ないえごろうブログ

同音異義の探索

レオナルド(Leonardo) ダ・ヴィンチ(da Vinci)の誕生年。壬申年

 文字霊日記・3439日目

 夕方が重なった「多」って、ナに?
 「太-乙-貴人」
 「太乙神数=諸葛孔明が大成した占術
  国家の将来を予見する「測局占」
 「太乙神数・六壬神課奇門遁甲」=「三式」

 天乙(テンイツ)の実体・実態
 紀元前1600年頃
 「殷=商」王朝の初代王
 名  履(リ)・・・・・・・・履歴

 姓諱 子履(シリ)
 殷墟出土の甲骨文占卜には
 「大乙」・・・「太乙」
 名は唐、成
 「湯王(湯)=太乙=成湯=成唐」
 『詩経』商頌で・・・商(あきない)の頌(うた)?
           周の時
           滅亡した殷 (イン=商)の子孫が
           先祖をまつって歌った詩
          「頌」=神をたたえて歌う歌
           周頌・魯頌・商頌
           は周、魯、商(殷)の祭歌 
 「武湯=武王」
 中原の覇権を得
 「亳(ハク・バク)」・・・地名・殷(イン)の都の名
                 漢代の宿場の名
 に王都を築営
 「史書の天乙」
 『史記』殷本紀
 天乙は
 「夏」の最後の暴虐な王
 「桀」
 を追放し滅ぼした
 「夏の臣」であった「天乙」は
 「伊尹」の補佐を受け
 「鳴条の戦い」で
 「桀」を攻め滅ぼした
 『書経』商書に
 「桀」を滅ぼす時に諸侯に向けて
 演説したとされる
 『湯誓』がある
 「天乙」は
 「夏の禹」
 「周の文王、武王」
 と並び聖王として後世に崇められている
 徳は高く「鳥や獣」にまで及ぶと言われた
 夏を滅ぼした後
 七年間の大日照りで洛川は枯れた
 「湯王」は
 「桑林」まで出かけて
 神を祀り
 「爪と髪」を切り
 みずからを犠牲として捧げる心で上帝に祈願し
 大雨が降り国中が潤った・・・
 ↓↑
 天乙貴人
 日干  ⇔年月日時の各支
 ↓    ↓ ↓
 甲戊庚 ⇔丑・未
 丙丁  ⇔酉・亥 
 乙己  ⇔子・申
 辛   ⇔午・寅
 壬癸  ⇔巳・卯
 ↓↑
 3月8日・金曜日・・・
 2024年3月8日14時・金曜日
 ↓↑
 2024年  干支 41 甲辰(乙・癸・戊)年
 3  月 干支 04 丁卯(甲・ ・乙)月
 8  日 干支 08 辛未(丁・乙・己)日
 ↓↑
 9  日 干支 09 壬申(己・壬・庚)日⇔3 月丁卯月・天乙
 10 日  干支 10 癸酉(庚・ ・辛)日⇔3 月丁卯月・天乙
 めでたし、めでたし・・・
 ↓↑
 本日は朝からガンガンンの晴天日・・・だったが
 風呂場の水道管が凍結・・・
 風呂場に温風機を設置して
 14時ころに「カイトウ(解凍)」・・・回答?
 蛇口から水が噴出、激出・・・
 「風呂場・浴室」・・・湯水の沐浴の場のヘン

ー↓↑ーーー
 十二支×日干=十二運
 ↓↑
 →胎(妊娠)→養→長生→
 ・・・子宮内の胎児期間

 →「沐浴(誕生時の湯浴み)」→
 ・・・嬰児(エイジ)=生まれたばかりの赤ん坊
           =緑児(みどりご
    大宝律令三歳以下の幼子(お-さなご)
    701年制定『大法令』
    3歳以下の男・女児を「緑児」と称するとの規定
    「みどりこ」
    のみどりは
    もともと新芽や若枝の意の具体名詞であったとされ
    その生命力あふれる新芽のように
    生まれたばかりの児という意で
    用いられたと考えられる・・・?
    「みどり=あお」の同義時代の産物だろう・・・
    蒙古斑点を有する
    ちのみご・乳児=授乳開始
    それにしても
    「嬰=賏+女
       貝+貝+女=エイ=英」
       目+ハ+目+ハ+く+ノ+一
      =孆=女+嬰
      =孾=孑+嬰
       エイ
       あかご(赤子)
       ふ(攖)れる
       みどりご(嬰児・緑児)
       めぐ(廻・輪)る
       生まれたばかりの子
       めぐる・めぐらす・ぐるりと取り巻く
       かける・首にか(懸)ける
       ふれる(攖る)・さわ(触)る
       音楽で、音階を半音高くすること
     櫻=木+嬰=さくら=桜
         賏=⺍・ツ
           略字・・・川・炎・吅
           吅=口+口=ケン・コン
             口々に言い合う
             言い争う=「訟」
             喧(かまびす)しい
             がやがやと
             騒々(ソウゾウ)しい
             わいわいと煩(うるさ)い
            =「喧」・喧騒

           品=口+吅=ヒン・ホン
             しな=𠯮
             多くの物・様々な物
             もの(人や物)の
             本質・価値・程度
             人格・品質のレベル
             ものの値打ち
             価値・程度・等級
           𠱠=吅+口=レイ・リョウ
             多くの鳥や人の声
             騒めき
           兴=⺍+一+ハ・・・挙手
             キョウ・コウ
             おこる・おこす・おきる
            =興・𦥷・㒷・𢍯・𨑁
             起き上がる、すっくと立つ
             持ち上げる、高く挙(あ)げる
             揚(たか)ぶる・高揚する・
             盛り上がる・盛んになる
             栄える           
           学=⺍+冖+子=學=斈
           學=⺽+爻+冖+子
             ⺽+㐅+乂+冖+子
             ⺽+㐅+丿+乀+冖+子
         賏=貝+貝
           エイ
           貝を繋いで作った首飾り
 →冠帯→臨官(建禄)→
 ・・・幼児→少年少女→成年(大人)

 →帝旺→衰→病→死→墓→絶→
 ・・・壮年→中年→老年→臨終→
ー↓↑ーーー
 多 品治・・・おほのほんじ・・・???
     ・・・おほ 覆い・被い・蔽い・太い
        の  乃・之・廼・野・盧・埜
        ほん 本・翻・叛・反・奔・phon
        じ  字・示・事・時・地・氏・爾・辞・柿
           ぢ
       多くの
      「ほん=翻字・本字・本寺」・・・
       「ヒン=斌・瀕・頻・貧・嬪・牝・濱・邠・份」+字・・・
       ↓↑
       ヒンシ=品詞・瀕死・斌氏・賓氏・濱氏
       品(しな)=囗+囗+囗・・・三國
             国+國+𡈁・・・圀+邦+那
             くに=六合・久邇・匡・邑・故郷
ー↓↑ーーー
 ニホンゴ  のヘン
 カンジ   のヘン
 ナマエ   のヘン
 コジキ   のヘン
 ニホンショキのヘン
 ↓↑
 時代    飛鳥時代
 生誕    不明
 死没    持統天皇10年 (696年) 8月?
 官位    小錦
 主君    天武天皇持統天皇
 氏族    多臣→多朝臣
 子    安万侶?
 ↓↑
  多    品 治
 (おお の ほんじ)
 (おほ の ほんじ) 
 旧仮名遣いの読み
 「おほ の ほむぢ」
 漢字音
 「タ    ヒンチ」・・・
  ダ    ビンチ」
  ダ    ピンチ」・・・?
  レオナルド(Leonardo)
  ダ・ヴィンチ(da Vinci)
  1452年4月15日(ユリウス 暦)
  1452年4月24日(グレゴリオ暦)・壬申年
  ~
  1519年5月02日(ユリウス 暦)
  1519年5月12日(グレゴリオ暦
            大運1513年2月(60歳)⇔庚戌・食神
  壬 申(戊壬庚)偏財・食神 病⇔己卯・劫財
 ┏癸┏卯(甲  乙)正財・正官沐浴⇔戊辰・比肩・害
 ┗戊┗辰(乙癸戊)  ・比肩冠帯⇔丁丑・印綬
  癸 丑(癸辛己)正財・劫財 養⇔辛丑・傷官
    戌亥空亡
  ↓↑
  フィレンツェ共和国(イタリア)の科学者・芸術家
  フルネーム
  レオナルド・ディ・セル・ピエーロ・ダ・ヴィンチ
 (Leonardo   di  ser Piero   da  Vinci)
 ↓↑
ー↓↑ーーー
 1452年
 干支 「壬申 年」・・・壬申
 ↓↑
 日本
 宝徳四年
 享徳元年七月二十五日
 (ユリウス暦8月10日)
 皇紀2112年
 ↓↑
 中国
 明
 景泰三年・・・・・・・・景泰-纂撚(捻)
 朱徽煠
 玄元元年・・・・・・・・玄元(もともと)原産
(景泰二年旧十二月)・・・景の泰(碓・対)の似捻
 ↓↑
 朝鮮
 李氏朝鮮・・・・・・・・李=木+子
 文宗二年・・・・・・・・文の宗・似捻(鮎)
 ↓↑
 誕生
 4月15日-レオナルド・ダ・ヴィンチ
     イタリアの画家・科学者(~1519年)
 4月19日-フェデリーコ1世、ナポリ王(~1504年)
 7月27日-ルドヴィーコスフォルツァ、ミラノ公(~1508年)
 ↓↑
 室町時代
 愛洲久忠 -兵法家(~1538年)・・・・・・・愛の洲
 猪苗代兼載-連歌師(~1510年)・・・・・・・猪の苗代を兼載
 勧修寺政顕-公卿(~1522年)・・・・・・・・監修字(事・時)
 熊谷膳直 -安芸熊谷氏の当主(~1515年)・・熊が多似
 小早川敬平-沼田小早川氏の当主(~1499年)・経併
 田向重治 -公卿(~1535年)・・・・・・・・多項拾字
 名和顕忠 -名和氏の第19代当主(~?)・・・名の話し顕す注
 古市澄胤 -文人(~1508年)・・・・・・・・越し当てる韻
 山科言国 -公家(~1503年)・・・・・産科・参加が言う語句
ー↓↑ーー
 多 品治
 ↓↑
 姓 始め臣
   後に朝臣
 672年
 「壬申の乱
 「大海人皇子天武天皇)」
 の側
 「莿萩野」
 を守って敵を撃退
 冠位 小錦
 ↓↑
 「多品治」
 「美濃国
  安八磨郡(安八郡)の
  湯沐令」
 皇子の生計を支える
 封戸管理の役職
  「湯沐令=湯沐邑(トウモクユウ・ゆ-の-むら)」
       古代中国と
       飛鳥時代平安時代までの
       日本で
       一部の皇族に与えられた領地
       国と時代により実態が大きく異なる・・・?
       概念違い

 中国の湯沐邑(トウモクユウ)
 周代
 周の制度として始まり
 文献初見
 『春秋公羊伝』隠公三年三月条
 「邴(ヘイ)」は
 「鄭の湯沐邑」
 天子が泰山を祭るとき
 諸侯もみな泰山の下に従い
 諸侯はみな湯沐のために邑を持つ
 『礼記』王制篇に
 「方伯」が
 天子に朝するときには
 みな天子の県内に
 「湯沐の邑」を持つ
 名目は
 「斎戒沐浴」
 遠くから来る諸侯と従者、使者の滞在に
 必要なものを現地で満たすために与えられた・・・
 ↓↑
 戦国時代・漢代
 『史記』信陵君伝
 「湯沐邑」は君主が与える領地を意味
 「魏無忌(信陵君)」が
 趙の王から
 「鄗(コウ)を
 「湯沐邑」として与えられた
 前漢の高祖
 「劉邦」は皇帝になって
 「朕は
  沛公からはじめて暴虐を誅し・・・ハイコウ=沛公
  ついに天下を得た」
 とし挙兵の地である
 「沛(ハイ)」を自分の湯沐邑にして
 「沛」の税や労役負担を軽減
 生地である
 「豊」も同様にした
 その後
 皇族が
 「湯沐邑」を与えられた
 ↓↑
 前・後の漢代
 「湯沐邑」を与えられたのは
 皇太子・皇后・皇太后
 廃王・廃王女
 公主・王女
 皇后の生母
 太子の「湯沐」は
 『後漢書』班彪伝に
 旧制で10県
 『漢旧儀』には
 皇后・太子は各40県を食み
 「湯沐邑」という
 皇族男子は通常諸侯王や列侯になって
 与えられた領地を統治
 それ以外の皇族に
 「湯沐邑」が与えられ
 「統治権」を持たず
 税収を手に入れるだけだった
 湯沐邑を与えられたのが
 皇族女子と
 廃王に偏るのはこのため・・・
 ↓↑
 日本の湯沐邑(ゆ-の-むら)
 「湯沐邑」の
 「丹治部」・・・「多治部」?
 平安時代初期
 815年
 『新撰姓氏録
 「諸国に多治部を定めて皇子の湯沐邑にした」
 「皇子=反正天皇」で
 「多治部」を宰領した者が
 「丹比連」を名乗り、
 「丹比氏」のはじまり・・・
 「名代・子代」を
 9世紀初めの制度に呼び替えた・・・
 ↓↑
 「壬申の乱
 の
 「湯沐邑」
 『日本書紀』巻28
 「壬申紀」
 は
 「天武天皇元年(672年)の一年間」
 「湯沐令」の言及が2箇所
 「湯沐」の言及が1箇所
 「湯沐邑」という語は無い
 「湯沐=湯沐令」は「湯沐邑」から派生した語・・・
 ・・・漢語漢字の意味からは・・・
 「湯水を沐浴する邑」だろう・・・?
 「唐王朝」に
 「湯沐邑」は無かった
 「日本の湯沐邑」は
 「漢代の制度」からとった・・・模倣した
 ↓↑
 「大海人皇子天武天皇」は
 六月二十二日
 使者を
 「安八磨郡(安八郡)」の
 「湯沐令(ゆのうながし)」の
     ・・・令=促し・うながし・催促・促進
 「多 品治」に
 兵を挙げ
 「不破道」を塞ぐよう命令
 これを受け
 25日までに
 美濃の兵3000が
 「大海人皇子」のために
 「不破道」を塞ぐ
 この兵は
 「湯沐邑」の兵力・・・
 美濃国全体の兵力とする・・・説
 「安八磨郡の湯沐邑」が
 真っ先に軍事行動を起こした
 24日
 「大海人皇子」は伊勢に向かう途中
 「菟田郡家」のそばで
 「湯沐の米」を運ぶ伊勢国の駄50匹に会合
 25日
 伊勢の
 「鈴鹿郡家」で
 国司守の
 「三宅 石床」・・・石床・岩床・・・床=广+十+八
        ・・・岩舞台
        ・・・磐部隊・・・磐余彦?
 「介」・・・国司(コクシ・くにのつかさ)
       古代~中世
       地方行政単位の国を支配する中央派遣の行政官
       官吏の四等官
       守(かみ)・・・かみ=カミ=加味・紙
            ・・・上・髪・香美・神
       介(すけ)・・・カイ
       掾(じょう)・・大掾・掾・少掾の3等級
               椽≠掾=扌+彖
                   エン・下役
                   彖=タン・豚、豬が走る
                   易の各卦の意味の総論
               椽=木+彖
               テン
               たるき・・・樽木・墫器・足記
            ・・・多留木・桷・榱・棰=木+垂れる
               垂れ記=山上の垂れ=キリスト
               屋根を支えるために
               棟から軒にかけ渡す木材
       目(さかん)
       を指し、その下に
       史生(シショウ)
       博士
       医師
       などが設置され
       広義では国司の中に含めて扱われていた
  の
 「三輪 子首」・・・三輪   子首
          (みわ の こびと)
           別表記
           大三輪  真上田  子人
          (おおみわのまかむだのこびと)
           神    麻加牟陀 児首
          (みわのまかむだのこびと)
           死後
           大 三輪 真上 田 迎
          (おおみわのまかむだのむかえ)
           と諡され
           諡されたと明記された最初の人物
           姓は君
           冠位は贈内小紫。
 「湯沐令」の
 「田中足麻呂」
 「高田新家」
 が出迎えた
 ↓↑
 「後の律令制」の下での
 「食封」の規模をあてはめれば
 「湯沐邑」は
 「安八磨郡」の一部ではなく
       郡全体にあたる・・・
 その郡の範囲は
 後の池田郡も含まれる
 「田中足麻呂」については
 「多品治」と同じく
 「安八磨郡の湯沐邑の令」・・・説
 伊勢国に別の湯沐邑があった・・・説
 ↓↑
 「後の律令制の湯沐邑」は収入源でしかない
 「壬申の乱時代の湯沐邑」は
 大海人皇子と密接関係があった・・・
 ↓↑
 「律令制の湯沐邑」
 東宮(皇太子)と
 中宮(皇后)のために
 「湯沐邑」が設置
 東宮が湯沐邑を経済的基盤として
 国家に対抗することを防ぐため
   ・・・「湯沐邑=領地の人員・兵員・軍事力」
       反乱の要因=湯沐邑」・・・
 大宝令、養老令制定時には
 中宮のみ2000戸の
 「中宮湯沐」が設置
 東宮には
 「湯沐邑の代替」として
 毎年
 「東宮雑用料
 (絁300疋・(真)綿500屯・糸500絇
  調布1000端・鍬1000口・鉄500廷)
 が支給された(禄令封戸条)
 「光仁天皇」の時代
 「山部親王桓武天皇)」
 のために特に
 「東宮湯沐」1000戸が与えられ
 延喜式の段階では
 「東宮湯沐」として
 中宮と同様の2000戸が支給されるようになった
 (『延喜式春宮坊東宮雑用料も併給)
 令制では別に
 「封戸」があり
 他の皇族と臣下に与えられた
 「封戸=湯沐」
 実質、同じ概念・・・同義異字
 「大海人皇子」は
 反乱行動をおこす2日前
 六月二十二日
 「村国男依」
 「和珥部君手」
 「身毛広」
 は3人で美濃に先行するよう命令
 任務は
 「多品治」
 に連絡し
 「安八磨」郡を挙兵させることで
 美濃の兵3千が
 「不破道」を塞いだ
 七月二日
 美濃に入った「大海人皇子」は
 軍をそれぞれ数万の二手に分け
 一軍を伊勢国の大山越えで大和国
 一軍を直接近江国に入らせる
 「多  品治」は
 「紀  阿閉麻呂」・・・阿を閉じる麻の呂?
 「三輪 子首」・・・三輪 子首(みわ の こびと)
           大三輪真上田子人
          (おおみわのまかむだのこびと)
           神麻加牟陀児首
          (みわのまかむだのこびと)
           大三輪真上田迎
          (おおみわのまかむだのむかえ)
           と諡された
           諡されたと明記された最初の人物
           姓は君
           冠位は贈内小紫
 「置始 菟」・・・置始 菟 (おきそめ-の-うさぎ)?
           姓は連・冠位は贈小錦
          「壬申の乱」で
          大和方面への増援軍の指揮官の一人
          騎兵を率い
          二度にわたって味方の危機を救った
 と共に
 大和に向かう軍を率いた

 「多 品治」は別に命令を受け
 3千の兵と共に
 「莿萩野(たらの)=伊勢の国北部・伊賀」・・・伊賀忍者の里?
 に駐屯、伊賀は
 「大和 - 伊賀 - 伊勢 -美濃」と連絡線上
 「田中 足麻呂」が
 「近江 - 伊賀」を結ぶ
 「倉歴道」
 を守る位置についた
 ↓↑
 大友皇子弘文天皇・伊賀皇子=大友皇子)側の将
 「田辺 小隅(たなべ の おすみ)」
 は・・・  「たなべ-の-をすみ」=「百済」系田辺氏
 五日
 「倉歴」に夜襲
 守備兵は敗走し
 「田中 足麻呂」は一人逃れた
 「小隅」の軍は翌日
 「莿萩野」を襲おうとしたが
 「多 品治」
 はこれを阻止し追撃した
 「田辺 小隅」は一人免れて逃げた
 ↓↑
 十二月四日
 勲功者にで冠位を増し
 「小山位以上」をあたえた・・・
 天武天皇十二年(683年)十二月十三日
 「多 品治」は
 伊勢王
 「羽田 八国(羽田 矢国)」
 「中臣 大島」
 と共に
 判官・録史・工匠
 など部下を引き連れて全国を巡り、諸国の境界を定めた
 「多 品治」の位は
 「小錦下」
 ↓↑
 天武天皇十三年(684年)十一月一日
 「多 臣(おみ)」など52氏は
 「朝臣(あそん)の姓」を賜った
 天武天皇一四年(685年)九月十八日
 天武天皇
 皇族・臣下と
 「大安 殿」で博打をして遊んだ。
 天皇は大安殿の中に
 皇族と臣下は
 殿の前に位置した
 「多 品治」
 は
 天皇の衣と袴を与えられた「十人の中の一人」
 であった
 持統天皇十年(696年)八月二十五日
 「多 品治」は
 「直広壱(正四位下相当)の位」
 と物を与えられた
 『和州五郡神社神名帳大略註解』巻4補闕
 に所収されている
 久安五年(1149年)謹上の
 「多神宮注進状」によれば
 「太安万侶
 は子と記載

 夕方が重なった「多」って、ナに?
 「太-乙-貴人」
 「太乙神数=諸葛孔明が大成した占術
  国家の将来を予見する「測局占」
 「太乙神数・六壬神課奇門遁甲」=「三式」

 天乙(テンイツ)の実体・実態
 紀元前1600年頃
 「殷=商」王朝の初代王
 名  履(リ)・・・・・・・・履歴

 姓諱 子履(シリ)
 殷墟出土の甲骨文占卜には
 「大乙」・・・「太乙」
 名は唐、成
 「湯王(湯)=太乙=成湯=成唐」
 『詩経』商頌で・・・商(あきない)の頌(うた)?
           周の時
           滅亡した殷 (イン=商)の子孫が
           先祖をまつって歌った詩
          「頌」=神をたたえて歌う歌
           周頌・魯頌・商頌
           は周、魯、商(殷)の祭歌 
 「武湯=武王」
 中原の覇権を得
 「亳(ハク・バク)」・・・地名・殷(イン)の都の名
                 漢代の宿場の名
 に王都を築営
 「史書の天乙」
 『史記』殷本紀
 天乙は
 「夏」の最後の暴虐な王
 「桀」
 を追放し滅ぼした
 「夏の臣」であった「天乙」は
 「伊尹」の補佐を受け
 「鳴条の戦い」で
 「桀」を攻め滅ぼした
 『書経』商書に
 「桀」を滅ぼす時に諸侯に向けて
 演説したとされる
 『湯誓』がある
 「天乙」は
 「夏の禹」
 「周の文王、武王」
 と並び聖王として後世に崇められている
 徳は高く「鳥や獣」にまで及ぶと言われた
 夏を滅ぼした後
 七年間の大日照りで洛川は枯れた
 「湯王」は
 「桑林」まで出かけて
 神を祀り
 「爪と髪」を切り
 みずからを犠牲として捧げる心で上帝に祈願し
 大雨が降り国中が潤った・・・
 ↓↑
 天乙貴人
 日干  ⇔年月日時の各支
 ↓    ↓ ↓
 甲戊庚 ⇔丑・未
 丙丁  ⇔酉・亥 
 乙己  ⇔子・申
 辛   ⇔午・寅
 壬癸  ⇔巳・卯
 ↓↑
 3月8日・金曜日・・・
 2024年3月8日14時・金曜日
 ↓↑
 2024年  干支 41 甲辰(乙・癸・戊)年
 3  月 干支 04 丁卯(甲・ ・乙)月
 8  日 干支 08 辛未(丁・乙・己)日
 ↓↑
 9  日 干支 09 壬申(己・壬・庚)日⇔3 月丁卯月・天乙
 10 日  干支 10 癸酉(庚・ ・辛)日⇔3 月丁卯月・天乙
 めでたし、めでたし・・・
 ↓↑
 本日は朝からガンガンンの晴天日・・・だったが
 風呂場の水道管が凍結・・・
 風呂場に温風機を設置して
 14時ころに「カイトウ(解凍)」・・・回答?
 蛇口から水が噴出、激出・・・
 「風呂場・浴室」・・・湯水の沐浴の場のヘン


ー↓↑ーーー
 十二支×日干=十二運
 ↓↑
 →胎(妊娠)→養→長生→
 ・・・子宮内の胎児期間

 →「沐浴(誕生時の湯浴み)」→
 ・・・嬰児(エイジ)=生まれたばかりの赤ん坊
           =緑児(みどりご
    大宝律令三歳以下の幼子(お-さなご)
    701年制定『大法令』
    3歳以下の男・女児を「緑児」と称するとの規定
    「みどりこ」
    のみどりは
    もともと新芽や若枝の意の具体名詞であったとされ
    その生命力あふれる新芽のように
    生まれたばかりの児という意で
    用いられたと考えられる・・・?
    「みどり=あお」の同義時代の産物だろう・・・
    蒙古斑点を有する
    ちのみご・乳児=授乳開始
    それにしても
    「嬰=賏+女
       貝+貝+女=エイ=英」
       目+ハ+目+ハ+く+ノ+一
      =孆=女+嬰
      =孾=孑+嬰
       エイ
       あかご(赤子)
       ふ(攖)れる
       みどりご(嬰児・緑児)
       めぐ(廻・輪)る
       生まれたばかりの子
       めぐる・めぐらす・ぐるりと取り巻く
       かける・首にか(懸)ける
       ふれる(攖る)・さわ(触)る
       音楽で、音階を半音高くすること
     櫻=木+嬰=さくら=桜
         賏=⺍・ツ
           略字・・・川・炎・吅
           吅=口+口=ケン・コン
             口々に言い合う
             言い争う=「訟」
             喧(かまびす)しい
             がやがやと
             騒々(ソウゾウ)しい
             わいわいと煩(うるさ)い
            =「喧」・喧騒

           品=口+吅=ヒン・ホン
             しな=𠯮
             多くの物・様々な物
             もの(人や物)の
             本質・価値・程度
             人格・品質のレベル
             ものの値打ち
             価値・程度・等級
           𠱠=吅+口=レイ・リョウ
             多くの鳥や人の声
             騒めき
           兴=⺍+一+ハ・・・挙手
             キョウ・コウ
             おこる・おこす・おきる
            =興・𦥷・㒷・𢍯・𨑁
             起き上がる、すっくと立つ
             持ち上げる、高く挙(あ)げる
             揚(たか)ぶる・高揚する・
             盛り上がる・盛んになる
             栄える           
           学=⺍+冖+子=學=斈
           學=⺽+爻+冖+子
             ⺽+㐅+乂+冖+子
             ⺽+㐅+丿+乀+冖+子
         賏=貝+貝
           エイ
           貝を繋いで作った首飾り
 →冠帯→臨官(建禄)→
 ・・・幼児→少年少女→成年(大人)

 →帝旺→衰→病→死→墓→絶→
 ・・・壮年→中年→老年→臨終→
ー↓↑ーーー
 多 品治・・・おほのほんじ・・・???
     ・・・おほ 覆い・被い・蔽い・太い
        の  乃・之・廼・野・盧・埜
        ほん 本・翻・叛・反・奔・phon
        じ  字・示・事・時・地・氏・爾・辞・柿
           ぢ
       多くの
      「ほん=翻字・本字・本寺」・・・
       「ヒン=斌・瀕・頻・貧・嬪・牝・濱・邠・份」+字・・・
       ↓↑
       ヒンシ=品詞・瀕死・斌氏・賓氏・濱氏
       品(しな)=囗+囗+囗・・・三國
             国+國+𡈁・・・圀+邦+那
             くに=六合・久邇・匡・邑・故郷
ー↓↑ーーー
 ニホンゴ  のヘン
 カンジ   のヘン
 ナマエ   のヘン
 コジキ   のヘン
 ニホンショキのヘン
 ↓↑
 時代    飛鳥時代
 生誕    不明
 死没    持統天皇10年 (696年) 8月?
 官位    小錦
 主君    天武天皇持統天皇
 氏族    多臣→多朝臣
 子    安万侶?
 ↓↑
  多    品 治
 (おお の ほんじ)
 (おほ の ほんじ) 
 旧仮名遣いの読み
 「おほ の ほむぢ」
 漢字音
 「タ    ヒンチ」・・・
  ダ    ビンチ」
  ダ    ピンチ」・・・?
  レオナルド(Leonardo)
  ダ・ヴィンチ(da Vinci)
  1452年4月15日(ユリウス 暦)
  1452年4月24日(グレゴリオ暦)・壬申年
  ~
  1519年5月02日(ユリウス 暦)
  1519年5月12日(グレゴリオ暦
            大運1513年2月(60歳)⇔庚戌・食神
  壬 申(戊壬庚)偏財・食神 病⇔己卯・劫財
 ┏癸┏卯(甲  乙)正財・正官沐浴⇔戊辰・比肩・害
 ┗戊┗辰(乙癸戊)  ・比肩冠帯⇔丁丑・印綬
  癸 丑(癸辛己)正財・劫財 養⇔辛丑・傷官
    戌亥空亡
  ↓↑
  フィレンツェ共和国(イタリア)の科学者・芸術家
  フルネーム
  レオナルド・ディ・セル・ピエーロ・ダ・ヴィンチ
 (Leonardo   di  ser Piero   da  Vinci)
 ↓↑
ー↓↑ーーー
 1452年
 干支 「壬申 年」・・・壬申
 ↓↑
 日本
 宝徳四年
 享徳元年七月二十五日
 (ユリウス暦8月10日)
 皇紀2112年
 ↓↑
 中国
 明
 景泰三年・・・・・・・・景泰-纂撚(捻)
 朱徽煠
 玄元元年・・・・・・・・玄元(もともと)原産
(景泰二年旧十二月)・・・景の泰(碓・対)の似捻
 ↓↑
 朝鮮
 李氏朝鮮・・・・・・・・李=木+子
 文宗二年・・・・・・・・文の宗・似捻(鮎)
 ↓↑
 誕生
 4月15日-レオナルド・ダ・ヴィンチ
     イタリアの画家・科学者(~1519年)
 4月19日-フェデリーコ1世、ナポリ王(~1504年)
 7月27日-ルドヴィーコスフォルツァ、ミラノ公(~1508年)
 ↓↑
 室町時代
 愛洲久忠 -兵法家(~1538年)・・・・・・・愛の洲
 猪苗代兼載-連歌師(~1510年)・・・・・・・猪の苗代を兼載
 勧修寺政顕-公卿(~1522年)・・・・・・・・監修字(事・時)
 熊谷膳直 -安芸熊谷氏の当主(~1515年)・・熊が多似
 小早川敬平-沼田小早川氏の当主(~1499年)・経併
 田向重治 -公卿(~1535年)・・・・・・・・多項拾字
 名和顕忠 -名和氏の第19代当主(~?)・・・名の話し顕す注
 古市澄胤 -文人(~1508年)・・・・・・・・越し当てる韻
 山科言国 -公家(~1503年)・・・・・産科・参加が言う語句
ー↓↑ーー
 多 品治
 ↓↑
 姓 始め臣
   後に朝臣
 672年
 「壬申の乱
 「大海人皇子天武天皇)」
 の側
 「莿萩野」
 を守って敵を撃退
 冠位 小錦
 ↓↑
 「多品治」
 「美濃国
  安八磨郡(安八郡)の
  湯沐令」
 皇子の生計を支える
 封戸管理の役職
  「湯沐令=湯沐邑(トウモクユウ・ゆ-の-むら)」
       古代中国と
       飛鳥時代平安時代までの
       日本で
       一部の皇族に与えられた領地
       国と時代により実態が大きく異なる・・・?
       概念違い

 中国の湯沐邑(トウモクユウ)
 周代
 周の制度として始まり
 文献初見
 『春秋公羊伝』隠公三年三月条
 「邴(ヘイ)」は
 「鄭の湯沐邑」
 天子が泰山を祭るとき
 諸侯もみな泰山の下に従い
 諸侯はみな湯沐のために邑を持つ
 『礼記』王制篇に
 「方伯」が
 天子に朝するときには
 みな天子の県内に
 「湯沐の邑」を持つ
 名目は
 「斎戒沐浴」
 遠くから来る諸侯と従者、使者の滞在に
 必要なものを現地で満たすために与えられた・・・
 ↓↑
 戦国時代・漢代
 『史記』信陵君伝
 「湯沐邑」は君主が与える領地を意味
 「魏無忌(信陵君)」が
 趙の王から
 「鄗(コウ)を
 「湯沐邑」として与えられた
 前漢の高祖
 「劉邦」は皇帝になって
 「朕は
  沛公からはじめて暴虐を誅し・・・ハイコウ=沛公
  ついに天下を得た」
 とし挙兵の地である
 「沛(ハイ)」を自分の湯沐邑にして
 「沛」の税や労役負担を軽減
 生地である
 「豊」も同様にした
 その後
 皇族が
 「湯沐邑」を与えられた
 ↓↑
 前・後の漢代
 「湯沐邑」を与えられたのは
 皇太子・皇后・皇太后
 廃王・廃王女
 公主・王女
 皇后の生母
 太子の「湯沐」は
 『後漢書』班彪伝に
 旧制で10県
 『漢旧儀』には
 皇后・太子は各40県を食み
 「湯沐邑」という
 皇族男子は通常諸侯王や列侯になって
 与えられた領地を統治
 それ以外の皇族に
 「湯沐邑」が与えられ
 「統治権」を持たず
 税収を手に入れるだけだった
 湯沐邑を与えられたのが
 皇族女子と
 廃王に偏るのはこのため・・・
 ↓↑
 日本の湯沐邑(ゆ-の-むら)
 「湯沐邑」の
 「丹治部」・・・「多治部」?
 平安時代初期
 815年
 『新撰姓氏録
 「諸国に多治部を定めて皇子の湯沐邑にした」
 「皇子=反正天皇」で
 「多治部」を宰領した者が
 「丹比連」を名乗り、
 「丹比氏」のはじまり・・・
 「名代・子代」を
 9世紀初めの制度に呼び替えた・・・
 ↓↑
 「壬申の乱
 の
 「湯沐邑」
 『日本書紀』巻28
 「壬申紀」
 は
 「天武天皇元年(672年)の一年間」
 「湯沐令」の言及が2箇所
 「湯沐」の言及が1箇所
 「湯沐邑」という語は無い
 「湯沐=湯沐令」は「湯沐邑」から派生した語・・・
 ・・・漢語漢字の意味からは・・・
 「湯水を沐浴する邑」だろう・・・?
 「唐王朝」に
 「湯沐邑」は無かった
 「日本の湯沐邑」は
 「漢代の制度」からとった・・・模倣した
 ↓↑
 「大海人皇子天武天皇」は
 六月二十二日
 使者を
 「安八磨郡(安八郡)」の
 「湯沐令(ゆのうながし)」の
     ・・・令=促し・うながし・催促・促進
 「多 品治」に
 兵を挙げ
 「不破道」を塞ぐよう命令
 これを受け
 25日までに
 美濃の兵3000が
 「大海人皇子」のために
 「不破道」を塞ぐ
 この兵は
 「湯沐邑」の兵力・・・
 美濃国全体の兵力とする・・・説
 「安八磨郡の湯沐邑」が
 真っ先に軍事行動を起こした
 24日
 「大海人皇子」は伊勢に向かう途中
 「菟田郡家」のそばで
 「湯沐の米」を運ぶ伊勢国の駄50匹に会合
 25日
 伊勢の
 「鈴鹿郡家」で
 国司守の
 「三宅 石床」・・・石床・岩床・・・床=广+十+八
        ・・・岩舞台
        ・・・磐部隊・・・磐余彦?
 「介」・・・国司(コクシ・くにのつかさ)
       古代~中世
       地方行政単位の国を支配する中央派遣の行政官
       官吏の四等官
       守(かみ)・・・かみ=カミ=加味・紙
            ・・・上・髪・香美・神
       介(すけ)・・・カイ
       掾(じょう)・・大掾・掾・少掾の3等級
               椽≠掾=扌+彖
                   エン・下役
                   彖=タン・豚、豬が走る
                   易の各卦の意味の総論
               椽=木+彖
               テン
               たるき・・・樽木・墫器・足記
            ・・・多留木・桷・榱・棰=木+垂れる
               垂れ記=山上の垂れ=キリスト
               屋根を支えるために
               棟から軒にかけ渡す木材
       目(さかん)
       を指し、その下に
       史生(シショウ)
       博士
       医師
       などが設置され
       広義では国司の中に含めて扱われていた
  の
 「三輪 子首」・・・三輪   子首
          (みわ の こびと)
           別表記
           大三輪  真上田  子人
          (おおみわのまかむだのこびと)
           神    麻加牟陀 児首
          (みわのまかむだのこびと)
           死後
           大 三輪 真上 田 迎
          (おおみわのまかむだのむかえ)
           と諡され
           諡されたと明記された最初の人物
           姓は君
           冠位は贈内小紫。
 「湯沐令」の
 「田中足麻呂」
 「高田新家」
 が出迎えた
 ↓↑
 「後の律令制」の下での
 「食封」の規模をあてはめれば
 「湯沐邑」は
 「安八磨郡」の一部ではなく
       郡全体にあたる・・・
 その郡の範囲は
 後の池田郡も含まれる
 「田中足麻呂」については
 「多品治」と同じく
 「安八磨郡の湯沐邑の令」・・・説
 伊勢国に別の湯沐邑があった・・・説
 ↓↑
 「後の律令制の湯沐邑」は収入源でしかない
 「壬申の乱時代の湯沐邑」は
 大海人皇子と密接関係があった・・・
 ↓↑
 「律令制の湯沐邑」
 東宮(皇太子)と
 中宮(皇后)のために
 「湯沐邑」が設置
 東宮が湯沐邑を経済的基盤として
 国家に対抗することを防ぐため
   ・・・「湯沐邑=領地の人員・兵員・軍事力」
       反乱の要因=湯沐邑」・・・
 大宝令、養老令制定時には
 中宮のみ2000戸の
 「中宮湯沐」が設置
 東宮には
 「湯沐邑の代替」として
 毎年
 「東宮雑用料
 (絁300疋・(真)綿500屯・糸500絇
  調布1000端・鍬1000口・鉄500廷)
 が支給された(禄令封戸条)
 「光仁天皇」の時代
 「山部親王桓武天皇)」
 のために特に
 「東宮湯沐」1000戸が与えられ
 延喜式の段階では
 「東宮湯沐」として
 中宮と同様の2000戸が支給されるようになった
 (『延喜式春宮坊東宮雑用料も併給)
 令制では別に
 「封戸」があり
 他の皇族と臣下に与えられた
 「封戸=湯沐」
 実質、同じ概念・・・同義異字
 「大海人皇子」は
 反乱行動をおこす2日前
 六月二十二日
 「村国男依」
 「和珥部君手」
 「身毛広」
 は3人で美濃に先行するよう命令
 任務は
 「多品治」
 に連絡し
 「安八磨」郡を挙兵させることで
 美濃の兵3千が
 「不破道」を塞いだ
 七月二日
 美濃に入った「大海人皇子」は
 軍をそれぞれ数万の二手に分け
 一軍を伊勢国の大山越えで大和国
 一軍を直接近江国に入らせる
 「多  品治」は
 「紀  阿閉麻呂」・・・阿を閉じる麻の呂?
 「三輪 子首」・・・三輪 子首(みわ の こびと)
           大三輪真上田子人
          (おおみわのまかむだのこびと)
           神麻加牟陀児首
          (みわのまかむだのこびと)
           大三輪真上田迎
          (おおみわのまかむだのむかえ)
           と諡された
           諡されたと明記された最初の人物
           姓は君
           冠位は贈内小紫
 「置始 菟」・・・置始 菟 (おきそめ-の-うさぎ)?
           姓は連・冠位は贈小錦
          「壬申の乱」で
          大和方面への増援軍の指揮官の一人
          騎兵を率い
          二度にわたって味方の危機を救った
 と共に
 大和に向かう軍を率いた

 「多 品治」は別に命令を受け
 3千の兵と共に
 「莿萩野(たらの)=伊勢の国北部・伊賀」・・・伊賀忍者の里?
 に駐屯、伊賀は
 「大和 - 伊賀 - 伊勢 -美濃」と連絡線上
 「田中 足麻呂」が
 「近江 - 伊賀」を結ぶ
 「倉歴道」
 を守る位置についた
 ↓↑
 大友皇子弘文天皇・伊賀皇子=大友皇子)側の将
 「田辺 小隅(たなべ の おすみ)」
 は・・・  「たなべ-の-をすみ」=「百済」系田辺氏
 五日
 「倉歴」に夜襲
 守備兵は敗走し
 「田中 足麻呂」は一人逃れた
 「小隅」の軍は翌日
 「莿萩野」を襲おうとしたが
 「多 品治」
 はこれを阻止し追撃した
 「田辺 小隅」は一人免れて逃げた
 ↓↑
 十二月四日
 勲功者にで冠位を増し
 「小山位以上」をあたえた・・・
 天武天皇十二年(683年)十二月十三日
 「多 品治」は
 伊勢王
 「羽田 八国(羽田 矢国)」
 「中臣 大島」
 と共に
 判官・録史・工匠
 など部下を引き連れて全国を巡り、諸国の境界を定めた
 「多 品治」の位は
 「小錦下」
 ↓↑
 天武天皇十三年(684年)十一月一日
 「多 臣(おみ)」など52氏は
 「朝臣(あそん)の姓」を賜った
 天武天皇一四年(685年)九月十八日
 天武天皇
 皇族・臣下と
 「大安 殿」で博打をして遊んだ。
 天皇は大安殿の中に
 皇族と臣下は
 殿の前に位置した
 「多 品治」
 は
 天皇の衣と袴を与えられた「十人の中の一人」
 であった
 持統天皇十年(696年)八月二十五日
 「多 品治」は
 「直広壱(正四位下相当)の位」
 と物を与えられた
 『和州五郡神社神名帳大略註解』巻4補闕
 に所収されている
 久安五年(1149年)謹上の
 「多神宮注進状」によれば
 「太安万侶
 は子と記載

 ↓↑

(ユカリとオジさんの世迷い言・2)

古代エジプトの神々(1)・絵字符都・『埃及』(1)・(42)

エメラルドブルーの謎  (碧き眼の人形伝説)  奈井江 五郎
  ↓↑   ↓↑
 「プラトン古事記をカタル(古事記字源)
  +
 (表紙・画像・音楽)」の移転先・・・

 ↓↑
 ボクの「古事記字源」の発端・・・
 ↓↑
 干支歴
 ↓↑
 追加添文 「戦争と平和」・・・「モウケの生き方」
 ↓↑
 メリキリの - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=7xgS0oJhhe8

 ↓↑
 モモちゃん
https://www.youtube.com/embed/W00rHNN2zMQ?

 ↓↑
 モウ君の総合目次
 ↓↑
コジキ姫赤い絨毯に乗る(m)
 ↓↑
 古事記と虎関師錬

 ↓↑
鉄腕アトムのロボット法を
思い出して
これを
貼り付けてみたけれど・・・
AIの記憶・・・