ないえごろうブログ

同音異義の探索

南(みなみ・ナン)・・・何・難・納・・・南無阿彌陀佛

文字霊日記・3476日目

 辰韓=しろぎ・しらぎ・シンラ・新羅=斯羅=秦・・・
    シンカン=震撼・新患・新刊・神官・信管

ー↓↑ーー

 統一新羅
 朝鮮半島
 中 南部・・・南(みなみ・ナン)・・・何・難・納
 ↓↑ ↓↑
   南無阿弥陀仏
   南には無し
   阿の彌(弓の爾)の
   陀(邑の它・拿)の
   佛=イ+弗=仏=イ+ム(私・己・よこしま)
   弗=助字・動作や状態の否定
   「~しない・~でない」
   不 と同義
   フツ・ヒツ
   もとる・はらう・あらず
  ねじる
  おさめる、はらう、きよめる。
  のぞく、さる、とる。
  怫(ふつ)と通じ、うれえる。
  仏と通じ、ほのか、にかよう。
  不・勿と通じ、ず、あらず、なし。
  弼(ひつ)と通じ、たすける。
  古辞書の訓
   名義抄
   弗=セズ・マジ・ザル・アラズ
     モトル・タガフ・タチマチ・ヲサム
   字鏡集
   弗=ヲサム・タチマチ・モトル・アラハス
     タガフ・ナシ・シム・ハシ・セズ
   声音
   弗=声
     費・佛(仏)・髴・・怫・沸
     など二十字
     「ふつ」は「もつれる(縺れる)」の意
     内から外にあらわれ出る感情や力
     ほのかな状態のものをいう形況の語
     「非・弗」の意をもつ否定詞
     「非・勿・無・(亡)・・(微)・蔑」
     などを用いるが
     本来の否定詞というべきものはない
     屍骨、暮夜
     蔑(ベツ)は
     媚(巫女)を殺して
     その呪力を微(な)くする形
     否定的な意味の語
     弗(弓+丿+丨⇔S+‖)も
     束ねて、もとらす=もたらす?
     持ち込む・特定の状態を 引き起こす
     生じさせる 意
     縦の木二三本(‖・卅)をつかね
     縄でまきつけた形
     曲直のあるものを強くたばねること
     〔説文〕「(もと)るなり」
     省文に従って「丿(へつ)・(ふつ)」する意
     字は枝をまげて強くたばねるので
     「払戻(フツレイ)」の意
     拂(払)の初文
     〔詩、大雅、生民〕
     「以て子無きを弗(はら)ふ」は「祓去」の意
     「不・勿(フツ)」などと同じく否定詞に用いる仮借
     「乃(そ)の司事を虔(ケンジュツ)
      せ弗(ず)んば
       不(あら)ず」
     「休命に對揚せ不(ず)んば
            弗(あら)ず」・・・「S+Ⅱ」?
 ↓↑   ↓↑
  弓=S
    S=ラテン文字(アルファベット)の19番目の文字
    ギリシャ文字
    「Σ(シグマ)」に由来し
    キリル文字
    「С」と同系の文字・・・???
    左半円の下に右半円を重ねた形=⊂+⊃=S
    Σ(シグマ)の小文字語末形「 ς⇔S」
    過去に、「長いs」と呼ばれる
     「ſ(f )」に似ているが
    横棒がある場合右に突き出さない
    が用いられた
    フラクトゥール大文字は
    「𝑆」
    他の書体の
    「G」とよく似ている
    小文字は
    「𝑠」
    であるが語尾にしか使われず
    語頭・語中には長い「s(ſ)」が常用される
    「S」の呼称
    拉・独・仏・英・蘭・葡・羅・尼
    スラヴ語:「エス
    西   :「 ese(エセ)」・・・似非
    伊   :「 esse(エッセ)」
    洪:エシュ=ɛʃ=エス:ソー
    音価・S(無声歯茎摩擦音)
    西欧の多くの言語で
    母音・有声子音に挟まれた単独のsを
    有声の「z」で読む
    英語
    単語によってはどちらで読んでもいいもの
    意味により変化するもの
    黙字となるものがある
    単語によっては
    「/z/」を表すsを
          zで書き換えることができる
    ハンガリー語
    「/ʃ/」をあらわす「sz」 を用いる。
    朝鮮語のローマ字表記
    初声の「ㅅ」に用いる・「ㅆ=ss」
    sh(英語)は/ʃ/、
    sch(ドイツ語)も/ʃ/
    tsch(ドイツ語)は/tʃ/
    Sの意味
    「宇田川榕菴」が著した
    「舎密開宗」の化学実験図で
    実験に用いる器具(管部分)を
    「S字様管」と記録
    単位・数学記号
    S=面積
    対称代数
    秒 (second)
    ジーメンス (siemens)
    生化学
    沈降係数を表す単位
    スヴェドベリ(テオドール・スヴェドベリ)
    対称操作=回映操作の表現記号
    具体的な使用例は分子対称性を参照。
    自然科学
    硫黄=Sの元素記号
    有機化学光学異性体の一つ=S体
    電界効果トランジスタ (FET) の端子=ソース (Source)
    熱力学
    S=エントロピー
    コンピュータ言語→S言語
    二十八を意味する数字
    三十六進法など
    二十九進法以上
    において
    二十八(十進法の28)を
    一桁で表すために用いられる
    アルファベットの I と O を用いず
    J =十八、K =十九
    N =二十二
    P =二十三
    S =二十六を意味する・・・
    文学・風俗
    主語 (subject) =S
    南 (south)=S
    磁極=S極
    昭和略記=S
    洋服などのサイズの小さめ (small)=Ssize
    劇場や競技場、業績などの順位で
    特別 (Special)
    優良 (Superior)
    Aよりも上で希少性の強い最上位
    S級、S席
    Sよりも上の順位=SS・SSS
    テレビ番組表でステレオ放送=四角囲みS記号
    女学生同士の同性愛=「sister」=S
    将棋の銀将 (Silver) の略号=S
    スキン(コンドーム)の隠語=S
    シエラの略記=S・・・?
    スピード(覚醒剤)の隠語=S
    スパイ(spy)=S
    サディズム(サディスト)の略=S
    特殊作戦群の愛称=S
    文末に置かれる「s」=皮肉記号・・・
 ↓↑   ↓↑
   飢 者 弗 食 、 勞 者 弗 息
   飢える者は食べるものも無く
   働く者は息することも出来ない
   『孟子』梁惠王 章句下
 ↓↑    ↓↑
仏=佛・・・・弗
   南無阿弥陀佛・南無阿彌陀佛・南无阿弥陀
   浄土教
   阿弥陀仏=称える者を 浄土 に 往生 せしめる= 本願
   衆生の積むべき
   往生行の
   功徳のすべてを
   代って完成させる呪文
   これを名号
   「南無阿弥陀仏」に収めて
   衆生に 回向
   善導=「南無」+「阿弥陀仏
   六字に関する釈義
   阿弥陀仏への帰依への文句
   ・・・波蛙見拿部通・・・?
   「南無」=ナモー(namo)の音写語
   「礼拝・おじぎ(お辞儀)・あいさつ(挨拶)」の意の
   「ナマス(namas)」の連声による変化形・・・
   「礼拝」から転じて
   「帰依(śaraṇagamana)」を表明する意味に用いられ
   「わたくしは帰依します」と解釈・・・
   「阿弥陀
   二つの仏名
   「アミターバ(無量の光明, amitābha)」
   「アミターユス(無量の寿命, amitāyus)」
   に共通する
   「アミタ(無量・amita-)のみを音写したもの・・・?
   「南無阿弥陀仏」とは
   「はかりしれない光明、はかりしれない寿命」
   の
   「阿弥陀仏に帰依いたします」
   という意味・・・???
   発音
   『一遍聖絵』には
   「なもあみたふ」・・・名模蛙見他譜?
   と表記
   鎌倉時代には
   「なもあみだぶ」・・・ナもアミだ部・・・
   と発音・・・
   西本願寺に伝わる
   親鸞の直筆に
   「南无阿彌陀佛」・・・「无=無」と同義だがmoの発音
   天台宗
   「なもあびたふ」と称える
   「なむあみだぶつ」と唱える場合も
   浄土真宗本願寺派
   「なもあみだぶつ」
   真宗大谷派
   「なむあみだぶつ」
   と発音する・・・
   称名念仏としての称え
   「なんまんだぶつ」「なんまんだぶ」
   「なんまんだー」「なんまいだー」
   とも発音
 ↓↑    ↓↑
 ・・・また、ヨコシマな寄り道で「シラギ」がトンだ・・・
 ↓↑
 統一新羅
 朝鮮半島
 中南部
 以南の統一
 ↓↑
 文武王
 ↓↑・・・文武天皇=珂留=かる=軽
     軽=孝徳天皇
     皇極天皇斉明天皇)の同母弟
     元号 大化
     ・・・大=一+人=壹(壹與)の人は
        化=イ+匕(匕首・牝・雌・女・召・聘)
        ↓↑
        白雉・・・白記事?
        はくち=白地・泊地
        『白痴(ハクチ・Идиот )』
        フョードル・ドストエフスキー
        の長編小説
        善人=ムイシュキン公爵=白痴
 ↓↑      悪人=プウチン=黒痴=国恥
 神文王(在位:681年~692年)・・・新聞応・新文謳?
 の時代には
 官僚機構の整備
 拡大した領土の
 統合体制の構築
 文武王は
 679年
 首都 月城(つきしろ・ゲツキ・ガッキ=月忌・楽器)
    月=肉(ジク=字句?) 
 の王宮を修築
 付近に築いた
 苑地(月池の「雁鴨=かりかも」池?)
 に
 東宮を建造した(臨海殿)・・・臨海伝⇔勝海舟=咸臨丸
 王宮周辺には
 坊里制がしかれ
 方形の区画で区切って
 上流階級の
 邸宅・寺院・・・綴他句・字音?
 が建設・・・・・建(たける)の設定(もうける)
 官僚機構の整備
 神文王代までに
 上級の
 13の官庁と・・・壹拾参歳⇔「壹與=卑弥呼の宗女」
 下部機構からなる
 行政機構が整え・・・行正記考
 682年
 官吏の・・・管理・監理・甘利・柬理
 養成機関・・・要請期間(記間・紀間・基幹
             季刊・既刊)
 として
 国学が創設
 ↓↑
 統合された領土は
 全体で9つの州(九州)に区分
 それぞれの州は
 州・郡・県
 に分け地方統治体制が整備
 王都
 慶州が・・・慶喜(徳川)・慶応
 地理的に・・・知理・地利・塵・・・埃及
              芥  エジプト
 偏った位置
 となったため
 五小京(北原京〈原州〉)
 中原京〈忠州〉
 西原京〈清州〉
 南原京〈南原〉
 金官京〈金海〉
 が置かれた
 九州の州治
 五小京の一部は
 王都と同じく
 碁盤目状の・・・規範の目状?
 都市整備が行われた
 軍制の整備
 九誓幢(9つの軍団)
 ↓↑・・・求青銅(声同・精銅)
      和銅五年
      和銅(ニギアカガネ)・・・邇-邇藝阿賀兼?
      1月   太安万侶、「古事記」完成、撰上
      9月28日 出羽国を建てる
      ↓↑
      6年
      4月3日  丹後国美作国大隅国を建てる
      5月   諸国に風土記の編纂
        国・郡・郷名に好字使用
      ↓↑
      7年
      6月25日 首皇子立太子
      ↓↑
      8年
      9月   元明天皇譲位
 ↓↑ ↓↑       氷高内親王が即位(元正天皇
 ↓↑ ↓↑       氷=冫=冰=仌=𣲝=こおり・ひ・ヒョウ
   幢=トウ ・ ドウ・はた(旗)
     はたぼこ(旗戈)・軍旗
     黄幢=帯方郡
       「張政」
       247年(魏暦 正始八年)
       ⇔邪馬台国卑弥呼
         VS
        狗奴国(卑弥弓呼・卑弥弓呼-素)
   倭国
   57年 後漢の都洛陽に遣使
      委奴国王が
      「漢委奴国王印」を贈られた
   107年 倭面土国王 帥升
       後漢に遣使
       70〜80年
       倭国内で大乱発生
       女子を王に共立=卑弥呼
      『三国志・魏書 卷三十 東夷伝 倭人』(魏志倭人伝
      「其國 本亦以男子爲王
       住 七八十年 倭國亂
         相攻伐歴年
        乃 共立一女子 爲王
          名曰 卑彌呼
          事  鬼道 能 惑衆
          年  已 長大 無夫婿」
      『後漢書・卷八十五 東夷列傳第七十五』
      「桓 靈閒(桓帝霊帝の治世146年~189年)
       倭國大亂
       更 相攻伐 歴年 無主
       有一女子
       名 曰 卑彌呼
       年長 不嫁
          事 鬼神道
          能 以妖 惑 衆
          於是 共立 爲王」
      『梁書・卷五十四 列傳第四十八 諸夷傳 東夷条 倭』
      「(後)漢
       靈帝
       光和中(178〜184年)
       倭國亂
       相攻伐 歷年
       乃 共立 一女子
       卑彌呼 爲 王」
      『隋書・卷八十一 列傳第四十六 東夷傳 俀國』
      『北史・卷九十四 列傳第八十二   倭國』
    ↓↑
     黄巾の乱(コウキンのラン)
     黄巾之乱=黃巾之亂
     後漢末期
    ↓↑
     184年(中平元年)・・・倭国 大乱 七八十年
    ↓↑       靈帝 光和中(178〜184年)
     中国、
     「蒼天 已死 黄天當立 歳在 甲子 天下大吉」
     のスローガンを掲げた
     「太平道」の教祖
     「張角」を指導者とした
     配下の兄弟や同調者
     「張宝張梁張曼成波才
     らが指揮した農民反乱
     「黄巾軍」残党は広範な地域に
     跋扈し、反乱、山賊、盗賊行為
     「楊奉・韓暹(カンセン)」
       ・・・暹=日の出や太陽がのぼる意
         シャムロ=暹羅=シャム(タイ・)の 古称
          暹国と羅国が合体して一国を形成
         暹が吸収し
         「暹羅」=シャム(泰国)
         シャム猫=シャムネコ=暹羅猫
              タイ(泰国)王国原産で「短毛種の猫」
              「戦場にかける橋
              (The Bridge on The River Kwai)」 
              川の旧来の名称=メークロン川
              映画によって「クワイ川」が著名となり
              「クウェー・ヤイ川」と改名
              「クウェー川鉄橋」
              『クワイ河マーチ=ボギー大佐の編曲』

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     に率いられ
     白波谷に拠った残党は
     「白波賊」
     と称され
     献帝・・・献帝(獻帝・ケンテイ)
     ↓↑    後漢十四代(最後)の皇帝
          諱 協
          霊帝の次男
          少帝 劉辯の異母弟
          母 美人(側室)の王栄
          諡号
          魏 から 孝献皇帝
          蜀漢から 孝愍皇帝
     ↓↑
     献帝
     の洛陽帰還の際に後漢に帰順
     皇帝奪還を目論む
     「李傕・郭汜」らと交戦し
     後に盗賊のことを
     「白波」と称する・・・「白波五人(誤認)男」?
 ↓↑
 九誓幢(9つの軍団)
 が首都に設置され
 新羅人の軍団が3つ
 高句麗人の軍団が3つ
 百済人の軍団が2つ
 靺鞨人の軍団が1つ
 からなる
 歩騎混成軍
 別に各地に
 十停とよばれる
 騎兵軍が設置
 ↓↑
 地方の田地を
 国家が
 直接支配することを目指し
 旧来の
 食邑(貴族や豪族が支配土地)
 の縮小が進められ
 689年
 禄邑(下級官僚の共同所有地)
 の廃止が行われた
 食邑に変わって
 職田(畑)が与えられ
 禄邑にかわって
 祖米を支給することとされた
 新羅律令制の整備は
 食邑や禄邑の廃止は強い抵抗にあった・・・
 ↓↑
 景徳王(在位:742年~前765年)
 唐との外交関係も安定
 唐の制度・文化を積極的に移入
 地名を唐式に改め
 官庁・官名も唐式に改名
 仏国寺や石仏寺などの仏教寺院が建立
 当時作られた石仏などは
 新羅仏教文化の代表
 ↓↑
 社会の変容
 王権の弱体
 恵恭王(在位:765年~780年)
 767年
 大恭・大廉
 兄弟の大規模な反乱
 政治的混乱の中で
 恵恭王
 776年正月
 教書を出し
 律令体制を強固に推進した
 景徳王が唐風に改名した
 百官の名称を
 旧来のものに戻した
 ↓↑
 780年
 恵恭王
 は
 王妃とともに殺害
 以降
 反乱と簒奪が常態化
 『三国史記
 恵恭王殺害以降の衰退の時代を
 「下代」と呼ぶ
 恵恭王に代わって王位に就いた
 「宣徳王」
 782年閏正月
 唐に朝貢
 勢力を強めている渤海に備え
 北方面の守備に努め
 781年7月
 浿江(大同江
 以南の地に使者を送って安撫
 782年2月
 漢山州(京畿道広州市)の住民を
 浿江鎮(黄海北道平山郡または金川郡)
 へ移住させた
 在位6年目
 785年正月
 唐の
 徳宗から
 検校太尉・鶏林州刺史・寧海軍使・新羅
 に冊封されたが
 病に倒れ正月13日に死去
 ↓↑
 元聖王(785年2月)
 自祖先への追封
 五廟を再整備
 788年
 官吏登用制度
 科挙に類似する
 「読書三品」を定めた
 儒教的・律令体制的な政策
 天災により民が餓えることがあったが
 律令体制の下で貢納された租粟を
 振舞って民の救済を行った
 「恵恭王」
 788年秋
 西部で盗賊
 791年
 元の侍中の
 「悌恭」
 が反乱し誅殺
 ↓↑
 唐に対して
 786年
 使者を派遣して貢納
 徳宗からは
 新羅の長年の忠勤を慰撫する詔書を得た
 宣徳王に与えられた
 官爵
 〈検校太尉・鶏林州刺史・寧海軍使・新羅王〉
 をそのまま引き継いだ
 ↓↑
 哀荘王
 海印寺
 第40代
 哀荘王の時代(在位 : 800年~809年)
 801年10月
 「耽羅国済州島)」・・・「耽羅=とら」?
 からの朝貢
 「耽羅国
 文武王十九年(679年)
 新羅に隷属
 後に独立
 802年
 順応・利貞
 らの高僧に命じて
 「伽耶山
 に
 海印寺慶尚南道陜川郡伽耶面)
 を創建
 ↓↑
 803年
 日本とも国交が再開
 『三国史記
 新羅本紀
 「哀荘王」の四年(803年)七月
 五年(804年)五月
 「日本から黄金三百両が進上された」
 七年(806年)三月
 「日本からの使者を朝元殿で引見した」
 九年(808年)二月
 「日本国の使者を厚くもてなした」
 『日本後紀
 延暦二十三年(804年)九月己丑条
 「大伴宿禰岑万里を新羅に遣わした」
 805年
 唐
 「順宗」が即位
 先王の
 「昭聖王」への哀悼の使者が送られ
 「哀荘王」も新たに冊封
 開府儀同三司・検校太尉・使持節大都督
 鶏林州諸軍事・鶏林州刺史・兼持節充寧海軍使
 上柱国・新羅
 へと官爵を進められた
 唐には朝貢及び、冊命の謝恩使の派遣
 ↓↑
 809年7月
 摂政の
 「金彦昇(憲徳王)」
 が
 「伊飡(2等官)」の
 「悌邕(テイヨウ)」
 とともに反乱
 「哀荘王」
 は弟の
 「体明侍衛」とともに殺害された
 『三国遺事』王暦
 元和四年(809年)七月十九日
 王の叔父の
 憲徳・興徳
 の2人によって殺害された
 ↓↑ 
 「憲徳王」
 は即位後ただちに唐に使者を派遣
 先代の哀荘王の死を伝え
 唐の憲宗からは
 開府儀同三司・検校太尉・使持節大都督
 鶏林州諸軍事・兼持節充寧海軍使
 上柱国・新羅
 に冊封
 810年10月
 王子
 「金憲章」
 を送って金銀製の仏像などを献上し
 定期的に朝貢
 819年7月
 唐の鄆州(山東省済寧市)
 「李師道」
 が反乱
 兵馬を徴発する
 憲宗の詔勅に応えて
 将軍
 「金雄元」
 ら3万の援軍兵を派遣
 ↓↑
 812年9月
 渤海へも使者を派遣
 宣王
 「大仁秀」
 が即位
 826年7月
 漢山州(京畿道広州市
 以北の州・郡から1万人を徴発し
 浿江(大同江)沿いに
 300里の長城を築いて
 渤海の南下を食い止める備えとした
 ↓↑
 度々災害が起こって
 民が餓える事態が発生
 租を免じたり
 穀倉を開いたが
 816年
 浙江省東部へ流入した民が
 170人にものぼった
 ↓↑
 819年3月
 各地の賊徒がいっせいに蜂起
 諸州の都督や太守に命じて鎮圧
 ↓↑
 金憲昌
 梵文
 の反乱
 822年3月
 武珍州(全羅南道光州広域市
 菁州(慶尚南道晋州市)
 熊川州(忠清南道公州市)
 の都督職を歴任した
 「金憲昌」
 が反乱
 熊津(公州市)を都として
 「長安国」と号する
 支配領域は
 武珍州・菁州・熊川州
 完山州(全羅北道全州市
 沙伐州(慶尚北道尚州市
 の五州
 及び
 国原(忠清北道忠州市)
 西原(忠清北道清州市)
 金官慶尚南道金海市
 の三小京に及んだように
 旧百済の領域を中心として
 国土の大半が
 「金憲昌」
 を支持し、王権に対抗
 「金憲昌」
 の反乱は1ヶ月ほどで鎮圧
 乱の鎮圧に活躍した討伐軍は
 貴族の私兵と花郎集団であり
 律令体制の下での
 兵制は有名無実化
 ↓↑
 825年1月
 「金憲昌」の子の
 「金梵文」
 が高達山(京畿道驪州郡)
 を根拠として反乱
 北漢山州(京畿道広州市
 の都督によって鎮圧された
 826年10月
 「憲徳王」死去
 ↓↑
 第42代
 「興徳王」
 唐の文宗からは
 開府儀同三司・検校太尉・使持節大都督
 鶏林州諸軍事・兼持節充寧海軍使・新羅
 に冊封されて以降
 唐への朝貢を続けて文物の招来に努め
 827年
 旧高句麗系の僧の
 「丘徳」
 は経典を唐より持ち帰った
 828年
 帰国した
 「金大廉」
 が茶を持ち帰り
 新羅での喫茶が盛んになった
 827年
 漢山州
 (京畿道広州市)瓢川県から
 速富の術(すぐに富貴になれる方法)
 という信仰が流行
 教祖を遠島へ流刑
 ↓↑
 832年
 春夏の旱魃
 7月の大雨で凶作
 餓えた民衆が盗賊となって蜂起
 10月には各地に使者を派遣して慰撫
 833年
 凶作で民が飢餓、流行病で多くの死者
 834年10月
 王自らが巡幸
 834年
 身分の上下に応じて
 色服・車騎・器物・家屋
 などの区別を厳然とさせて
 違反者には刑罰を用いるとする教書を発布
 奢侈を禁じる
 王都の住民に対する身分序列を明確化
 この教書の中で規定された身分序列は
 「真骨・六頭品・五頭品・四頭品
  平人のそれぞれ男女」
 7世紀中葉に成立していた王族を中心とする
 身分序列で
 「骨制度」(聖骨・真骨)に対して
 「頭品制度」とされる
 骨制度・頭品制度をあわせて
 新羅の骨品制度
 ↓↑
 838年3月
 「張保皐の乱」・・・張(は)って保(たも)つ皐(さつき)
 「張保皐
 のもとに集結した
 「金祐徴」
 らの一派は軍事活動を起こし
 「祐徴」派の
 「金陽」が
 武州光州広域市)を下し
 南原小京(全羅北道南原市)を陥落させ
 12月
 「金陽」が
 武州
 鉄冶県(全羅南道羅州市)まで軍を進めたが
 新羅
 「閔哀王」
 は
 「金敏周」
 を派遣して迎撃したが
 「金陽」軍に壊滅させられた
 ↓↑
 839年1月19日・・・干支 己未
          ・・・おのれ・よこしま
              未(いまだ)来(こぬ)
       日本 承和 六年
             八月
             遣唐使
             藤原常嗣
             大宰府に帰着
       皇紀   1499年
            14・99
            1+4+9+9=5+18
                5+1+8=5
       皇紀 太陽暦採用と共に
            1873年施行
     中国 唐 開成 四年
       渤海 咸和 九年
       南詔 保和十六年
     朝鮮
       新羅 閔哀王二年
          神武王元年・・・神武?
          文聖王元年
 「金陽軍」が
 達伐(大邱広域市)にまで及び
 王は
 禁軍を用いて防戦にしたが
 兵の半数以上が戦死
 王の側近は皆逃亡し
 王は殺害された・・・
 「祐徴」
 は王の儀礼を以て
 「閔哀王」の屍を埋葬
 古礼に則って即位式を執り行い
 王位を継承し
 「神武王」・・・「神武」って、ダレだっけ?
 として即位したが
 病で同年死亡
 その子
 「文聖王」
 は、
 「張保皐」に官位を与えるが
 「張保皐」は不満を持ち
 846年
 清海鎮(全羅南道莞島)
 で反乱を起こしたが
 王軍は
 「張保皐」を暗殺・・・
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 862年7月
 第48代
 「景文王」
 唐へ使者を派遣して土産物を貢納
 864年4月
 日本からも
 国使を迎えた・・・
 日本側史書には対応する記事はない
 865年4月
 「懿宗」
 開府儀同三司・検校太尉・使持節大都督
 鶏林州諸軍事・上柱国・新羅
 に冊封
 869年7月
 王子の
 「金胤」
 らを唐に派遣
 馬二匹・砂金百両・銀二百両ほか、様々の進奉
 870年2月
 「沙飡(8等官)」の
 「金因」
 を唐に宿衛させ
 874年
 「僖宗」
 からの
 「宣諭使」・・・宣教師?
 を受け、唐との交流は盛んになった
 866年10月
 「伊飡(2等官)」の
 「允興」
 がその弟の
 「叔興・季興」
 とともに反逆を謀ったが
 事前に発覚し
 「允興」
 らは
 岱山郡(慶尚北道星州郡)に逃走したが
 捕縛されて斬刑、一族は誅滅
 867年5月
 王都金城(慶尚北道慶州市)
 で疫病流行
 8月
 洪水
 地方各地で不作
 王は各地へ安撫の使者を派遣、慰問
 868年1月
 「伊飡」の
 「金鋭・金鉉」
 らが反乱し誅殺された
 870年
 王都が地震・洪水
 冬には再び疫病流行
 873年
 飢餓と疫病
 王は民に穀物を与えて救済
 政情は不安定
 874年5月
 「伊飡」の
 「近宗」
 が反乱し宮中まで至り
 王は近衛兵を派遣して撃破
 逃れた
 「近宗」一味を捕らえて車裂きの刑
 875年7月8日
 「景文王」死去
 876年7月
 憲康王
 (在位 : 875年~886年)
 唐へ朝貢
 878年4月
 「僖宗」
 から冊封
 7月
 「黄巣の乱
 の起こり使者の派遣中止
 885年10月
 「黄巣の乱」の鎮圧平定
 唐に祝賀する使者を派遣
 878年8月
 日本からの使者を朝元殿で引見
 882年4月
 日本国王
 黄金300両と明珠10個とを
 進上する使者を派遣してきた
 『三国史記新羅本紀
 日本側の史料には対応する記事は無い・・・
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 869年
 新羅の海賊船が
 博多を襲って以来
 新羅と日本との間には緊張関係
 「新羅の入寇
 『日本三代実録』元慶四年(880年)条
 新羅の賊が侵入で
 日本海沿岸の諸国は厳重な警戒態勢
 『三国史記新羅本紀
 「憲康王」時代
 879年6月
 「一吉飡(7等官)」の
 「信弘」
 が反乱し誅殺
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 新羅下代唯一の女王
 「真聖女王」
 「三国史記
 もと
 「角干(官位)」の
 「魏弘」・・・魏=委(任された)鬼(おに・キ)
        弘=弓のム(よこしま)
 と通じ
 即位後、入内させて用いていた
 「魏弘」
 が卒して後
 少年美丈夫、2〜3名を
 密かに引き入れて姦淫
 彼らに
 要職を授けて国政を委ねた
 綱紀は弛緩
 女王の治世には国内で反乱が続発
 後三国時代の幕開け
 治世十一年・・・壹拾壱の念(今の心)
 897年
 女王は
 「盗賊蜂起、此れ孤の不徳なり」
 と宣言し
 「太子」に譲位
 12月
 金城(慶州)の北宮で死去
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 後三国時代
後百済・後高句麗
 892年
 農民出身の
 「甄萱」
 が南西部に
 「後百済」を
 901年
 新羅王族の
 「弓裔」
 が北部に
 「後高句麗」を建て
 「後三国時代」に入る
 新羅
 「孝恭王」
 は、酒色におぼれ
 新羅は滅亡の道へ・・・
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