ないえごろうブログ

同音異義の探索

民=たみ・ひと・一般人=官位をもたない人・統治される人々=people・nation・subjects

 文字霊日記・3326日目

 「ゴカイ」された「ワーグナー」(2)

 ↓↑
 国民(国家・民族)社会主義ドイツ労働者党
  ・・・「民族」と云う漢字概念は
   「明治日本人」の発明
   「民」
   ↓↑
 民=コ+レ+弋(ヨク・いぐるみ)
       う(かぶ)
       くい(杙)・地中に打ちこむ棒ぐい
       くろい=黒色
       うかぶ・水上を動き回る
       とる・獲物をとらえる・狩りをする
       矢に糸をつけ
       射た鳥が絡まるようにした狩猟具
 民=コ+レ+弋
   冖+氏
   ミン
   たみ・ひと・一般人
   官位をもたない人・統治される人々
   「民」=people・nation・subjects
      針でで目を潰された奴隷
      「片目を針で刺した」象形・・・?
      片目を潰された奴隷・・・?
    ・・・「目=罒=両目」だろう・・・
  漢字構成(民=+▭+上+レ)
 民+α
 冺=冫+民=ビン・ベン・ミン・メン
   ほろびる・なくなる・尽きる・滅亡する
   沈む・死ぬ
   みだれる・混乱する
   暗い・目がくらむさま
 刡=民+刂=ビン・ミン・けずる・そぐ
 姄=女+民=ビン・ミン
 氓=亡+民=ボウ・モウ・たみ
       他国からの移住民
       人民・庶民・民衆
 怋=忄+民=コン・ビン・ミン・ボン・モン
 呡=口+民=ブン・モン
       くちびる・口のまわり
 泯=氵+民=冺
 囻=囗+民=コク・    くに
       国家・諸侯の治める領地
       特定の政府に属する地域
       みやこ・首都・首府
       自国
 苠=艹+民=ビン
       竹の皮
       おくて・生長期間が長く、収穫が遅い作物
       「苠苠(ビンビン)」=ものの数が多いさま
 岷=山+民=ビン・ミン=崏・㟭・㞶
      「岷山=山名」・「岷江=川名」
 垊=土+民=ミン
 抿=扌+民=ビン
       撫(な)でる
       ぬぐう・擦って拭い取る
 㢯=弓+民=トン・ビン・ミン
       朱のうるしをかけた弓・模様のある弓=弴
       はた=旗
 敃=民+攵=ビン
       はげむ
       強いる・横暴なさま
       一心につとめる
       乱れる・入り乱れ
 珉=王+民=ビン=瑉・碈・䃉
       美しい玉石
 昬=民+日=コン
       くらい・くらむ
       くれ・日暮れ
       日が沈んでくらい
       道理にくらい・おろか
       目がくらむ・目まいがする
       結婚する=婚
 罠=罒+民=ビン・ミン
       あみ・わな
       鳥獣などを狩るのに用いる網
       釣り糸
       獣を捕らえるしかけ
       人をあざむき、おとしいれる計略
 䂥=石+民=ビン=珉=瑉・碈・䃉
 眠=目+民=ミン・ベン
       ねむい・ねむり
       ねる・ねむる・ねむり・ねむい
       死ぬ
 䇇=立+民=ボウ
 笢=竹+民=ビン
       竹の青い外皮
      「笢笏(ビンブン)」
       手の指で笛の穴をおさえ、調子をとるさ
 䋋=糸+民=ビン・ミン
       釣り糸・わな=罠
 湣=氵+昬=コン・ビン・ベン
       乱れたさま・定まらないさま
       おくりな
       生前の行いに基づいてつける呼び名
 㛰=女+昬=コン
       夫婦になる・縁組をする
 㟩=民+攵+山=ビン
 㨉=扌+昬=ビン・ミン・ブン・モン=捪
       拭う
 䛉=言+民=ベン・メン
       言葉で誘う
 惽=忄+昬=コン・ボン
       くらい・はっきりしない・おろか
       ぼうっとする・ぼんやりして明らかでない
       もだえる・もやもやする・思い悩む
 㟭=山+昬=岷・崏・㞶
 䟨=足+民=ビン・ミン
 㗃=口+昬=ブン
       くちさき・くちびる・くちもと=吻
 䡑=車+民=䡻=ビン・ミン
 愍=民+攵+心=ビン・ミン
        あわれむ
        うれえる
        いたむ・かわいそうに思う=憫
        心を痛める・心配する
 鈱=金+民=鍲=金+昬=ビン・ミン
 敯=昬+攴=ビン・ミン・コン
 瑉=王+昬=ビン=珉・碈・䃉
 㬆=日+昬=ビン・ミン=湣
       おくりな
       生前の行いに基づいてつける呼び名
 暋=民+攵+日=
 㱪=歹+昬=殙
 㥸=民+思=ビン
      =閔=愍
 䁕=目+昬=ビン・ミン
 䪸=民+頁=ビン・ミン
 䃉=石+昬=
 睯=民+攵+目=
 緡=糸+昬=ビン・ミン
       いと・さし
       釣り糸
       ぜにさし=穴のある銭に刺し通す縄
 鴖=民+鳥=ビン・ミン・ブン・モン
 蟁=民+虫+虫=ブン
        か=蚊
        ぼうふらの成虫・人や動物の血を吸う
 名のり
 た・ひと・み・もと

 官尊民卑(カンソンミンピ)
 救国済民(キュウコクサイミン)
 救世済民(キュウセイサイミン)
 経国済民(ケイコクサイミン)
 経世済民(ケイセイサイミン)
 国民主権
 国利民福(コクリミンプク)
 主権在民
 小国寡民(ショウコクカミン)
 自由民権
 塗炭之民(トタンのたみ)
 半官半民
 風波之民(フウハのたみ)
 民族自決
 理世撫民(リセイブミン)

 民の口を防ぐは水を防ぐよりも甚だし
 民の声は神の声
 民は之に由らしむべし、之を知らしむべからず
 無告(ムコク)の民
 無辜(むこ)の民
 ↓↑
 親衛隊 (ナチス)
 親衛隊
 Schutzstaffel
 Flag of the Schutzstaffel.svg
 ルーン文字で表記した「SS」
 別名
 「黒地に銀の重ね稲妻」
 ↓↑
 SS Totenkopf.jpg
 帽章。トーテンコップ(髑髏)
 創設 1925年4月4日
 廃止 1945年5月8日
 所属政体 ドイツ国
 ドイツ国
 所属組織
 Reichsadler Deutsches Reich (1935–1945).svg
 国民社会主義ドイツ労働者党
 部隊編制単位 総軍
 人員 125万人(1945年2月)
 所在地
 Wappen Munchen 1936-1945.png
 ミュンヘン、プリエナー大通り45「褐色館」
 ベルリン、プリンツ・アルブレヒト通り
 北緯52度30分26秒
 東経13度22分57秒
 通称号/略称
 SS
 標語
 『忠誠こそ我が名誉』
 (Meine Ehre heist Treue)
 隊歌
 『縦ひ全てが背くとも』
 (Wenn alle untreu werden)
 上級単位
 SA-Logo.svg 突撃隊(1934年まで)
 担当地域 ヨーロッパ
 親衛隊
 (独:Schutzstaffel De-Schutzstaffel.ogg
    シュッツシュタッフェル
    略号:SS)
 国民社会主義ドイツ労働者党の組織
 第一次世界大戦時の
 将校や指揮官などの退役軍人が高官を務めた
 ドイツ語
 Schutz=「護衛・防護」
 Staffel=「梯団・梯隊」
 を意味
 ↓↑
 1925年
 総統アドルフ・ヒトラーを護衛する
 党内組織(親衛隊)として創設
 1929年
 ハインリヒ・ヒムラー
 親衛隊全国指導者に就任
 彼の下で
 党内警察組織として勢力拡大
 ナチスが政権を獲得の
 1933年以降
 政府の警察組織との一体化が進められた
 保安警察ゲシュタポと刑事警察)
 秩序警察
 親衛隊情報部
 強制収容所
 など
 第三帝国の主要な
 治安組織・諜報組織は
 全て親衛隊の傘下
 1934年
 国防軍から軍事組織の保有を許可され
 親衛隊特務部隊(武装親衛隊)を創設
 以降
 特務部隊以外の親衛隊員は
 一般親衛隊と呼ばれた
 第二次世界大戦
 武装親衛隊がヨーロッパ各地で戦った
 警察業務の親衛隊は
 ドイツ及びドイツ占領下の
 ヨーロッパ諸国において
 ナチ支配の維持
 反ナチ勢力の弾圧
 ユダヤ人狩り
 などにあたった
 戦時中
 絶滅収容所
 アインザッツグルッペンを組織し
 ユダヤ人の絶滅を図ろうとした(ホロコースト
 親衛隊は
 戦後のニュルンベルク裁判では
 全ての親衛隊組織は
 「犯罪組織(英:Criminal Organization)」
 であるとする認定
 元隊員達は本人の死亡が確認されるまで
 犯罪者として追跡され
 居所が確認されれば
 逮捕、裁判に掛けられている
 ↓↑
 モットー
 「My honor is called fidelity
  忠誠こそ我が名誉、我が名誉は忠誠を宣する事)」
 ↓↑
 1920年結党
 1933年政権獲得まで
 反対政党に対する武闘組織として
 突撃隊 (SA) があった
 ↓↑
 1923年3月
 党首アドルフ・ヒトラー個人の
 ボディーガード集団
 司令部護衛隊(Stabswache)
 が創設された
 1923年5月
 「アドルフ・ヒトラー特攻隊
  (Stostrupp Adolf Hitler)」
 に改組
 衝撃隊の隊員数は200名ほど
 隊長は突撃隊員
 ユリウス・シュレック退役大尉
 ナチ党財務担当
 ヨーゼフ・ベルヒトルト退役少尉
 の二人
 ↓↑
 ミュンヘン一揆
 「アドルフ・ヒトラー特攻隊」
 警官隊の銃撃で
 転倒したヒトラーを文字通り盾となってかばい
 5名の隊員が代わりに警官の銃撃を受けて死亡
 ウルリヒ・グラーフ
 ヒトラー衝撃隊の隊員としてヒトラーをかばい、重傷
 この時彼らの血で染まった党旗が残された
 ヒトラーは彼らの功績を忘れず
 ニュルンベルク党大会で
 突撃隊や親衛隊の部隊に
 「血染めの党旗(ドイツ語版)」
 に触れさせて忠誠を誓わせる儀式を行った
 ナチ党も
 突撃隊も
 ヒトラー衝撃隊も
 強制的に解散
 ↓↑
 1924年12月20日
 ヒトラー
 ランツベルク刑務所を出獄
 バイエルン州首相
 ハインリヒ・ヘルトと会談し
 二度と一揆を起こさない事を約束
 1925年2月25日
 ナチ党に対する非常事態宣言解除
 ナチ党再建
 2月27日
 ヒトラーはナチ党の再結党宣言
 ↓↑
 1925年4月中旬
 ユリウス・シュレック
 に自らの警護部隊を再建するよう命じ
 2週間後の5月
 この組織は
 「親衛隊 (Schutzstaffel)」
 の名前を与えられた
 当時の親衛隊隊員数は
 8名
 ↓↑
 親衛隊の入隊条件
 年齢23歳から35歳まで
 2人以上の保証人
 同一の住居に
 5年以上の居住を警察に届けてある
 健康で
 頑強な体を持っていること
 行動指針
 アルコール中毒
 おしゃべり
 非行歴がある者は酌量されない
 ↓↑
 ドイツ人であればほとんど誰でも入隊できた
 突撃隊
 と異なり
 親衛隊は一定の入隊条件が存在
 親衛隊は設立後
 ドレスデンにおいて
 共産党員50名
 による
 ナチ党集会襲撃の企みを未然に防いだ
 ↓↑
 1925年9月
 全ての地方党グループに親衛隊を設置
 1925年
 クリスマスの親衛隊の報告によれば
 隊員数は1000人
 1926年春
 「親衛隊司令部(SS-Oberleitung)」
 創設
 ↓↑
 1926年4月
 ベルヒトルト
 が亡命先の
 オーストリアから帰国し
 シュレック
 から親衛隊隊長の職を受け継いだ
 1926年7月4日
 ヴァイマル第二回党大会
 「血染めの党旗」
 が突撃隊から親衛隊の管理に移された
 ↓↑
 1926年11月1日
 フランツ・プフェファー・フォン・ザロモン
 が突撃隊最高指導者に就任
 親衛隊は突撃隊の傘下に組み入れられ
 同時に
 ベルヒトルト
 は「親衛隊全国指導者」
  (Reichsfuhrer-SS)
 となった
 ↓↑
 ベルヒトルト
 は
 フォン・ザロモン
 との軋轢を強めて辞職
 1927年3月
 ベルヒトルトの副官
 エアハルト・ハイデン
 親衛隊全国指導者に就任
 突撃隊最高指導者
 フォン・ザロモン
 は各地区の
 親衛隊員数を
 突撃隊員数の10%以下にすることを命じ
 ハイデンは隊員数の削減を迫られ
 1928年までに
 親衛隊の隊員数は
 280人
 ハイデンも
 フォン・ザロモン
 との軋轢を強め
 1929年1月6日
 辞職
 ↓↑
 1929年
 ハインリヒ・ヒムラー
 1929年1月6日
 ハイデンの副官
 ハインリヒ・ヒムラー
 第4代親衛隊全国指導に就任
 親衛隊は280名
 ヒムラーの下で親衛隊はその規模を拡大
 1929年末には1000人
 1930年末には2700人
 1931年には1万5000人
 1932年4月には2万5000人
 1932年末には5万人以上
 ↓↑
 1929年10月24日
 ニューヨーク・ウォール街の大暴落
 「世界恐慌
 失業者が
 ナチ党やナチ党組織へ参加希望
 親衛隊にも入隊希望者が殺到
 突撃隊は親衛隊より多くこの人材源を吸収
 ドイツ各地で徒党を組んで無法行為が増加
 党首ヒトラーの統制も受け付ず
 法的政権獲得を目指していた
 ヒトラーにとっては頭痛の種となっていた
 ヒトラー
 この突撃隊の無法分子に対する警察組織の必要性を痛感
 その任務を果たす組織として
 ヒムラー率いる親衛隊を利用
 親衛隊の拡大に強く反対していた
 突撃隊最高指導者
 フォン・ザロモン
 が
 ヒトラーとの対立から
 1930年8月12日に辞職
 同月終わりに
 東部ベルリン突撃隊指導者
 ヴァルター・シュテンネス
 が党指導部に対して反乱
 ↓↑
 1930年11月7日
 ヒトラーの命令で
 正式に
 親衛隊を党内警察組織と規定
 親衛隊は
 突撃隊の指揮に従う必要はないと定め
 (1934年の「長いナイフの夜」までは形式的に
  突撃隊の下部組織)

 ↓↑
 ヴァルター・ダレの
 『血と大地』のイデオロギーに強く影響されていた
 ヒムラー
 1929年4月
 親衛隊の組織規定の草案を
 ヒトラー
 や
 フォン・ザロモン
 に提出
 人種的な問題を
 親衛隊入隊の条件に据えるようになった
 数で圧倒的に勝る
 突撃隊を抑え込むためには
 親衛隊を
 「エリート集団」にせねばならなかった
 そして
 ヒムラー
 や
 ダレ
 のいう「エリート」とは
 金髪で
 青い目をして
 長身の北方人種のこと
 ↓↑
 農業を学び
 農薬会社に勤めていた
 ヒムラー
 基準について植物と絡めて
 「品種改良をやる栽培家と同じだ
  立派な品種も雑草と交じると質が落ちる
  それを元に戻して繁殖させるわけだが
  我々はまず
  植物選別の原則に立ち
  ついで我々が使えないと思う者
  つまり雑草を除去するのだ
  私は
  身長5フィート8インチ(約173センチ)の条件で始めた
  特定の身長以上であれば
  私の望む血統を有しているはずだからである」
 ↓↑
 人材の供給源
 恐慌の失業者
 突撃隊からの引き抜きなどで豊富であった
 ただし採用されるのは
 ヒムラーの「品種基準」を満たした者だけであった
 ヒムラー
 1931年12月31日
 命令で
 親衛隊員の婚姻条例を定め
 人種・遺伝の観点から
 隊員の婚姻に問題がないかどうか
 調査するための機関として
 親衛隊人種及び
 移住本部(RuSHA)を創設
 ダレ
 にその長官に就任してもらっている
 ユダヤ人から
 ドイツを守る
 世界観闘争を担うのは
 親衛隊であるとの自負心を強めていった
 ↓↑
 1930年7月
 クルト・ダリューゲ
 が親衛隊に参加
 ダリューゲは親衛隊に入る前から
 ベルリン親衛隊を
 ヒムラーから独立して指揮することを
 ヒトラーから認められていた人物
 親衛隊移籍後にも
 ベルリン親衛隊を
 ヒムラーから事実上独立して指揮
 ダリューゲは
 1931年3月
 の突撃隊員
 ヴァルター・シュテンネス
 の再反乱の鎮圧に活躍
 この一件は
 ヒトラー
 ダリューゲに対して
 「SS隊員よ、忠誠は汝の名誉
 (SS-Mann, deine Ehre heist Treue)」
 という賛辞を贈ってた
 後に
 「忠誠こそ我が名誉」
 という親衛隊のモットーの原型となった
 ↓↑
 ラインハルト・ハイドリヒ
 「シュテンネスの反乱」
 には
 プロイセン州内相
 カール・ゼーフェリンク
 の政治警察が援助し
 ヒトラーは党内の情報組織の必要性を痛感し
 ヒムラーに親衛隊情報部の創設を指示
 1931年6月
 海軍を追放され失業中の
 ラインハルト・ハイドリヒ
 が親衛隊に参加
 ヒムラー
 ハイドリヒ
 に親衛隊の諜報部「IC課」を任せ
 1932年7月
 の組織は
 SD
 に改組
 ハイドリヒの妻リナが秘書を務め
 彼の部下は3人だけだったが
 ハイドリヒの組織は急速に拡大
 ナチ党の各支部
 ハイドリヒの地方機関が設けられていった
 突撃隊諜報部など
 他の党の諜報組織を出し抜き
 政権掌握後の
 1934年6月9日
 副総統
 ルドルフ・ヘス
 の声明により
 SD
 は党唯一の諜報組織と定められた
 ↓↑
 1932年1月25日
 ミュンヘンの党本部「褐色館」の警備の全権が
 ヒムラー
 に任せられ
 1932年7月7日
 突撃隊と同型の制服を改め
 親衛隊独自の制服が制定
 親衛隊制服=黒服
 突撃隊からの独自路線を強く示す
 ヒムラー
 は親衛隊の模範として
 イエズス会を意識し
 勢力拡大と黒い制服から
 親衛隊は
 「黒いイエズス会
 とも呼ばれた[55]。
 ↓↑
 突撃隊の前身組織の指揮官で
 ナチ党古参
 エミール・モーリス
 は一時追放されていたが
 1932年
 の復帰後に
 親衛隊上級大佐(隊員番号2番)に任命された
 ↓↑
 1933年1月30日
 ヒトラー
 パウル・フォン・ヒンデンブルク大統領
 から
 ドイツ国首相に任命され
 ドイツの政権掌握
 ↓↑
 親衛隊は爆発的に隊員数を増員
 政権を掌握時
 5万2000人だったのが
 1933年末には
 20万9000人の隊員数
 大多数は
 名誉隊員や週末のみ動員の隊員が多く
 行事がある時に
 制服に着替えて参加する
 パートタイムの非常勤隊員
 軍人として訓練されていないので
 国防軍からはパレード専門の
 「アスファルト兵士」
 ヒムラー
 は親衛隊名誉指導者制を新設
 政財界の要人達を親衛隊に集めた
 名誉指導者は
 親衛隊の任務は全く課されない代わりに
 親衛隊の組織や隊員に対して
 何の命令権もない存在だった
 急増した親衛隊は
 入隊基準をより厳しくした
 ヒトラー
 「門戸をゆるくしてはならない。
  女共が惚れ惚れするような存在でなくてはならないのだ」
 と発言し非常に厳しい入隊審査が行なわれた
 1750年まで遡って
 本人の血統に
 ユダヤ民族やスラブ民族
 血が混入していないか調査を受け
 北方人種の顔立ち
 (彫りが深く金髪碧眼、細く高い鼻、後部が突き出た頭蓋骨)
 と
 最低身長173cmの頑強な体格
 先祖の病歴などを基準に選考
 党幹部の中には
 親衛隊を閲兵する際
 シークレットブーツなどを履いた者もいた・・・
 結婚も
 親衛隊人種
 及び
 移住本部(RuSHA)
 の許可無くすることは許されず
 婚約者の血統、父方、母方に精神疾患歴がないか調査された
 ヒムラーは数年以内に国家の主要ポストは
 金髪碧眼が占め
 120年以内には
 全ドイツ国民が
 北方人種的な容姿になっていなければならないと考えていた
 ↓↑
 旧来の隊員の中でも
 これらの基準に照らして怪しい者は
 リストラの際に除隊対象となったため
 隊員数の増加に歯止めがかかった
 1933年末
 20万9000人
 1939年
 戦開始時
 25万人
 リストラは徹底し
 1933年以前に
 親衛隊隊員だった者の
 90%は
 大戦までには除隊していた
 ↓↑
 警察
 大将
 ヨシアス・ツー・ヴァルデック=ピルモント
 1933年1月30日
 ヒトラーが首相に就任後
 党幹部が次々と政府や州政府の要職に就任
 ヒムラー
 と
 ハイドリヒ
 には何のポストも与えられず
 彼らはミュンヘンにとどまっていた
 3月9日
 ハインリヒ・ヘルト
 が首相を務める
 バイエルン州政府が
 フランツ・フォン・エップ
 率いる党部隊に制圧されると
 ヒムラー
 ミュンヘン警察長官
 ハイドリヒが
 ミュンヘン警察政治局長に任命された
 4月
 ヒムラー
 バイエルン州警察長官
 ハイドリヒが
 バイエルン州政治警察部長
 ↓↑
 ベルリン親衛隊の指導者
 クルト・ダリューゲ
 プロイセン州内相に就任した
 ゲーリングと接近し
 プロイセン州警察特別委員に任じられ
 さらに
 プロイセン州警察中将の階級を与えられていた
 2月22日
 ゲーリング
 突撃隊員2万5000人
 親衛隊員1万5000人
 をプロイセン州の補助警察として採用
 その指揮は
 ダリューゲに任せられていた
 ダリューゲはますます名目上の上司
 ヒムラーを軽視
 1933年春
 ハイドリヒが
 ヒムラーから
 ダリューゲ鎮撫のために
 ベルリンに派遣されたが
 ゲシュタポ
 (プロイセン州秘密警察
   ゲーリングが長官
   ルドルフ・ディールスが局長)
 に脅迫され
 ミュンヘンに追い返された
 ヒムラー
 と
 ハイドリヒ
 はプロイセン
  ベルリンの「ゲーリング王国」に手を出すのを諦め
  バイエルン州
  反体制派取り締まりに精を出して実績を上げた
 1933年3月
 ミュンヘン郊外の
 ダッハウ
 に最初の強制収容所
     ダッハウ強制収容所を創設
 ↓↑
 ドイツ国内相
 ヴィルヘルム・フリックは
 独立傾向の
 プロイセン州内相
 ゲーリング
 対抗するための実力を求め
 親衛隊に接近
 1933年~1934年初め
 強制的同一化と併せて各州の政治警察が
 ヒムラーに任せられていった
 ドイツの国土の大半を占める
 プロイセン州の警察は
 ゲーリング
 ディールス
 ダリューゲ
 らによって支配され続けた
 ↓↑
 突撃隊の指導者
 レーム
 とも争うところが多かった
 ゲーリング
 は親衛隊とこれ以上争うことは得策ではないと判断し
 1934年4月20日
 ディールスが務める
 ゲシュタポ局長の上位職として
 「ゲシュタポ総監兼長官代理
 (Inspekteur und stellvertretender
   Chef des Geheimen Staatspolizeiamtes)」
 を新設し
 ヒムラーをこれに任じ
 実質的なゲシュタポの指揮権を
 ヒムラーに引き渡すこととなった
 ヒムラー
 ディールスを
 ゲシュタポ局長解任し
 1934年4月22日
 ハイドリヒ
 をゲシュタポ局長に任じ
 彼にゲシュタポの実質的な運営をゆだねた
 ヒムラー
 と
 ハイドリヒ
 はベルリンの
 プリンツ・アルブレヒト街の
 ゲシュタポ本部へ移動
 ドイツの政治警察は
 ヒムラー
 と
 ハイドリヒ
 が掌握
 ↓↑
 突撃隊
 政権獲得後
 総隊員数400万人(武装兵士50万人)
 「第二の国防軍
 などと呼ばれたが
 権力からは遠ざけられ
 隊員の失業問題を抱えていた
 突撃隊員の中には
 「第二革命」
 を唱えて
 貴族階級が軍部を占める国防軍を解体し
 突撃隊を代わりの
 正規軍とすべきと主張する者も増え
 軍と党の軋轢を強めていた

 ↓↑
 1934年6月30日
 「長いナイフの夜」
 において
 エルンスト・レーム以下の
 突撃隊幹部や
 反党分子
 数百名殺害された
 主導的地位を果たしたのは
 プロイセン州内相
 ゲーリング
 ヒムラー
 ハイドリヒ
 など親衛隊の幹部
 1934年7月20日
 親衛隊は突撃隊から分離、独立
 1933年
 政権獲得後
 敵性分子を収容する強制収容所(KZ)の
 監督権もすべて親衛隊に移された
 ヒムラー
 ダッハウ強制収容所所長
 テオドール・アイケ
 を強制収容所総監に任じた
 アイケは
 1933年末に
 ダッハウ強制収容所
 監視部隊を
 親衛隊髑髏部隊として組織し
 「長いナイフの夜」事件の際にも
 粛清の実行部隊として活躍
 事件後には
 五個大隊に再編されて
 各強制収容所
 警備部隊として配置されるようになった
 ↓↑
 事件後
 フリック内相は
 ヒムラー
 ハイドリヒ
 を警戒し
 ヒムラーから独立的な姿勢を見せていた
 ダリューゲと接近し、彼を内務省警察局長に任命
 ヒムラーを名目上の事務職にし
 ダリューゲを
 ヒムラーの常任代理にし
 ドイツ警察を担わせたいと考えたが
 ヒトラー
 ヒムラー達への信任は盤石で
 フリックとダリューゲでは抗いきれず
 1936年6月17日
 フリックは
 ヒムラーを全ドイツ警察長官に任命
 ↓↑
 ヒムラー
 警察組織の統合を目指し
 一般警察業務
 政治警察業務
 を明確に分離
 一般警察業務は
 秩序警察(オルポ)の下へまとめ
 政治警察は
 保安警察(ジポ)の下へまとめた
 秩序警察は
 クルト・ダリューゲ
 にゆだね
 保安警察
 ハイドリヒに指揮させた
 保安警察
 国家警察機関に
 秘密警察(ゲシュタポ
 刑事警察(クリポ)
 ハイドリヒ指揮下の
 SDと
 ゲシュタポ
 職務区分が明確でなかったため、反目
 1937年7月1日
 ハイドリヒは
 CSSD命令を出して、両者の職務領域を区分
 SDは
 党内問題、人種問題、文化問題
 教育問題、外国問題、行政問題
 フリーメイソン
 などを専管するとされ
 ゲシュタポ
 マルクス主義、移民、国事犯を専管と定めた
 教会、世界観問題、ユダヤ
 過激派
 黒色戦線(ナチス左派のオットー・シュトラッサーの分派組織)
 経済問題、報道問題については共同管轄となった
 SDを情報分析機関とし
 ゲシュタポを執行機関とするのが
 この区分命令の狙いであった
 ↓↑
 1937年11月13日
 ヒムラー
 「親衛隊及び警察高級指導者
 (Hoherer SS- und Polizeifuhrer、略称HSSPF)」
 の職を新設
 彼らは
 ヒムラーの親衛隊全国指導者
 と
 全ドイツ警察長官の地位を代行する者として
 ドイツ国内や占領地の各地に配置
 ↓↑
 1939年9月
 ハイドリヒは
 政治警察活動の重複を避けるために
 党機関である
 SDと
 国家機関である
 保安警察を一つの傘の下に束ねた
 それが
 親衛隊の
 国家保安本部である
 SDは
 第III局(SD国内諜報)と
 VI局(SD国外諜報)に
 秘密警察(ゲシュタポ)は
 第IV局に
 刑事警察は
 第V局に配置
 III局は
 オットー・オーレンドルフ親衛隊中将
 IV局は
 「ゲシュタポミュラー」と呼ばれた
 ハインリヒ・ミュラー親衛隊中将
 V局は
 アルトゥール・ネーベ親衛隊中将
 VI局は
 30歳で親衛隊少将兼警察少将となった
 ヴァルター・シェレンベルク
 が指揮
 第二次世界大戦後期
 国防軍の諜報部であったはずの
 アプヴェーアが
 国家保安本部VI局に組み込まれ
 ドイツの対外諜報活動はすべて
 国家保安本部が管轄
 ↓↑
 戦時中に国家保安本部は
 ホロコーストの執行機関
 1942年1月
 ハイドリヒが
 ヴァンゼー会議を開催
 ラインハルト作戦を策定し
 ベウジェツ強制収容所
 ソビボル強制収容所
 トレブリンカ強制収容所
 などの絶滅収容所を建設
 ヨーロッパの
 ユダヤ人の絶滅を目指した
 東部戦線では
 アインザッツグルッペンを組織し
 ゲリラ掃討の名目で
 ユダヤ人や一般市民の虐殺を行った
 ↓↑
 1942年6月
 エンスラポイド作戦で
 ハイドリヒが暗殺され
 ヒムラーが国家保安本部長官を兼務
 (この間は
   I局局長
   ブルーノ・シュトレッケンバッハ
   が長官代理として実務を取り仕切る)
 1943年1月から
 エルンスト・カルテンブルンナー
 が後任に任じられて国家保安本部長官
 ↓↑
 1944年7月20日
 ヒトラー暗殺未遂事件の際にも
 親衛隊と国家保安本部は鎮圧者として活躍
 戦況が悪化していくにつれて
 親衛隊や国家保安本部の秘密警察権力は肥大化し
 ゲシュタポの暴走を止めるには
 ヒトラーも苦労
 ↓↑
 ヒムラーは党の政権獲得前から
 親衛隊の後援会員(FM)の拡大を目指していた
 後援会員は
 親衛隊に資金を提供するが加入はしないシンパのメンバー
 親衛隊の各連隊はそれぞれの後援会を所持しており
 隊員には
 少なくとも一人の後援会員を確保することが命じられていた。
 1932年
 後援会員数は1万3000人
 政権獲得後に一気に後援会員数が増大し
 1933年
 16万7000人
 1934年
 34万2000人
 1932年夏
 ヒトラーの経済顧問
 ヴィルヘルム・ケプラー
 (Wilhelm Keppler)
 が創設した
 「経済問題研究委員会」は
 1934年半ば
 親衛隊に取り込まれて
 「親衛隊全国指導者友の会
 (Freundeskreis Reichsfuhrer SS)」
 となった
 ここには
 IGファルベンの幹部ハインリヒ・ビューテフィシュ
        (Heinrich Butefisch)
 大財閥フリックのフリードリヒ・フリック
       (Friedrich Flick)
 大手食品会社ドクター・エトカーのリヒャルト・カゼロウスキー
            (Richard Kaselowsky)
 ドレスナー銀行のエミール・ハインリヒ・マイヤー
      (Emil Heinrich Meyer)
 ドイツ銀行のカール・リッター・フォン・ハルト
     (Karl Ritter von Halt)
 ジーメンスシュケルトのルドルフ・ビンゲル
         (Rudolf Bingel)
 J.H.シュタイン銀行(J. H. Stein Bank)
       のクルト・フォン・シュレーダー男爵
       (Kurt Freiherr von Schroder)
 国営企業ヘルマン・ゲーリング
    (Reichswerke Hermann Goring)
    のヴィルヘルム・フォス
    (Wilhelm Voss)
 などのる財界重鎮が集まった
 後援会員は
 ヒトラーへの宣誓も義務付けられず
 親衛隊から命令を受けることも制服の着用義務もなく
 金銭面のみで
 親衛隊とつながった人々だった
 しかし
 親衛隊の間違いのない財源であり、重要な存在であった
 ヒムラー
 後援会員にもしばしば
 親衛隊名誉指導者として
 親衛隊の階級を与えるようになった
 親衛隊に
 「親衛隊の魂」
 を持たぬ者が大量に流れ込むこととなり
 旧来からの隊員たちを戸惑わせた
 親衛隊は
 500にも及ぶ企業の経営
 「ドイツ土石工業社
    (Deutsche Erde und Steinwerke:略称DEST)」
 が親衛隊企業としてはもっとも成功した企業
 DESTの主な仕事は3つあり
 1つに採石場の開発および天然石の産出
 1つに煉瓦やクリンカーの生産
 1つに道路工事の請負であった
 作業員には
 強制収容所の囚人が駆り出されていた
 「ドイツ装備工業社
 (Deutsche Ausrustungswerke:略称DAW)」
 も有名
 各地の強制収容所
 生産集中化のために設置され
 収容所の囚人を使って
 弾薬箱、弾倉箱、火砲、その他軍用品の生産にあたっていた
 1940年6月
 設置された
 「繊維皮革事業団
 (Gesellschaft fur Textil und Lederverwertung)」
 も高収益
 武装親衛隊
 軍服を生産する会社
 主に女囚を働かせていた
 いずれの会社も
 囚人たちを労働条件などまともに考えることもなく
 文字通り倒れるまで酷使
 親衛隊企業は
 親衛隊経済部門の長官
 オズヴァルト・ポール親衛隊大将の下でまとめられ
 ヒムラーは磁器製造会社の経営に強く関心を示し
 彼がちょくちょく経営に口を出していたこの会社は
 常に赤字であったが
 ヒムラーは最後まで経営をやめなかった
 他の親衛隊企業も
 戦前期には赤字かあまり利益を上げず
 戦時中になってようやく利益を上げた
 ↓↑
 突撃隊幹部は
 1934年6月末~7月初めにかけて
 「長いナイフの夜」
 において粛清され
 粛清に主導的役割を果たした
 親衛隊は国軍から高い評価を得る
 ヒトラーはこれを利用
 親衛隊の中に軍隊を設置させる道を模索
 国軍の親衛隊への反感は
 突撃隊へのそれより少なく
 「長いナイフの夜」直後の
 1934年7月5日
 国防相
 ヴェルナー・フォン・ブロンベルク
 は
 一個師団規模の軍隊の所持を
 親衛隊に認める旨を軍司令官たちに通達
 9月24日
 ヒトラー
 三軍司令官に対して
 国軍をドイツ唯一の国防組織と認めつつも
 親衛隊が内政上特別な役割を果たすためとして
 武装した親衛隊部隊を
 3連隊と1通信隊を置くことを通達し
 設置されたのが
 親衛隊の戦闘部隊
 「親衛隊特務部隊」
 であった
 特務部隊は
 戦時には
 陸軍の司令権限を認めつつ
 平時にはヒムラーが指揮を執るとされた
 特務部隊の扱いは
 軍隊に同等であり
 特務部隊の隊員は
 給与支給帳(Soldbuch)
 と
 軍人手帳(Wehrpas)
 の所持を認められて軍人扱いを受けた
 国軍の感情も配慮し
 特務部隊は戦力を
 3個連隊と
 1通信隊に限定され
 師団編成の許可は見送られた
 ↓↑
 国防軍
 親衛隊の軍隊化を徐々に警戒
 国防軍
 特務部隊勤務を
 国防軍勤務相当であることを認めたが
 1938年8月17日
 ヒトラーの指令が出されるまで
 髑髏部隊
 親衛隊士官学校
 については
 国防軍勤務相当とは認めなかった
 特務部隊隊員数は
 1935年1月に約5000名
 1935年4月に約7600名
 1936年夏に約9200名
 親衛隊の国境部隊も
 1937年10月
 国防軍の圧力により解散
 国外諜報活動をめぐっても
 国防軍
 アプヴェーア
 と
 親衛隊のSDに争いがあった
 ↓↑
 1938年
 ブロンベルクの妻の
 売春婦疑惑
 陸軍総司令官
 ヴェルナー・フォン・フリッチュ
 の同性愛疑惑が浮上
 1938年2月4日
 ブロンベルク
 と
 フリッチュ
 が罷免された(ブロンベルク罷免事件)
 スキャンダル事件は
 ハイドリヒがでっち上げた策謀・・・
 軍事における主導権は国防軍が握っていたが
 親衛隊の軍事への進出を
 黙認せざるを得ない立場に置かれた
 1938年8月17日
 ヒトラー秘密指令を出し
 親衛隊士官学校
 や
 髑髏部隊
 にも武装編成を認めた
 髑髏部隊は
 親衛隊特務部隊の人材供給源となっていた
 ↓↑
 1939年5月18日
 2万人の兵員限定をつけながらも
 親衛隊特務部隊の師団編成を認めた
 国防軍も積極的反対はしなかった
 「砲兵連隊がない親衛隊特務部隊に
  師団編成は時期尚早」
 と消極的に反対し
 親衛隊特務部隊の師団編成は延期
 ヒムラーは砲兵連隊の編成を急がせたが
 1939年9月
 ポーランド侵攻には間に合わなかった
 この戦争に動員された親衛隊特務部隊は
 連隊編成のまま参加し
 ポーランド侵攻後に改めて
 ヒトラーから師団昇格を認められた
 親衛隊特務部隊3連隊は
 パウル・ハウサーを師団長とする
 SS特務師団(「ダス・ライヒ」師団と改称)にまとめられた
 親衛隊髑髏部隊員から抽出した
 髑髏師団や
 秩序警察の警察官より抽出した
 警察師団も編成
 1939年末
 髑髏師団
 や
 警察師団抜きで
 親衛隊特務部隊の隊員数は
 5万6000人超
 ↓↑
 1940年4月22日
 親衛隊特務部隊は
 親衛隊作戦本部の司令により
 武装親衛隊と名称を変えた
 1940年11月
 「ノルト」師団(「ヴィーキング」師団と改称)が編成
 以降も続々と師団が編成
 大戦を通じて
 武装親衛隊は38個師団90万の兵力を有した
 新兵器の優先供給を受け
 エリート部隊として
 崩壊の危機にさらされる
 最前線の火消し役として
 国防陸軍に勝る働きを見せたが
 戦闘訓練を十分に受けていなかったために戦死者も多かった
 ポーランド戦では国防軍の損害率が3%で
 親衛隊特務部隊は8%
 ヒムラー
 親衛隊特務部隊
 や
 武装親衛隊の損害率の高さについて
 国防軍が困難な任務を
 親衛隊に与えるためと釈明
 ↓↑
 1940年末頃
 占領地域に住む
 ドイツ系外国人の兵員募集は
 親衛隊本部の長官
 親衛隊大将
 ゴットロープ・ベルガー
 が主導的役割を果たし
 国防軍と折り合いをつけながら兵員確保に励んだ
 国防軍の徴兵対象にない
 ヒトラー・ユーゲントなどの若年層や
 ドイツ系外国人などを盛んに集めた
 やがて非ドイツ系の外国人も受け入れも開始
 ソ連との戦いを
 「反共十字軍」
 になぞらえて武装親衛隊に勧誘
 ヒムラー
 非ドイツ系外国人
 特に東方諸民族の受け入れに懸念があったが
 ベルガーに説得された
 独ソ戦の開始で
 戦線が大幅に拡大すると
 外国人の受け入れもやむなしの状況となった
 武装親衛隊の中には
 ボスニア
 イスラム教徒を中心に構成された師団まで存在した
 (第13SS武装山岳師団)
 ↓↑
 特務部隊
 や
 武装親衛隊
 のような軍属ではない
 親衛隊員は区別のために
 一般親衛隊と呼ばれていた
 国家保安本部に代表される一般親衛隊は
 ホロコーストの執行機関として
 終戦後、武装親衛隊のトップである
 ヨーゼフ・ディートリヒ
 や
 ハウサー
 らは
 「我々は国防軍と変わらない
  国のために戦った兵士達の集団である」
 として
 一般親衛隊とはまったく
 別個の存在であるという主張を展開した。
 ↓↑
 武装親衛隊の兵力供給源は
 (外国人部隊を除けば)
 一般親衛隊の隊員であり
 武装親衛隊の高官は
 一般親衛隊
 や
 警察の階級も合わせて
 任官していることが通例であった
 武装親衛隊
 第3SS装甲師団
 強制収容所
 維持にあたっていた
 親衛隊髑髏部隊から抽出されていた
 ↓↑
 1944年2月
 国防軍情報部長
 ヴィルヘルム・カナリス
 海軍大将の失脚に伴って
 アプヴェーアの機能は
 親衛隊の国家保安本部の
 SDに吸収され
 1944年7月20日
 国防軍将校らによる
 ヒトラー暗殺未遂事件が発生すると
 ハインリヒ・ヒムラー
 国内予備軍司令官に任じられた
 さらに陸軍兵器局が中心に開発た
 V2ロケットの生産・運用も
 陸軍から
 親衛隊の手に移された
 ↓↑
 ドイツの敗戦後
 ヒムラーはじめ
 親衛隊員たちの多くが
 連合軍の捕虜となった
 ヒムラーは取り調べ中に自殺
 連合国による
 非人道的行為への追及や
 ユダヤ人組織による復讐を恐れた親衛隊員は
 死亡を装って
 バチカンの連絡組織や
 オデッサと呼ばれる支援ネットワークを
 通じて海外に逃亡
 ↓↑
 祖国ドイツからの逃亡をもくろむ
 Uボート部隊に紛れ込んで
 姿をくらましたものもいた・・・
 ↓↑
 多様かつ先進的な
 秘密兵器開発に関わっていた
 親衛隊員
 親衛隊所属の科学者に対し
 アメリカの軍需産業による
 亡命支援や庇護も行われた
 ヒトラーの信頼を得て
 最先端の軍事研究計画の保安や
 情報管理を任されてきた経緯もあり
 庇護を受けた彼らによって
 もたらされる科学情報も多かった
 (ペーパークリップ作戦)
 ↓↑
 ソ連通の親衛隊員を
 ゲーレン機関に参加させるようになった
 ゲーレン機関は親衛隊員たちにとって
 ドイツ国内に残れる最も好都合な逃げ道だった
 ゲーレン機関は
 戦後西ドイツ政府の諜報機関
 BND
 となった
 ↓↑
 アドルフ・アイヒマン
 ヨーゼフ・メンゲレ
 エーリヒ・プリーブケ
 エドゥアルト・ロシュマン
 などソ連通ではない戦犯たちは
 ナチ・ハンター
 や
 モサドの追跡からかいくぐるために外国へ逃げた
 親独的な
 アルゼンチン
 その他
 ラテンアメリカ諸国
 アロイス・ブルンナー
 のように反イスラエルの者は
 シリアなどアラブ諸国に渡っていった
 これらの中には
 現地の治安・諜報機関の養成に関与した者もいれば
 完全に消息不明になった者もいる
 ↓↑
 親衛隊の中央組織は
 基本的には
 本部(Hauptamt) が置かれ
 その下に各部署が置かれる
 ヒムラー
 全ドイツ警察長官
 ドイツ民族性強化国家委員
 内相などの国家の役職を兼任するようになると
 国家機関も
 親衛隊の機関として含まれるようになった
 最終的には12の本部が存在した
 ↓↑
 親衛隊全国指導者個人幕僚部
 (Personlicher Stab Reichsfuhrer SS
  略称Pers,Stab RfSS)
 1936年
 カール・ヴォルフSS少将(後に大将)
 の下にあった親衛隊司令部が改組されて誕生
 1939年
 本部 (Hauptamt)
 に昇格
 親衛隊全国指導者
 ハインリヒ・ヒムラー
 の個人的な幕僚達で構成された部である
 長官は一貫して
 カール・ヴォルフSS大将が務めた
 ヴォルフは
 ヒムラーとの関係を悪くして
 1943年
 イタリアへ送られ
 親衛隊全国指導者個人幕僚部長官
 の地位は敗戦まで保持
 アーネンエルベ
 や
 生命の泉協会などの
 親衛隊組織が
 親衛隊全国指導者個人幕僚部の傘下に置かれていた
 親衛隊名誉指導者もこの部の下に配置されていた
 ↓↑
 ナチス
 親衛隊本部(SS Hauptamt、略称SS-HA)
 SDを除くすべての親衛隊機関の事務を担当
 人事、財政にその職務は広範囲
 「武装親衛隊
 の前身
 「親衛隊特務部隊」
 強制収容所
 「警備部隊親衛隊髑髏部隊」
 もこの本部の傘下に置かれていた
 後
 本部からいくつかの事務が切り離され
 3つの本部
 親衛隊作戦本部
 親衛隊人事本部
 親衛隊経済管理本部
 が独立
 戦時中に親衛隊本部は
 親衛隊(武装親衛隊
 の隊員の募集と採用を主な任務とする機関となった
 クルト・ヴィットイ
 エSS中将 (Curt Wittje)
 アウグスト・ハイスマイヤー
 SS大将
 ゴットロープ・ベルガー
 SS大将が長官を務めた
 ↓↑
 親衛隊作戦本部
 (SS Fuhrungshauptamt、略称SS-FHA)
 1940年8月15日
 親衛隊本部から分離設置
 一般SS
 と
 武装SS
 の司令部を傘下に入れている本部
 武装SSの
 「総司令部」
  の役割を期待されて創設
  戦闘の際には
  武装SSは国防軍の指揮を受けたが
  それ以外の際には
  親衛隊作戦本部の指揮下
  武装SSの
  医療や兵站は作戦本部が担当
  隊員訓練も作戦本部が行い
  SS士官学校
  も作戦本部により運営
  ハンス・ユットナーSS大将が長官
 ↓↑
 親衛隊人事本部
 (SS Personalhauptamt)
 親衛隊の人事の管轄部署
 親衛隊本部から
 人事に関する事務が切り離されて誕生
 長官
 ヴァルター・シュミットSS大将(Walter Schmitt)
 マキシミリアン・フォン・ヘルフSS大将
 マキシミリアン・フォン・ヘルフは
 陸軍大佐で北アフリカで勇戦
 12本部の長官たちの中では
 唯一の貴族出身者
    騎士鉄十字章叙勲者
 (秩序警察長官代理アルフレート・ヴェンネンベルク除く)
 ↓↑
 国家保安本部
 (Reichssicherheitshauptamt、略称RSHA)
 国家警察機関
 保安警察ゲシュタポと刑事警察)
 と
 親衛隊の
 SD本部を統合し
 1939年9月
 親衛隊の本部として設置
 ドイツ本国
 ドイツ占領地の政治警察のすべてを統括する親衛隊本部
 長官
 ラインハルト・ハイドリヒSS大将
 1942年6月
 ハイドリヒが暗殺された後に
 ハインリヒ・ヒムラー
 が長官を兼務して直接の指揮を執った
 1943年1月
 ドイツの敗戦まで
 エルンスト・カルテンブルンナーSS大将
 が長官
 ↓↑
ーーーーー

 ↓↑   ↓↑
エメラルドブルーの謎  (碧き眼の人形伝説)  奈井江 五郎
  ↓↑   ↓↑

 「プラトン古事記をカタル(古事記字源)
  +
 (表紙・画像・音楽)」の移転先・・・

 ↓↑
 ボクの「古事記字源」の発端・・・
 ↓↑
 干支歴
 ↓↑
 追加添文 「戦争と平和」・・・「モウケの生き方」
 ↓↑
 メリキリの - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=7xgS0oJhhe8

 ↓↑
 モモちゃん
https://www.youtube.com/embed/W00rHNN2zMQ?

 ↓↑
 モウ君の総合目次
 ↓↑
コジキ姫赤い絨毯に乗る(m)
 ↓↑
 古事記と虎関師錬

 ↓↑
鉄腕アトムのロボット法を
思い出して
これを
貼り付けてみたけれど・・・
AIの記憶・・・まだ、若いみたい・・・