ないえごろうブログ

同音異義の探索

ダレかが読んでくれたらしい・・・昔の記事

 文字霊日記・3536日目

 十年マエ & 一年マエの
 ブログ日記の己の記録
ーーーーー
 2024年9月13日7時・金曜日

 2024年 干支41 甲辰(乙・癸・戊)年
 9  月 干支10 癸酉(庚・ ・辛)月
 13 日 干支17 庚辰(乙・癸・戊)日

 十年マエの記録・ブログ日記
 2016-02-25
 古事記字源
 をダレかが読んでくれたらしい・・・
 2016~17~18~19~20~21~22~23~2024
 9年前+10年前=19年前
 ・・・随分と経ったと思うが・・・
 昨日の様であるカナ・・・
  ↓↑

 「倭、自ら太伯(呉の始祖)の後裔」・・・
       伯=イ+白
      太安万侶(おほのやすまろ)
      多安万侶
      父
      多 品治(おお の ほんじ)
               翻字・本字    
      ↓↑
      小野妹子=蘇因高
           蘇我⇔因縁⇔高句麗
          ⇔和珥の臣等の始祖
      父を敏達天皇の息子の
      春日皇子(かすが)
       ・・・葉留比廣(応・横)字
      近江の下級豪
      母方の祖父は
      高句麗の渡来人・・・
      子供
      小野 広人・・廣人⇔廣神天皇
      小野 毛人(えみし)・蝦夷
               蘇我蝦夷

      小野 毛野(けぬ)・・蝦夷の野
                 野=里+予
            遣新羅使(筑紫大弐)
      子
      小野 永見(ながみ・エイケン
            陸奥介・征夷副将軍
           「石上 宅嗣」と親交
           (いそのかみ の やかつぐ)
      末裔
      七世
      小野 篁(たかむら)

      小野 葛絵

      小野 好古
      小野 道風
      小野 小町

      推古天皇十五年(607年)
      通訳の
     「鞍作福利」
      隋に派遣され隨地で
     「蘇因高」・・・・・・蘇我氏?     
      と呼称
      推古天皇十六年(608年)四月
      隋の使臣
     「裴世清」を伴って帰国
      隋の皇帝
      煬帝からの返書を百済で紛失
      九月
      裴世清の帰国伴い
      大使として隋に派遣
      学生の
      福因、恵明、玄理、大国
      学問僧の
      日文、請安、慧隠、広斉
      ら八名とともに国書を携えて
      隨地に赴き
      推古十七年(609年)九月帰国
 ↓↑
 太白=太白(タイハク)=金星
 宵の明星
 暁の明星
 明けの明星=啓明(ケイメイ)
 宵 の明星=長庚(チョウコウ) 
 「太白」
 「李白」の字(あざな)
 701年(長安元年)
 ~
 762年10月22日
 (宝応元年九月三十日)
 出自
 東魯
 or
 隴西郡
 成紀県(甘粛省天水市秦安県)
 or
 西域の非漢人の出自
 唐代の詩人
 742年(天宝元年)
 元丹丘の尽力により
 玄宗の妹で女道士
 玉真公主(持盈法師)の推薦で
 玄宗と謁見
 翰林院に入り玄宗に仕える
 楊貴妃を牡丹に比喩し
 「清平調詞」三首作詩
 「阿倍仲麻呂(晁衡・朝衡)」
 と交友
 744年
 宮廷を去る
 753年
 前年に
 「阿倍仲麻呂
 帰国途中
 彼の遭難死去の誤報を聞き
 「晁卿衡を哭す」を詠んで
 彼の死を悼んだ
 「采石磯(安徽省馬鞍山市雨山区)」
 船に乗って酒に酔い
 水面に映る月を捉えようとして
 船から転落、溺死した伝説
 実際には
 当塗県にて病死
 「采石磯」が水神信仰の土地で
 李白は水神と結びつけられ
 台北市龍山寺
 「水仙尊王・水神」
 の従神の1人として祀られている
 太白=太い絹糸
   =白砂糖
   =足の太陰脾経の
    原穴(つぼ=腧・経穴
    急病が改善するツボ
    太白を押すと痛い時の原因
    夏バテ・貧血・痛風
    消化器系の不調に効果的
   =日本固有種の
    オオシマザクラを基に
    日本原産の栽培品種の
    桜(さくら)
   =櫻=木+嬰=桜花=オウカ
            =欧化・謳歌・黄化
       (嬰=貝+貝+女)
        嬰児=エイジ=英字・英治
ーーー
 ・・・???
 「日下茂平(茂兵衛)」
 くさか・もへい(もへえ)
 茂平
 江戸時代中期頃に活躍した
 「義賊」、「土佐のねずみ小僧」
 忍者
 坂本龍馬の祖父
 「才谷屋六代
  の
  八郎兵衛直益」の書いた
 「巡水日記」にも記録
 庄屋の屋敷へ奉公
 庄屋の娘と相愛の仲となるが
 庄屋の激しい怒りにふれて
 屋敷を追い出され
 猿田洞で天狗(仙人)に会い
 佐川市之丞
 とともに修業
 茂平らは
 近郷、高知城下の
 豪商・豪農から
 金品や米などをかすめとり
 貧しい人々にわけあたえた・・・
 市之丞とともに
 高知城に盗み入ったとき
 酒宴用の酒を呑み
 熟睡して捕まった
 処刑寸前に
 茂平は「鼠」
 市之丞は「鳶」
 なって逃亡
 茂平
 文化文政の頃
 日高村
 沖名
 石田
 に生まれた
ーー↓↑ーー
 ・・・???・・・
 日下 數馬(数馬)・・・
 日下 房元(くさか・ふさもと)
 ?~1809(文化六)以降
 通称 数馬(かずま)
    庄次郎(しょうじろう)
 出身地:江戸
 小栗忠清の実子
   忠高の義弟
 小栗 忠順(ただまさ)
     の義理の叔父
 ↓↑
 日下 義雄(くさか よしお)
 嘉永四年12月25日
 (1852年1月16日)
  ~
 大正12年(1923年)3月18日
      大運1915年5月(63歳)甲午印綬
 辛 亥(戊甲壬)偏財・印綬 胎⇔癸亥偏官
 辛┏丑(癸辛己)偏財・偏財 墓⇔乙卯食神
 丁┏丑(癸辛己)  ・偏財 墓⇔庚寅正財
 丁┗未(丁乙己)比肩・偏印冠帯⇔癸未偏官
    申酉空亡
 ↓↑
 政治家・実業家
 正四位・勲二等
 会津藩の侍医
 石田 龍玄(常雄)の長男・・・
 幼名 五郎
 初名 石田伍助
 弟  石田和助
    白虎隊二番士中組の1人
    飯盛山で自刃
 妻  水野忠精の娘
 藩校・日新館で学び
 鳥羽・伏見の戦いに従軍
 会津戦争
 大鳥圭介らと行動
 落城前に会津を脱出
 箱館戦争に加わり
 捕虜となり
 増上寺で謹慎の時に
 石田義雄と名乗る
 赦免され
 会津出身を隠すため
 「日下義雄」
 と改名し
 長州藩
 「日下」家の養子になった
 明治4年1871年
 「井上馨
 の知遇を得て
 彼の推挙で
 岩倉欧米使節団に同行し
 アメリカに留学
 帰国後
 ヨーロッパを視察
 ロンドンで経済学を研究
 日本に帰国後
 内務省などに勤務
 太政官権大書記官などを歴任
 一等駅逓官
 1886年明治19年)2月25日
 長崎県令(7月19日より知事)
 同郷の官吏で
 神保修理実弟
 北原雅長を抜擢し
 選挙で
 初代長崎市長として当選
 構想していた長崎市の水道事業を完成
 赴任した年に
 清国
 水兵暴動事件
 で苦慮
 中島川上流中川郷の地に
 吉野桜数千本を植えて夜桜の名所とした
 保健衛生上の観点から
 長崎市およびその周辺の
 土葬を禁止
 1889年(明治22年)12月26日
 辞職
 1892年(明治25年)8月20日
 福島県知事
 1895年(明治28年)7月16日
 海外経験がかわれ
 弁理公使(外国大使)
 1897年(明治30年
 渋沢栄一
 などの実業家の協力や地元の資本家らと
 岩越鉄道株式会社を設立
 多数の
 一口出資者も集め
 民間資本独力で
 1899年(明治32年)7月15日
 郡山と会津若松間を
 1904年(明治37年
 喜多方まで開通
 第一銀行常務取締役
 民間の役員を歴任
 1902年(明治35年)8月
 第7回衆議院議員総選挙
 福島県郡部区から立候補し
 衆議院議員に初当選
 その後落選するも
 1912年(明治45年)5月
 第11回衆議院議員総選挙
 福島県若松市区から立候補
 再度当選
 衆議院議員
 通算で2期務めた
 会津会会員
 稚松会賛助員
 墓所谷中霊園
 日下の墓域には
 戊辰戦争後に
 民政局員を斬殺し
(束松事件)
 獄死した
 井深元治の墓があったが
 立体埋蔵施設に改葬され
 たため現存しない
 ↓↑
 日下 敏夫(くさか としお)
 1904年(明治37年)6月28日
 ~
 1999年(平成11年)8月

       大運1997年7月(93歳)庚辰印綬
                 害
 甲辰(乙癸戊)傷官・正官 養⇔己卯偏官
 庚午(丙 丁)印綬・偏財 絶⇔壬申劫財
 癸巳(戊庚丙)  ・正財 胎⇔己亥偏官冲
 己未(丁乙己)偏官・偏官 墓⇔辛未偏印
  午未空亡
 ↓↑
 徳島県
 板野郡
 松茂村
 日本の海軍軍人
 中佐
 太平洋戦争の期間
 潜水艦艦長
 交通破壊戦に戦果
 ↓↑
 「那珂」、駆逐隊、「三日月」
 砲術長を経て
 「呂65」乗組みが
 潜水艦歴の始まり
 1931年(昭和6年
 大尉に進級
 水雷学校高等科学生を履修
 日下は「伊57」航海長を経て
 潜水艦水雷長養成課程
 潜水学校
 乙種に進んだ
 潜水艦水雷
 先任将校として
 潜水艦長を補佐し
 潜航作業を指揮する配置
 日下は
 「伊24・伊68・伊2」
 の三艦で水雷長を歴任
 内野信二などを補佐
 1939年(昭和14年)3月
 少佐に進級
 機雷敷設潜水艦
 「伊121」潜水艦長に補され
 潜水学校甲種学生
 課程は潜水艦長を養成
 半年の期間で
 戦術、航海、兵器など
 潜水艦長としての学識、力量を身につけ
 卒業後
 「呂58」潜水艦長を経て
 L四型二等潜水艦
 「呂63」の艦長として
 太平洋戦争の開戦
 ↓↑
「ホーネット」を
 発艦するドーリットル空襲部隊
「呂63潜水艦長」は
 旧式潜水艦で
 内南洋の警備にあたる
 第四艦隊(井上成美司令長官)
 第七潜水戦隊(大西新蔵司令官)
 に属す
 第三十三潜水隊の一艦
 僚艦の潜水艦長
 軍令部で潜水艦作戦を担当の
 藤森康男などがいた
 真珠湾攻撃の際
 僚艦とともに
 ハウランド島の監視
 島は
 米海軍が
 ハワイから
 南太平洋へ進出する際の
 中継基地で
 1942年(昭和17年)3月
 第三潜水戦隊(三輪茂義司令官)
 第十一潜水隊所属
 「伊174」潜水艦長
 に転じた
 ↓↑
 伊174潜水艦長
 4月15日
 南方に出撃
 18日
 東京方面が爆撃を受け
 日下は
 米空母の追撃を命じられた
 日本海軍潜水艦部隊は
 敵部隊を発見することはできず
 日下は
 「第一岩手丸」を発見
 「第一岩手丸」は
 日本に接近を図る
 敵部隊に備えて配置された
 監視艇隊の一隻
 米部隊に発見され
 機銃掃射によって損害を受けていた
 日下は艇員を救助し
 「木曾」に送り届けた
 第三潜水戦隊
 27日まで
 哨戒配備
 三輪司令官は病気のため
 河野千万城と交代
 第三潜水戦隊は
 ミッドウェー海戦に参戦
 海戦中は哨戒線の変更を繰り返したが
 単独任務に就いた
 「伊168」(田辺弥八艦長)が
 「ヨークタウン」を撃沈
 「伊174」
 は南方で敵増援遮断に従い
 11月
 呉に帰還
 ↓↑
 12月1日
 新海大型
 「伊180」艤装員長に補され
 竣工後に
 初代艦長に就任
 「伊180」は
 第三潜水戦隊
 (駒沢克己司令官)所属の
 第二十二潜水隊に編入
 1943年(昭和18年)4月
 豪州東沿岸で
 交通破壊戦
 「伊180」
 を率いて
 シドニーブリスベン間にあり
 2隻(計4376t)を撃沈
 2隻(7013t)を撃破
 コロンバンガラ島沖海戦
 撃沈された
 「神通」の乗員21名を救助
 潜水艦輸送
 8月4日
 ラエへの輸送に成功
 ↓↑
 9月
 「伊26」潜水艦長
 「伊26」は
 「サラトガ」雷撃
 「ジュノー」撃沈
 第八潜水戦隊(市岡寿司令官])
 に編入
 印度洋、アラビア海
 での交通破壊戦に従事
 印度洋方面での作戦で
 10月28日
 「ロバート・T・ホーク」(7176t)
 12月31日
 「トーンズ」(8054t)
 各撃破
 1944年(昭和19年)1月1日
 「アルバート・ギャランチン」(7176t)
 撃沈
 アラビア海作戦
 3月13日
 「コリアー」(8298t)
 3月21日
 「グレナ」(8117t)
 各撃沈
 3月29日
 「リチャード・ホベイ」(7176t)
 撃破
 このほか
 印度国内に工作員を潜入作戦に従事
 この工作員
 「光機関」
 が養成した印度人による
 印度独立、内部工作
 3回にわたって実施
 2回を日下の「伊26」が担当
 日下は印度の陸地近くに接近し
 工作員18名を潜入させた
 第八潜水戦隊の先任参謀
 井浦祥二郎は
 成功の理由に
 日下の有能さも挙げた
 5月
 呉に帰還後
 サイパン島への輸送を命じられた
 マリアナ沖海戦によって
 空母戦力を喪失した
 日本海軍は
 マリアナ諸島の戦力増強を図り
 「伊26」は
 サイパンに向かったが
 航海途上で目的地はグアム島に変更
 7月9日
 武器弾薬の輸送に成功
 この輸送作戦には
 4隻の潜水艦が従事したが
 成功したのは
 日下の「伊26」のみ
 「伊26」
 はさらに
 テニアン島からの搭乗員収容を命じられたが
 すでに連合国軍の重囲にあり
 収容することはできなかった
 日下は
 サイパン島陥落
 テニアン陥落寸前という時点での
 命令について
 海軍上層部を批判
 ↓↑
 伊400潜水艦長
 潜水艦の未経験者が多く
 日下は基礎訓練を繰り返し
 8月に退艦
 「伊400」潜水艦
 艤装員長に補された
 「伊400」は
 常備排水量5223tという
 軽巡洋艦並みの巨艦で
 燃料補給をせずに
 日本から世界中のあらゆる地点まで
 往復可能な航続力
 水上攻撃機晴嵐
 を3機搭載し航空偵察能力を有していた
 同型艦「伊401」(南部伸清艦長)
 のほか
 「伊13」、「伊14」
 と第一潜水隊を構成し
 有泉龍之助司令のもとで訓練が実施
 第一潜水隊は
 晴嵐10機をもって
 パナマ運河を特攻によって
 破壊することを目的としていた
 沖縄戦がはじまり
 攻撃目標は
 ウルシー環礁に在泊する
 機動部隊に変更
 作戦の実施予定日は
 1945年(昭和20年)8月17日
 作戦名は嵐作戦
 作戦部隊は
 潜水艦部隊、航空部隊を総称し
 神龍特別攻撃隊と名付けられた
 日下は
 7月23日
 大湊を出撃
 ウルシー環礁へ向かった
 作戦行動で
 「伊13」は出撃早々に消息を絶ち
 新婚の先任将校夫人は自殺
 「伊400」は8月14日に
 ウルシー環礁付近に到達
 「伊401」との会同を図っている最中に
 日本のポツダム宣言受諾を
 意味する電報を受け取った
 日下は水雷長の進言を容れ
 部下に戦争終結を知らせた
 「伊400」乗員は特攻を前に
 日本敗戦に直面
 その後の行動は冷静で
 日下は無線封鎖を実施し
 迂回航路をとって帰還
 米海軍部隊に拿捕され
 軍艦旗星条旗に代わった
 ↓↑
 戦後
 印度洋方面での
 潜水艦部隊による
 連合国船員殺害事件について
 BC級戦犯に問われ
 重労働5年の判決
 この事件では
 印度洋での交通破壊戦に従った
 海軍関係者
 小松輝久、三戸寿、市岡寿、井浦祥二郎
 潜水艦長などが逮捕、起訴
 連合艦隊司令長官
 豊田副武の戦犯訴追の一因ともなった
 日下はこの件に関し
 「一点やましいところはない、無実だ」
 と自らの潔白を述べた
 日下は獄中でキリスト教に帰依
 日下を中心に
 「伊400」乗員は戦後も長く交際を続けた
 1947年(昭和22年)
 公職追放仮指定となった
 ↓↑
 収監中の
 日下を訪ねるものはなく
 日下は斉藤の来訪を喜んだ
 (『一海軍士官の太平洋戦争』)
 ↓↑
 ・・・単なる「同音・同姓」のカンジるだけれど・・・
 「ヒのモト」
 カ・キ・ク・ケ・コ
 さ・し・す・せ・そ
 ↓↑
 か・き・く・け・こ
 シ・シ・シ・シ・シ
ーーーーー
 ↓↑
 文字ヶ関村・・・歎異抄・・・タリキホンガン?
 ↓↑
 高 史明 氏
 1932年 1月17日
 ~
 2023年 7月15日
     大運2015年7月(83歳)壬辰正官
                害 
 辛未(丁乙己)偏財・偏印冠帯⇔癸卯偏官
  冲己=食神
 辛丑(癸辛己)偏財・偏財 墓⇔己未食神
 丁丑(癸辛己)  ・偏財 墓⇔甲戌印綬
 丙午(丙 丁)劫財・食神建禄⇔庚午正財
  申酉空亡
 ↓↑
 悪人正機
 悟ったところで
 ダレも救われない・・・
 生きている「人間」にとって
 「活殺」が日常である・・・
 悟った後が問題だ・・・
 「ぬすむな」
 「うそつくな」
 「ころすな」
 「さべつするな」
 ↓↑
 「ぬすむ為」に
 「ウソ」をつき
 「サベツ」して
 「コロす=命をぬすむ=イノチを奪う」・・・
 ↓↑
 で、「どうするの」・・・
 「生きている人間」にとっては
 「ムリ」・・・
 「命題の人間」にとって
 「願望=絶望」・・・
 「人間=人々=从=したがう
    =従う・從う・随う・遵う・順う・倭」?
 「人間=人々=从」
  は支配階級に従って
  生存しているヒトビト=倭」?
  ↓↑
 「隨=したがう=順=倭」・・・?
    ・・・源 順(したごう)
       平安時代中期の貴族・歌人・学者
       嵯峨源氏、大納言・源 定の曾孫
       左馬允・源 挙(こぞる)の次男
       官位は従五位上
       能登
       ・・・能登ジシンを守る?
       梨壺(ナシ臺=つぼ)の五人の一人
            臺=ダイ=台=ム+口
       三十六歌仙の一人
    20歳代
    日本最初の
    分類体辞典
    『和名類聚抄』編纂
    『万葉集
    の訓点作業
    『後撰和歌集
    の撰集作業に参加
    ↓↑
    「あめつちのうた四十八首」
    という和歌48首を詠んで
    私家集
    『源    順
    (みなもとのしたがおう)集』
    に収録され
    和歌の内容を
    春・夏・秋・冬・思・恋
    の構成としてそれぞれ
    8首
    合わせて
    48首
    が収められている
    ↓↑
  あめ つち ほし そら やま かは みね たに
  天  地  星   空   山  川  峰  谷
    ↓↑
  くも きり むろ こけ ひと いぬ うへ すゑ
  雲   霧  室  苔  人  犬   上   末
    ↓↑
  ゆわ さる おふせよ えのえを なれゐて
  硫黄 猿    吝伏施与 得能重乎 為例得出(氐)?
    ↓↑
  あめ つち ほし そら 
  阿女 都千  保之 曽

   里女之訛説也 此誦為勝?
 「大為爾」=大為爾の歌
      (たゐにのうた)
  天禄元年(970年)
 「源 為憲」
  が著した
 『口遊(くちずさみ)』
  の中に
 「謂 之 借名    文字
 (これを 借名〈かな〉文字と謂ふ)」
  という但し書きを最後に付け加えて記録
    ↓↑
  大為爾伊天 奈従武和礼遠曽 支美女須土
  田井に出で  菜摘む 我 をぞ  君 召すと
    ↓↑
  安佐 利 比由久 也末 之 呂 乃 宇知 恵倍留
  あさ り ひゆく やま し ろ の うち ゑへる
  求〈あさ〉り
            追ひ行く 山  城   の うち 酔へる
    ↓↑
  古良 毛波 保 世与 衣 不弥 加計奴
    こら もは ほ せよ え ふね  かけぬ
    子等 藻は 干 せよ え 舟    繋けぬ
  ・・??・・・ 
    ↓↑
    安和二年(969年)の
   「安和の変」以後の官途に影響を与えた
    あんなあ~
    行 名蛙
    案 奈亜
    編む柰倦
  ↓
  倭の訓=やまと・したがう
 〔漢書、地理志下〕
 「樂浪(らくらう)中に
  倭人りれて百餘國と爲る」
 〔魏略〕
 「倭は帶方東南の大中に在り。
  山島に依りて國を爲す」
 「其の語を聞くに
  自ら太伯(呉の始祖)の後なりと謂ふ」
 〔後漢書光武帝紀下〕
 「倭奴國」
  ↓↑
  倭(ワ)=訓義は
       したがう・低い姿勢
       倭遅は、はるかに連なるさま
       中国による古称で呼称
       倭(ワ)=やまと
  ↓↑
  邑阿自(オウアジ)=日下部氏の祖・・・
 「邑阿自(オウアジ)」
 が「名前」ですか・・・?
 今現代に生きているボクにとっては
 とても
 「名前」とは思えないが・・・
 ムラのクマにおのずから
      (自=己=よこしま)
       小野事加羅(漢・韓・隨・唐)?
 参照、参考は
 ボクの記事
 2023-09-18
 「古事記字源」・・・