ないえごろうブログ

同音異義の探索

暴君をドウスル・・・

 大桀小桀(タイケツショウケツ)・・・桀王・紂王・腐汚黕・集金兵・・・?
 文字霊日記・3291日目
 桀=舛+木・・・帥升 (スイショウ)西暦107年に後漢朝貢
         師匠 (シショウ) 
   夕+㐄+木(十+八)
 α+桀
 傑椉嵥滐搩榤㻧磔謋䮪
 ↓↑
 大桀小桀(タイケツショウケツ)
 残虐な王や為政者
 「桀」=夏王朝の桀王
 「紂」=殷王朝の紂王
  いずれも暴君の代名詞
  磔(はりつけ)=石+桀
  罪人を
  板や柱などに縛りつけ
  槍などを用いて殺す公開処刑
  刑罰・磔刑(タッケイ)
  磔に使われる台(磔台)の形状
  キリストの磔刑図や時代劇で見られる
  十字形
  逆十字形
  I字形
  X字形
  Y字形
  IとX字の組み合わせなど・・・
  頭を上にする方法の他
  頭を下にする方法(逆さ磔)
  ブリッジなどの不自然な体位で磔ける方法があった
  磔けたあと死亡に至らしめる方法
  槍などを使ってとどめを刺す方法
  重傷を負わせて放置する方法
  何もせずに呼吸困難で死ぬに任せる方法
 ↓↑
 殷(イン・アン)=白+勹+几+又=雷電音・獅子の咆哮?
   韻  案・按
   ライオン=雷音・頼音・磊音・厲音(ライオン)
           鶆鳩(ライキュウ)=鷹(たか)
           鶆音(ライオン)?
           スフインクス

 ↓↑
  深厲浅掲(シンレイセンケイ)
  その時々の状況に合わせて適切に対処すること
  「厲」=着物をたくし上げること
  「掲」=裾(すそ)をからげること
  深い川を渡る時には着物をたくし上げ
  浅い川を渡る時は裾をからげて渡ること
  「深ければ厲し、浅ければ掲す」
  川越の要領

 ↓↑
 鶆=來+鳥
   木+从+鳥
   木+人+鳥殷(イン)
   ライ
   鶆鳩(ライキュウ)=鷹(たか)・タカ科の鳥
   鶆䴈(ライオウ)」=レア・レア科の鳥
   鶆鳩=鷹=䧹+鳥・・・
        来る鳥、九(キュウ)の鳥(チョウ)
      广+倠+鳥
      广+亻+隹+鳥
      オウ・ヨウ
      たか
      鳩(はと・キュウ)=九+鳥
      ・・・求長・球長・球調
      ・・「球磨・久万・熊・隈磨」+調べる
      ・・・給調=糸+合+言+周
            伊都連合妧
               (妍・嫄・諺)収(集)
   雷鳥ライチョウ)=カミなりのチョウ
      サンダーバード (Thunderbird)
      伝説の生物
      アメリカインディアンの伝説神話の
      想像上の鳥
      江戸時代の中頃から使用された文字
      漢字(雷鳥・らいちょう)の
      英語訳 (Thunderbird)
      とは異なる
      Rock ptarmigan(ロック・ターミガン)
                 p-tarmigan
                 pが無音・・・?
     鳥綱・キジ目・キジ科・ライチョウ
     チョウコウ=兆候・聴講・兆行・兆項・長考
      雉=きじ=生地・木地・亀茲・期次
        記事 基地
        竺紫日向之高千穂之久士布流多気
     (つくしのひむかのたかちほのくじふるたけ)
      日向襲之高千穂峯  句字振他記(化・懸)
     (ひむかのそのたかちほのたけ)
        槵觸 (くしふる)
         天孫 瓊々杵尊(ににぎのみこと)
                 邇邇芸 命
     「筑紫の日向の高千穂の
      久士布流多気に天降ります」
      旧辞振 多紀(他記・他宄) 邇
             海部(海士・海女)
              件(くだり・下り・行)
      雉目=Rock ptarmigan
        (ロック・ターミガン)
         磐・・・他網 頑・願・含・翫・玩
         lock=ロック=錠・鍵・錠前
      柳のptarmigan
      白尾のptarmigan
      高山の荒地に住む鳥
      冬には白く
      夏には茶色や赤色になる
      鳴き声
      柳 のptarmigan=キュルキュル
      白尾のptarmigan=クッククック
 ↓↑
 語源学(羅=etymologia
     英=etymology =エ タマロジィ)
 昆虫学  (entomology=エンタマロジィ)
  ↓↑
 鳥類学(英=ornithology=オー(ル)ナァサァラァヂィ)
 英語の「ornithology=オルソロジー・オーソロジー
 ギリシャ語の
 「ornis = 鳥」+「logos = 学問」
 の合成語
  ↓↑
 「ライチョウ
 高山やツンドラに生息
 矮性低木やスゲなどの草本
 地衣類や
 苔類などの
 絨毯(カーペット・carpet)状の植生
 あるいは
 岩肌などがモザイク
 「モザイク=模細工・雑綴・切嵌」状に
 現れている環境に生息
 学名
 Lagopus(ラゴプス)=ウサギの足
 muta(ムタ)=無声・変わる
 指先まで羽毛が生えた足
 頻繁には鳴かない
 英名
 Grouse(グラウス)
 冬に体色を
 白く変化させるライチョウ属3種
 Ptarmigan(ターミガン)
 アメリカ、カナダ
 Rock Ptarmigan(ロック ターミガン)
 Lagopus(ラゴプス)は
 一般に「プルミマン」と呼ばれている
 下垂体サブファミリーの小さな鳥類
 ptarmigan(ターミガン)
 ライチョウ類のうち
 冬に白くなり
 脚だけでなく趾まで羽毛に覆われるタイプの種
 本州にいるライチョウ、オジロライチョウ
 grouse(グラウス)
 冬に白くならず一年中濃色(主に褐色)
 脚までは羽毛に覆われるが
 趾には羽毛がないタイプの種
 エゾライチョウ
 クロライチョウ
 など、大半のライチョウ

 ↓↑
 殷(イン)
 紀元前17世紀頃~紀元前1046年
 殷代
 商朝、殷商とも
 天乙(湯王)が
 夏(桀王)を滅ぼし建立した
 (紀元前16世紀以前)
 紀元前11世紀
 帝辛(紂王)の代に
 周によって滅ぼされた(殷周革命)・・・因習
 ↓↑
 殷墟から出土した
 甲骨文字には
 王朝名
 及び
 「殷」は見当たらない
 周が
 先代の王朝名として
 「殷」を用いた
 殷後期の首都を
 出土した甲骨文字で
 「商」と記録
 ↓↑
 殷の位置(華北平原内)
 (二里頭)・・・邇理のカシラ
 二里岡
 盤龍城
 殷墟
 三星堆呉城
 殷代の主な遺跡
 二里頭は
 殷に先行する時代の遺跡
 殷王朝の都城
 二里岡
 殷墟(安陽)
 鄭州市の
 二里岡文化
 紀元前1600年頃~紀元前1400年頃
 初期の商(殷)王朝
 鄭州商城
 建国者
 天乙の
 亳(ハク・バク)と推定・・・漢代の宿場名
 亳≠毫
 ↓↑
 毫(ゴウ)=わずか・毛筆
 毫=亠+口+冖+毛
   ゴウ
   すこし
   ふで=筆・毛筆・筆の穂
   ほそげ
   わずか
   細い毛
   長さや重さに用いられる単位
   地名
   市島町白毫寺
  (いちじまちょうびゃくごうじ)
   名字
   尾毫=おごう
    ↓↑
   揮毫(きごう)=筆を使って文字や絵を書くこと
   毫末(ごうまつ)=非常に少ないこと・秋毫
   毫も(ごうも)=その様子が全くないこと
          打ち消しの言葉と共に使う言葉
   寸毫(すんごう)=わずかであること・ほんの少し。
   一毫(いちごう)
   毫光(ごうこう)
   一糸一毫(いっしいちごう)
    きわめてわずかであるたとえ
     「一毫」=一本の細い毛・わずかなことのたとえ
   毫末遺漏(ごうまついろう)
    ほんの少し、抜けがあること
    「豪末遺漏」
   毫末之利(ごうまつのり)
    ほんの少しだけの利益
   毫毛斧柯(ごうもうふか)
    災いは大きくならないうちに
    取り除くべきだという教え
    「斧柯」は斧の柄
   毫釐千里(ごうりせんり)
    最初の小さな違いが
    後に大きな違いになること
    「毫・釐」はどちらも小さな数量の単位
    「毫釐の差は千里の誤り」
   子墨兎毫(しぼくとごう)
   文人・詩文を作る人
   秋毫(しゅうごう)
    きわめて僅かなことのたとえ
    秋に生え変わった
    獣のきわめて細い毛の意
   目は毫毛を見るも睫(まつげ)を見ず
 ↓↑
 「偃師商城遺跡」
 偃師の尸郷溝
 商(殷)王朝初期(鄭州商城と同時期)
 の大規模な都城が発見
 二里頭遺跡から
 約6km東
 ↓↑
 洹北商城
 殷墟の北東(洹水北岸)
 殷中期の都城の遺跡(花園荘村)
 文字を刻まず
 占卜した獣骨が出土
 殷中期に至っても
 文字資料はほとんど全く出土していない
 ↓↑
 殷墟
 安陽市の
 殷墟(大邑商)
 紀元前1300年頃~殷滅亡までの首都
 洹水南岸
 洹北商城のすぐ南西
 甲骨文字が
 小屯村で出土
 その地区が
 首都存在と推定
 都城の遺跡は見つかっていない
 洹水を挟んだ北側では
 22代王の
 武丁
 以降の王墓が発掘
 甲骨文から
 ここに都を置いたのは
 武丁
 の代からと考えられるが
 竹書紀年では
 19代王の
 盤庚によるとある
 ↓↑
 甲骨文字
 殷墟から出土する
 甲骨文字(亀甲獣骨文字)
 の発見
 『史記
 の殷の実在性
 甲骨占卜では
 上甲
 が始祖
 天乙(名は唐)が建国者
 ↓↑
 武丁
 より以前の殷の文字は
 ほとんど出土がないが
 筆や木簡・竹簡を表す漢字が
 甲骨文字に現れ
 以前からも文字が用いられた・・・
 ↓↑
 『史記
 商
 『通志』
 などで殷王朝の祖の
 契
 が「商」に封じられたとある
 『尚書
 でも「商」の記録
 ↓↑
 伝説
 殷の始祖の
 契
 は
 有娀氏の娘で
 帝嚳の次妃であった
 簡狄
 が
 玄鳥・・・からす=カラス=烏・鴉・香良洲・唐洲?
 の卵を食べたために
 産んだ子
 契は
 帝舜のときに
 禹の治水を援けた功績が認められ
 帝舜により
 商に封じられ
 子姓を賜った
 有娀(有戎)の
 「戎」は西方の遊牧民
 有娀(有戎)の娘である
 簡狄の
 「狄」は北方の狩猟民
 女神が野外の水浴の場で
 天から降りてきた
 鳥の卵・・・・・・・・酉の乱?
 を呑んで妊娠し
 男子を産む
 ↓↑
 「帝」の漢字は
 上古の五帝
 もしくはそれらに準じる者に用いる
 契
 の子孫は代々
 夏王朝に仕え
 契~天乙(湯)
 までの14代の間に
 8回、遷都
 ↓↑
 契(始祖)
 昭明 - 契の子
 相土 - 昭明の子
 昌若 - 相土の子
 曹圉 - 昌若の子
 冥 - 曹圉の子
 亥(高祖、永) - 冥の子
 恒(亙) - 亥の弟
 上甲微(昏微) - 恒の子
 報乙(匚乙) - 上甲微の子
 報丙(匚丙) - 報乙の子
 報丁(匚丁) - 報丙の子
 主壬(示壬) - 報丁の子
 主癸(示癸) - 主壬の子
 天乙(湯) - 主癸の子
 ↓↑
 殷王一覧
 ↓↑
 殷商王室系図
 代数 名(諡号含) 在位年        在位年数
 天乙 (成湯)   前1558年?- 前1546年?12年/29年
 外丙        前1546年? - 前1544年? 2年?
 仲壬        前1544年? - 前1540年? 4年?
 太宗太甲      前1540年? - 前1528年? 12年?
 伊尹
 沃丁        前1528年? - 前1509年? 19年?
 太庚        前1509年? - 前1504年? 5年?
 小甲        前1504年? - 前1487年? 17年?
 中宗太戊      前1487年? - 前1413年? 75年?
 雍己        前1412年? - 前1401年? 12年?
 中丁(仲丁)    前1400年? - 前1391年? 9年?
 外壬        前1391年? - 前1381年? 10年?
 河亶甲       前1381年? - 前1372年? 9年?
 祖乙        前1372年? - 前1353年? 19年?
 祖辛        前1353年? - 前1339年? 14年
 沃甲        前1339年? - 前1334年? 5年
 祖丁        前1334年? - 前1325年? 9年?
 南庚        前1325年? - 前1319年? 6年?
 陽甲        前1319年? - 前1315年? 4年?
 盤庚        前1315年? - 前1287年? 28年?
 小辛        前1287年? - 前1284年? 3年?
 小乙        前1284年? - 前1274年? 10年?
 高宗武丁      前1274年? - 前1215年?
 祖己        前1190年? - 前1132年? 59年?
 祖庚        前1215年? - 前1204年? 11年?
 祖甲        前1204年? - 前1171年? 33年?
 廩辛        前1171年? - 前1167年? 4年?
 庚丁        前1167年? - 前1159年?
 武乙        前1159年? - 前1124年?
            1148年? - 1113年?
 太丁        前1124年? - 前1111年?
            1113年? - 1102年?
 帝乙        前1111年 ?- 前1102年?
            1102年? - 1076年?
 帝辛(子受)    前1102年? - 前1050年?
            1076年 - 1046年?
 ↓↑
 夏の
 桀王
 は暴政
 殷の
 湯王(13代目、天乙)
 天命を受けて悪政を正す
 賢人
 伊尹
 の助けを借りて蜂起
 「鳴条の戦」
 で夏軍を撃破
 各都市を破壊
 夏は滅亡
 夏の都市のひとつ
 望京楼遺跡では
 殷による激しい破壊と虐殺の跡
 遺骨の多くは
 手足が刃物で切断され
 顔が陥没
 遺跡からは
 夏人のどれも
 毀損された
 遺骨と共に
 殷の青銅の武器も出土
 ↓↑
 天乙は諸侯に推挙されて
 王となり
 亳に都を設置
 ↓↑
 4代目の王
 太甲は暴君で
 伊尹に追放されが
 太甲が反省したので
 伊尹は許し
 太甲は善政を敷き
 太宗と称された
 ↓↑
 王
 雍己
 王朝は一旦衰えた
 王雍己の次の王
 太戊は賢人
 伊陟
 を任用
 善政に努め
 殷は復興
 王
 太戊の功績を称えて
 王太戊は
 中宗と称された
 ↓↑
 中宗の死後、王朝は再び衰え
 王
 祖乙
 は賢人
 巫賢を任用し
 善政に努め
 殷は再び復興
 ↓↑
 王祖乙の死後また王朝は衰えた
 王盤庚
 は殷墟(大邑商)に遷都
 湯の頃の善政を復活させた
 ↓↑
 王盤庚の死後にも王朝は衰えた
 王
 武丁
 は賢人
 傅説を任用し、殷の中興を果たした
 武丁の功績を称えて
 高宗と称された
 ↓↑
 武丁以降の王は
 概ね暗愚な暴君で
 王朝最後の
 帝辛(紂王)
 は即位後
 妃の妲己を溺愛し暴政
 そのため
 周の
 武王に誅され(牧野の戦い)
 殷は滅亡
 ↓↑
 殷は占いによって政治を行い
 その為に多数の
 人身御供を必要とした
 中国の文字である漢字は
 骨に刻むための
 象形文字として始まった
 2012年現在
 少なくとも
 14000体の
 殷代に生贄の犠牲となった人骨が発掘
 殷以外の他の部族から見せしめ的に要求され
 献上された
 人身御供
 恐怖政治は
 他の多くの部族の反感を買い
 周や
 微など東西南北の
 8つの従属国家が密かに連絡、連携し
 紂王が
 東夷の征伐に乗り出した隙をついて
 反乱
 「牧野の戦い」
 で殷軍を撃破
 殷王朝は滅亡

 ↓↑
 「史記」著作者
 司馬遷
 は、これを漢の時代の制度を当て嵌め
 (漢代
  いくつかの氏族で
  君主権力を共有することなど皆無)
 親子相続
 兄弟相続
 と解釈したが
 後年の
 亀甲獣骨文字の解読から
 基本は
 非世襲
 必ずしも
 実子相続が行われていたわけではなかった
 殷は
 氏族共同体の連合体で
 殷王室は少なくとも
 二つ以上の王族(氏族)からなっていた・・・
 ↓↑
 仮説
 殷王室は
 10の王族(「甲~癸」は氏族名)
 からなり、不規則ではあるが
 原則として
 「甲・乙・丙・丁」(「丙」は早い時期に消滅)
 の4つの氏族の間で
 定期的に
 王を交替していた
 それ以外の
 「戊・己・庚・辛・壬・癸」の
 6つの氏族中から
 臨時の
 中継ぎの王を出したり
 王妃を娶っていた・・・
 ↓↑
 殷の王族は
 太陽の末裔と当時考えられ
 山海経の伝える
 10個の太陽の神話(十日神話)は
 殷王朝の
 10の王族(氏族)の
 王位交替制度を表し
 羿(ゲイ)により
 9個の太陽が射落される(射日神話)
 のは
 一つの氏族に権力が
 集中し強大化した・・・解釈説
 ↓↑
 殷王朝で作られた
 后母戊
 鼎
 は見つかった青銅器のうち最も重い物
 紂王の子である
 武庚は
 周の
 武王に
 殷の故地に封じられた
 武王の死後
 武庚は
 武王の兄弟の
 管 叔鮮
 蔡 叔度
 霍 叔処
 と共に反乱を起こした
 (三監の乱)
 が失敗
 叔度以外誅殺
 叔度は追放されたがその子が継いだ
 その後
 武庚(禄父)の伯父の
 微 子啓(紂王の兄)
 が宋に封じられ
 殷の祭祀を続けた
 微子啓には嫡子が無かったため
 同じく紂王の兄の
 微 仲衍
 が宋公を継ぐ
 異説もあるが
 微仲衍の子孫が
 孔子
 その後の孔子の家系は
 現在まで続いている
 ↓↑
 紂王の叔父
 箕子
 は朝鮮に渡り
 箕子朝鮮を建国した
 中国人によって
 朝鮮が建国されたことになってしい
 韓国側は
 檀君朝鮮こそ
 初の王朝であり
 箕子朝鮮は
 単なる後世の創作であると主張
 ↓↑
 商人
 商(殷)人
 が国の滅亡した後の生業として
 各地を渡り歩き
 物を売っていたことに由来するとされ
 転じて
 店舗を持たずに
 各地を渡り歩いて物を売っていた人(行商人)を
 「あれは商(あきない)の人間だ」とし
 「商人(あきんど)」という言葉が生まれた・・・
 ↓↑
 殷の滅亡の理由
 周の
 康王の時代に造られた
 「76大盂鼎」
 の銘文に
 「私(王)が聞いたところによると
 殷が天命を失ったのは
 殷の諸侯と
 殷の百官が
 みな酒に耽り、軍隊を失ったからである」
 とあり
 「殷は酒によって滅びた」
 という伝承が形成されていた
 ↓↑
 周が殷を滅ぼした
 のは
 紀元前1046年・・・説

 『竹書紀年』
 武王~幽王(西周最後の王)
 まで
 257年という記述
 幽王が死んだのが
 紀元前771年で
 殷が亡んだのは
 紀元前1027年
 『漢書』には
 周は867年続いたという記述で
 紀元前1123年・・・
 殷滅亡を一番古い時代に置くのは
 紀元前1127年
 新しくは
 紀元前1018年
 ↓↑
 殷社会の基本単位は
 邑(ユウ)
 氏族ごとの集落で
 数千の邑が
 数百の豪族や王族に従属
 殷王は多くの氏族によって
 推戴された君主だった
 方国とよばれる
 地方勢力の征伐や外敵からの
 防衛による軍事活動によって
 次第に専制的な性格を帯びていった
 宗教
 殷王は
 神界と人界を行き来できる最高位の
 シャーマン
 とされ、後期には
 周祭制度による
 大量の生贄を捧げる
 鬼神崇拝が発展
 この王権と神権によって
 殷王はみずからの地位を強固なものにし
 残酷な刑罰を制定して統治の強化を図った
 しかし祭祀のために
 戦争捕虜を生贄に捧げる慣習が
 周辺諸氏族の恨みを買い
 殷に対する反乱を招き
 殷を滅亡に導いたとする説・・・
 ↓↑
 現代の考古学調査
 これまでに発見された
 殷による
 生贄になった人の骨は
 計14000体
 ↓↑
 殷王朝の軍隊
 氏族で構成
 殷王による徴集を受けると
 普段は農耕に従事していた
 氏族の構成員が武器をとり
 出征する軍隊を編成
 この軍隊を指揮するのは
 各氏族の貴族
 ↓↑ ↓↑
 戦争勝利を収めるために
 兵種・戦法・軍備
 などを発展
 「三師戦法」
 という大量の
 戦車を活用した戦術
 殷王朝が
 歩兵中心の軍制から
 戦車を中心とした軍制に変化
 殷の支配域が拡大して
 黄河下流域や
 中原など
 戦車を疾駆させるのに適した
 平原地帯が戦場になっていったから
 『呂氏春秋
 によると
 殷の湯王が
 夏の桀王を討ったとき
 「良車七十乗(輌)
  必死(決死隊)六千人」
 があったといい
 「令三百射」
 「到三百射」
 と記載された甲骨文があることから
 一度に戦役に出撃した戦車は
 300輌にも達していた・・・
 戦車は
 歩兵と共同して戦い
 1輌の戦車に
 3人の兵
 左側の兵士が弓を
 右側の兵士が矛や戈を
 中央の兵士が御者
 戦車部隊は
 5輌が最小単位
 戦車兵15人
 付随する
 歩兵15人
 100輌の戦車と
     戦車兵
     歩兵
 がそれぞれ300人
 25輌の戦車と戦車兵と歩兵が
 75人
 戦車が5の倍数で
 戦車兵と歩兵は15の倍数で編成
 戦車の運用法
 「三師戦法」
 軍隊を
 左・右・中の3つの部隊に分け
 互いに連携して
 敵に対処
 ↓↑
 軍備
 戦車戦に適した
 戈・矛・弓矢
 木製の盾
 刀
 殷王朝では
 戈と矛を合体させた戟が発明
 材質は青銅製
 弓矢の鏃の材質は
 石器や骨器なども使われた
 防具については
 戦車兵が立ったままの状態で
 乗っていたため標的にされやすく
 重装化
 殷代の
 鎧は皮革
 兜は青銅
 敵の弓矢から身を守るため
 盾も
 戦車には用意されていた
 ↓↑
 殷では
 王族・有力者に対して十干を付した諡号を用いた
 ↓↑
 黄帝~少昊~嚳~契~昭明~相土~昌若~曹圉~冥
 ~王亥~王恒~上甲微~報乙~報丙~報丁~主壬~主癸
 ↓↑
 殷の王
 天乙~外丙~中壬~太甲~沃丁~太庚
 ~小甲~雍己~太戊~中丁~外壬~河亶甲
 ~祖乙~祖辛~沃甲~祖丁~南庚~陽甲
 ~盤庚~小辛~小乙~武丁~祖己~祖庚
 ~祖甲~廩辛~庚丁~武乙~太丁~帝乙~帝辛
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 原文 BY 『ウィキペディアWikipedia)』


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エメラルドブルーの謎  (碧き眼の人形伝説)  奈井江 五郎
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