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同音異義の探索

鏡の裏を視る女・・・「鏡の王女」・・・鎌足の正妻?

 文字霊日記・3390日目

 鏡の裏を視る女・・・「鏡の王女」・・・鎌足の正妻?

 443年
 干支  癸未
 日本  允恭天皇32年
     皇紀1103年
 中国
 宋   元嘉20年
 北魏  太平真君4年
 北涼  承平元年
 朝鮮
 高句麗 長寿王31年
 百済  毗有王17年
 新羅  訥祇王27年

 503年
 干支  癸未
 日本  武烈天皇5年
     皇紀1163年
 中国
 梁   天監2年
 北魏  景明4年
 朝鮮
 高句麗 文咨明王13年
 百済  武寧王3年
 新羅 智証王4年

 563年
 干支  癸未
 日本  欽明天皇24年
     皇紀1223年
 中国
 陳   天嘉4年
 後梁  天保2年
 北斉  河清2年
 北周  保定3年
 朝鮮
 高句麗 平原王5年
 百済  威徳王10年
 新羅  真興王24年
     開国13年

 623年
 干支  癸未
 日本  推古天皇31年
     皇紀1283年
 中国
 唐   武徳6年
 朝鮮
 高句麗 栄留王6年
 百済  武王24年
 新羅  真平王45年
     建福40年
 新羅任那を討つ
 倭、軍を任那に遣わし、新羅を討つ
 誕生
 武則天、唐の高宗の皇后(~705年)
 文成公主、唐の皇女
 吐蕃のソンツェン・ガンポ王の第2皇后(~680年)
 死去
 3月31日(推古天皇31年2月22日)
 恵慈、飛鳥時代高句麗からの渡来僧
 麴伯雅、高昌国の王
 吉蔵、中国の六朝時代、唐代の僧(549年~)
 徐円朗、隋、唐の民衆叛乱の指導者
 吉蔵、隋の政治家(542年~)
 平陽昭公主、唐の高祖李淵の三女
 劉黒闥、唐の民衆叛乱の指導者

 683年
 干支 : 癸未
 日本
 天武天皇12年
 皇紀1343年
 中国
 唐 : 永淳2年、弘道元
 3月4日(天武天皇12年2月1日)
 大津皇子、朝政を聴く
 4月3日(天武天皇12年3月2日)
 僧に関する制度を制定、僧正・僧都・律師の位が設けられる
 5月16日(天武天皇12年4月15日)
 銀銭を廃止し銅銭の使用を命じる(富本銭
 5月19日(天武天皇12年4月18日)
 銀銭の使用を止めないよう命じる
 誕生
 一行、唐の僧、天文学者(~727年)
 キルデベルト3世、メロヴィング朝の第10代国王(~711年)
 文武天皇、第42代天皇(~707年)
 李重潤、唐の皇族(~701年)
 死去
 7月2日(天武天皇12年6月3日)
 大伴馬来田、飛鳥時代の人物
 7月5日(天武天皇12年6月6日)
 高坂王、飛鳥時代の皇族
 8月2日(天武天皇12年7月5日)
 癸未
 己未
 庚寅
 鏡王女、藤原鎌足の正妻、歌人・・・「鏡の王の女」
 9月1日(天武天皇12年8月5日)
 大伴吹負飛鳥時代の人物
 12月27日(弘道元年12月4日)
 高宗、唐の第3代皇帝(628年~)
 薛仁貴、唐の軍人(614年~)
 ヤズィード1世、ウマイヤ朝の第2代カリフ(645年~)
 李謹行、靺鞨の首長(619年~)
 パカル大王、パレンケ王(603年~)
 ↓↑
 隅田銅鏡、鏡背「48字」金石文・・・?
  隅田銅鏡・・・隅=阝+禺
  ↓↑
  隅=阝+禺
   阝+甲+禸(ジュウ・獣の足跡)
   阝+甲+冂+ム
   グウ
   すみ
   かたすみ・かど
 ↓↑
 禺=禸部(ぐうのあし・じゅう・じゅうのあし)
   グ・グウ
   おながざる・獣の名
   わかち・区別・区域

 ↓↑
 隅=阝+禺・・・大隈重信隅田川・墨東奇譚
 偶・・・偶数・土偶・偶然
 遇・・・遭遇
 寓・・・龍寓(宮)・龍宮城・乙姫様・浦島太郎・亀
 嵎=山+禺
 萬・・・太安萬(万)侶・古事記・乞食
 㥥=忄+禺
 喁=口+禺
 堣=土+禺
 媀=グウ・グ・ゴウ
   女性が男性に嫉妬
 庽=广+禺
 湡=氵+禺
 䦸=門+禺
 愚・・・愚連隊・愚図
 腢=月+禺
 㬂=日+禺
 㷒=火+禺
 㻦=王+禺
 禑=示+禺
 㼴=禺+瓦
 耦=耒+禺
 歶=此+禺
   止+匕+禺
   喪車(ソウシャ・霊柩車)を覆(おお)う布
 䚤=角+禺
 鍝=金+禺
 顒=禺+頁=ギョウ
   大きな頭・頭が大きいさま
   穏やか・温和なさま・落ち着いているさま。
   仰ぎ慕う・つつしみ敬う
 髃=骨+禺
 鰅=魚+禺
 齵=齒+禺
   止+凵+从+一+从+禺
   止+凵+人+一+禺
   グ・ゴウ
   歯が一度抜け落ちて再生すること
   八重歯(やえば)
   歯並みが揃っていない・歯並びが悪い
 ↓↑
 地名
 大隅おおすみ
 大隅町荒谷(おおすみちょうあらたに)
 大隅町荒谷荒谷(おおすみちょうあらたにあらたに)
 大隅町荒谷大迫(おおすみちょうあらたにおおさこ)
 大隅町荒谷中大迫(おおすみちょうあらたになかおおさこ)
 ↓↑
 名字
 阿隅=あすみ
 有隅=ありすみ=ありずみ
 石隅=いしすみ=いしずみ
 井隅=いすみ
 夷隅=いすみ
 ↓↑
 一隅(イチグウ)
 片隅(かたすみ)
 隅(すみ)
 隅隅(すみずみ)
 隅っこ(すみっこ)
 四隅(よすみ)
 隅一(すみいち)
 ↓↑
 小楊枝で重箱の隅をほじくる
 重箱の隅は杓子で払え
 重箱の隅を突つっつく
 重箱の隅を楊枝でほじくる
 隅から隅まで
 隅に置けない
 楊枝で重箱の隅をつつく
 楊枝で重箱の隅をほじくる
 ↓↑
 参照、参考原文は by「ウイッキペデア」・・・
 ↓↑

 隅田八幡神社人物画像鏡
 (すだはちまんじんじゃじんぶつがぞうきょう)
 和歌山県
 橋本市
  隅田八幡神社所蔵
  5世紀 ~ 6世紀 頃製作の 銅鏡
 鏡背に48字の 金石文
 ↓↑
 癸未年・・・西暦443年or503年
 八月
 日・・・・・・・曰(いわ)く
 十・・・・・・・十=たり=足=拾
 大王
 年
 男
 弟王・・・・・・弟=おと・・・男の弟王・・・大王=女?
 在意
 柴沙加(おしさか)宮・・・柴=しば・サイ・ゼ
 時
 斯麻・・・・・志摩・㠀・嶌・シマ・島・嶋・司馬
 念
 長寿
 遣
 開中費直(かわちのあたい)
  (河内直、『百済本記』云、加不至(カフチ))
   ・・・・開⇔歸・・・中費直?
       中
       費=ヒ・ついやす・ついえる
         かかり・ものいり
         さからう・もとる
         消費・費用
       弗=弓+ノ+丨
         フツ
         ホツ
         ず
         ドル=アメリカ貨幣単位
         「~ず」
         「~しない・~でない」
         と否定の意を表す
       直=ジキ・チョク・チ
         ただちに
         なおす
         なおる
         あたい
         じか
         すぐ
         ひた
         正しい・曲がっていない
         すなお・まっすぐ・なおい
         なおす・なおる・正す・のばす
         あたる・番にあたる・事にあたる
         ただ・ただちに・すぐに
         じかに・間に何もなく
         人や物を介さずに
         ね・あたい・値打ち・値段・価格
         あたいする・価値がある・値打ちがある
         なおす・なおる・元の状態になる
         ひた・ひたすら・ひたむき・ただ
 穢人(わいじん・濊人)
 今州利(コンスリ・錦州里)
 二人等
 取
 白上
 同二百旱
 作
 此竟(鏡)
 ↓↑
 443年説
 倭王済
 宋に使者派遣
 「安東将軍倭国王」称号
 大王=允恭天皇
 意柴沙加宮(おしさかのみや)
 皇后
 忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ、雄略天皇母)
 の宮処
 男弟王は不詳
 「日十大王=日下大王」
 と読み
 「大草香皇子(454年没)」
 万葉集の註に
 「日下」を「早」と書いた例がある
 「日十」を「早」の一文字・・・説
 「日十」は「草」の簡体字・・・説
 忍坂大中姫に
 意富富杼王(おおほどのおおきみ)
 の兄弟
 継体天皇の諱
 「乎富等、袁本杼(ヲホド)」
 「男弟(ヲオト)」とは一致しない

 ↓↑ 
 503年説
 「日十大王=ヲシ大王」と読み
 『書紀』がその名を
 「大石=大脚」とする
 仁賢天皇であるとし
 「孚弟王=フト王=ホド王」
 と訓じ
 「袁本杼(おほど)=彦太(びこふと)」
 とある継体天皇に比定・・・説
 諱に「斯麻」を持つ
 百済武寧王(在位:502年~523年)
 鏡の作者「斯麻」を武寧王と推定
 1971年に発見された
 百済武寧王墓誌にも
 「斯麻王」と確認
 男弟王を即位前の継体天皇と解釈・・・
 『日本書紀
 「磐余玉穂宮」(526年遷宮)の前に
 「忍坂宮」のある大和国に入っていたこととなり
 記述と矛盾し
 即位後19年間
 大和に入れなかったとする説は成り立たなくなる
 即位前の継体天皇
 大王の後継者として
 大和政権の中枢部におり
 大和忍坂に拠点をかまえて
 対百済外交を担当していた・・・
 雄略天皇没後
 顕宗、仁賢系の王統と
 継体系の王統(皇統)が並立・・・
 継体と手白香皇女
 安閑と春日山田皇女
 宣化と橘仲皇女の婚姻により
 両王統が統合を果たしていった・・・?
 ↓↑ 
 帰=リ+帚
   リ+彐+冖+巾
   キ
   かえす(帰す)
   かえる(帰る)
   おくる(贈る)
   とつぐ(嫁ぐ)
   かえる
   もどる(戻る)・もとの所にもどる
   かえす(返す)・もどす・もとの所にもどす
   物事が最終的に落ち着く・おさまる
   嫁にいく・女性が結婚する
   品物を贈る
   同音漢字
   かえる=蛙・孵・替・変・代・返・還・換
   異体字
   「歸=皈=㱕=归=䢜」
   帚(ほうき)=菷(ははき)
   α+帚
   掃=扌+帚=扫=はく・掃討・掃除・・・相似
     掃き溜めに鶴
     「掃」を含む四字熟語
     校書掃塵(コウショソウジン)
     灑(洒)掃応対(サイソウオウタイ)
     灑(洒)掃薪水(サイソウシンスイ)
     杜門却掃(トモンキャクソウ)
     斗量帚掃(トエヨウソウソウ)
   埽=土+帚=掃
   婦=女+帚=婦人
   㴆=氵+帚=水に浸(ひた)る・水に浸(つ)かる
        =浸・浸水
         𡩻・㴆・𥧲・𩅕
   㷌=火+帚=
   㫶=日+帚=シュウ・あきらか=明
   䢜=辶+帚=帰・歸・皈・㱕・归
   㱕=止+帚=帰
   㑴=イ+帚=侵略・侵入
   箒=竹+帚=ほうき・ソウ・シュウ
   濅=氵+宀+帚=𡩻・㴆・𥧲・𩅕
   薓=艹+氵+帚=箒・帚
   歸=𠂤+止+帚=帰
   鯞=魚+帚=シュウ
         鱖鯞(ケッシュウ)
         ばらたなご・コイ科の淡水魚
   蘬=艹+𠂤+止+帚=掃
   巋=山+𠂤+止+帚=キ・巋山=𡿢・岿
     山が高く大きいさま
     巋然(キゼン)一つだけ高く突き出ている山
     小さな山が連なっているさま
   㝲=宀+爿+艹+帚=寝=寢
     宀+爿+艹+罒+冖+彐+巾
     シン・ねる・ねかす・ねむる・横になる
     みたまや=祖先の霊をまつる建物=廟陵
     みにくい(醜い)・姿や態度などがよくない
     やめる
     とりやめる・中止する
     へや・奥座敷
 ↓↑   ↓↑
   草箒・草帚(くさぼうき)
   帚木・箒木(ははきぎ)
   帚・箒(ほうき)
   斗量帚掃(トリョウソウソウ)
   弊帚千金(ヘイソウセンキン)
 ↓↑ 
 蓋鹵=かすり・・・鹵=鹽=塩=しお・ロ・・・纃・綛
        淵蓋蘇文 (えん がいそぶん)
        ?~ 666年( 宝蔵王二十五年)
          663年=白村江の戦い
          天智二年八月(663年10月)
          朝鮮半島の白村江(錦江河口付近)・・・
          錦江・・・
        高句麗 末期の
        大莫離支(テマクリジ・宰相)・将軍
        淵蓋蘇文 (えん がいそぶん)
        泉蓋蘇文=泉蓋金
            =伊梨柯須彌(いりかすみ)
            =伊梨柯須弥(いりかすみ)
            = 蓋金  
        鹵獲(ロカク)・鹵簿(ロボ)
        鹵≠歯(は・シ)・・・歯医者・歯科・尚歯会
 相模=さがみ・・・佐賀美・相神・佐上
        模擬・模倣・・・摸・摸倣
 對馬=つしま・・・都万=つま=嬬・妻・・・吾妻・吾嬬
 群馬=くるま・・・久留米

 ↓↑ 
 曰理=わたり・・・・曰=いわくの理(リ・ことわり)・エツ⇔日
 邑曰=おほわち・・・曰=邑(ユウ・むら・みやこ)のいわく・エツ⇔日
 ↓↑   ↓↑
 白雉二年(651年)
 左大臣
 巨勢
 「徳陀子」が
 「中大兄皇子天智天皇)」
 に新羅征討を進言したが、却下、不採用
 白雉四年(653年)・白雉五年(654年)
 遣唐使派遣
 ↓↑ 
 斉明天皇
 越国守
 「阿倍比羅夫
 658年(斉明天皇四年)4月
 659年(斉明天皇五年)3月
 蝦夷討伐
 660年(斉明天皇六年)3月
 粛慎の討伐
 ↓↑ 
 660年
 百済が唐軍(新羅)に敗北、滅亡
 660年(斉明天皇六年)3月
 唐の
 「蘇定方」
 を神丘道行軍大総管に任命し
 「劉伯英」
 将軍に水陸13万の軍を率いさせ
 新羅軍も従軍し
 水陸二方面作戦でて百済へ侵攻
 ↓↑ 
 獄死した
 佐平の
 「成忠(セイチュウ)」は
 陸の
 炭峴(大田広域市西の峠)
 海の
 白村江の防衛を進言
 百済
 「義慈王」はこれを却下、不採用
 「古馬弥知(こまみち)」県に流刑されていた
 佐平の
 「興首(コウシュ)」
 も同様の作戦を進言していたが
 王や官僚はこれを流罪にされた恨みで
 誤った作戦を進言したとして
 唐軍が炭峴と白江を通過したのちに
 迎撃すべきと進言したが
 唐軍はすでに炭峴と白江を超えて侵入していた
  ↓↑ 
 「黄山の戦い」
 百済の将軍
 「階伯」
 の決死隊5000兵が3つの陣を構えて待ちぶせ
 新羅は太子
 「金法敏(文武王)」
 「金欽純(キンキンジュン)」将軍
 「金品日(キンヒンジツ)将軍
 らが黄山を突破しようとしたが、百済軍は防衛
 7月9日
 「黄山の戦い」で
 「階伯」ら
 百済軍は新羅軍をはばんだが戦死
 新羅軍にも多大な損害を受け
 唐との合流の約束期日
 7月10日に遅れ
 唐の蘇定方は
 新羅
 「金文穎」
 を斬ろうとしたが
 咎を受けるのであれば唐と戦うと言い放ち
 「蘇定方」の部下が取り成し許された
 ↓↑ 
 唐軍は
 「熊津口」の防衛線を破り百済王都に迫った
 7月12日
 唐軍は王都を包囲
 7月13日
 「義慈王」は
 「熊津城」に逃亡
 太子
 「隆」が降伏
 7月18日
 「義慈王」が降伏
 ↓↑ 
 660年(斉明天皇六年)8月
 百済滅亡後
 唐は百済の旧領を
 「羈縻」支配の下に置き
 唐の
 「劉仁願」将軍は
 王都泗沘城を守備
 「王文度(オウブンタク)」
 を熊津都督として派遣
 戦勝記念碑
 「大唐平百済国碑銘」を建て
 滅亡百済
 「外には直臣を棄て
  内には妖婦を信じ
  刑罰の及ぶところただ忠良にあり」
 と彫られた
 大唐平百済国碑銘
 (扶餘郡の定林寺の五重石塔)
 ↓↑ 
 唐の戦略
 高句麗征伐
 百済討伐はその障害要因の除去で
 唐軍は高句麗に侵攻
 百済遺民
 「鬼室福信」
 「黒歯常之」
 らによる百済復興運動
 8月2日
 百済残党が小規模の反撃
 8月26日
 新羅軍から
 任存(ニンゾン・忠南礼山郡大興面)を防衛
 9月3日
 唐の
 「劉仁願」将軍が
 泗沘城に駐屯
 百済残党が侵入を繰り返したが
 撃退され
 泗沘の南の山に
 4、5個の柵をつくり、駐屯し、侵入を繰り返した
 百済遺民に呼応し
 20余城が百済復興運動に応じた
 熊津都督
 「王文度」
 は着任後に急死
 ↓↑ 
 新羅軍が百済残党の掃討
 10月9日
 ニレ城を攻撃
 18日
 攻略すると
 百済の20余城は降伏
 10月30日
 泗沘の南の山の
 百済駐屯軍を殲滅し
 1500人を斬首
 百済遺臣
 西武恩卒
 「鬼室福信」
 「黒歯常之」
 「僧道琛
 らの任存城や
 達率
 「余自信」
 の周留城などが抵抗
 ↓↑ 
 百済の遺臣
 「鬼室福信」
 「黒歯常之」
 らが百済復興の兵をあげ
 倭国に滞在の百済王の太子
 「豊璋」を擁立し
 倭国に救援を要請
 ↓↑ 
 661年
 斉明天皇
 九州へ出兵するも
 「那の津」で急死
 「中大兄皇子」は
 「朴市秦造田来津(造船の責任者)」
 を司令官に任命して全面的に支援
 倭国軍は三派に分かれ
 朝鮮半島南部に上陸
 百済内部の混乱
 「道琛」は
 「鬼室福信」によって殺害され
 「鬼室福信」は豊璋によって殺害された

 ↓↑ 
 白村江の戦
 唐水軍 7,000名、170余隻
 指揮官 「劉仁軌」、「杜爽」
     元百済太子の
     「扶余隆」

 唐陸軍
 陸軍指揮官 「孫仁師」、「劉仁願」
       新羅王の
       「金法敏(文武王)」
 倭国
 第一派 1万余人、船舶170余隻
 指揮官 「安曇比羅夫」、「狭井檳榔」
     「朴市秦造田来津」
 第二派 2万7千人
 指揮官 「上毛野君稚子」、「巨勢神前臣譯語」
     「阿倍比羅夫(阿倍引田比羅夫)」
 第三派 1万余人
 指揮官 「廬原君臣(いおはらのきみおみ)」
     (廬原国造の子孫
      静岡県静岡市清水区が本拠地)
 661年5月
 第一派 倭国軍出発
 指揮官 「安曇比羅夫」、「狭井檳榔」
     「朴市 秦造 田来津」
     「豊璋王」を護送する先遣隊
     船舶170余隻
     兵力1万余人
     10000÷170=58.8・・・
      一隻におよそ「59人」が乗れる船
 662年3月
 第二派 倭国軍出発
 指揮官 「上毛野君 稚子」
     「巨勢 神前 臣 譯語」・・・譯語(おさ)?
     「阿倍 比羅夫(阿倍 引田 比羅夫)」
 ↓↑ 
 663年(天智二年)
 「豊璋王」は
 「鬼室福信」と対立し
 「惨殺・塩漬け」
 倭国の援軍と百済復興軍は
 百済南部に侵入した新羅軍を駆逐
 ↓↑ 
 唐は
 「劉仁軌」率いる水軍7、000名を派遣
 陸上部隊 「孫仁師」、「劉仁願」
      新羅王「金法敏(文武王)」
 水軍   「劉仁軌」、「杜爽」
      元百済太子の「扶余隆」
      率いる170余隻
 「熊津江」に沿って下り
 「陸上部隊」と会合して倭国軍を挟撃
 ↓↑ 
 海戦
 倭国軍は三軍編成をとり4度攻撃
 火計、干潮の時間差などにより
 663年8月28日
 唐・新羅水軍に大敗
 ↓↑ 
 陸戦
 唐・新羅の軍は
 倭国百済の軍を撃破
 ↓↑ 
 白村江に集結した1,000隻余りの倭船のうち
         400隻余りが炎上
 九州豪族
 筑紫君
 「薩夜麻」
 「土師富杼」
 「氷老」
 「大伴部博麻
 が唐軍の捕虜となり
 8年間も唐に抑留され帰国
 倭国軍、百済遺民を船に乗せ帰国
 ↓↑ 
 豊璋は城兵らを見捨てて
 周留城から脱出し
 8月13日
 倭軍に合流したが
 敗色が濃くなると
 数人の従者と共に
 高句麗に亡命・・・
 ↓↑ 
ーーーーー

(ユカリとオジさんの世迷い言・2)

古代エジプトの神々(1)・絵字符都・『埃及』(1)・(42)

エメラルドブルーの謎  (碧き眼の人形伝説)  奈井江 五郎
  ↓↑   ↓↑
 「プラトン古事記をカタル(古事記字源)
  +
 (表紙・画像・音楽)」の移転先・・・

 ↓↑
 ボクの「古事記字源」の発端・・・
 ↓↑
 干支歴
 ↓↑
 追加添文 「戦争と平和」・・・「モウケの生き方」
 ↓↑
 メリキリの - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=7xgS0oJhhe8

 ↓↑
 モモちゃん
https://www.youtube.com/embed/W00rHNN2zMQ?

 ↓↑
 モウ君の総合目次
 ↓↑
コジキ姫赤い絨毯に乗る(m)
 ↓↑
 古事記と虎関師錬

 ↓↑
鉄腕アトムのロボット法を
思い出して
これを
貼り付けてみたけれど・・・
AIの記憶・・・まだ、若いみたい・・・
オジタリアンと「鉄腕あとむ」の「ポルカ」 (haa98940.wixsite.com)