ないえごろうブログ

同音異義の探索

高島 嘉右衛門(たかしま かえもん)・・・多寡揣摩変重文・・・?

文字霊日記・3474日目

 

 前回の「辰のオトしゴ」のツヅキ・・・
 先ずは「高=髙」のカンジ名のクニから・・・

 新羅の初出記事
 『資治通鑑』巻104・・・・指示
 太元二(377年)年条・・・太の元に似(爾・邇)?
                       太安万(萬)侶
 ↓↑
 高句麗と・・・高(たかい)=亠+口+冋
        句(ク・コウ)=勹+口
        麗(うるわしい・うららか・うらら)
         =䴡=婯=丽
          一+冂+丶+鹿
          一+冂+丶+一+冂+丶+广+コ+‖+比
        高麗
    単なる「高=髙」の漢字の羅列だが・・・
        ↓↑
        高天原
        ↓↑
        高皇産霊尊
        高木神
        高木大神
        神王高御魂命
        高魂命
        高御魂尊
        高御産巣日神(たかみむすびのかみ)
        高御牟須比乃命
        高皇産霊尊
      天照高彌牟須比命 
        ↓↑
        高木神之命
          ・・・高木岬・南極地名
             高木兼寛・ヴァイタミン発見
             明治海軍医官・慈恵医大 
             海軍軍医総監・脚気病対策
        ↓↑
        高橋虫麻呂 
          ・・・高橋景保・天文・書籍
             伊能忠敬・日本地図
        ↓↑
        高天原廣野姫天皇
        持統天皇
        大倭根子天之廣野日女尊
            諱 鸕野讚良
        ↓↑
        日本根子
        高瑞浄足姫天皇
            元正天皇
            諱 氷高・日高・新家
        ↓↑
        高野姫・第四六代天皇(在位749~758)
            阿倍
            高野姫尊
            高野天皇
            宝字称徳孝謙皇帝
            倭根子(ねこ)天皇
            孝謙天皇・穪(称)称徳天皇
        ↓↑
        高野山
          ・・・高野長英・瑞皐
        高知県
       日高国
        ↓↑
        高島易断
        高島 嘉右衛門(たかしま かえもん)
        1832年11月22日(天保三年十一月一日)
        ~
        1914年(大正三年)10月16日)
           大運1907年12月(75歳)己未・偏官
       壬辰(乙癸戊)劫財・正官 養⇔甲寅・傷官
       辛亥(戊甲壬)偏印・劫財帝旺⇔甲戌・傷官
        三合乙・食神
       癸卯(甲 乙)  ・食神長生⇔乙亥・食神
       癸丑(癸辛己)比肩・偏官冠帯⇔丁丑・偏財
        辰巳空亡
    ?・・・龍蛇の空がムナしい・・・

 ↓↑
 高句麗
 ともに
 前秦朝貢した記事
 考古学的には
 積石木槨墳
 墓制の登場をもって
 新羅の成立・・・
 円墳
 複数の円墳が複合した
 双円墳
 集合墳の形態
 新羅が「成立」した4世紀頃
 おおよそ
 洛東江を境にして
 東側は新羅
 西側は伽耶
 異なる政治的・文化的な領域・・・
 ↓↑
 周辺諸国新羅
 377年
 前秦への遣使が
 高句麗と共同で
 (高句麗の影響下で)行われた
 初期の新羅
 高句麗に対し相当程度
 従属的な地位
 382年
 新羅は再度単独で
 前秦への遣使を行ったが
 高句麗の承認の下だった・・・
 新羅は建国初期から
 ↓↑
 「倭人の脅威」
 にも晒されていた
 ↓↑
 4世紀末~5世紀
 『三国史記
 「中原高句麗碑」
 などの発掘史料
  ↓↑
 「広開土王碑」
  ・・・好太王碑・・・
    「好=女+子」
    「太=一+人+丶」・・・
       初めの人のテン(氐務)?
    「好太王」の業績(広開土=領土拡大確保)
     を称えるため
     子の
    「長寿王」が設置
     碑文
    「甲寅年九月廿九日乙酉」
    (西暦414年10月28日)
     ↓↑
     甲寅(戊丙甲)劫財・劫財帝旺
     甲戌(辛丁戊)劫財・正財 墓
     乙酉(庚 辛)  ・偏官 絶
     丁丑(癸辛己)食神・偏財 衰
     に建設
     ↓↑
     1880年(光緒六年)
     清国集安の農民が発見
     その翌年に
    「関月山」によって
     拓本作成・・・
     ↓↑
    「百殘=百済」と刻字
    「王」の刻字は
     高句麗王に限定
    「主」は
     百済
    「百済王=殘主」(2回)
    「百済=百殘」 (3回)
    「殘国」    (1回)
    「殘」     (1回)
     などと刻字
    「倭=倭賊」  (1回)
    「倭寇」    (2回)
     殘=残
     殘=歹+戔
       一+夕+戈+戈
       ザン
       のこる・のこす
       あまる・あまり
       そこなう・きずつける
       いためつける・ほろぼす
       むごい・むごたらしい・ひどい
       残酷
    ↓↑
    百済高句麗の激闘
    百済高句麗
   「斯由」を戦死させ
    372年
    東晋から
    鎮東将軍・領楽浪太守の地位を与えられた
    高句麗領の
   「楽浪」を支配する名目的な地位を獲得
    倭=任那
    倭軍と同盟
   「好太王」の主要な敵は「倭」・・・
    繰り返し倭軍への攻撃
    百済の要請に応じて
    倭が
    平壌近くまで出兵
    高句麗はその倭軍と戦った
    百済の救援要請で
    倭の五王
   「都督百済諸軍事
   (百済を軍事的に支配する権限)」
    好太王
    新羅の要請を入れて
    倭軍と戦った記事
    倭の五王が称号に
    新羅における
   「軍事支配権(都督新羅諸軍事)」を主張
    新羅高句麗の勢力を背景に
    倭の勢力を排除するが
    高句麗の勢力下に組み込まれ
    この高句麗を排除するため
    倭の軍事力に依存・・・
   「倭王」の新羅に対する
   「都督新羅諸軍事」の主張・・・
   「秦韓=斯韓=辰韓新羅
   「慕韓=馬韓百済」・・・慕(した)う韓・・・
                ダレをシタウのか?
   新羅百済の非支配下弁韓任那加羅
              倭に依存
        「都督 秦韓・慕韓 諸軍事」
  「任那弁韓=倭の支配下
        「都督 任那 諸軍事」
         倭王の軍事支配権
         後
        「都督諸軍事」+「加羅
        『南斉書』
        建元元年(479年)
        加羅国王が
        独自に南斉に朝貢
        「輔国将軍・加羅国王」
        に封冊
        「高霊加羅
        のきを背景にした称号追加・・・
 ↓↑     ↓↑
  ・・・1906年
     白鳥庫吉
     と
     日本海
     が、好太王碑を日本へ搬出しようと計画
     好太王碑が
    「大なる故運搬の困難にして
     又
     字面損傷の恐ありし爲め、中止」・・・
     ↓↑
     高麗王朝代の
    『三国史記』に記録なし
    『日本書紀古事記』にも記録なし
    『三国史記』には
     高句麗百済新羅
     のそれぞれの本紀に関連記事としてはある・・・
    「好太王碑」には
    「後燕」との関係記事が無い
     高句麗の敗北や屈辱的な服属は
     記述の対象外・・・
    『梁書高句麗
    「後燕」の
    「慕容垂」の死後
     即位した
    「慕容宝」
    は
    「句驪王安(好太王
     を以て
     平州牧と為し
     遼東・帯方二国王に封ず。
     安
     始めて
     長史・司馬・參軍官を置く」
    と記録
    「好太王碑」
    に太子が「世子」と記録
    「好太王
    が
    「後燕」の封冊を受けていた・・・
    ↓↑
    碑の拓本を日本に招来したのは
    「酒匂景信」
    研究に着手したのは
    陸軍参謀本部・・・
    呼称
   「好太王碑=広開土王碑」
   「高句麗碑=高句麗古碑」
   「東扶餘永楽太王碑」
   「高句麗第十九世広開土王墓碑」
   などと呼称・・・同一物
   名の由来
   碑文のなかに
   4箇所にわたって
   「国岡上 広開土 境 平安 好太王
   その名が記録
   『三国史記』に
   「広開土王」の名は記録
   ↓↑
   日本と拓本
   1884年(明治十七年)1月
   情報将校
   陸軍砲兵大尉
   「酒匂景信」
   が参謀本部に持ち帰った
   参謀本部
   文官
   「青江秀」
   「横井忠直」
   が研究解読
   「倭の五王以前」
   の古代日本を知る史料とわかり
   漢文学
   「川田甕江」
   「丸山作楽」
   「井上頼圀
   らの考証を経て
   1888年(明治二十一年)末
   酒匂の名により
   拓本は宮内省へ献上された
 ↓↑
 など多くの史料
  ↓↑
 「広開土王碑」
 新羅高句麗の属民とし
 大きな戦いを記録
 高句麗は古より
 百済
 「属民」とし
 391年
 倭が
 百済新羅
 「臣民」としので
 高句麗は出兵し
 倭軍を撃退
 その戦いの中
 400年頃
 新羅の王都が
 倭軍に占領
 高句麗
 新羅に出兵
 倭を撃退し
 「任那加羅
 まで追った
 新羅
 高句麗と倭の両方に
 王子
 「宝海(卜好)」
 と
 「美海(未斯欣)」
 を人質として送った
 「中原高句麗碑」
 高句麗
 新羅領内で
 人夫を徴発
 碑文は
 高句麗
 と
 新羅
 「寐錦(王)」
 の関係を兄弟に擬制
 高句麗王を兄とした
 上下関係を表現・・・
 ↓↑
 450年
 新羅
 高句麗
 辺将を殺害
 高句麗
 新羅征討を計画したが
 新羅が謝罪し
 一旦問題は収まったが
 ↓↑
 454年
 高句麗
 新羅領に侵入
 翌年
 高句麗百済の戦いで
 新羅百済へ援軍を送り
 高句麗から
 自立していった
 ↓↑
 5世紀末頃
 慶州盆地の丘陵に
 月城=王城を築き
 この盆地に
 喙部、沙喙部、牟梁部
 本彼部、習比部、漢岐部
 6地域(新羅六部)があり
 自律的な政治集団を形成しつつ
 対外的には
 王京人として結束、連合体を形成
 喙部、沙喙部は突出
 ↓↑
 西暦500年
 「智証麻立干(在位500年~514年)」
 国号を正式に新羅とし
 王号を旧来の
 「麻立干」から「王」へと変更
 ↓↑
 503年
 『迎日冷水碑』
 で
 「智証(至都蘆=智証の異表記)」
 「葛文王」
 ↓↑
 524年
 『蔚珍鳳坪碑』
 「法興王(在位:514年~540年)」
 「寐錦王」
 と称している
 ↓↑
 「智証王」
 の跡を継いだ
 「法興王」
 は
 520年
 「律令」を発布
 独自の官位制を整えた
 140年ぶりに
 中国(南朝、梁)への遣使
 ↓↑
 522年
 「大伽耶(高霊)」・・・高霊=高麗?
 と婚姻
 ↓↑
 532年
 伽耶地方の
 金官国
 を降伏させて併呑
 ↓↑
 536年
 独自年号
 「建元」
 を制定
 ↓↑
 527年
 仏教を導入
 新羅における仏教の端緒を開いた
 「法を興す」
 という彼の名はこれにちなんでおり
 王は廃仏派の群臣たちと
 対峙して処刑された
 「異次頓」
 僧侶
 「阿道」
 とともに新羅仏教の三聖人に数えられている
 「法興王」
 『蔚珍鳳坪碑』
 犯罪者に杖刑を裁定する際の
 裁定者として
 「牟即智(法興)=寐錦王」
 「従夫智=葛文王」
 複数の「王」が併存する体制が継続
 ↓↑
 6世紀中頃
 急激な領域拡大
 真興王(在位:540年~576年)
 の時代
 新羅高句麗と争い
 551年
 「小白山脈」を超えて
 高句麗の10郡を奪取
 ↓↑
 552年
 高句麗百済の争いの中で
 漢城(ソウル)を手中に収め
 「新州」を置き
 朝鮮半島の西海岸に勢力を伸ばした
 漢城は元々百済の首都であったが
 475年
 高句麗によって奪われ
 新羅の行動は
 百済との関係悪化を招いた
 ↓↑
 553年
 百済
 聖王が率いる軍勢を
 新羅軍が撃破
 聖王を戦死させ
 漢城周辺を確保
 ↓↑
 562年
 伽耶地方の
 大伽耶を滅ぼして占領
 洛東江下流域の
 伽耶諸国が
 新羅支配下に入った
 王都では
 仏教の隆盛
 寺院建築
 仏教儀礼
 が盛んとなり
 「花郎
 貴人の青年組織が制度化
 ↓↑
 564年
 北斉朝貢
 翌年
 「使持節 東夷校尉 楽浪郡公」
 に冊立
 ↓↑
 568年
 南朝
 陳にも朝貢
 南北両王朝との外交関係の構築は
 新羅高句麗百済と並んで
 東アジアの中で地位を確保
 新羅の拡張と中国王朝との関係構築は
 その両者によって挟まれる
 高句麗
 に脅威を与え
 570年
 初めて
 倭国に使者を送って
 外交関係の構築を模索
 ↓↑
 三国時代の終焉
 589年
 隋が中国統一
 中国の南北朝時代終焉
 高句麗百済、遅れて新羅
 隋に朝貢
 隋を中心とした国際秩序が形成
 隋と国境を接する
 高句麗はその軍事的圧力を強く受け
 度重なる隋の侵攻を受けたが
 隋の高句麗遠征は失敗
 ↓↑
 隨王朝は倒れ
 618年
 唐が興った
 唐は当初三国の和解を促しつつ
 情勢の安定化を試みたが
 640年代
 隋代に失敗した
 高句麗への遠征を再び繰り返す
 ↓↑
 高句麗
 642年
 「淵蓋蘇文」
 がクーデター
 唐の侵攻に備えた
 ↓↑
 百済では
 「義慈王(在位:641年~660年)」
 即位し
 642年
 新羅に侵攻
 新羅は敗北を喫し
 伽耶地方を中心に
 40城余りを失い
 大耶城(慶尚南道陜川郡)
 失陥の際には
 城主が妻子もろとも殺害された
 この城主の妻は
 新羅の王族
 「金春秋」
 の娘であり
 新羅では一連の敗北を
 「大耶城の役」と呼び
 城主一家の死にこだわり続ける
 翌年には
 高句麗百済が和睦
 倭国とも連携する動きも生じ
 新羅は孤立
 敗戦の後
 新羅
 「善徳女王」
 「金春秋」
 そして
 旧金官国の王族
 「金庾信」
 が結束
 642年~676年
 朝鮮半島統一に帰着
 新羅
 643年・・・645年(大化の改新・乙亥の変)
 唐に
 救援を求めたが得られず
 「善徳女王」
 を退けて唐の皇族を
 新羅王に据えることを要求され
 新羅国内では
 親唐派
 と
 反唐派の対立
 上大等の
 「毗曇」
 が女王の廃位を求めて反乱
 「善徳女王」
 が急死し
 「毗曇」の反乱は半月程度で鎮圧
  ↓↑
 「金春秋(武烈王)」
  が
 「真徳女王」
 を立てて唐との関係構築を模索
 「金春秋」
 は中国の律令制度を取り入れる改革を始め
 650年
 新羅独自で用いていた
 「年号・太和」・・・太和⇔大和・・・?
 を廃止
 唐の年号を用いるなど
 唐との連携を強めていった
 ↓↑
 655年
 高句麗百済から攻撃を受け
 唐に救援と出兵を依頼
 ↓↑
 658年
 唐は高句麗遠征を行ったが
 隋と同じく度重なる失敗
 唐は
 高句麗征服するに
 まず
 百済を先に攻略することを決定
 ↓↑
 660年
 海路から百済を攻撃
 新羅もこれに呼応し
 百済に出兵
 百済将軍
 「堦白」を撃破
 百済の首都
 「泗沘」が唐によって攻略
 「熊津」
 も攻撃を受けて
 百済滅亡
 百済の遺臣は
 倭国高句麗の支援を
 頼みに反乱を起こし
 倭国から
 派遣された援軍が
 663年
 「白村江の戦い
 で大敗
 百済復興失敗
 唐は
 南北から高句麗を包囲し
 高句麗攻撃をしたが失敗
 666年
 高句麗
 「淵蓋蘇文」
 死去
 息子たちの間で不和
 667年
 唐は
 高句麗遠征を開始
 新羅
 「文武王(在位:661年~681年)」
 は唐に呼応して
 30人の将軍と共に
 高句麗に侵攻
 668年
 唐軍が高句麗の首都
 平壌を陥落させ
 高句麗滅亡
 唐軍は20万とされる捕虜を連れ帰り
 新羅軍も7000人の捕虜を得て
 王都へ帰還
 ↓↑
 唐
 一連の征服に伴い
 旧百済領 に熊津都督府
 旧高句麗領に安東都護府
 を設置して
 「羈縻州
 として組み込み
 新羅
 「文武王」
 を
 「鶏林大都督」
 として朝鮮半島全域の支配を目論んだが
 新羅
 高句麗最後の王
 「宝蔵王(在位:642年~668年)」
 の外孫とされる
 「安勝
 を
 「高句麗王(報徳王)」
 に封じて庇護
 「高句麗の使者」を
 「倭国」に朝貢させ
 新羅の使者も
 帯同して
 高句麗使が
 「倭国」へ送られた・・・
 これは
 新羅
 高句麗
 保護下に置いていることを
 外交的に示威
 「報徳王」
 の冊立とともに
 新羅王権の正統性を内外に示し
 唐が設置した
 「安東都護府
 に対抗
 新羅は旧百済領の一部を事実上併呑
 唐は百済故地に置いた
 「熊津都督府
 の都督に旧百済王族の
 「扶余隆」
 を据え
 新羅王と会盟を行わせ
 制圧した城や遺民の返還を要求
 新羅は謝罪使を派遣
 朝鮮半島全体を
 「羈縻州
 とする唐の論理を逆手にとって
 「百済新羅は共に
  唐の羈縻州であり
  境界をわかつべきではない」
 と主張して正当化し
 670年
 軍事行動を起こして旧百済領に侵攻
 672年
 2度目の謝罪使を派遣
 侵攻と謝罪を繰り返しつつ勢力を扶植
 674年
 唐は新羅征討軍を起こし
 675年
 新羅は3度目の謝罪使を派遣したが
 唐の皇帝
 「高宗(在位:649年~683年)」
 の逆鱗に触れ
 「文武王」
 の官職剥奪のまでに進展
 新羅は謝罪外交と並行して
 更なる軍事的処置を取り
 676年
 伎伐浦で唐軍を破って事実上
 旧百済領全域の支配を掌握
 唐は同年中に
 熊津都督府を遼東の建安城
 安東都督府も遼東城に後退させた
 唐はなお
 新羅征討を計画したが
 チベット
 吐蕃の勢力拡張によって
 朝鮮半島に兵力を回す余裕がなくなり
 678年
 に新羅征討を断念
 新羅朝鮮半島中部以南から
 唐の勢力を排除
 「安勝
 の高句麗亡命政権
 684年
 に取り潰した
 ↓↑
 698年
 旧高句麗
 旧高句麗遺民
 や
 靺鞨
 などが中心となって
 渤海が興った
 渤海は唐の退潮による
 東北アジアの権力の空白を埋める形で
 中国東北地方
 (満洲)南部
 朝鮮半島北部
 ロシア沿海州
 に相当する地域に勢力を広げた
 8世紀
 黒水部に対する
 渤海の勢力拡張を巡る紛争から
 唐と渤海の対立が深まり
 732年
 渤海が唐の登州(山東省蓬莱市)を襲撃
 唐は新羅渤海攻撃を要請
 新羅はこれを受け入れたが
 その攻撃はほとんど戦果がなかった
 が、唐と新羅の関係は改善
 翌年に新羅渤海攻撃の功績によって
 浿江以南の地を冊封された
 渤海
 8世紀後半の
 「文王」の頃には
 高句麗の後継者とし
 「高麗国王」を名乗った

ー↓↑ーーー

(ユカリとオジさんの世迷い言・2)
古代エジプトの神々(1)・絵字符都・『埃及』(1)・(42)
http://web.archive.org/web/20080501061632/http://www1.odn.ne.jp/~haa98940/fanin/pura2/kojiki42.htm

 

 ↓↑   ↓↑
エメラルドブルーの謎  (碧き眼の人形伝説)  奈井江 五郎
  ↓↑   ↓↑
 「プラトン古事記をカタル(古事記字源)  + (表紙・画像・音楽)」の移転先・・・
 ↓↑
 ボクの「古事記字源」の発端・・・
 ↓↑
 干支歴
 ↓↑

 追加添文 「戦争と平和」・・・「モウケの生き方」

 ↓↑
 メリキリの - YouTubehttps://www.youtube.com/watch?v=7xgS0oJhhe8

 

 

 ↓↑
 モモちゃんhttps://www.youtube.com/embed/W00rHNN2zMQ?

 

 

 ↓↑
 モウ君の総合目次
 ↓↑

  コジキ姫赤い絨毯に乗る(m)

 ↓↑
 古事記と虎関師錬
 ↓↑鉄腕アトムのロボット法を思い出してこれを貼り付けてみたけれど・・・

 

オジタリアンと「鉄腕あとむ」の「ポ