国号を大蜀とし皇帝を称し、
 明徳と改元
 即位後
 七か月で崩御
 --↓
 孟知祥
 の三男、
 ↓
 孟昶(永+日)=モウチョウ・昶)
 後蜀の第二代皇帝
 「後主」と称されている
 ↓
 行軍司馬を務め、
 明徳元年(934年)
 東川節度使に封
 旧臣の李仁罕や張業らを誅殺
 農業
 養蚕を推奨
 科挙を実施
 諫言を重用し政治改革実行
 彼の後宮
 花蕊夫人
 晩年は奢侈に溺れ、朝政が乱れた
 広政十八年(955年)
 西北四州が後周に略奪され
 広政二十七年(964年)
 宋に攻められ
 広政二十八年(965年)
 宋に降伏し後蜀は滅亡
 亡国後は

 検校太師兼中書令
 秦国公

 に封ぜられ、
 乾徳三年(965年)に
 開封で没した(趙光義による毒殺説)
 死後は楚王に追封され、
 恭孝の諡号が贈られた
 この
 孟昶(永+日)
 の寵妃
 ↓
 「二花蘂夫人」を
 宋帝国の太祖・趙匡胤
 蜀の都・成都を陥とし、
 この花蘂夫人に惚れたが
 「貞女二夫にまみえず」
 「二花蘂夫人」は皇帝・匡胤の前で、
 亡国を偲んだ詞を詠み
 匡胤の弟の
 趙匡義が弓で「二花蘂夫人」を射殺
ー↓ーーー
 弁える(わきまえる)
 見分ける・物事の違いを識別
 理解する・心得る
 善悪を判断し処理する
 弁別する=捌
 是非・善悪を区別する
 思弁
 けじめをつけて処理する
 弁済・弁償・勘弁・支弁・自弁
 弁当・駅弁・腰弁(こしべん)
 わきまふ
 区別する
 物事の道理を
 よく知っている・心得ている
 ↓
 房室弁
 心房と心室の境にある弁
 左房室弁を僧帽弁・二尖弁(にせんべん)、
 右房室弁を三尖弁
 半月弁
 心臓の心室から動脈への出口にある
 半月形をした三枚の弁膜
 大動脈弁と肺動脈弁の総称
 心室が収縮すると開いて血液を送り出し、
 弛緩(しかん)すると閉じて逆流を防ぐ
 三半月弁
 ↓
 弁識
 弁舌=speech
 方言=a dialect〈なまり〉
 ↓
 弁官(べんかん・辨官)
 朝廷の最高機関、
 太政官の職で
 左大弁(さだいべん)
 右大弁(うだいべん)
 左中弁(さちゅうべん)
 右中弁(うちゅうべん)
 左少弁(さしょうべん)
 右少弁(うしょうべん)
 の総称
 唐名(漢風名称)は
 尚書・通説は四等官
 律令制の官職組織の一
 和訓は
 弁官〈おおともいのつかさ〉
 ↓
 左弁官と右弁官は
 太政官(だいじようかん)に所属
 これを構成するおもな官職は
 左、右弁
 (大弁、中弁、少弁
 の三等・定員各一)
 と
 史(大史・少史)
 ↓
 左弁官は
 太政官に属し
 八省のうち
 中務(なかつかさ)
 式部
 治部(ジブ)
 民部
 を監督
 ↓
 弁官=辨官
 律令制
 太政官(だいじょうかん)に属し
 文書事務や
 諸官司・諸国との
 連絡などを司どった官
 左弁官と右弁官に分かれ、
 それぞれ
 大弁・中弁・少弁が置かれ、
 その下に
 大史・少史があった
ー↓ー-
 弁韓(べんかん)
 紀元前二世紀末から四世紀にかけて
 朝鮮半島南部に存在した
 三韓の一つで
 弁辰とも言う
 弁韓十二ヶ国
 三韓時代の
 駕洛国金官伽耶
 「卞韓」・「牟韓」とも記録
 「弁辰」という名は、
 「半跛国」
 「跛(ハ)」は「足なえ」
  跛行爬行
  ↓
 以下、「差別用語」としてではなく
  「歴史的使用言語」
 としてブログ記事から抜粋し
 そのコトバを添付します
  「現存・古事記」の
 ヤマトタケル
 息吹山から下山した
 三重(村)懸での
 タギタギしい状況の重なりです
 ↓
 跛(ちんば)
 片方の足に障害があり
 うまく歩けないこと
 対になっている物の
 形・大きさ・色が
 揃っていないこと
 両方の端がちがう
  「かたちんば」
 片足が不自由で
 普通に歩けないこと

 対(つい)のモノが
 形や大きさが揃わないこと

 めくら(視力障害者)
 つんぼ(耳の不自由な人)
 あきめくら(字の読めない人・文盲)
 おし(口の不自由な人・聾唖者)
 どもり(言語障害者・吃音)
 びっこ・ちんば・いざり(足の悪い人)
 かたわ(身体障害者
 がちゃ目(ロンパリ・斜視)
 ちんばの同義語
 足萎(なえ)
 片ちんば・不揃い・片跛

 博多弁・・・?

 ほんらい食い違っている様子
 ↓
 「ベートーベン」の
 交響曲第9番
 「ミサ・ソレムニス
 (misa solemnis)
 荘厳ミサ(祭儀)」

 ・・・「座頭市・検校」の按摩
 ・・・「高橋竹山」の三味線
 ・・・「平家物語」を語る
 「琵琶法師」など・・・
  ↑
 「歴史的使用言語」
 として理解すべし・・・
ーー↓
 半跛国
 を中心とする
 韓の諸国の意味
 三世紀には
  「十二国また王あり」
 狗邪国・安邪国・半跛国
 が強国

 弁韓
 古代に
 朝鮮半島南部に居住した韓族の名称
  「弁辰(弁辰韓)」
  「三国志魏志東夷列伝・韓の条」による記録
 ↓
 弁韓
 弁韓(弁辰)
  「後漢書・弁辰伝」
 弁辰
 與
 辰韓
 雜居
 城郭
 衣服皆同、
 言語風俗
 有異。
 其人形
 皆長大
 美髮
 衣服清。

 而
 刑法嚴峻。
 其國
 近倭、
 故頗有文身者。

 紀元前3世紀~2世紀に掛けて
 朝鮮半島の南部の辰国
 中国の春秋戦国時代

 韓の国が
 蓁の国に滅ぼされ、

 山東半島に移住した韓族
 韓族が山東半島経由で
 朝鮮半島の南部に

 馬韓辰韓弁韓
 等を建国・・・

 弁韓
 古代朝鮮の三韓の一
 現在の
 慶尚南道西南部
 後、
 加羅(から)
  (任那(みまな)となり

 六世紀に
 新羅(しらぎ)に併合

 朝鮮半島南部
 馬韓辰韓弁韓

  「弁韓
   紀元前二世紀~四世紀にかけて
 朝鮮半島
 南部に存在した
 三韓の一
 十二ヶ国に分かれ
 馬韓の東で
 辰韓の南
 後の
 任那である・・・?
 ↓
 当弁・答弁・唐弁
 問う弁

 「任那成行」・・・任那の成り行き・・・日本府
 南朝鮮の東端・・・辰韓弁韓
 駕洛国金官伽耶

 枕草子
 (一三六段)
 百三十六段・壱佰参拾六段・壱参六段・陌参足陸段
 1+3+6=10=十=壱拾=足
 1×3×6=18=十八=拾捌=足捌

 「頭辨の・・・トウのベン=蔵人頭を兼務する弁官
ーー↓
 枕草子のツヅキ

 「頭辨の
 御許
 より」
 とて、
 主殿司、・・・主伝詞・取伝史
 繪
 など
 やうなる物を、
 白き
 色紙につつみて、
 梅の花
 いみじく
 咲きたるに
 つけてもてきたり。
 繪にやあらんと
 急ぎ取り入れて
 見れば、
 餠餤・・・へいだん、べいだん、へいたん
 ↓
 餅腅
 食べ物の一つ
 阿比留、鴨の卵と
 野菜を煮て
 餠の中に入れこみ、
 四角に切ったもの
 ↓
 兵団・兵站・兵端・米談
 平談→平家物語
 ↓↑ 
 とい・・・・問
 ふ・・・・・譜
 ものを
 二つ
 竝べて
 つつみたるなり。
 添へたるたて
 文に
 解文の
 やうに書きて
 「進上餠餤・・・「真情・心情・身上・信条」
 兵団・平談
 ピアノ
 楽器の「進上の併弾」
 一つ
 つみ・・・罪・摘み・抓み・積み・詰み
 例によりて
 進上
 如件・・・如件(くだんのごとし)
 くだん・九段・句段・苦談・件(くだん)
 少納言殿に」・・章名言伝爾
 とて
 月日かきて、・・・解通比
 ↓↑
 「任那成行」・・・任那の成り行き・・・日本府
 南朝鮮の東端・・・辰韓弁韓
 駕洛国金官伽耶
 ↓↑
 とて
 奧に、
 「この
 男は・・・音故葉
 みづ・・・自・「水=壬・癸」
 から
 參・・・まい
 サン・纂
 らん・・・乱・覧・蘭
 と・・・・徒・賭・渡
 するを、
 晝は・・・晝(昼・ひる・チュウ)
 類字は書(かく・ショ)
 畫(画・えがく・限る・エ・カク)
 かたち
 わろし
 とて
 まゐらぬ
 なめり」
 と
 いみじく
 をかしげに
 書き給ひたり。
 御前に
 參りて
 御覽ぜさすれば、
 「めでた・・・目出度
 く・・・・・・句
 も・・・・・・模
 かかれ・・・・懸か例
 たる
 かな。
 をかしう
 したり」
 など
 譽めさせ給ひて
 御文はとらせ給ひつ。
 「返事は
 いかが
 すべ
 か
 らん。
 この
 餠餤もてくるには
 物
 など
 や
 とらす
 らん。
 知りたる
 人
 もがな」
 といふを
 聞しめして、
 「惟仲・・・これなか
 惟仲 惟 仲
  「イチュウ・ユイチュウ」
 意中 唯 注・輸意中
 が
 聲し
 つる
 呼びて
 問へ」
 との給はすれば
 はしに出でて
 「左・・・よこしま(邪)・ひだり(比拿理)
 大・・・代
 辨・・・弁・偏・篇・変
 に
 もの
 聞えん」
 と
 侍・・・・はべら(葉部等)
 して
 いはすれば
 いと
 よく
 うるはしう
 てき
 たり。
 「あらず
 私事なり。
 もしこの
 辨
 少
 納
 言
 などの
 もとに
 かかる物
 もてきたる
 下部などには
 することやある」
 と問へば、
 「さる事も
 侍らず
 唯とどめて
 ・・・唯とどめて
 (留目=残留・残す
 止め=息の根を止める)
 残=歹+㦮=殘=歹+戔
  歹=歺=ガツ
 タイ
 ほね
 残骨
 かばね(屍)⇔姓
 悪い
  一+夕+㦮
 㦮=戈+二
  サン・セン・ザン
  そこ(なう)
  きずつける=残
  すくない・わずか・小さい
 殘=歹+戔・・・戔=戋=戈+一
 ↓↑
 百殘=好太王碑(Wikipedia
 https://ja.wikipedia.org/wiki/好太王
 「殘主(2回)」・「百殘(3回)」
 「殘国(1回)」・「殘(1回)」
 などと漢字使用の「刻録・刻字」
 ↓↑
 「百殘
 新羅
 舊
 是屬民
 由来
 朝貢
 ・・・「百殘・新羅
 もと
 これ
 属民にして
 由来
 朝貢せり」
 ↓↑
 而
 倭・・・倭=和=日本(九州・近畿・列島)
 倭軍=「倭賊(1回)・倭寇(2回)」
 ↓↑ ↓↑
 以
 耒・・・ライ・ルイ
  ・・・耒=来=未+丷(ハ)
  一+米 
  一+丷(ハ)+十+八
 =來=木+从
  木+人+人
 =徕=彳+来
  耒=すき(耜・鋤・鍬・犂)
    誄=言+耒=䛶=言+丰+木
    しのびごと(弔辞=チョウジ)
 ↓↑ 
 卯年
 来渡[海]
 破
 百殘・・・百殘=百濟
 殘=濟・・・?
 残酷なもののすべて
 「南子・タイ民族訓練」
 「混乱のない治世
 不信感のない心
 百の残虐さを中和する」
 ↓↑
 ■■・・・欠字
 加羅伽耶(かや)
  伽倻・加耶
 梁国
 537年
 「蕭子顯」編纂の「南齊書」
 加羅國,三韓種也
 建元元年
 國王
 荷知
 使來獻。
 詔曰
 「量廣始登,遠夷洽化。
 加羅
 荷知款關海外
 奉贄東遐。
 可授輔國將軍
 本國王。」
  と記録
  720年
    『日本書紀
    「加羅
 「任那
 が併記
 ↓↑
 新羅
 以
 爲
 臣民」
 ↓↑
 好太王碑=広開土王碑
 高句麗
 第19代の王
 好太王(広開土王)
 の業績を称えた石碑
 中華人民共和国
 吉林省
 通化
 集安市に存在
 好太王の子
 長寿王が建造
 「年九月廿九日乙酉」
 (西暦414年10月28日)
 甲寅・甲戌・乙酉・丁丑~戊子
 ↓↑
 くひ侍る。
 何しに
 問はせ給ふ。
 もし
 上官のうちにて、
 えさせ
 給へるか」
 といへば、
 「いかがは」
 と答ふ。
 唯返しを
 いみじう
 赤き
 薄樣に、
 「みづ
 から
 持て
 まう
 で
 こぬ
 下部は、
 いと
 れい
 たう・・・当・問う
 なりと
 なん
 見ゆる」
 とて、
 めでたき
 紅梅に
 つけて奉るを、
 すなはち
 おはしまして、
 「下部さぶらふ」
 と
 の給へば、
 出でたるに、
 「さやうのものぞ、
 歌よみして
 遣せ
 給へると
 思ひつるに、
 美々しくも
 いひ
 たり
 つる
 かな。
 女
 少し
 われはと
 思ひたるは、
 歌
 よみがましく
 ぞ
 ある。
 さらぬ
 こそ
 語ひ
 よけれ。
 まろなど
 に
 さる事
 いはん
 人は
 かへりて
 無心
 ならん
 かし」
 との給ふ。
 「則光・・・のりみつ・即効・速攻・即行
 成康・・・なりやす・成りやす・名理埜素
 など
 笑ひて
 止み
 にし
 事を
 殿の・・・伝之・出ん之・伝埜
 前に・・・
 人々
 いと
 多かりけるに
 語り
 まを
 したまひ
 けれ
 ば
 いと
 よく言ひ
 たる
 と
 なんの
 給は
 せし」
 と
 人の
 語りし。
 これこそ
 見苦しき
 我ぼめ
 ども
 なり
 かし。
ーーー
 ・・・見苦しき、我 ぼめどもなりかし・・・
 話例補目度摸名理可視・・・?
 ↓↑↓↑
(一三六段)
 「頭辨の御許より」
 とて、
 主殿司、繪などやうなる物を、
 白き色紙につつみて、
 梅の花のいみじく咲きたるにつけてもてきたり。
 繪にやあらんと急ぎ取り入れて見れば、
 餠餤といふものを、二つ竝べてつつみたるなり。
 添へたるたて文に、解文のやうに書きて

 「進上餠餤一つつみ、
 例によりて進上如件、
 少納言殿に」

 とて、月日かきて、

 「任那成行」・・・任那(みまな)の成行(なりゆき)?
 任那成行=藤原行成
 とて、奧に、
 「この男はみづから參らんとするを、
 晝はかたちわろしとてまゐらぬなめり」
 と、
 いみじく
 をかしげに
 書き給ひたり。

 御前に參りて御覽ぜさすれば、
 「めでたくもかかれたるかな。
 をかしうしたり」
 など譽めさせ給ひて、
 御文はとらせ給ひつ。
 「返事はいかがすべからん。
 この餠餤もてくるには、
 物などやとらすらん。
 知りたる人もがな」
 といふを聞しめして、
 「惟仲が聲しつる、呼びて問へ」
 との給はすれば、はしに出でて、
 「左大辨にもの聞えん」
 と、侍していはすれば、
 いとよくうるはしうてきたり。
 「あらず、私事なり。
 もしこの辨少納言などのもとに、
 かかる物もてきたる下部などには、
 することやある」
 と問へば、
 「さる事も侍らず、
 唯とどめてくひ侍る。
 何しに問はせ給ふ。
 もし上官のうちにて、
 えさせ給へるか」
 といへば、
 「いかがは」
 と答ふ。
 唯返しを
 いみじう赤き薄樣に、
 「みづから持てまうでこぬ下部は、
 いとれいたうなりとなん見ゆる」
 とて、めでたき紅梅につけて奉るを、
 すなはちおはしまして、
 「下部さぶらふ」
 との給へば、出でたるに、
 「さやうのものぞ、
 歌よみして
 遣せ給へると思ひつるに、
 美々しくも
 いひたりつるかな。
 女少しわれはと思ひたるは、
 歌よみがましくぞある。
 さらぬこそ語ひよけれ。
 まろなどに
 さる事いはん人は、
 かへりて
 無心ならんかし」
 との給ふ。
 「則光、成康など、
 笑ひて止みにし事を、
 殿の前に人々いと多かりけるに、
 語りまをしたまひければ、
 いとよく言ひたると
 なんの給はせし」
 と人の語りし。
 これこそ
 見苦しき
 我ぼめどもなりかし。

ー----
   ↓↑   ↓↑
ーーーーーー
 ・・・???・・・
 (表紙・画像・音楽)」の
  移転先・・・
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 ↓↑
 ボクの「古事記字源」の発端・・・
https://haa98940.wixsite.com/mysite/blog/archive/2022/5
https://haa98940.wixsite.com/mysite/blog/archive/2022/9
 ↓↑
 干支歴
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 ↓↑
 追加添文
 「戦争と平和」・・・「モウケの生き方」
https://haa98940.wixsite.com/mysite/single-post/2006%E5%B9%B4%EF%BC%91%EF%BC%91%E6%9C%88%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%8E%E9%A0%83%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%83%BB

くたばれ、pu、地球の汚染人・破壊人・・・ нет войне (ニェット・ボイニェ)!

 3213日目・文字霊日記

 秋分の日・彼岸・曼珠沙華(まんじゅしゃげ)
 彼は岸(きし)・・・吉師・吉志・旗幟・・・己巳(きし)・・・記史・紀史
 テンション=篆書‣篆文・・・添文・添加・・・
 tension
 緊張・張力・テンション・緊張感・引張・引張り
 不安
  нет войне (ニェット・ボイニェ)!

 


 2022/9/23・金曜日・・・追加添文・・・
 外はチョボ雨・・・
 秋分の日・彼岸・曼珠沙華(まんじゅしゃげ)
 壬寅(己・丙・甲)年
 己酉(庚・ ・辛)月
 己卯(甲・ ・乙)日
 甲子(壬・ ・癸)時


 太陽黄径180°
 昼夜の時間が等しい
 太陽が
 真東から昇り
 真西に沈む日


 ねじれる・・・捩じれる・捻じれる ・・・棙じる
 ネジる=音字留
 螺子(ねじ)=虫+累(塁=田氺土)+子(了一)
 螺旋(ねじ)=虫+累+旋(方𠂉)
 ↓↑
 旋=方+疋
   方+乛+龰
   方+乛+止
   亠+力(刀)
   セン
   めぐる・まわる・ぐるぐるまわる
   かえる・もどる・もどってくる
   旋+α
   漩(うづ=渦)
   嫙暶璇㯀蔙
   䁢䃠䗠縼䲂
   鏇(ろくろ=轆轤
     物を回転させながら削る道具)
   ↓↑   
   旋(めぐ)る
   斡旋(アッセン)
   回旋・廻旋(カイセン)
   凱旋(ガイセン)
   周旋(シュウセン)
   旋頭歌(センドウカ)
    和歌の形式の一
    五・七・七の上の句と
    五・七・七の下の句の
    六句からなるもの
   旋回・・・施錠・施工
   ↓↑
   旋乾転坤(センケンテンコン)
    国の情勢を一変すること
    乾=天・坤=地
    天地を一回転させて、正しい状況に戻す
    「乾を旋らし坤を転ず」
   旋転囲繞(センテンイジョウ)
    相手の周りを回りながら囲むこと
   旋毛を曲げる(つむじをまげる)
    気分を損ねて、意地悪るく逆らうこと
 ↓↑
 トルク (torque)・・・???・・・
 力学で
 ある固定され 回転軸を中心にはたらく
 回転軸の周りの力のモーメント
 一般的には「ねじりの強さ」=力矩・ねじりモーメント
 トルク=力と距離をかけた値
     物体を回転させる力
     力のモーメントと同じ
     トルクはボルトを締める時に
     必要なねじりモーメント
 ↓↑
 T=P×L
 力が小さくても
 Lが大きければ
 トルクTの値も大きい
 P=力
 L=モーメントの中心から
   力の作用点までの距離
 ↓↑
 偶力=物体を回転させる力
    物体を移動させることではなく
    互いの力の大きさが同じで
    反対向きの力
 M=P×L
 M=P(L-x)+Px=PL
 ↓↑
ー----
 青江三奈 / ♪山谷ブルース (オリジナル:岡林信康) - Bing video
 山谷ブルース・・青江三奈 - 動画 Dailymotion
 チューリップのアップリケ
 岡林信康(1946年7月22日 )

https://www.youtube.com/watch?v=4yiJw1KYn3A

ー----
 天空の城 ラピュタ 『君をのせて』 ナターシャ・グジー
  "Carrying You" from "Castle in the Sky" by Nataliya GUDZIY

https://www.youtube.com/watch?v=E_LZ5C2NkyI&list=RDE_LZ5C2NkyI&start_radio=1
  (N G)
 1980年2月4日
      大運2020年3月(40歳)壬午正官
 己┏未(丁乙己)食神・食神冠帯⇔辛丑偏財
 丁┣丑(癸辛己)比肩・食神 墓⇔
 丁┣未(丁乙己)  ・食神冠帯⇔
 丙┗午(丙 丁)劫財・比肩建禄⇔
   寅卯空亡
ーーーーー
 ↓↑
「島津亜矢」さんの「美声」と「声量と音声の高低の幅」・・・
一流声楽家 SPコラボ
本当のとこ教えてランキング
第2弾 2021/4/4TBS放送
♪夜に駆ける
https://www.youtube.com/watch?v=03ikPv7FUbg
ーーーーーー
・・・???・・・
 ↓↑    ↓↑ 
 ボクの「古事記字源」の発端・・・
https://haa98940.wixsite.com/mysite/blog/archive/2021/10
 ↓↑
 (表紙・画像・音楽)」の
  移転先・・・
https://haa98940.wixsite.com/mysite/blog/archive/2016/12
 ↓↑
 ボクの「古事記字源」の発端・・・
https://haa98940.wixsite.com/mysite/blog/archive/2022/1

https://haa98940.wixsite.com/mysite/blog/archive/2022/9
 ↓↑
 干支歴
http://meisiki.bake-neko.net/keisanBXG4.html
 ↓↑
 追加添文
 「戦争と平和」・・・「モウケの生き方」
https://haa98940.wixsite.com/mysite/single-post/2006%E5%B9%B4%EF%BC%91%EF%BC%91%E6%9C%88%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%8E%E9%A0%83%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%83%BB

極東ウクライナ共和国⇔みどり烏克蘭共和国⇔ロシア革命⇔クリミヤ戦争

文字霊日記・3212日目

 ・・・発音も文字も・・・同じように聴こえてたり、見えたり・・・
 そして、意味も意義も・・・「主義」・・・ナニこれ・・・?
 「主(おも・シュ)=亠+十+一」なる
 「義(よい・ギ)

  =⺷(羊)+我・
   䒑+土
   䒑+𠀆(⺘)
   ㄚ+三
   丷+王
   丷+一+二+丨」
   ワレに乗るヒツジ
   ワレのウエにあるヒツジ
   和例の
   卯(ウ=烏・胡・鵜・宇・雨)
   回(エ=依・慧・娃)
   に(似・尼・弐・荷・煮・爾)
   アル(有る・或る・在る・亜留)
   日辻(ヒツジ=未・穭・比通字)・・・字通
   字通=平凡社発行の漢字辞典
   1996年刊行
   白川静
   見出し漢字総数約1万字
   熟語約22万語
  『字統』『字訓』の
   字書三部作の第三作
  「説文解字」の拡張解釈・・・
  『説文解字(せつもんかいじ)』
   最古の部首別漢字字典
  「説文(せつもん)」とも
   後漢
   許慎(キョシン)・・・虚心?
   の作
   和帝・・・倭の帝(みかど・テイ)
     ・・・綴(つづり・テイ)
   永元十二年(100年)

  ・・・栄元・永源・英玄・英元
     壱拾弐年(壱百年)
   成立
   建光元年(121年)

・・・建(たける)の光元の年
   許慎の子の
   許沖が・・・虚注・去冲
   安帝・・・・案の綴り
   に奉った
   本文14篇
   叙(序)1篇の15篇
   叙によれば
   小篆の見出し字9353字
   重文(古文・籀文および他の異体字)1163字
   を収録
   漢字を540の部首に分別体系化
   成り立ちを解説し
   字の本義を記す」
 ・・・和の綴りの字の本義=日本語・・・?
   出典: フリー百科事典
  『ウィキペディアWikipedia)』
  ↓↑
 「カンジ至上主義」・・・感自至上主義・・・?
  ↓↑
 「芸術至上主義
  仏 L'Art pour l'art
  羅 Ars Gratia Artis
  英 Art for Art's Sake」者
 「暴力至上主義・L'Art pour force」者
 「戦争至上主義・L'Art pour guerre」者
 「芸術=技術=忍術=武芸=暴力=戦争」主義者
  の発現、発揮、表現、実行・・・
  窃盗技芸?
  ↓↑
 羅 Ars Gratia Artis
 英 Art for Art's Sake
 pour=pur=プル・ポー
    pouvoir=~できる・~の可能性がある
        ~する権利がある
        不定
        pouvoir
        現在分詞
        pouvant
        過去分詞
  ↓↑
 pour
 前置詞
 目的・用途・適性=…のために(の)
           英語の「for」
 film pour adultes=成人向き映画
 時間表現とともに…に
 関与…にとって
 原因・理由…のために・のせいで
 属性…として
 対比…にしては.
 〈pour+不定詞…するために
 〈pour que+接続法…するために
 方向…へ・…に
 力=force・puissance・pouvoir
 ↓↑
 英語
 pour=ポォ・ポォー(ル)
   液体・粒状物を…に注ぐ
   つぐ・かける・流す
   液体を容器から別の容器へ入れ替える
   pour+(out・away・on・over・in)
   pour=土砂降り
   power=パワー
       力・腕力・馬力
       権力・軍事力
       集団の力
       動力・仕事率・工率
       数学の「冪(ベキ)」
  ↓↑
 英語=パワー(power)
 独語=マハト(Macht)
    クラフト(Kraft)
 仏語=ピュイサンス(puissance)
    フォルス(force)
 伊語=ヴィゴーレ(vigore)
    フォルツァ(forza)
  ↓↑
 ケレンスキー
 1881年5月4日〈ユリウス暦4月22日〉
 ~
 1970年3月7日(88歳没)
      大運1960年11月(79歳)甲申偏官
        ~
        1970年11月(89歳)癸未正財
 辛 巳(戊庚丙)傷官・偏印建禄⇔庚戌食神
 壬┏辰(乙癸戊)偏財・比肩冠帯⇔己卯劫財
 戊┗戌(辛丁戊)  ・比肩 墓⇔丙戌偏印
 戊 午(丙 丁)比肩・印綬帝旺⇔甲午偏官
   空亡辰巳
  ↓↑
 ロシアで用いられていた
 「ユリウス暦」の
 「二月革命
 1917年2月23日~2月27日
 「三月革命
 (グレゴリオ暦3月8日~12日)
      丁巳・癸卯・己酉・乙丑   
 「十月革命
 (1917年11月7日~1918年)
 ↓↑
 「グレゴリオ暦」では
 「十一月革命」
     ・・・壱拾壱=十一=足壹
      丁巳・庚戌・癸丑・癸丑
 1918年2月14日
 のグレゴリオ暦導入まで
  ユリウス 暦による月日で表記
 13日加算で
  グレゴリオ暦に換算できる
  ↓↑
 ロシア 社会革命党・トルドヴィキ
 出生地
 Flag of the Russian Empire
 (black-yellow-white)
 ロシア帝国
 シンビルス
 (ウリヤノフスク)
 死没地
 アメリカ合衆国
 ニューヨーク州 ニューヨーク
 New York
  ↓↑
 1916年12月
 ラスプーチン
 フェリックス・ユスポフに暗殺
 1917年
 ケレンスキー
 ロシア臨時政府司法大臣
 1917年3月8日(ユリウス暦2月23日)
 ペトログラードサンクトペテルブルク
 デモで
 二月革命が開始
 ケレンスキー
 ロシア国会臨時委員会委員に選出
 ペトログラード・ソヴィエト
 副議長に任命
 3月16日(ユリウス暦3月3日)
 臨時政府樹立
 司法大臣
 4月
 英仏に戦争継続発覚し
 外務大臣
 パーヴェル・ミリュコーフ
 陸海軍大臣
 アレクサンドル・グチコフ
 辞任
 ケレンスキーは陸海軍相就任
 臨時政府の実権掌握
 5月23日(ユリウス暦5月10日)
 戦争継続を主張
 陸軍総司令官
 ミハイル・アレクセーエフ
 を
 アレクセイ・ブルシーロフ
 に交代し
 ドイツ帝国に対する攻勢命令(ケレンスキー攻勢)
 指令系統が破綻し
 ロシア軍は攻勢に失敗
 7月14日
 ドイツ東部方面軍は反攻に転じ
 ロシア軍の前線は全面崩壊
 ケレンスキー
 敗北の責任を軍部に追及され
 兵士から
 「説得司令官」と揶揄
  ↓↑
 ケレンスキー
 コルニーロフ
  ↓↑
 7月16日(ユリウス暦7月3日)
 七月蜂起
 ペトログラード
 ボリシェヴィキが蜂起
 リヴォフ首相
 辞任
 7月21日
 ケレンスキー
 首相就任
 8月
 陸軍総司令官
 ラーヴル・コルニーロフ
 ボリシェヴィキ排除を目指し
 ペトログラードへ進軍(コルニーロフ事件)
 9月9日
 コルニーロフを更迭したが
 コルニーロフは
 コサック部隊を首都へ進軍させた
 ケレンスキー
 ボリシェヴィキ
 赤軍に助力を要請
 コサック部隊は命令を拒否し原隊復帰
 コルニーロフ逮捕
 ケレンスキー
 陸軍総司令官に就任したが
 臨時政府の影響力は低下
 1917年5月12日
 「諸君はその銃剣の先に
  平和・権利・真理・正義
  をつけて行くのだ
  ロシヤの自由な息子たちよ
  固く隊伍を組んで前進せよ」
 と・・・
 だが
 ボリシェヴィキ勢力増大
  ↓↑
 9月15日(ユリウス暦9月1日)
 国号を
 「ロシア共和国」に変更
 憲法制定議会が設立されるまで
 権力維持に努めたが
 「社会革命党」の理念
 「社会主義
 に反する
 「共和制宣言」
 で党内から批判された
 ケレンスキー
 外相 ミハイル・テレシチェンコ
 陸相 アレクサンドル・ヴェルホフスキー
 海相 ドミトリー・ヴェルデレフスキー
 郵政電信相
   アレクセイ・ニキーチン
 を最高会議委員に任命し
 自身は主席となった
 ケレンスキー
 「戦争継続」
 訴え続けたが・・・「Puチン」・・・同類?
 兵士たちは
 「ロマノフ朝が崩壊すれば戦争は終わる」
 と考え
 「平和、土地、パン」
 を主張し講和を掲げる
 ボリシェヴィキを支持
 兵士たちは次々に脱走
 1917年秋
 兵力は200万人まで減少
 ケレンスキー閣僚は
 戦争から離脱した場合に
 英仏からの食糧供給が絶たれ
 国内が混乱することを恐れ
 戦争を継続する以外に選択肢がなかった・・・
 反ボリシェヴィキで共闘する立場の
 コルニーロフを逮捕し
 ボリシェヴィキに対抗する戦力を喪失
  ↓↑
 十月革命
 レーニン・・・・「うら字ミいる」・・・?
 10月上旬
 フィンランドから帰還
 臨時政府打倒を呼びかけ
 ケレンスキー
 11月5日(ユリウス暦10月24日)早朝
 士官学校生徒などを動員し
 ボリシェヴィキの機関誌印刷所などを襲撃
 レフ・トロツキー
 が率いる赤軍
 印刷所を回復、郵便局、発電所、銀行を占領
 11月6日(ユリウス暦10月25日)
 ボリシェヴィキ
 ペトログラードで蜂起(十月革命
 ケレンスキーが動員できる戦力は
 「死の大隊」
 と呼ばれる
 2個の
 「女性大隊」のみ
 「女性大隊」は
 反ボリシェヴィキで戦闘に参加
 だが
 赤軍に敗北
 全員が捕虜
  ↓↑
 ケレンスキー
 冬宮殿を脱出
 臨時政府の閣僚は全員逮捕・監禁
 後に
 追放、脱走・亡命・・・
  ↓↑
 ケレンスキー
 プスコフに逃れ
 同地の騎兵部隊を率いて
 ペトログラードを奪還しようと試みた
 部隊は
 ツァールスコエ・セロー
 を占領したが
 翌日
 プルコヴォで赤軍に敗れ
 数週間を隠れ家で過ごし
 フランスに亡命
  ↓↑
 ロシア内戦勃発
 ケレンスキー
 白軍を「反革命右派」
 ボリシェヴィキを「反革命左派」
 と非難
 1941年
 独ソ戦開始後
 ヨシフ・スターリン
 に支援を要請
  ↓↑
 ワシントンD.C.での
 ケレンスキー
 亡命後も政治活動
 1939年
 オーストラリア人の元ジャーナリスト
 リディア・ネル・トリットン
 と再婚
 1940年
 ナチス・ドイツ
 フランス侵攻開始
 ケレンスキー
 アメリカ合衆国に脱出
 1945年
 オーストラリア
 ブリスベン
 に移住
 彼女の家族と共に生活
 1946年2月
 リディア
 脳卒中で4月10日に死亡
 ケレンスキー
 再びアメリ
 ニューヨーク
 に居住
 カリフォルニア州で過ごし
 スタンフォード大学
 講師
 「フーヴァー戦争・革命・平和研究所」
 の研究員
 ロシアの歴史や政治史を記録
 革命政権時代
 反ユダヤ感情渦巻くロシアで
 ユダヤ人人権保護を訴え
 ユダヤ系の人間から資金援助や支援を受けた
 KGB
 「ピエロ」のコードネームを付け
 ケレンスキーを監視、抹殺計画
  ↓↑
 1970年
 ニューヨークの自宅で死去
 十月革命当事者の最後の生き残りの一人だったが
 ニューヨーク
 在外ロシア正教会
 セルビア正教会から
 ボリシェヴィキによる
 政権奪取の責任を問われ
 埋葬を拒否され
 遺体は
 ロンドンに埋葬・・・
  ↓↑
 ケレン    ・スキィ
  ↓↑      ↓↑
 けれん(外連) 州奇異(貴意・忌諱・記意・紀伊・key)
 歌舞伎や人形浄瑠璃
 見た目本位の奇抜さをねらった演出
 その演目
 早替わり・宙乗り・仕掛け物
 など
  ↓↑
 ごまかし・はったり
 「言うことに外連がない」
  ↓↑
 演劇・映画・歌舞伎・浄瑠璃
 の台詞、言葉
  ↓↑
 ケレン
 ドイツ語=Kernstutze
      鋳造に際し
      鋳型の
      中子 (なかご) を
      支える副え木を補強する金具
  ↓↑
 ケレン=Keren
 エリトリア北部の町
 首都
 アスマラ
 の北西約90キロメートル
 アンセバ地方の高原地帯に位置
 鉄道、道路交通の要地
 農産物の集散地
 20世紀初頭の
 モダニズム建築
 ロマネスク様式
 の教会をはじめ
 イタリア風の建造物が多数残っている
  ↓↑
 猛々しく=建々
     =武々
     =竹々
     =長け丈
     =嶽々
     =他家ダケ
   強(し)く
   申(もう)し
   上(あ)げる・・・?
  ↓↑
 ラジアン=180度
     =壱百八拾度
     = 百捌足土
 等字編(辮)・等事案・等時案・等蒔案
 羅似案・・・・新羅(斯盧)案
 螺(法螺)示案
 radian=弧=弓+瓜
     度=广+廿+又
       亠(トウ・ヅ)
       +
       丿(ヘツ・へチ)
       +
       又(フ+乀・ユウ・ウ)=ヌ
       一+乂(カイ・ゲ・Ⅹ)
    「π(パイ)=一+丿+乚
          =兀(コツ・ゴチ)」
     が角度に使用される場合は
    「180°=ラジアン=弧度」
     角度の単位で
    「1ラジアン」は
    「円の半径に
     等しい長さの
     弧の中心に対する角度」
     と定義
     円周を360等分した弧の中心に対する角度
  ↓↑
 何時でも青春=ナンジでも
        アオイ(葵・蒼・碧・藍)の
        ハル(波留・波瑠・葉留)
ー----
 ・・・???・・・人生、アオイ・・・女王の身罷り・・・
 ナゼ「白馬=あおうま=青馬」なんだか・・・
           「蒼き馬を見よ」・・・「白馬」って?
 「蒼ざめた馬を見よ
  これに乗るものの名は死
  黄泉これに従う」
 ヨハネ黙示録第6章8節
 プーチンも金も・・・白馬に乗って誇示していたが・・・
 2022年9月26日
 壬寅・己酉・壬午・丙午・・・「午=うま=馬」の日・・・アンサツ?



http://tocana.jp/2015/12/post_8302.html
 女王は競馬スキだった・・・
  ↓↑
 A Whiter Shade of Pale?
 青い影 (プロコル・ハルム)・A Whiter Shade of Pale (1967年)
https://www.youtube.com/watch?v=PrdKpDN-NQQ

ー--
 緑ウクライナ
 極東ウクライナ共和国
 1917年~1922年
 ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国
 ↓
 極東共和国
 ↓
 極東ウクライナ共和国
 首都
 二コラエフスク・ナ・アムーレ
 極東会議議長
 1920年~1922年
 ユーリ・フルスコ=モヴァ
 設立    1917年6月11日
 独立    1918年4月
 滅亡    1922年10月25日
 現在    ロシア

 緑ウクライナ(英語 Green Ukraine)
 アムール川~太平洋岸
 ウクライナ人植民地
 「緑の楔(くさび)」・・・くさび=草薙
 ↓↑
 1917年
 ロシア革命以降
 極東ウクライナ共和国が
 ウクライナ人によって
 ロシア極東に建国されることが計画
 1920年4月6日
 ボルシェビキ極東共和国
 設置
 ウクライナ人が多数であった極東は
 この国家を脱して
 「緑ウクライナ
 と呼ばれる国家の建設を試みたが挫折
 ↓↑
 1917年6月24日
 第一回全ウクライナ人極東会議
 ニコラエスクウスリースキー
 で極東会議(Kray Rada)を構成
 1918年2月
 第二回全ウクライナ極東会議
 ハバロフスクで開催
 緑ウクライナ
 ウクライナ国の一部として宣言
 1918年4月
 第三回全ウクライナ極東会議
 独立ウクライナ国家
 を太平洋岸に設立するか問う
 1918年
 極東ウクライナ軍が編成
 兵力は5000人以上
 ボリス・フレスチャティスキー
 が指揮官
 1920年4月11日
 ヘトマンの地位の
 グリゴリー・セミョーノフ
 は
 極東ウクライナ共和国の権威のため
 民族自決
 極東コサック
 ブリヤート人
 ウクライナ
 の境界内での自治を唱えた
 1922年
 赤軍との対立後、崩壊、解散
 会議の議長
 1918年6月~1919年
 ユーリ・フルスコ=モヴァ(一期目)
 1920年1月~1922年
 ユーリ・フルスコ=モヴァ(二期目)
 領域
 アムール川近郊~ウスリー近郊
 ハバロフスクウラジオストク
 ↓↑
 ユーリ・フルスコ=モヴァ
 ウクライナ
 ウクライナ人は主に農業を経営
 ロシア人
 ユダヤ
 などの多い都市部にはあまり住んでいなかった
 当時のウクライナ人は
 都市を敬遠
 19世紀末
 ウクライナで進展した都市化や工業化では
 主にロシア人が流入
 ウクライナ人は
 ウクライナ内の炭坑や工場で労働者となるよりも
 国外や辺境で農地を持つことを望んだ
 多くのウクライナ人が
 カナダ
 アメリカ合衆国
 の農業地帯に移民し
 ロシア帝国内では人口希薄な
 東方、極東に移動して農業
 ↓↑
 ロシア極東のアムール川~太平洋岸
 ゼレニークリン (Zeleny Klyn)
 ゼレニーウクライナ
 東部ウクライナ
 と呼ばれ
 ウクライナ人に殖民された地域
 領域は100万km2
 ウクライナ人人口
 1926年
 41%~47%
 総人口は
 1958年の時点で
 310万人
 ↓↑
 ゼレニー・クリン
 ロシア帝国の一部になった
 この地域への殖民
 中期17世紀
 ハバーロフ
 がアムール川岸の
 アルバジンに要塞を築く
 斥候兵が満州地方で小競り合い
 1669年
 ネルチンスク条約締結
 アムール川を境として
 北部がロシア領土となった
 ↓↑
 19世紀中期
 1853年~1856年
 「クリミア(Crimean)戦争」
 ロシア
 vs
 フランス・オスマン帝国
 イギリスの同盟軍
 +
 サルデーニャ・・・1861年2月18日
          トリノ
          第1回イタリア国民議会
          ヴィットーリオ・
          エマヌエーレ2世の
          イタリア王即位を承認
          3月17日
          ヴィットーリオ・
          エマヌエーレ2世の
          イタリア王即位が正式に宣言
          サルデーニャ王国
          イタリア王国となる
          サルデーニャ
         「猿 出 にや」では?
          猿田彦=異形風貌で赤鼻の天狗
              庚申信仰
              青面金剛
             (ショウメンコンゴウ)
              請  免 混合・今号?
              白鬚明神
              塞の神道祖神・精大明神
              伊勢の阿邪訶にて溺れた
          猿女=宇受女?
 ↓↑
 1854年9月28日から始まった
 セヴァストポリ包囲戦
 (Sivastopol Kuşatması・セバストポリ攻囲戦
  露語・セバストポリ防衛戦)
 1855年9月11日に陥落
 サルデーニャ王国
 ピエモンテに駐屯する精鋭15000人を
 派遣して同盟軍に与し
 街は3日におよぶ総攻撃の末に
 ナヒーモフ
 コルニーロフ
 が戦死
 ↓↑
 太平洋側
 ロシア極東
 1854年8月末
 フランス海軍
 イギリス海軍の連合は
 カムチャツカ半島
 ロシアの港湾・要塞
 ペトロパブロフスク・カムチャツキー攻略
 英仏連合軍は盛んに砲撃を行い
 9月に上陸
 陸戦で大きな犠牲を出し撤退
 英仏連合は兵力を増援し再度攻撃をかけたが
 ロシア軍は撤退後だった
 ↓↑
 1853年8月
 エフィム・プチャーチン
 海軍中将が日本との開国交渉
 1853年8月
 長崎に到着
 外交交渉に着手していたが
 交渉が長引く中で
 英仏両国との開戦の情報に接し
 東シベリア総督
 ニコライ・ムラヴィヨフ
 とも協議の上日本との交渉を続行
 英仏の艦隊との遭遇・交戦の危険を控え
 1854年12月
 「安政東海地震
 で乗艦
 「ディアナ号」喪失
 1855年1月
 日露和親条約の締結
 ↓↑
 英国東インド・中国艦隊司令
 ジェームズ・スターリン
 は
 プチャーチン
 が長崎に入港中との情報を得
 彼を捕捉することを口実に
 長崎に侵入したが
 ロシア艦隊は長崎を既に出港
 ロシアが
 サハリン
 千島列島
 への領土的野心があることを警告し
 幕府に対して局外中立を求めた
 スターリングは
 外交交渉を行う権利は有しておらず
 本国からの指示も受けていなかったが
 長崎奉行
 「水野忠徳」
 は、イギリスの軍事力を恐れ
 条約締結を提案し
 1854年10月14日
 日英和親条約が調印
 ↓↑
 アメリカが
 ペリー提督を派遣
 「クリミア戦争」のドサクサを背景に
 砲艦外交を日本に展開・・・
 ↓↑
 クリミア戦争
 ロシアが敗北し
 第二次東方拡大政策
 コサック殖民がアムール川近郊に設置
 清帝国
 ロシアとの戦争を避け
 1853年・・・・・
 アイグン条約
 1860年
 プリモルスク条約
 を締結
 現在の国境線になった
 ↓↑
 これらの期間の植民者は
 14,000人のコサック
 2,500人のロシア兵
 1816年
 プリモルスキー州
 アムールスキー州
 が設置
 1860年
 ウラジオストク
 1858年
 ハバロフスク
 建設開始
 ↓↑
 1882年
 ウクライナからこの地域への自由移動が公表
 植民者には自由地が提供
 植民者の乗る船は
 ウクライナ
 オデッサ港から出発
 1897年まで
 31万人にまで人口増加
 1901年
 シベリア鉄道の設置完了
 以降は
 一年あたり14,000人の移住者
 1907年
 人口78,000人
 1914年
 地域は
 海軍大将
 アレクサンドル・コルチャーク
 の管轄下に入った
 1920年
 極東共和国
 日本とロシアの緩衝国として設置
 1922年
 ロシア社会主義共和国に編入
 1934年
 ユダヤ自治州が
 ビロビジャンに設立
 ソビエトの支配を嫌ったウクライナ人は
 極東から
 中国領の満州
 日本領の南樺太
 逃亡
 当地で「白系ロシア人」と呼称
    「ロシア白軍」の残存兵士・・・
   出典『ウィキペディアWikipedia)』
ー----
 ・・・???・・・
 プーチン侵略戦争の末路・・・9月26日・・・壬午日?

 

aporo4

ーーーーーー
 ・・・???・・・
 (表紙・画像・音楽)」の
  移転先・・・
https://haa98940.wixsite.com/mysite/blog/archive/2016/12
 ↓↑
 ボクの「古事記字源」の発端・・・
https://haa98940.wixsite.com/mysite/blog/archive/2022/5
https://haa98940.wixsite.com/mysite/blog/archive/2022/9
 ↓↑
 干支歴
http://meisiki.bake-neko.net/keisanBXG4.html
 ↓↑
 追加添文
 「戦争と平和」・・・「モウケの生き方」
https://haa98940.wixsite.com/mysite/single-post/2006%E5%B9%B4%EF%BC%91%EF%BC%91%E6%9C%88%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%8E%E9%A0%83%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%83%BB

世界の果て・・・世界への帰還

文字霊日記・3211日目

 世界一周で生きて帰ったヤツ・・・
acom1
 フアン・セバスティアン・エルカーノ
 (Juan Sebastian Elcano)
    セバスチャン
  姓はデル・カーノ(del Cano)・・・出る吽野?
    エル カーノ(Elkano) ・・・獲る化鸕(ロ・鵜・烏)野?
                      鸕野讃良=持統天皇
 1476年?~1526年8月4日
 ゲタリア(バスク語 Getaria・スペイン語 Guetaria
      グアイタ(Guaita、遠景)から派生)
 出身の
 バスク人
 ↓↑
 商船主
 フアンは
 スペインの法を犯し
 自身の船を
 ジェノヴァ・・・字重之葉亜(蛙・鴉・丫)?
 の銀行に差し押さえられ
 スペインの
 カルロス1世・・・珂瑠(かる・文武天皇
           鸕(ろ・鸕野讃良=持統天皇
 州(す素・諏)
           軽(かる・孝徳天皇
 に恩赦を求めた
 マゼラン・・・混ぜ亂(乱・蘭・覧・濫・卵)                   
 の航海への協力することを条件に
 1519年
 マゼランの大遠征に参加
 ↓↑
 航海途中
 フアンは
 マゼランに対する乗員の反乱に参加し鎮圧され
 マゼランに許されて
 船団を構成した5隻の内の1隻の
 コンセプシオン号の船長に任命
 ↓↑
 1521年4月27日
 フィリピンの
 マクタン島における現地住民との戦いで
 マゼランが死亡
 この時点で船団の
 サンチアゴ
 サン・アントニオ号
 の2隻が失われ
 コンセプシオン号と他
 2隻の艦隊となり
 指揮官が入れ替わり
 損傷が激しかった
 コンセプシオン号も
 セブ島で焼き捨てられ
 船団は
 ビクトリア号
 と
 トリニダード
       ・・・鶏尼拿合土郷?・・・鳥居=三位一体7の象徴?
          トリニダード・トバゴ共和国
         (Republic of Trinidad and Tobago)
          カリブ海
          トリニダード
          島にある3つの山を
          キリスト教の教義の
          三位一体(trinidad=三位一体)
          トリニティ(trinity)
          トライン(trine)の名詞形 
          3重、3つ組、3つの部分を意味
          the Trinity= キリスト教教派での
          三位一体=神・キリスト・聖霊
          ↓↑
            トリニティ(trinity)
           「マトリックス(映画)」の女性名
            ネブカデネザル号の副船長
            黒髪のショートカットの美女
            ネオの恋人
          ↓↑
          になぞらえて、スペイン人に名付けられた
          トバゴ島=先住民が吸っていたタバコの名
          スペイン語
          Republica de Trinidad y Tobago
 ↓↑        ↓↑
    コペルニクス的転回(独 Kopernikanische Wende
              英 Copernican Revolution)
    物事の見方が
    180度変わってしまう事の比喩
    天動説に対する コペルニクス の地動説
    カントが
    自分の認識論上の立場を特徴づけた言葉
    主観は対象に従い
    それを映すとする従来の考え方を逆転させ
    対象が主観に従い
    主観の先天的な形式によって構成されると主張
    「π(パイ)」
     が角度に使用される場合は
    「180°=ラジアン=弧度」
     角度の単位で
    「1ラジアン」は
    「円の半径に
     等しい長さの
     弧の中心に対する角度」
     と定義
     円周を360等分した弧の中心に対する角度

     1ラジアンは通常の「度数法」で
    (180/π)°=約57.29578°
     に相当する
     1πラジアン=180°
     2πラジアン=360°
    (π/2)ラジアン=90°
 ↓↑    ↓↑
      ニコラウス・コペルニクス
       (Nicolaus Copernicus)
      ミコワイ・コペルニク
      (Mikołaj  Kopernik)
      1473年 2月19日
      ~
      1543年 5月24日
         大運1535年2月(62歳)庚申偏官
    壬辰(乙癸戊)偏印・偏財 衰⇔癸卯印綬
     癸丑(癸辛己)印綬・正財冠帯⇔丙辰食神
     甲寅(戊丙甲)  ・比肩建禄⇔乙未劫財
     庚午(丙 丁)偏官・傷官 死⇔壬午偏印
      子丑空亡
 ↓↑    ↓↑
      ポーランド出身
      天文学者
      太陽中心説(地動説)
     (太陽中心説をはじめて唱えたのは
      紀元前三世紀
      サモスの
      アリスタルコス)
 ↓↑    ↓↑
      医者
      医療に必須とされていた「占星術師」
      律修司祭
      聖堂参事会の尚書
      文書管理、金融取引の記録係
      聖堂参事会の財産管理を担当
     「悪貨は良貨を駆逐」するコトに気づいた
 ↓↑
 の2隻となり
 香料諸島の
 ティドレ島に到達後
 トリニダード号は太平洋を戻り
 ファンは
 ビクトリア号の船長となって
 香辛料を満載し
 西周りの帰国航海を指揮した
 ↓↑
 1522年3月18日
 インド洋南部の海域を航行中
 アムステルダム島
 発見したが命名しなかった
 ↓↑
 9月6日
 スペインの
 サンルーカル・デ・バラメーダ
 に帰還し世界一周を果たした
 ↓↑
 ブレンダ・リー
 The End Of The World ・ Brenda Lee
https://www.youtube.com/watch?v=sCRT1gp436Q

 ↓↑
 一番遠い場所は
 「世界の果て=The End of the World」
 なのか・・・?
  自分の前から一番遠い場所は
  自分の後ろ・・・
 すなわち(素名倭知・即ち・則ち
      乃ち・廼・迺・輒・輙・曾・曽)
 出発点の始まりが
 到達点の終わりで
 宇宙で一番遠い場所・・・終始は始終・・・

 Carpenters - The End of the World

https://www.youtube.com/watch?v=ThK5M8Ttzpw

 Why does the sun go on shining?
 Why does the sea rush to the shore?
 Don't know it's the end of the world
 「the end of the world」の
 「the end(エンド)」って
 「世界(宇宙)のオワリ(存在の滅亡)」か
 「世界(宇宙)のハ テ(距離の限界)」か・・・?

 ↓↑
 265名いた乗員は帰還時には
 エルカーノを含め
 18名、他に途中から乗り込んだ4名のアジア人
 ↓↑
 モルッカ諸島
 香辛料により乗員たちはそれぞれ富を得
 フアンに対しては
 航海における功績により
 カルロス1世より
 地球の図に
 「Primus circumdedisti me
 (ラテン語
  “我を一周せし最初の者”)」
 という文字を配した紋章と
 生涯にわたる多額の年金が与えられた
 ↓↑
 1525年
 ガルシア・ホフレ・デ・ロアイサ
 による7隻からなる船団のメンバーとなり
 船長として香料諸島へと向かった
 この航海において
 2度目となる世界一周を試みたが
 壊血病と栄養失調により
 太平洋上で死去
 ↓↑
 マゼラン海峡=マガリャネス海峡
 スペイン語 Estrecho de Magallanes
      エストレーチョ・デ・マガリャネス
 ポルトガル語 Estreito de Magalhaes
      エストレイト・デ・マガリャンイス
 ↓↑
 南アメリカ大陸南端と
 フエゴ島とを隔てる海峡
 ↓↑
 パナマ運河が開通する以前は
 ビーグル水道と並んで
 太平洋と大西洋を横断するための主要航路
 海峡の最狭部は約2km
 航行の難所
 ↓↑
 1520年10~11月
 フェルディナンド・マゼラン
 (葡 フェルナン・デ・マガリャンイス
  西 フェルナンド・デ・マガリャネス)
 が通過し、後に彼の名前を採って
 「マゼラン海峡」と呼ばれる
 全長550km、幅3~30km
 ↓↑
 英語 Magellan(マジェラン)
    Strait of Magellan
   (ストレイト・オヴ・マジェラン)
    現地呼称
   「マガリャネス海峡」・・・曲がり屋根洲?
ー----
 ・・・???・・・
   ↓↑   ↓↑
 「プラトン古事記をカタル(古事記字源)  + (表紙・画像・音楽)」の  移転先・・・
 ↓↑
 ボクの「古事記字源」の発端・・・
 ↓↑
 干支歴
 ↓↑
 追加添文 「戦争と平和」・・・「モウケの生き方」

「古事記」への疑問・遊古史交・交故事考・考漢字振

 文字霊日記・3210日目

 「プラトン古事記をカタル(古事記字源)」
 の「追加無し添文」・・・


www.youtube.com

 「古事記・序文・Ⅰ別項」

 最初から言ってしまえば「古事記」に使用されている「漢字」を「片仮名」、「平仮名」でヨンで展開し、「ハジメ」から「オワリ」まで、それに「同音異字」で「ヨマレるカンジ」や「エイゴ語」、「ギリシャ語」、「エジプト語(?)」を「与え」、その「イチジ・イック」のツナガリの可能性を追求したならば、「ナゾ」は「トキ・アカ・サレ・ル」のではないのか、と、一九九一年からズーッと考えてきたモノをまとめたモノである。
 すなわち、

 「英国=エイコク=ぶりてん=分利点」
 「英語=エイゴ=いんぐるす=音愚留守」
 「希臘国=キロウコク=えりにこ=得理似詁」
 「希臘語=ギリシアゴ=えりにこ=重理似子」

 「ギリシア」は「ギリシャ=義理者」、「埃及=エジプト=えじふと=絵字譜図」と敢えてヨムことをも含め・・・。
 とにかく、私のノート、メモ書きを「序文」として、マヅは読んでホシイのだ。もちろん、あなたの手には「漢和辞典」があることを前提として・・・

  遊古史交・・・交故事考・・・考漢字振

 「古事記」の「存在、意図」は何処にあるのか?

 「古事記」への疑問

 一、「タイトル」そのものの意味は?

 二、「序文」そのものの意味は?

 三、「古事記」に使用されている

   「漢字・文字」と「漢字・音」の意味は?

 四、「太安萬侶」その人は何者であったのか?

 五、「稗田阿禮」その人は何者であったのか?

 六、「天照大御神」とは誰なのか?

 七、「豊受大神」とは誰なのか?

 八、古事記に展開されている「場所」は何処であったのか?

 九、古事記に展開されている「時期」は何時であったのか?

 ごく常識的なモノで、既にこのような設定で研究し、その「解答(?)」を「古事記=文学=歴史書(?)」としての「枠内」で導き出されていらしゃる先生方もアマタ多い。だが、これは「太安萬侶」自身がその「古事記・序文」で「古事記」を書かざるを得なかった理由を述べている「理解範囲の枠」での研究、解答でしかない・・・ジャァ、それ以外におまえには「ナニ」があるのか?、と言うことだが・・・まさに、「ゴカン」は「ナニ」と言う研究と、その結果の「解答」が「ゴ・カ・ン」と「ナ・ニ」であったと言うワケである。
 スナワチ、私の場合は、これらの項目を日本人の学生が学校の「漢文授業」で使用する「漢和辞典」、その中で展開されている個別的な「漢字」の「日本語的(?)意味説明」と、たいがいには、その「漢和辞典」の後ろのページに展開されている「漢字自体の形成歴史に対する知識の説明」や、「日本人がいかにして歴史的に自国のコトバで漢文を読もう」として、その「法則」を形成してきたのか、その「読み方」を踏まえて検討したならば「古事記」が「何故存在」しなければならないモノのなのか、が明らかになった、と言うこと(?)で・・・単純なコトだった・・・のだが・・・。
 私に関して言えば、「辞典・辞書」は「目的のコトバ」の意味を知りたい時にだけ、その「ページ(頁)」と「項目」を調べたら、それで終わり。「漢和辞典」の前後のページの「能書」などは自慢じゃぁないけれど、読んだコトがなかった。それでも、「辞典」が「引けた」のは「あいうえお」、「アルファベット」順の「耳」が付いていたからだ。誰が「知りたいコトバの『耳みみ・ジ=丁付(チョウフ)』を引く」と言う辞典の索引方法を教えてくれたのか、私には記憶がない・・・ナントなく・・・自然に、と言うハズはないのだが・・・。
 それにしても「ページ(page)」が何故、「頁」の漢字が宛てられているのだろうか、あなたは「不思議」に思ったことはないだろうか?・・・この疑問は「漢字」に「とり憑かれた」わたしだけの特別なモノなのだろうか・・・とにかく、漢和辞典には

 「頁」・・・「ケツ・ゲチ・シュ・コウ・ヨウ・エフ」

 と「音」ではよまれ、「訓」では

 「頁」・・・「おおがい・かしら・こうべ・くびすじ・うなじ」

 とよまれているのだ。訓でこれを既知の漢字に宛てれば「大貝(おおがい)・頭(かしら)・首(こうべ)・首筋(くびすじ)・頚(うなじ=項=領)」であるが、

 おおがい=大解・多解・覆解・多害・大劾・大我意
 かしら  =可視裸(羅・螺・拉・等)・下肢裸
 こうべ  =神戸・交部(邊・辺)
 くびすじ =句備素字・句美諏字・句比素字
 うなじ  =有名字・得拿字・卯(月)拿字・烏(日)拿字・鵜納(茄)字

 と「同音の漢字」をアテルことも出来るのだ。

 「頁」は漢和辞典の「解字・象形」には「人の頭と身体・人がひざまずいて稽首(頭を腰より下にさげる)の礼を行っているさま」とある。
 「ページ(page)」は確かに英語にもかかわらず、私の使用しているワープロでは「ページ」と入力して漢字変換のキイを叩くと「頁」と変換されるのだ。・・・外来語が漢字になってしまうとはなんとも不思議であるのだが・・・漢字しかない中国では「英語の音」を漢字で採るのはあたりまえだろう・・・日本人は外来語は「カタカナ」で表記されると思い込んでいるフシがあるが、それは最近の話で、特に江戸時代、明治時代の文人は漢字で「当て字」として西洋のアルファベット、「横文字の外来語」を表記してきたのだ。

 頁・・・・・・・丁付・貼付
        ↓↓ ↓↓
        調布 長訃・・・調譜

  page・・・・記録・書物・歴史上の事件・挿話
 [peidz]
   ペィジ・・・・・ヘイジ
         ↓ ↓  
         平 時・平治・平字・柄時・並字

 「並ぶ字」ならば「page(ページ)」に並ぶ単語は「pageant(ページェント)」である。

 pageant= 小姓  ・近 習  ・見 習 い・給  仕
         コショウ ・キンジュウ・ケンシュウ・キュウジ
          ↓↑    ↓↑
          呼称  禁 中   検 収  球  璽
          ↓↑
          故障  金 中   献 酬  旧  時
          ↓↑
          湖沼  襟 中   研 修  宮  事
          ↓↑
          誇称  恨 中   懸 州  究  字=旧事
          ↓↑
          古書得 筋 柱 懸 収 球 事

        = その土地の「歴史的事件」を演ずる野外劇、見世物
          行列・虚飾・みせびらかし

 意味は「小姓」、「近習」、「見習い」、「給仕」
    「その土地の歴史的事件を演ずる野外劇、見世物」
    「行列・虚飾・みせびらかし」である。
 ・・・「球」とは「何か?」である・・・「球磨」あるいは「琉球」・・・?
 ついでに「ギリシャ語」を調べてみると、

 page・・・ギリシャ語では 「σελιδα(セリダ)」
                 ↓
                 施理拿・・・芹田・競他
                 台詞拿・・・迫出
                 科白出・・・背理出

              「νεαροs  υπηρετηs」
              (ネ アロ ス)  (イピ レ ティス)
               ↓         ↓
               音 亜賂 諏   意一 戻 帝 諏

 並字は字が並ぶ、並次は次々と並ぶ、閉字は閉じられた(綴じられた)字ならなんとなくわかりそうだが・・・訓が「おおがい」なら・・・「頁」は「大貝」・・・「大海」。「おうがい」なら・・・「横臥意」、「王我意」、「王害」、「王外」、「王涯」・・・「負う害」・・・「鴎外」。「おほがい」なら「麻穂苅」、「覆劾」・・・「被開」で、「将補解」なら・・・「まさに補う理解」で、納得出来そうだが・・・。「頁」が部首分解した「頁=一ノ目のハ(足)」ならもっと理解度は増す。何故なら「足(ハ)」は「あし=脚=葦=パピルス(紙)=亜詞=吾詞」で、「ハ」は「言葉」だからだが・・・これをヨメば「始めのヘツ(経柘)のマナ(真名)のタリ(他理)」となる。あなたには飛躍し過ぎて「理解困難(?)」かもしれないが・・・「吾詞(アシ)」は「語詞(ゴシ)」であり、「娃詞(アシ)」は「娃=月の女=天女」の「コトバ」で、「亜詞(アシ)」は「あまねし=海女子の史」で、「悪し」であることは、あなたにも追々理解されてくるハズである。・・・だが、何故、「足利(あしかが)」とヨムのか?

 あし・かが=加賀(化画・華画・蚊蛾)
 アシ・カガ=珂我(臥・俄・峨・蛾・娥)

 である。

 「古事記」、その「タイトル」そのものの意味は?

 「源・古事記」は西暦「712」年にその完成をみたと言われているが、その「源・古事記」は存在せず、これに関連する「注釈」モノとしては「亀山天皇」在位時期、「文永十年」、西暦「1273」年の「卜部兼文」の「古事記裏書」が存在しているらしいのだ。(これは中央公論社発行の「日本の歴史・別巻5・年表・地図」の「年表」に記されていることである。これからの歴史的事件、人物は殆どがこの年表による。私自身がその年表記載の文書とその内容のすべてを確認したモノではないので存在するモノとしての推測の域を出ない)
 「現存・古事記」は「真福寺・本」と言われている「応安五年」、西暦「1372」年、その寺の坊主であった「賢瑜(ケンユ)」が書写したものであるらしい。これは現在、名古屋の「博物館」にあり、もともとは名古屋の大須観音の「大須文庫」にあったものが東京に持ち出され、地元の有力者の働きで名古屋に里帰りされた「タカラモノ」なのである。これは確かに自分の目で確認できた。
 故に私たちは「源・古事記」が如何なるモノであったのか、現在的に明確には知ることはできないワケだ。ただ、ただ「源・古事記」に想いをはせて、その「原型」を推理するよりは手段がない、と云うワケである。
「卜部兼文うらべ・かねふみ」の「古事記裏書」、その「意図」するところは「漢字」で記されている「源・古事記」をどのように訓み、解釈するのか、と云う研究そのものにあった、と考えられる。この時代「源・古事記」があったとすれば、すでに「タイトル」さえも簡単には「訓めないモノ」であった。それを「卜部兼文」は「ヨもう」と研究したわけらしいのだが・・・「うらべ・かねふみ」と言う名前自体の漢字と音がアヤシイのだ。
 実際、彼が「実在した人物」だとしても・・・私はその彼の「研究内容」を知らないのだが。唯、「・・・らしい」と年表の「記事」を見て推測しているわけなのだ。
 だが、「古事記」が「漢字」で書かれているからには、誰でも「漢和辞典」さえ手に持てば「漢字・音」と「和・訓」で「多様」にヨメるモノなのである。しかも、私にはこれほど楽しい「ヨミカタ」の出来る「シロモノ」はないと思うのだ。
 私の「ヨミ方」は以下のとおり・・・

 古事記=コ・ジ・キ=ふるい・こと・ しるし
              ↓ ↓  ↓   ↓ ↓
              振留意 古都 始留史

 故 事 基=故事を基にした
 固 辞 期=固辞の時期
 固 持 姫=固持する姫
 誇 示 企=企てを誇示
 居 士 気=居士の意気
 孤 児 生=孤児として生まれた
 乞 食   =食物を請い求める。仏教僧の修行の一

 乞は「气=水蒸気=スイジョウキ」の省略形
 スイジョウキ
 誰 聶  危(基喜企)=誰かに聶けば危ない
 推 参耳 希=(水産時季)
 推 算未観紀=(水産味幹)
      姫=(鬼穐箕) 穐の記録の企て
 ↓               ↓
 水 蒸   気       安芸(長州藩

 みつ・むす・け=御津武佑=三・六 ・州・ 懸
 ↓  ↓  ↓          ↓   ↓       ↓
 水  上  姫       3+6=九州 家(華)
 ↓  ↓  ↓
 ミナガミ キ=皆が見る記=未だ、名の臥、美紀

 「日本書紀」を読み、それを踏まえ、各巻のテーマを明確にし、「古事記」に展開されている「各物語」と、そこに使用されているテーマに添った「漢字」の「同音異字」をすべて検討すれば、ある「事件」が重なっていることが「ミエテ」くる、ようなのだが・・・あなたはどう、考えるだろう。
 「賢瑜」の「書写」した「現存・古事記」の「意図」は何か疑ってみる「価値」はありそうだ。その理由は単純で、「書写」した、「応安五年」、西暦「1372」年の時代的な背景を重ねていることが見て取れるからである。
 すなわち、1316年7月10日に「北条高時」が執権に就き、その2年後、1318年2月26日に「後醍醐天皇」が即位したと言うことである。
 記録には1320年、「清原宗尚」が「古文孝経家説」を「金沢貞将」に授けるとあり、その翌年の1321年は「後醍醐天皇」の「親政」となった時代。しかも、天皇の父は「花園上皇」であり、この同じ時期に「花園上皇」は「古事記」、「古語拾遺」等を読む、の「記録(年表)」があり、「禁中で根合」しょうとして「藤原定房」の「諌め」によって止めた、との記録がある。この「記録」は重大な示唆を与えている。この記録の意味内容は不明だが、例え「私流」に誤解して読んだとしても、結果的には、

 「古事記」+「古語拾遺」=「根合」=混合・金剛・混交・金光・言交

 である。・・・「金剛界」は密教、「金光」は「金星の光(?)」だ。
 「古語拾遺(こごしふゐ)」は「大同2年(807)」に「斎部広成いんべ・ひろなり/サイブ・コウセイ」が著した「歴史書(?)」だが、古語辞典によれば、「古来、中臣氏と並んで朝廷の神事に奉仕した斎部氏の勢力が衰えたことを嘆き、天地開闢以来、文武天皇までの斎部氏の由緒、功績を漢文で書き記して朝廷に訴えた書」とある。
 「禁中で根合」、このことは別な意味で「賢瑜」の「書写」した「現存・古事記」の「意図」に秘められているモノではないか・・・すなわち、「古い事」の記録だが、そこに「根合=同音の文字を重ねる」と「現代歴史」が浮かび揚がってくるんじゃぁないか、と・・・梅原先生は検討する「価値」が無いと考えているらしいが、現在も立場は同じであろうか、ネッ・・・「サイブ・コウセイ=細部更正」で、「西部校正」か、「細部後世」なんだが?

 根合=木(キ)+艮(ウシトラ)+八(ヤッツ)+一(ヒトツ)+口(クチ)
   =混合・・・・ミツのヒを比べアワス

 原題・古事記・・・書記(孝徳天皇)にある「固辞の記」が原題のテーマ

 現代・故事記・・・故事(中国の漢籍類)を調べて記した

 呟醍・居士記・・・呟く後醍醐天皇は居士
           (彼は真言立川流に傾倒していたラシイ)

 源代・誇示記・・・源氏の代を誇示

 諺台・固持記・・・ことわざの台本(台詞=せりふ)を固持

 もちろん、これは堅苦しい学問としての「古事記」の「見方」ではなく、「私流」の「診方」で、「乞食楽」、「光時季学」、「麹学」、「糀学」、「乞食学」、「乞自棄・学」そのものである・・・。
 更に僧「梵俊」が「後醍醐天皇」に「朱子学」を講じ、翌年の1322年には「虎関師錬(コカンシレン)」が「元享釈書」を撰進する、と記されている。
 コレは・・・「中央公論社」に関係した「児玉幸多氏」に「歴史年表」を信じろ、と言われても・・・出来すぎであるんじゃぁないかと思うわけだが。
 この、名前の羅列、と著書名、「梵俊」、「後醍醐」、「朱子學」、「虎関師錬」、「元享釈書」・・・梵(ボン)、俊(シュン)、後(ゴ)、醍醐(ダイゴ)、朱子(シュシ)、學(ガク)、虎関(コカン)、師錬(シレン)、元享(ゲンキョウ)、釈書(シャクショ)の「同音異字漢字」をあなたが試みに書き出してみるとイイと思うのだが。
 ・・・ 虎(とら)の関(せき)の師の錬・・・フザケルんじゃないよ。
 たとえば・・・

 「梵・俊」 ・本(品=翻=叛=奔)・瞬(筍=春=順=淳=巡=准)
  ↓
  梵=木+木+凡
  ↓
  俊=イ+ム+ハ+夂

  ・ ・・

 「後・醍・醐」 ・語(悟=呉=后=子)・第(台=代=題)

  後=彳幺夂 ・五(護=娯=宕=午=互=牛=誤)

  醍=酉+日+一+卜+人

  醐=酉+古+月

  ・ ・・
 「朱・子・學」 ・主旨(趣旨=種子)・額(嶽=楽=鰐=顎=鍔)
  ↓
  朱=牛+八
  ↓
  子=了+一
  ↓
  學=メ+メ+臼+ワ+了+一・
  ・ ・
 「虎・関・師・錬」・股間(互換=語幹=語感=五感)・試練
  ・ ・
 「元・享・釈・書」・現況(検校=元凶=兼業=牽強)・尺書


 (・・・)の漢字をも調べてホシイ。一体全体、ナニが「虎関師錬コカンシレン=虎巻史練=股間試練」なんだか・・・これらの「漢字」の「音」と「造り」をみてピーンとくる人は、私と共に「古事記の虎」と「遊」んで、その「醍醐味」を「学(學)べる人」であるに違いない・・・と思うワケだ。
 「醍醐」は「純粋、極上の『バター』」で、「嘗める(ナメル)」と最高の味がするわけだが。「嘗める」に、宮廷の秘密儀式には「大嘗祭新嘗祭」がある。これは何を「ナメル」のか?・・・「乳」ではないのか?・・・すると稲作民族の儀式と言うよりは「牧畜民族の儀式」ではないのか。漢文故事に「臥薪嘗胆」がある。「マキの上にフシて、キモをナメル」である。仇敵を討つ為の辛苦漢難に耐える諺(ことわざ)である。「バター」は漢字で意味を採れば、「牛=丑」や「羊=未」の「乳酪(ニュウラク=入洛=柔絡=拾楽=呪落=嬬絡=聚落」、「乳脂肪(ニュウシボウ)」で、私の耳と頭は「チチラク=父落=遅々樂」、「チチシボウ=父死亡=遅々志望」と理解せよ、としてしまう。もちろん、「醍醐」は「酉(西一)+是(日正)、酉(西一)+胡(ウ=得・古月=コゲツ=子月)」・・・と。
後醍醐天皇は「オンナタラシ」で有名だが、「密教真言立川流=男女混交密伎の究極に悟りを得る」に傾倒し、「密教占術=宿曜経」にかなりイカレていたなら別の意味で納得もいくだろう。「スキモノ」とは「鍬」、「鋤」、「好モノ」だ。だが、ワタシは「オンナタラシ」等と精力ギンギンの意味ではなく「音名・多羅史」とヨミたいのだ。

 時代背景

 1316年7月「北条高時」が執権
 1318年2月「後醍醐天皇」が即位
 1320年   「清原宗尚」が「古文孝経家説」を「金沢貞将」に授ける
 1321年   「後醍醐天皇」の「親政」
          「花園上皇」は「古事記」、「古語拾遺」等を読む
          「禁中で根合」しょうとして「藤原定房」の諌めで中止
          「僧・梵俊」が「後醍醐天皇」に「朱子学」を講じた
 1322年   「虎関師錬」が「元享釈書」を撰進する
 1330年   「度会常昌」が「神懐論」を著す

 「元徳三年」、1331年に「後醍醐天皇」は捕らえられ、1332年、「光厳天皇」が即位、「後醍醐天皇」は「隠岐」に流された。この時から「南北朝」の系譜が始まったのだ。そして「1333年」に鎌倉幕府は壊滅し、「後醍醐天皇」は1334年「建武元年」に権力を握ったが、1338年には「北朝」の「光明天皇」によって「足利尊氏」が征夷大将軍になって、その朝廷権力は「二分」されたのだ。翌年の1339年には「北畠親房」が「神皇正統記」を著し、1340年には「卜部和記」が「神風和記」を著している。この時期、「南朝」で頑張っていたのは「楠政成くすのき・まさしげ」である。

 1331年 「後醍醐天皇」は捕らえらる
 1332年 「光厳天皇」が即位、「後醍醐天皇」は隠岐に流される
        「南北朝」の系譜の始まり
 1333年 鎌倉幕府は壊滅
 1334年 「後醍醐天皇」、「建武元年」に権力を握る
 1338年 「北朝」の「光明天皇」によって「足利尊氏」が征夷大将軍
 1339年 「北畠親房」が「神皇正統記」を著す
 1340年 「卜部和記」が「神風和記」を著す

 「応安五年」、西暦「1310~1372(応安五年)」年の時代的な背景を見て取れば、「賢瑜」の「書写」した「現存・古事記」のその「裏にある意図」を疑ってみる「価値」があると思うのは当然だろう・・・もちろん、この時代の「南・北朝」、特に「南朝」の「正統性」の基盤的な「思想」を「現存・古事記」の「漢字」とその行間に託したのに違いない、と云う推理なのだ。サラには「徳川光圀水戸黄門)」さんと「明治維新政府の意図」である。
 先ほど、「ナニ」があると言ったのは「ナニ=何=南=難=楠(くすのき)=軟=名似」と同音異字が重なると言うことなのだ。しかも南朝、「難聴」、軟調である。
ー-↓↑---
  古事記序文
  日月、目を洗うに彰はれ。海水に浮沈し。
  神祇身を滌ぐに呈はる。故、太素の沓冥なる。
  本教に因りて土を孕み島を産みたまいし時を
  識れり。
  元始の綿貌たる。
  先聖に頼りて神を産み、人を立てたまいしの世
  を察らかにする。
  是に知る、鏡を懸け、珠を吐き、而して、百王、
  相続す。
  喫剣、切蛇。以って萬神、蕃息する與。

  安の河に議り、而して平天下を平げ。小濱に論いて、
  而して國土を清めき。
  是を以て番仁岐命。
  初めて高千の嶺に降りたまいき。
  神倭の天皇秋津島を経歴したまう。
  化熊、爪を出て。
  天釼を高倉に於て獲。生尾、徑を遮り。
  大烏、吉野に於て導く。舞を列ねて、賊を攘い。
  歌を聞き仇を伏す。
  既に夢に覚て而して神祇を敬う。
  所以に賢后と称す。
  煙を望んで而して黎元を撫ぜ。
  於て今に聖帝に伝う。境を定め邦を開き。
  近淡海に制したまう。姓を正氏を撰ぶ。
  遠飛鳥に勒したまう。歩驟、各に異。
  文質、不同といえども。古を稽えて、
  以て、縄風猷、於て既に穎。
  今を照らし以て、典教を補い、
  於て絶えんことを欲する。
  飛鳥清原の大宮に曁び。
  御大八洲天皇の御世。
  潜龍、元を體し。存雷、期に応ず。
  夢に歌を聞き、而して想う、纂業。
  夜水に投じ、而て基を承むことを知る。
  然に天の時、未に至らず。
  蝉の蛻、於て南山。人事、共に洽くして。
  虎が歩み於て東國。皇輿、怱に駕し。
  山川を凌ぎ渡る。六師、雷震。
  三軍、電逝。杖矛、威を挙。
  猛士、煙起。絳旗、耀兵。
  凶徒、瓦解。未だ浹辰に移さず。
  氣滲自から清まり。
  乃ち牛を放ち、馬を息う。
  豈悌して華夏に於て帰す。
  旌を巻き、戈を聟め。
  舞詠して都邑に於て停る。
  歳次、大梁。
  月踵、夾鐘。清原大宮。
  昇て即、天の位。

  道、軒后に軼ぎ。徳、周王に袴。
  乾符を握りて、而して六合を統べ。
  天総を得て、而して八荒を包む。
  二氣乗じて之を正す。
  五行の斎、之を序のう。
  神理を設け、以って俗を奬める。
  英風を敷、以って國を弘める。
  重加、智海、浩瀚。潭く上古を探る。
  心鏡、葦煌。明かに先代を観たまい、
  是に於て天皇、之を詔す。
  朕聞く、諸家之所有する帝紀、及本辞。
  既に正寛が違う。
  多く虚偽を加える。今この時に當て。
  不改すれば、其を失す。未だ幾年も経ずして。
  其の旨、滅と欲せん。斯れ乃、邦家之経緯。
  王化之鴻基焉。故に、惟に帝紀を撰録せん。
  舊辞を討敷して。偽を削り寛を定めん。
  欲に後葉に流えん、と。時に舎人あり。
  姓は稗田、名は阿禮。年、是、二十八。
  人と為し聡明。度目、誦口。
  拂耳、勒心。即、勅語す阿禮に。
  令して誦習させむ帝皇の日継、
  及び先代の舊辞。
  然に運移、世異。
  未だ、其事、おこなわれず矣。
  伏して、惟うに皇帝陛下。
  得一、光宅。通三、亭育。
  紫宸に御して、
  而して徳馬蹄の極るところを被る。
  玄扈に坐して、
  而して、船頭の逮うところを化照す。
  日浮びて重暉。
  雲散、非煙。柯を連ね、穂の瑞をあわす。
  史、不絶書。列烽、重譯の貢。
  府無、空月。
  名高、文命と謂うべき。
  徳冠、天乙矣。
  於焉、ここに惜む。
  舊辞の誤忤。先紀の謬錯を正す。
        以和銅四年九月十八日。
        詔臣安萬侶。
        撰録稗田阿禮所之誦勅語舊辞。
        以献上者。
ー-↓↑---
  謹みて詔旨に随ひ、子細に採り拾ふ。
  然るに上古の時、言意竝に卜にして、
  文を敷き句を構ふること、字に於て即ち難し。
  已に訓に因りて述べるは、詞心に逮ばず。
  全く音を以て連ねたるは、事の趣更に長し。
  是れを以て今或は一句の中、音訓を交へ用ゐ、
  或は一事の内、全く訓を以て録す。
  即ち辞の理見えやすきは、
  注を以て意を明らかにする。
  況んや解り易きは更に注せず。
  亦姓の日下に、玖沙訶と謂ひ、
  名の帯の字に多羅斯と謂ふ。
  此くの如きの類は本に随つて改めず。
  大抵記す所は、天地の開闢より始めて、
  以て小治田の御世に訖ふ。
  故天御中主神より以下、
  日子波限建鵜草葺不合尊より以前を上巻と為し、
  神倭伊波禮毘古の天皇より以下、
  品陀の御世より以前を中卷と為し、
  大雀の皇帝より以下、
  小治田の大宮より以前を下巻と為す。
  抃せて三卷を録し、謹みて以て献上す。
  臣安萬侶、誠惶誠恐、頓首頓首。

    和銅五年正月二十八日
    正五位上勲五等
    太朝臣安萬侶、謹上。

ー↓↑ー--
 ・・・???・・・
 (表紙・画像・音楽)」の
  移転先・・・
https://haa98940.wixsite.com/mysite/blog/archive/2016/12
 ↓↑
 ボクの「古事記字源」の発端・・・
https://haa98940.wixsite.com/mysite/blog/archive/2022/9
 ↓↑
 干支暦
http://meisiki.bake-neko.net/keisanBXG4.html
 ↓↑
 追加添文
 「戦争と平和」・・・「モウケの生き方」
https://haa98940.wixsite.com/mysite/single-post/2006%E5%B9%B4%EF%BC%91%EF%BC%91%E6%9C%88%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%8E%E9%A0%83%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%83%BB

カネがねのシングソング(sing-song)

 文字霊日記・3209日目
 11号颱風残骸一過・・・ボストーク直撃・・・
 カミがみの乱れたダンス(dance)
 と
 カネがねのシングソング(sing-song)
 ↓↑
 ・・・カミガミは唄いもせず、踊りの気配も見せず・・・
 ・・・宇宙と自然の沈黙と蠢きと騒めきに
 ・・・ヒトビトは恐れ慄き
 ・・・ヒトビトは呻き唄い、身を屈めて躍り出す・・・

 ↓↑
 西暦元年元日〜3月31日の
 干支カレンダー
 西暦   曜  日   月  年
 1/01/01 土  丁丑 戊子 庚申
 1/01/02 日  戊寅 戊子 庚申
 1/01/03 月  己卯 戊子 庚申
 1/01/04 火  庚辰 戊子 庚申
 1/01/05 水  辛巳 戊子 庚申
 1/01/06 木  壬午 戊子 庚申
 1/01/07 金  癸未 戊子 庚申
 1/01/08 土小寒甲申 己丑 庚申
 1/01/09 日  乙酉 己丑 庚申
 1/01/10 月  丙戌 己丑 庚申
 1/01/11 火  丁亥 己丑 庚申
 1/01/12 水  戊子 己丑 庚申
 1/01/13 木  己丑 己丑 庚申
 1/01/14 金  庚寅 己丑 庚申
 1/01/15 土  辛卯 己丑 庚申
 1/01/16 日  壬辰 己丑 庚申
 1/01/17 月  癸巳 己丑 庚申
 1/01/18 火  甲午 己丑 庚申
 1/01/19 水土用乙未 己丑 庚申
 1/01/20 木  丙申 己丑 庚申
 1/01/21 金  丁酉 己丑 庚申
 1/01/22 土大寒戊戌 己丑 庚申
 1/01/23 日  己亥 己丑 庚申
 1/01/24 月  庚子 己丑 庚申
 1/01/25 火  辛丑 己丑 庚申
 1/01/26 水  壬寅 己丑 庚申
 1/01/27 木  癸卯 己丑 庚申
 1/01/28 金  甲辰 己丑 庚申
 1/01/29 土  乙巳 己丑 庚申
 1/01/30 日  丙午 己丑 庚申
 1/01/31 月  丁未 己丑 庚申
 ↓↑
 1/02/01 火  戊申 己丑 庚申
 1/02/02 水  己酉 己丑 庚申
 1/02/03 木  庚戌 己丑 庚申
 1/02/04 金  辛亥 己丑 庚申
 1/02/05 土節分壬子 己丑 庚申
 ↓↑
 1/02/06 日立春癸丑 庚寅 辛酉
 1/02/07 月  甲寅 庚寅 辛酉
 1/02/08 火  乙卯 庚寅 辛酉
 1/02/09 水  丙辰 庚寅 辛酉
 1/02/10 木  丁巳 庚寅 辛酉
 1/02/11 金  戊午 庚寅 辛酉
 1/02/12 土  己未 庚寅 辛酉
 1/02/13 日  庚申 庚寅 辛酉
 1/02/14 月  辛酉 庚寅 辛酉
 1/02/15 火  壬戌 庚寅 辛酉
 1/02/16 水  癸亥 庚寅 辛酉
 1/02/17 木  甲子 庚寅 辛酉
 1/02/18 金  乙丑 庚寅 辛酉
 1/02/19 土  丙寅 庚寅 辛酉
 1/02/20 日  丁卯 庚寅 辛酉
 1/02/21 月雨水戊辰 庚寅 辛酉
 1/02/22 火  己巳 庚寅 辛酉
 1/02/23 水  庚午 庚寅 辛酉
 1/02/24 木  辛未 庚寅 辛酉
 1/02/25 金  壬申 庚寅 辛酉
 1/02/26 土  癸酉 庚寅 辛酉
 1/02/27 日  甲戌 庚寅 辛酉
 1/02/28 月  乙亥 庚寅 辛酉
 ↓↑
 1/03/01 火  丙子 庚寅 辛酉
 1/03/02 水  丁丑 庚寅 辛酉
 1/03/03 木  戊寅 庚寅 辛酉
 1/03/04 金  己卯 庚寅 辛酉
 1/03/05 土  庚辰 庚寅 辛酉
 1/03/06 日  辛巳 庚寅 辛酉
 1/03/07 月  壬午 庚寅 辛酉
 1/03/08 火  癸未 庚寅 辛酉
 1/03/09 水啓蟄甲申 辛卯 辛酉
 1/03/10 木  乙酉 辛卯 辛酉
 1/03/11 金  丙戌 辛卯 辛酉
 1/03/12 土  丁亥 辛卯 辛酉
 1/03/13 日  戊子 辛卯 辛酉
 1/03/14 月  己丑 辛卯 辛酉
 1/03/15 火  庚寅 辛卯 辛酉
 1/03/16 水  辛卯 辛卯 辛酉
 1/03/17 木  壬辰 辛卯 辛酉
 1/03/18 金  癸巳 辛卯 辛酉
 1/03/19 土  甲午 辛卯 辛酉
 1/03/20 日  乙未 辛卯 辛酉
 1/03/21 月彼岸丙申 辛卯 辛酉
 1/03/22 火  丁酉 辛卯 辛酉
 1/03/23 水  戊戌 辛卯 辛酉
 1/03/24 木春分己亥 辛卯 辛酉
 1/03/25 金  庚子 辛卯 辛酉
 1/03/26 土  辛丑 辛卯 辛酉
 1/03/27 日  壬寅 辛卯 辛酉
 1/03/28 月  癸卯 辛卯 辛酉
 1/03/29 火  甲辰 辛卯 辛酉
 1/03/30 水  乙巳 辛卯 辛酉
 1/03/31 木  丙午 辛卯 辛酉
 ↓↑
 陰陽(+−)五行説・・・プラズマ
 戦国時代
 「騶衍」・・・
 の
 「五行思想
 に
 「陰陽思想」
 が結びつき
 これが
 「干支五行説
 「天地間の森羅万象を認識する根本原理」
 となった・・・
 ↓↑
 カンシレキ 2022年9月7日
  壬┏寅(己丙甲)劫財・傷官沐浴
    冲己・・・勢い恃む刑
 ┏戊┣申(己壬庚)正官・印綬 死
 干合丙丁
   害
 ┣癸┗亥(戊甲壬)  ・劫財帝旺
 干合丙丁
 ┗戊 午(丙 丁)正官・偏財 絶
    子丑空亡
  ↓↑
 「科学的(対象存在の近似認識)」
 に
 「変通概念(記憶認識のコトバ)」
 を規定するとするならば
 この「機能性」を実証するためには
 膨大な「対象観察」と、その「データー」が必要である
 人間の精神活動に於ける
 「変通分類の機能性」を実証するためには
 膨大な数の人間行動の「観察」と
 その「行動・活動」に於ける
 「精神分析」、「心理分析」が必要である
 古代中国人には膨大な個々人の
 「観察データー」があったのだろうか?
 「観察結果」の「変通」だったのであろうか?
 それとも「クリエーター」があらかじめ組み込んだモノなのか?
  ↓↑
 ある人間が、この「四柱推命学」を体系理論化するとしたら
 膨大な数の
 「戸籍記録(個々人の生年月日時の干支サイクルの記録)」
 に基づいた
 「立運以後の時間的経過の全個々人の履歴調査」
 が必要であったハズである
 「社会保険庁」の役人の杜撰な仕事ではコマルのだが・・・
  ↓↑
 そして「格式変通」を基軸にした個々人の「性格傾向性」は
 「決定論的」であるが
 「事実経歴、履歴」と重なるのであろうか・・・?
 人間の認識に於いて
 「未来は不確定で仮説的」
 だが
 「過去は確定された事実」・・・「個々人の認識記憶」
 である
  ↓↑
 「昨日の未来予測」は「今日の過去的反省」である。
 「昨日の未来予測」は「今日の現実的事実」である。
  ↓↑
 ボクにとって
 「サイクル変通の出来事的な事実」は
 「主観的枠内」での
 「否定」しがたい「事実」のように思えるが・・・
 「客観性」の保証は無い・・・
 あくまでも「ボクの経験的主観の範疇判断」ではあるが・・・
 「統計学」的傾向ではなく
 「確率論」的傾向ではない
 「決定論」としての「変通事象」が現実化する・・・?
  ↓↑
 「宇宙」も「自然」も「存在法則」としては
 「決定論」である・・・「宇宙の意志」である・・・
 「偶然」も「突然」も「人間認識の範疇概念」である
 「存在法則」には「偶然」も「突然」も無い
 あるのは「決定法則(性)」だけである
 「決定論」であるからこそ
 「認識主体」の人間にとっては
 「自然科学理論」なのだが・・・
 妄想、空想、奇想、幻想、思想する
 「人間の脳機能」
 も
 「宇宙・自然界」の存在活動の申し子であるが故に
 「決定論の枠内」にあるのは当然である・・・?
 「妄想」も「決定論の枠内」と云うコトらしい・・・が
 「プゥの寿命」はシブトイ・・・
 クレムリンでムクロが転がる「酷葬」を期待する
 クタバレッ・・・「腐汚塵」・・・
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 27 庚 寅(己・丙・甲)2010
 15 戊 寅(己・丙・甲)0002
 27 庚 寅(己・丙・甲)0009
 15 戊 寅(己・丙・甲)0004
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 六十干支サイクル 
 ↓↑   ↓↑
 01甲子 31甲午
 02乙丑 32乙未
 03丙寅 33丙申
 04丁卯 34丁酉
 05戊辰 35戊戌
 06己巳 36己亥
 07庚午 37庚子
 08辛未 38辛丑
 09壬申 39壬寅
 10癸酉 40癸卯
 ↓↑   ↓↑
 11甲戌 41甲辰
 12乙亥 42乙巳
 13丙子 43丙午
 14丁丑 44丁未
 15戊寅 45戊申
 16己卯 46己酉
 17庚辰 47庚戌
 18辛巳 48辛亥
 19壬午 49壬子
 20癸未 50癸丑
 ↓↑   ↓↑
 21甲申 51甲寅
 22乙酉 52乙卯
 23丙戌 53丙辰
 24丁亥 54丁巳
 25戊子 55戊午
 26己丑 56己未
 27庚寅 57庚申
 28辛卯 58辛酉
 29壬辰 59壬戌
 30癸巳 60癸亥
 ↓↑
 六十干支サイクル     
 ↓↑
 01甲子 11甲戌 21甲申 31甲午 41甲辰 51甲寅
 02乙丑 12乙亥 22乙酉 32乙未 42乙巳 52乙卯
 ↓↑
 03丙寅 13丙子 23丙戌 33丙申 43丙午 53丙辰
 04丁卯 14丁丑 24丁亥 34丁酉 44丁未 54丁巳
 ↓↑
 05戊辰 15戊寅 25戊子 35戊戌 45戊申 55戊午
 06己巳 16己卯 26己丑 36己亥 46己酉 56己未
 ↓↑
 07庚午 17庚辰 27庚寅 37庚子 47庚戌 57庚申
 08辛未 18辛巳 28辛卯 38辛丑 48辛亥 58辛酉(紀元1年)
 ↓↑
 09壬申 19壬午 29壬辰 39壬寅 49壬子 59壬戌
 10癸酉 20癸未 30癸巳 40癸卯 50癸丑 60癸亥
 ↓↑
                  月干支のサイクル
 十二支 節気  中気 旧暦        甲己年 乙庚年 丙辛年 丁壬年 戊癸年
 ↓↑       ↓↑  ↓↑      ↓↑     ↓↑   ↓↑  ↓↑   ↓↑  ↓↑
 子月大雪-小寒 冬至 01月〜11月 丙子月 戊子月 庚子月 壬子月 甲子月
 丑月小寒-立春 大寒 02月〜12月 丁丑月 己丑月 辛丑月 癸丑月 乙丑月
 寅月立春-啓蟄 雨水 03月〜01月 丙寅月 戊寅月 庚寅月 壬寅月 甲寅月
 卯月啓蟄-清明 春分 04月〜02月 丁卯月 己卯月 辛卯月 癸卯月 乙卯月
 辰月清明-立夏 穀雨 05月〜03月 戊辰月 庚辰月 壬辰月 甲辰月 丙辰月
 巳月立夏-芒種 小満 06月〜04月 己巳月 辛巳月 癸巳月 乙巳月 丁巳月
 午月芒種-小暑 夏至 07月〜05月 庚午月 壬午月 甲午月 丙午月 戊午月
 未月小暑-立秋 大暑 08月〜06月 辛未月 癸未月 乙未月 丁未月 己未月
 申月立秋-白露 処暑 09月〜07月 壬申月 甲申月 丙申月 戊申月 庚申月
 酉月白露-寒露 秋分 10月〜08月 癸酉月 乙酉月 丁酉月 己酉月 辛酉月
 戌月寒露-立冬 霜降 11月〜09月 甲戌月 丙戌月 戊戌月 庚戌月 壬戌月
 亥月立冬-大雪 小雪 12月〜10月 乙亥月 丁亥月 己亥月 辛亥月 癸亥月
 ↓↑   ↓↑
    時間帯    日干
    ↓↑         甲己 乙庚 丙辛 丁壬 戊癸
 ↓↑  ↓↑      ↓↑   ↓↑   ↓↑   ↓↑  ↓↑
 子時 23〜00〜01 丙子 戊子 庚子 壬子 甲子
 丑時 01〜02〜03 丁丑 己丑 辛丑 癸丑 乙丑
 寅時 03〜04〜05 丙寅 戊寅 庚寅 壬寅 甲寅
 卯時 05〜06〜07 丁卯 己卯 辛卯 癸卯 乙卯
 辰時 07〜08〜09 戊辰 庚辰 壬辰 甲辰 丙辰
 巳時 09〜10〜11 己巳 辛巳 癸巳 乙巳 丁巳
 午時 11〜12〜13 庚午 壬午 甲午 丙午 戊午
 未時 13〜14〜15 辛未 癸未 乙未 丁未 己未
 申時 15〜16〜17 壬申 甲申 丙申 戊申 庚申
 酉時 17〜18〜19 癸酉 乙酉 丁酉 己酉 辛酉
 戌時 19〜20〜21 甲戌 丙戌 戊戌 庚戌 壬戌
 亥時 21〜22〜23 乙亥 丁亥 己亥 辛亥 癸亥
 ↓↑
 年の干支
 西暦年数の値を
 10で割った余り
 一の位を求め
 十干を割り出す
 ↓↑
 余り  0    1  2  3  4  5  6   7  8  9
 十干 庚 辛 壬 癸 甲 乙 丙 丁 戊 己
 ↓↑
 西暦年数の値を
 12で割った余り
 ↓↑
 余り  0     1      2  3   4  5     6     7     8     9  10 11
 十二支 申 酉 戌 亥 子 丑 寅 卯 辰 巳 午 未
 ↓↑
 干支紀年法
 「実星の木星」=天体円周紀年法
 「虚星の木星」=太歳
 後漢
 建武
 十六年(西暦50年)
 「劉歆」
 の
 「三統暦」
 「超辰法」
 に従うならば
 庚戌年を辛亥年とすべき年であったが
 「光武帝」に随従していた学者たちは
 「超辰」を行わず
 「庚戌」のまま紀年を続け
 元和二年(西暦85年)の改暦で
 「三統暦の超辰法」自体が廃止
 これ以後、木星を観測し
 その位置で年を記録することはなくなり
 木星の運行とは関係なく
 「60年周期の干支」を
 「1年ごと」に機械的に進めていく
 「干支紀年法」が用いられるようになり現在まで続いている
  ↓↑
 「広開土王碑」
 と
 「12世紀成立の高麗朝による正史『三国史記』」
 の干支に1年の違いがある
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 始皇帝
 紀元前259年2月18
 〜   壬寅壬寅壬寅
 紀元前210年09月10日
    辛卯丁酉戊辰
 秦   始皇37年
      大運X年9月(44歳)丁酉正財?
         Y年9月(54歳)丙申偏財?
 壬寅(己丙甲)比肩・食神 病⇔辛卯印綬
 壬寅(己丙甲)比肩・食神 病⇔丁酉正財
 壬寅(己丙甲)  ・食神 病⇔戊辰偏官
 壬寅(己丙甲)比肩・偏財 病⇔甲寅食神
  辰巳空亡
ーー−−−
 紀元前     259年
  ↓↑
 干支      壬寅
 倭  孝霊天皇 32年
 ↓↑
 周  赧 王  56年
 秦  昭襄王  48年
 楚  考烈王  04年
 斉  斉王建  06年
 燕  武成王  13年
 趙  孝成王  07年
 魏  安釐王  18年
 韓  桓恵王  14年
ーー−−−
  ↓↑
 「白 起」
 (?〜紀元前257年11月)
 戦国時代末期の秦の武将
 「公孫起」とも表記
 秦国郿の人
 昭襄王に仕え、各地を転戦
 趙・魏・楚
 などの軍に数々の勝利を収め
 秦の領土拡大に貢献
 王翦・廉頗・李牧
 と並ぶ戦国四大名将の一人
  ↓↑
 『史記』白起・王翦列伝
  ↓↑
 昭襄王13年(紀元前294年)
 左庶長に任ぜられ
 「韓」の新城を攻めた・・・韓国の新城?
              韓国の新羅
  ↓↑
 昭襄王14年(紀元前293年)
 左更(官職)
 韓・魏を攻め
 「伊闕の戦い」で24万を斬首
 魏将の
 「公孫喜」を捕え、5城を落とした
  ↓↑
 昭襄王15年(紀元前292年)
 大良造に任じられ
 魏を攻め、大小61城を落とした
  ↓↑
 昭襄王29年(紀元前278年)
 楚を攻め、楚の首都の郢を落とした(鄢・郢の戦い)
 楚は陳に遷都
 「武安君」の称を賜った
  ↓↑
 昭襄王34年(紀元前273年)
 魏の華陽を攻め
 韓・魏・趙の将軍を捕え、13万を斬首(華陽の戦い)
 趙将の
 「賈偃」と戦い、士卒2万を黄河に沈めた
  ↓↑
 昭襄王43年(紀元前264年)
 韓の陘城を攻め
 5城を落とし
 5万を斬首した(陘城の戦い)
  ↓↑
 昭襄王47年(紀元前260年)
 「長平の戦い」は
 巧みな用兵で趙括率いる
 趙軍を兵糧攻めに追い込み大勝
 20万余りに及ぶ捕虜の兵糧が賄えず
 反乱の恐れがあるとして
 少年兵240人を除く
 全てを生き埋めにした
 本国にあった宰相の
 「范雎」が
 「長平の戦い」での
 「白起」の活躍を
 自らの地位を脅かすもとして警戒
 趙の首都の
 邯鄲に攻め込もうとする
 「白起」を押しとどめ
 わずかな条件で趙と和議を結んだ
  ↓↑
 昭襄王48年(紀元前259年)
 秦は「王陵」を起用し
 邯鄲を包囲し
 昭襄王49年(紀元前258年)
 増派もして、さらに指揮官を
 「王齕」に交代させたが
 趙の援軍として現れた
 魏の「信陵君」
 楚の「春申君」
 に大敗北
 この危機を打開するために
 「白起」に出兵するよう命令が下るが
 「范雎」の行動に不信感を抱き
 病と称して出仕を拒んだ
 『戦国策』によれば
 慌てた「范雎」と「昭襄王」が自ら指揮を乞うも
 「白起」
 は趙が国力を回復して討ち難いとして応えなかった
 「王齕」の敗戦を
 「だから言ったことではない」・・・「I told you.」
 と批判したが
 昭襄王50年(紀元前257年)
 昭襄王によって賜死
 自害の直前
 「白起」は自問
 「我に何の罪あるか
  なぜ自害せねばならぬのか」
 しばらく考えて
 「我は固より死ぬべきだ
  長平の戦いにおいて
  降伏兵数十万余りを
  一夜で生き埋めにした
  それでも罪にならないのか
  天に対し罪を犯したのだ」
 と嘆息
 秦の民衆は彼の死を哀れみ
 各地に廟を建てて祀った・・・???

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  ↓↑
 「プラトン古事記をカタル(古事記字源)
  +
 (表紙・画像・音楽)」の
  移転先・・・
https://haa98940.wixsite.com/mysite/blog/archive/2016/12
 ↓↑
 ボクの「古事記字源」の発端・・・
https://haa98940.wixsite.com/mysite/blog/archive/2022/8
 ↓↑
 干支歴
http://meisiki.bake-neko.net/keisanBXG4.html
 ↓↑
 追加添文
 「戦争と平和」・・・「モウケの生き方」
https://haa98940.wixsite.com/mysite/single-post/2006%E5%B9%B4%EF%BC%91%EF%BC%91%E6%9C%88%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%8E%E9%A0%83%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%83%BB