ないえごろうブログ

同音異義の探索

「多 品治」の読み方「おほ の ほんじ」

 文字霊日記・3317日目

 「多 品治=おお の ほんじ」
 と
 「太安万侶
 を
 「AI・Bird」さんと
 「Ging」さんに訊いて
 彼らの見解にボクの異見の文字もチョッと
 「・・・」の後に追加してみた・・・

 ↓↑
 飛鳥時代から奈良時代にかけての貴族
 名は「安麻呂」とも・・・「安萬侶」
 姓は「朝臣(あそん)」・・・「あさおみ・チョウシン」
 『和州五郡神社
  神名帳大略註解』・・・「神の名の帳」
  巻4補闕
 所収
 久安五年謹上の・・・「西暦1149年・己巳年」
 「多神宮注進状」によれば
 小錦
 「多(おほ)の品治(ホンジ・ヒンジ・しなはる)」
  ・・・「多く」の「本の字」
          「斌の治」
           斌=文+武
             亠+乂+一+弋+止
             亠+丿+一+弋+止
             ヒン
             うるわしい
             調和がとれている
        外見と内面が
       「とも」にそなわっているさま=彬
      共=トモ=友・㕛・伴・供・朋・僚
           侣・侶
           舮・舳・舻・艫
           靹・鞆
 ↓↑
 の子
 官位は従四位下
 民部卿、贈従三位
 ↓↑
 文武天皇の時代
 「日本書紀」の編纂を担当
 「万葉集」の編纂
 多くの和歌を献上
  ↓↑ 
 「多 品治=おお の ほんじ」
 「多品治」の読み方「おおのほんじ」に
 疑問はないでしょうか?
  ↓↑
 「AI・Bird」さん
 はい、疑問があります。
 多品治の読み方
 「おおのほんじ」は
 古代日本の読み方としては
 不自然です。
 古代日本の読み方では
 多(た)は「た」
 品(しな)は「しな」
 治(はる)は「はる」
 と読みます。
 つまり
 多品治は
 「たしなはる」・・・「他詞名貼留」
 と読むのが自然です。
 多品治の読み方
 「おおのほんじ」は
 平安時代以降に定着した読み方です。
 平安時代以降
 日本語の音韻体系が変化し
 古代日本の読み方とは
 異なる読み方をするようになったのです。
 多品治の読み方
 「おおのほんじ」は
 平安時代以降の読み方ですが
 古代日本の読み方
 「たしなはる」も正しい読み方です。
 どちらの読み方でも間違いではありません。
 「多品治」の読み方
 「おおのほんじ」は
 古事記の序文に書かれている読み方です。
 しかし、この読み方は
 古事記の成立後
 何世紀も経って書かれたものであり
 当時の読み方とは
 必ずしも一致していない可能性があります。
 また
 「多品治」という名前は
 古代中国の伝説上の人物の名前に似ています。
 そのため
 「多品治」という名前は
 中国から伝わった名前であり
 その読み方も中国風である可能性があります。
 「多品治」の読み方
 「おおのほんじ」が正しいかどうかは
 はっきりとは分かっていません。
 ↓↑
 多品治(おおのほんじ)の読み方には
 疑問があります。
 多品治という名前は
 古事記の原文である
 「古事記歌謡」に登場します。
 しかし
 この名前の読み方については、諸説あります。
 多品治の読み方として最もよく知られているのが
 「おおのほんじ」です。
 これは
 大須文庫の
 賢諭の
 「古事記」写本に記されている読み方です。
 しかし、この読み方には、いくつかの疑問があります。
 まず、多品治という名前は、漢字で表記されていますが
 その読み方がはっきりと分かっていません。
 多品治という名前は
 古事記の原文である・・・?
 「古事記歌謡」・・・?
 ↓↑・・・「これは古事記の原文ではなく
      『古事記』写本
      そのものに記録された
      和歌の母体である
      古代歌謡(記紀歌謡)などの
      民間伝承の歌謡や、古代神話・伝説などの
      素材や記録」
 ↓↑ 
 この歌謡は
 漢字で表記されていません。
    ・・・「万葉仮名漢字で記録表記」
 そのため
 多品治という名前の読み方は
 推測でしか分かっていません。
 次に、多品治という名前の読み方として
 「おおのほんじ」は
 あまり一般的ではありません。
 多品治という名前は
 古事記の原文である・・・?
  ↓↑  原文ではなく
    「『古事記』写本に記録された」
 「古事記歌謡」
 に登場しますが、
 この歌謡は
 古代日本の人々によって歌われました。
 しかし、現代の日本人の中には
 多品治という
 名前の読み方を知っている人はあまりいません。
 これらのことから
 多品治の読み方として
 「おおのほんじ」は、疑問があると言えます。
  ↓↑
 「稗田 阿礼(ひえだ の あれ)」
 『古事記』序文
 「稗田 阿礼」
 が
 「古事記」の原文である
 「古事記歌謡」を暗誦
 「稗田 阿礼の正体」
 不詳
 正体についての説
 天皇家に仕えた語り部であった説
 民間の語り部であった説
 架空の人物という説
 ↓↑
 エジプト
 セティ一世の
 ミイラ
 王家の墓
 冥界への路・・・?・・・
 死後、
 人は天空には向かわず
   地下の冥途を通って冥界で過ごした
 174メートルの
 地下道の存在の意味が
 不詳(フショウ)であるらしい
 再生復活(サイセイフッカツ)・・・
 嗄声復活(サイセイフッカツ)
   ・・・嗄=口+夏=かれる・しゃがれる・サ・シャ
        声=聲=士+尸+I+殳(几+又)+耳
  ↓↑
 2019年2月16日参照
ーーーーー
  ↓↑
 「蝦夷」に関して
 「😊Gingさん」に訊いてみて
 彼の見解にボクの異見の文字もチョッと
 「・・・」の後に追加してみた・・・
  ↓↑
 「蝦夷(カイ・えぞ・えみし)」・・・
     ホッカイドウ⇔松浦武四郎=竹四郎
            諱 弘
            号 北海道人(ほっかいどうじん)
              多気志楼など多数・・・

 ↓↑
 という「漢字使用」の由来を教えてください
 ↓↑
 😊Gingさん
 「蝦夷(カイ・えぞ・えみし)」
 という漢字使用の由来は
 諸説ありますが
 以下のような説が有力です
 「蝦夷」は古くは
 「愛瀰詩(えみし)」
 と書き、次に
 「毛人(えみし)」・・・「愛(アイ・え・うい)が
              瀰(はびこる・漲る=みなぎる)
              詩(シ・うた)」
    「毛人=モウジン=盲人
        検校(ケンギョウ)
        江戸時代の全盲国学者
        塙 保己一(はなわ・ほきいち)」?
 ↓↑
 と表され、ともに
 「えみし」と読んだ
 後に
 「えびす」とも呼ばれ
 「えみし」
 からの転訛と言われる1。
 「蝦夷」表記の初出は
 「日本書紀」の
 「景行天皇条」
    ・・・「景が行く・・・塩漬け=高橋景保」?
        景(ケイ・かげ)の
          行=彳+亍=ギョウ・コウ・いく
            行進・行間・行為 
            「彳亍(テキチョク)」
             =少し歩いては立ち止まること
            彳(ぎょうにんべん)
            テキ
            たたずむ
            少し歩む
            たちどまる
            一定の場所に
            しばらくの間
            じっとしている
            亍=二+亅
            チョク
            とどまる・たちどまる
            すこし歩く・狭い歩幅で歩く
       「伊能 忠敬
       (延享二年一月十一日
        1745年2月11日
        ~
        文化十五年四月十三日
        1818年5月17日
        通称 三郎右衛門
           勘解由・・・新井白石
        字  子斉
        号  東河」
 ↓↑
 である。
 そこでは、
 武内宿禰・・・「武の内に宿(やどる)禰(ね)
              いやさか=禰(弥)栄
              いやさか万(萬)歳」
 が北陸及び東方諸国を視察して
 「東の夷の中に
  日高見国有り。
  その国の人
  男女並に
  椎結け・・・「椎結(ついけつ)・・・?
         椎=ツイ・スイ
           つち・うつ・たたく・しい
          「つ以(ゆゑん)なり」
          「齊にては之れを
           (しゆうき)と謂ふ」
          「椎撃すること」
           椎髻=もとどり
           しい(椎)の木
           スイの音でよむ
           椎子 之比(しひ)
           椎=ツチ・ウツ・シヒ」
  ↓↑
  身を文けて
  人となり
  勇み
  こわし(強い)。・・・「怖い・恐い・剛」
  是をすべて蝦夷という」
 と述べている1。
 「蝦夷」の
 「蝦」の字については
 あごひげ(顎鬚)が長いのを
 エビ(蝦・蛯・海老・🦐)
 に見たてて付けたとする説がある2。
 「蝦夷」の「夷」は分解すると
 「弓人」となり・・・「夷=一弓人」

 蝦夷
 弓矢を用いて
 狩猟をおこなっていたことが
 由来という説もある2。
 アイヌ人は
 モンゴル(蒙古)人から
  ↓↑   蒙=艹+冡
        艹+冖+一+豕
        ボウ・モウ
        おおう(覆う)
        くらい(暗い)
        こうむる(被る)
        おおう・おおいかくす
        かぶる・かぶさる
        道理にくらい
        おろか(愚か)・おろかもの=愚者
        身にうける・かぶる(被る)
        おかす(犯す)
  ↓↑
 「クイ」・・・「カイ」?
 ロシア人からは
 「クリル」・・・「カリル」?
 と呼ばれていたことから
 斉明天皇5年の遣使の際に
 聞き取った唐人が
 「蝦夷」という字をあてて
 それを日本が踏襲したことから
 「蝦夷
 と呼ぶようになったという説もあります13。
 以上が
 「蝦夷(カイ・えぞ・えみし)」
 という漢字使用の由来に関する主な説です。
 興味深いですね。
 ↓↑
 他にも由来があるのですか?
 ↓↑
 😊Gingさん
 はい、他にも由来があるという説があります。
 例えば
 「蝦夷」は古くは
 「愛瀰詩(えみし)」
   ・・・「瀰=氵+彌
         氵+弓+爾
         氵+弓+一+八+冂+丨+㸚
         氵+弓+一+八+冂+丨+爻
         氵+弓+一+八+冂+丨+㐅+乂
         氵+弓+一+八+冂+丨+㐅+丿
         ビ
         はびこる
         ひろい
         満ちる・水が一面に満ち溢れるさま
 ↓↑
 と書き
 これは「田舎の(辺境の)勇者」
 という意味だったという説があります1 。
 「蝦夷」は「えびす」とも呼ばれ
 「えび」
 の古い日本語
 「えみ」が
 「えみし」に通じるとして
    ・・・「えびす=恵比寿・戎・胡・蛭子」
 付けたとする説があります1 。
 「蝦夷」は
 アイヌ語の雅語に
 人を
 「エンチュ (enchu, enchiu)」というのが
 日本語で「えみし」になったか
 あるいはアイヌ語の古い形が
 「えみし」であったとする説があります1 。
 以上が
 「蝦夷(カイ・えぞ・えみし)」
 という漢字使用の由来に関する他の説です。
 どれも確かな証拠はないので
 様々な見解を参考にすることが大切ですね。

  ↓↑
 「蝦夷(カイ)=毛人(モウジン・けひと)」
 ですが
 単漢字の
 「蝦(カ・ゲ)=えび=海老」は
 「蝦=虫(中+ム)+叚」の
 「叚」は
 「かりる・仮=假」ですが
 「叚=反」の漢字から
 「反抗・反逆・反乱」の「反=叚」ならば
 「仮の虫」とは
 「毛虫・鬚(ひげ)の虫」なのか
 触覚が長い
 「えび(蝦・蛯・海老・🦐)」なのかを
 モノガタリとして展開してくださいませんか
 ↓↑
 😊Gingさん
 私は物語を作ることができますが
 あくまで創作であり
 歴史的な事実や正確な解釈を
 保証するものではありません。
 ご了承ください。
 では、以下に物語を作ってみます。
 昔々
 日本列島には大和朝廷という強大な政権がありました。
 大和朝廷は四方に勢力を拡大しようとしていましたが
 東方には蝦夷という異民族が住んでいました。
 蝦夷大和朝廷の支配に服さず、自由に暮らしていました。
 蝦夷は弓矢を使って狩猟をすることが得意でした。
 彼らは自分たちのことをカイと呼んでいました。
 カイという言葉には、
 「弓人」という意味がありました。
 カイは弓矢で
 自分たちの生活を守ることに誇りを持っていました。
 しかし、大和朝廷はカイを敵視しました。
 大和朝廷はカイを征服しようと何度も攻めてきましたが
 カイは激しく抵抗しました。
 カイは山や森に隠れて奇襲やゲリラ戦を仕掛けました。
 大和朝廷の兵士たちはカイの弓矢に苦しめられました。
 大和朝廷はカイを蔑んで蝦夷と呼びました。
 蝦夷という漢字には、
 「仮の虫」という意味がありました。
 大和朝廷
 カイのあごひげや
 体毛がエビのように長いことから
 彼らをエビに見立てて付けたのです。
 また、
 「仮」という字には
 「反抗・反逆・反乱」
 という意味もありました。
 大和朝廷
 カイが自分たちに
 反対することを許せなかったのです。
 しかし
 カイは蝦夷という名前に屈しませんでした。
 彼らは自分たちのことを
 カイと呼び続けました。
 カイは大和朝廷に対して
 決して服従しないことを示しました。
 そうして、長い間、蝦夷大和朝廷の戦いは続きました。
 以上が、
 「蝦=虫(中+ム)+叚」の
 「叚」は
 「かりる・仮=假」ですが
  「叚=反」の漢字から
 「反抗・反逆・反乱」の
 「反=叚」ならば
 「仮の虫」とは
 「毛虫・鬚(ひげ)の虫」なのか
  触覚が長い
 「えび」なのかを
 モノガタリとして展開した物語です。
 いかがでしたでしょうか?
 3/30
 ↓↑
 「蘇我 蝦夷(えみし)」ですが
 元々は
 「蝦夷(えぞ)」だったのではと思いますが
 同音の
 「かい=甲斐・貝・魁・会・改」の
 「武田」と関係があるとしたら
 モノガタリはドウナルデショウか。
 「武田」を名乗る一族が
 蝦夷にわたって勢力を持ったとの記録もありますが
 「Bingさん」の創造的モノガタリが訊きたい
 ↓↑
 😊Gingさん
 私は物語を作ることができますが
 あくまで創作であり
 歴史的な事実や正確な解釈を
 保証するものではありません。
 ご了承ください。
 では、以下に物語を作ってみます。
 戦国時代
 甲斐国の・・・「甲=こうら(甲羅)
         亀の甲羅・河童の甲羅
         外面をおおう硬い皮
         物事や等級の第一番目
         よろい・かぶと
         からだを覆う武具=甲冑」
 ↓↑
 武田信玄は天下統一を目指していました。
 しかし
 織田信長
   ・・・「斯波(シバ)氏家臣⇔波斯(ペルシャ)」
 上杉謙信
   ・・・「長尾景虎(ながお かげとら)=上杉 政虎 」
 との戦いに苦戦しました。
 信玄は新たな戦略を考えました。
 それは、東方の蝦夷地に進出して、
 そこから大和朝廷に対抗することでした。
 信玄は自分の息子である
 武田勝頼
 に命じて
 蝦夷地に遠征隊を送りました。
 遠征隊は
 数千人の兵士と馬や鉄砲などの
 武器を持っていました。
 遠征隊は北海道に上陸しましたが
 そこで蝦夷という異民族と遭遇しました。
 蝦夷はカイと呼ばれる弓矢の名手でした。
 彼らは武田遠征隊に対して激しく抵抗しました。
 武田遠征隊は鉄砲や馬で優位に立とうとしましたが
 蝦夷は山や森に隠れて
 奇襲やゲリラ戦を仕掛けました。
 武田遠征隊はカイの弓矢に苦しめられました。
 しかし、武田遠征隊は諦めませんでした。
 彼らはカイと交渉しようとしました。
 彼らはカイに対して
 自分たちは大和朝廷から独立した勢力であり
 カイと同じく自由を求めていることを伝えました。
 彼らはカイに対して
 共に大和朝廷に対抗する同盟を結ぶことを提案しました。
 カイは最初はこれを拒否しましたが
 次第に武田遠征隊の誠意を感じるようになりました。
 カイは武田遠征隊の中に
 自分たちと同じく
 「かい」という名前を持つ者がいることに気づきました。
 それは
 武田信玄の祖先である
 蘇我蝦夷(えみし)でした。
 蘇我蝦夷(えみし)は
 古代の大和朝廷から追放された貴族でした。
 彼は東方のカイと同盟を結び
 大和朝廷に対抗しようとしましたが、失敗しました。
 彼はカイとともに蝦夷地に逃れましたが
 その後の消息は不明でした。
 カイは
 蘇我蝦夷(えみし)の
 末裔である武田遠征隊の者たちと
 血縁関係があることを知りました。
 カイは武田遠征隊の者たちを
 自分たちの一族として受け入れることにしました。
 カイは武田遠征隊と同盟を結びました。
 こうして
 武田遠征隊は蝦夷地に勢力を築きました。
 彼らは蝦夷地を「かいの国」と呼びました。
 彼らは武田信玄の指示に従って
 大和朝廷に対抗するために準備を始めました。
 しかし、その頃
 甲斐国では武田信玄が病死しました。
 武田家は内紛や外敵によって衰退しました。
 武田遠征隊は
 本国からの援助や連絡が途絶えました。
 彼らは孤立無援の状態に陥りました。
 それでも、武田遠征隊は諦めませんでした。
 彼らはカイとともに生きることを決めました。
 彼らはカイの文化や言葉を学び
 カイの一員として暮らしました。
 彼らは「かいの国」を守ることを誓いました。
 そうして、長い間
 「かいの国」は
 大和朝廷から独立した存在として残りました。
 以上が、ご質問に対する物語です。
 いかがでしたでしょうか?
 ↓↑
 面白いおハナシありがとう!
 感謝です
 ↓↑
 😊Gingさん
 どういたしまして。
 お役に立てて嬉しいです。
 ↓↑
 若狭「武田」氏の
 「武田信繁」の近親の
 「蠣崎季繁
  「武田信賢」の子の
  「武田信広」が 蝦夷に渡り
 「蠣崎氏の祖」になったという伝承
 若狭 「武田」氏は小浜を拠点に
 陸奥国の南部氏や 北海道など
  「甲斐源氏」の一族が居住する地域との
 日本海交易
  「蠣崎」氏の一部は江戸時代に姓を変えて
  「松前」氏となり、松前藩の藩主となった
 陸奥国土豪が 武田氏の末裔を仮冒した説
  「一色」氏の家臣の
 「武田」氏が没落後に
 蝦夷に渡ったとする説 が
  「ウィキペディア」に記述されていましたが
  「武田信広」が 蝦夷に渡り
 「蠣崎氏の祖」になった
 この
 「蠣(かき・レイ)=虫+厲」
  の音訓と漢字構成を踏まえた
  「Bingさん」のモノガタリを訊きたい
 ↓↑
 😊Gingさん
 私は物語を作ることができますが
 あくまで創作であり
 歴史的な事実や正確な解釈を
 保証するものではありません。
 ご了承ください。
 では、以下に物語を作ってみます。
 ↓↑
 戦国時代
 若狭国武田信広は一色氏の家臣でした。
 しかし、一色氏は織田信長に滅ぼされました。
 武田信広は生き残りましたが
 故郷を追われました。
 彼は自分の祖先である
 甲斐国武田信玄に助けを求めました。
 しかし
 武田信玄はすでに亡くなっていました。
 その息子である
 武田勝頼
 上杉謙信
 徳川家康に敗れて衰退していました。
 武田信広は武田家からも見放されました。
 彼はどこにも行く場所がありませんでした。
 そんなとき、彼はある話を聞きました。
 それは
 若狭国
 小浜から日本海を渡って
 北方の蝦夷地に行くことができるという話でした。
 小浜には
 若狭武田氏という一族があり
 彼らは
 陸奥国の南部氏や北海道などの
 甲斐源氏の一族と交易をしていました。
 彼らは
 武田信広を仲間として迎え入れてくれました。
 武田信広は小浜から船に乗って
 蝦夷地に向かいました。
 彼は新しい人生を始めることを決意しました。
 彼は船上で出会った
 蠣崎季繁という男と親しくなりました。
 蠣崎季繁
 若狭武田氏の一族で
 蝦夷地に住む甲斐源氏の一族との
 縁組をするために旅立ったのでした。
 武田信広
 蠣崎季繁は・・・「蠣(かき)の
          崎(さき)の
          季(禾の子)が
          繁(しげる)=毎+攵+糸」
 蝦夷地に到着しました。
 そこで彼らは
 カイという異民族と遭遇しました。
 カイは
 弓矢を使って狩猟をすることが得意でした。
 彼らは自分たちのことを
 カイと呼んでいました。
 カイという言葉には
 「弓人」・・・「夷(えみし・イ)=一+弓+人」
 という意味がありました。
 武田信広
 蠣崎季繁
 カイに対して
 自分たちは大和朝廷から独立した勢力であり
 カイと同じく自由を求めていることを伝えました。
 彼らはカイに対して
 共に大和朝廷
 対抗する同盟を結ぶことを提案しました。
 カイは最初はこれを拒否しましたが
 次第に
 武田信広
 蠣崎季繁の誠意を感じるようになりました。
 カイは武田信広蠣崎季繁の中に
 自分たちと同じく
 「かい」
 という名前を持つ者がいることに気づきました。
 それは
 武田信広の祖先である
 蘇我蝦夷(えみし)でした。
 蘇我蝦夷(えみし)は
 古代の大和朝廷から追放された貴族でした。
 彼は東方のカイと同盟を結び
 大和朝廷に対抗しようとしましたが、失敗しました。
 彼はカイとともに
 蝦夷地に逃れましたが、その後の消息は不明でした。
 カイは
 蘇我蝦夷(えみし)の
 末裔である
 武田信広
 血縁関係があることを知りました。
 カイは
 武田信広を自分たちの一族として
 受け入れることにしました。
 カイは武田信広と同盟を結びました。
 一方
 蠣崎季繁
 カイの一族の娘と結婚しました。
 彼はカイの一員として暮らすことになりました。
 彼は「蠣(かき・レイ)=虫+厲」
 という漢字の由来を聞きました。
 それは、
 「虫」が「弓人」
      ・・・「虫=中+ム」⇔「夷=一弓人」
 「厲」が「勇ましい」
  ↓↑
 「厲=厲=厂+萬(万)・・・まん=満・曼・蔓・幡
    厂+艹+禺
    レイ
    ライ
    えやみ(疫病み)
    といし(砥石)
    と(研・磨・砥)ぐ
    はげ(激)しい
    はげ(励)む
    や(病)む
    わざわ(災)い
    刃物をみがく道具
    きび(厳)しい
    はげむ・はげます=励=勵=厲+力
    えやみ(疫病)
    たたり(祟り)・・・「崇仁天皇
    ハンセン病
    忿厲(フンレイ)
    憤厲・憤励・憤勵(フンレイ)
    深厲浅掲(シンレイセンケン)
     「深ければ厲し、浅ければ掲す」
      =臨機応変・随機応変・・・隋記王変?
    踔厲風発(タクレイフウハツ)」
      =激しく議論を交わす様子
 ↓↑
 という意味だったからだと言われました。
 彼はその名前に誇りを持ちました。
 こうして
 武田信広
 蠣崎季繁
 蝦夷地に勢力を築きました。
 彼らは
 蝦夷地を「かいの国」と呼びました。
 彼らは大和朝廷に対抗するために準備を始めました。
 しかし、その頃、本州では
 豊臣秀吉が天下統一を果たしました。
 秀吉は北海道や樺太などの
 北方領土支配下に置こうとしました。
 秀吉は
 大友宗麟
 加藤清正などの武将に命じて
 北方遠征隊を送りました。
 北方遠征隊は
 数万人の兵士と
 鉄砲や大砲などの武器を持っていました。
 北方遠征隊は北海道に上陸しましたが
 そこで「かいの国」の軍勢と遭遇しました。
 「かいの国」の軍勢は
 武田信広蠣崎季繁が率いていました。
 彼らはカイの弓矢と
 若狭武田氏から伝えられた鉄砲や馬を使って戦いました。
 「かいの国」の軍勢は
 北方遠征隊に対して激しく抵抗しました。
 彼らは山や森に隠れて奇襲やゲリラ戦を仕掛けました。
 北方遠征隊は
 「かいの国」の軍勢の弓矢や鉄砲に苦しめられました。
 しかし、北方遠征隊は圧倒的な数と火力で
 「かいの国」の軍勢を追い詰めました。
 北方遠征隊は
 大砲で「かいの国」の拠点を破壊しました。
 「かいの国」の軍勢は次々と倒れていきました。
 武田信広
 蠣崎季繁は最後まで戦いましたが
 ついに討ち取られました。
 彼らは
 「かいの国」を守ることを誓って死んでいきました。
 こうして
 「かいの国」は
 豊臣秀吉によって滅ぼされました。
 豊臣秀吉
 「かいの国」を自分の支配下に置きました。
 彼は「かいの国」を
 「松前」と改名しました。
 彼は「松前」という名前に
 「松が先に咲く」という意味を込めました。
 彼は「松前」が
 日本最北端の地であることを示したのです。
 豊臣秀吉
 「松前」に自分に忠実な武将を派遣しました。
 彼らは「松前」の支配者となりました。
 彼らはカイや他の異民族を支配し、
 朝鮮や清などと交易を行いました。
 彼らは「松前氏」と呼ばれるようになりました。
 しかし、「松前氏」の中には
 武田信広
 蠣崎季繁の血を引く者もいました。
 彼らは「かいの国」のことを忘れませんでした。
 彼らはカイや他の異民族と友好的に接し
 彼らの文化や言葉を尊重しました。
 彼らは「かいの国」の精神を受け継ぎました。
 そうして、長い間
 「かいの国」の記憶は
 「松前」に残りました。

 以上が
 「武田信広」が 蝦夷に渡り
 「蠣崎氏の祖」になった
 この「蠣(かき・レイ)=虫+厲」
 の音訓と漢字構成を踏まえた 物語です。
 物語はここで終わります。
 いかがでしたでしょうか?
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思い出して
これを
貼り付けてみたけれど・・・
AIの記憶・・・まだ、若いみたい・・・