ないえごろうブログ

同音異義の探索

すべての「原点は埃及(エジプト・Egypt)」・・・ 絵(繪・ゑ・畫)字附譯?

 文字霊日記・3349日目

 何時の時代の「ヱジプト(Egypt・埃及・ゑじぷと)」・ゑ=惠の草書体
 ↓↑
 傘と提灯は戻らぬつもりで貸せ・・・カネは貸すな、クレてやれ・・・
 2023年08月29日
 何時の時代の
 「ヱジプト(Egypt・埃及・ゑじぷと)」・・・
  ヱ=了(ア)+一=子   ゑ=惠の草書体=る+∧∧(nn)
   終了=おわり=尾張
   る=ろ(3)+〇=纂万呂の纂残(算)
               纂賂
   ∧+∧=M(nn) 丘々=阜=𠂤+十⇔岐阜
 ↓↑

 「石のライオン」は燃える?・・・
 糸(イト)の魚(うお・まな・サカナ)の火災・・・
 2016-12-23 22:17:27
 古事記字源
https://blog.goo.ne.jp/kiriya723/e/15da37d88b398f406fae64a01b416e75
 ↓↑
 2016年12月01日14:35の「クレオパトラ七世」
 すべての「原点は
 埃及(エジプト・Egypt)」・・・
 絵(繪・ゑ・畫)字附譯?
iegiputonosamurai6.jpg
 ↓↑
 2016年12月01日14:35
 「クレオパトラ七世」の「印刻コイン」と「プトレマイオス五世の七年目の石碑」
 ・・・歴史秘話ヒストリア「女王はいずこに眠る クレオパトラの墓の謎」・・・「クレオパトラ七世(プトレマイオス五世の七年目の石碑)」の「ロゼッタストーン」が「エジプトの神殿」で発見されたらしい・・・「石碑はプトレマイオス5世の7年目に造られたもの。ロゼッタ・ストーンより2年早い。石碑の記事によると、ここはクレオパトラが現人神だと主張するアイセスと関係がある寺院だった(キャスリン・マルチネス・ベリー氏)」・・・
 Eテレ「地球ドラマチッククレオパトラの墓を見つけ出せ!
 conaa
 2016年11月28日(月) 午前0:00~午前0:45(45分)
http://blog.livedoor.jp/mysteryhunter/archives/2016-04-04.html
ーーーーー
 漢字の現在的な日本語音声の音が古代中国の「秦・漢・呉・唐」王朝の「漢字音」を近似的に共有しているのは「発信地」の「音波」が「遠方」に時間的に届く速度が遅く到達するかであり、その時は「発信地」には音が消えている。岸辺から池の中心に投げられた小石の波紋が「輪=円」を描いて岸辺に到達するプロセスと同じである。そして届いた「音波・音声」は遠方に記憶として残る。その時は発信地の音声は新たなモノに変化して居るだろう・・・
 古代中国の「秦・漢・呉・唐」、現代も、その「大陸領域」は目まぐるしく王朝が混乱で交代する。中心地の都の支配者のコトバも入り乱れて変化するのは当然だが、記録された「文字」は双方に遺される・・・現代中国は文字も極端に変化するが、現代日本は旧漢字が新漢字、さらには国字として少々増加し、その形象の意味内容は変わらず、合理的に変化するだけである・・・
 問題なのは「片仮名・平仮名」で記録された「日本語」の意味の源泉である・・・日本語を解読するには「ロゼッタストーン」が必要だが、「可意努句」の土台は「漢字」そのものである・・・
egiputonosamuraixz
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 「感謝」・・・感(咸+心)謝(言+射)
 と
 「謝罪」・・・謝(言+射)罪(罒+非)
   ↓↑
  「罪=罒(网)+非」
    「非=互いに背を向け左右に開く」
      =秦、罪を以て辠字と為す
   辠=自+辛=つみ・ザイ
   奴隷の鼻を切り取ること
   法網に捕捉した不法の人
   始皇帝が「皇」と「辠」が
   類字するコトを嫌って
   「罪」の字に改めた
   支配者(皇帝)の「自責・呵責」?
   「皇=白+王」だが、
   「辠=自+辛」である
   楷書では類字しないだろう
   類字なのは「睾(丸)」である
   「秦の始皇帝」は「白人」
   だったろう、「西の秦」だから
   「大秦帝国」はローマ帝国である
   これは
   「秦=シン=辛」の
   音を嫌って、
   「罪(ザイ)=罒(网)+非(ヒ)」に
   したんだろうが
   「罒(モウ)も非(ヒ)」も
   「ザイ」の音ではない・・・?
   「非」は
   「丰(すがた・フウ・ボウ)」
   を分轄した漢字だろう・・・?
   「韭=非+一=にら・キョウ・ク」だが
   「一」は大地で、根っ子と「非」で、
   根こそぎにされた「非」である・・・?
   「剕=非+リ(刀)」で、
   足切(斬)りの「刑」である
   「刑=开=幵(ケン)」+「リ(刀)」で
   「开=幵=そろえる・みがく・左右に並ぶ
   古代「羌族」の支族が开=幵」
   で、
   「刑」とは「刀」で「开=幵」、
   切り分けるである・・・?
   「开」は「鳥居の形」だが、
   鳥寄せ、
   雨乞い、雨避け、そして
   日照避けの
   「幵=干+干」のシンボルだろう・・・干(日)傘二本
      傘=𠆢+仌+十+仌・・・倅・悴・卒・萃・蕐
       =仐=𠆢+十
       =伞=𠆢+丷+十・・・平=修身斉家治国平天下
        𠆢+仌+十
        サン・かさ・からかさ
        雨がさ、日がさなど
        笠・暈・嵩
  地名
  傘鉾町(かさぼこちょう)
  傘松(からかさまつ)
  傘松前(からかさまつまえ)
  名字
  折傘 (おりかさ・おりがさ)
  傘(かさ・からかさ・さん)
  傘木 (かさき・かさぎ)・・・かささぎ=鵲⇔白鷺
  傘谷(かさたに・かさや)
  傘松(かさまつ)
  笠松岐阜県
     羽島郡
     笠松町
     大須
     ↓↑
     大須観音
     建久年間(1190年~1199年)
     尾張国中島郡長庄大須
    (岐阜県羽島市桑原町大須
     「中島観音」が発祥
     ↓↑
     元亨四年(1324年)
     後醍醐天皇により
     北野天満宮が創建
     元弘三年(1333年)
     同社の別当寺として
     僧「能信」
     が
     真福寺創建・塔頭宝生院が開基
     ↓↑
     摂津国
     四天王寺
     観世音菩薩を移し
     本尊とした
     その後
     後村上天皇により
     伽藍が建立
     勅願寺
     ↓↑
     元亨四年(1324年)
     後醍醐天皇
     長岡庄に北野天満宮を御造営
     能信上人に帰依し
     元弘三年(1333年)・・・建武の中興
     上人をその別当職に補し
     「北野山
      真福寺(シンプクジ)
      寶生院(ホウショウイン)」
      の寺号を与えた
     ↓↑
     第二代住職は
     信瑜上人・・・信瑜・賢瑜⇔古事記
     第三代住職
     任瑜法親王
     の時には
     寺領1万石
     伊勢・美濃・尾張三河遠江信濃
     6か国の真言宗寺院を末寺
     織田信長
     により寺領500石が寄進
     慶長十七年(1612年)
     ↓↑
     徳川家康
     の命令で
     犬山城
     成瀬正成
     によって
     宝生院は
     本尊や真福寺文庫と共に
     大須郷から現在地に移転
     ↓↑
     文化十二年(1815年)
     五重塔建立
     空海が彫った
     愛染明王像が五重塔内に安置
     ↓↑
     1892年(明治二十五年)3月21日
     境内の
     宝生座(芝居小屋)裏手から
     出火(大須大火)により
     本堂、五重塔と仁王門を焼失
     同年四月
     焼失した本堂、五重塔、仁王門を再建する為
     「再建寄附金帳」が書かれ
     再建のために
     本堂、五重塔、仁王門の
     建地割図(設計図)が描かれ
     再建内容が5丁で記録
     五重塔は再建されなかった
     ↓↑
     1945年(昭和20年)3月19日
     名古屋大空襲で2度目の焼失
     1949年(昭和24年)
     仮本堂と仁王門が建てられ
     本堂の再建は
     1970年(昭和45年)
     鉄筋コンクリートで再建
     五重塔の再建されていない
     戦前までは
     賑わっていた寺は
     七堂伽藍の七寺だが
     空襲で焼失し再建はされていない
     ↓↑
     開山 能信上人
     諱 能信
     字 浄水
     姓 桜井
     正応四年(1291年)
     伊勢国鈴鹿郡関の郷井後
    (亀山市井尻町の付近)で誕生
     正和元年(1312年)
     癡兀大慧(仏通禅師)
     ・・癡=疒+疑=痴=愚痴・愚癡(ぐち)
        疒+匕+矢+龴+疋
        疒+匕+矢+龴+乛+龰
        疒+匕+矢+龴+乛+止
        チ・おろか・にぶい・しれもの
        一つの物に熱中、夢中になること
        三毒の一つ=迷い
       兀=一+儿=
        コツ・ゴツ・たかい
        高くて上が平らなさま
        はげたさま・禿山
        不動・一心に物事にうちこむさま
        あしきる・足切りの刑罰
     の入寂に際し
     禅学と密教の書籍を
     全て譲り受けた
     文保二年(1318年)
     慈恩院の
     実清阿闍梨
       ・・・洞院(トウイン)
          実清(さねきよ)=冷泉実清
     に随って落飾
     嘉暦元年(1326年)
     安養寺の
     寂雲に法求
     ↓↑
     元弘元年、元徳三年(1331年)
     後醍醐天皇
     能信に帰依
     ↓↑
     元弘三年(1333年)
     後醍醐天皇より
     北野天満宮別当職を拝し
     真福寺の開山をなす
     正平十年(1355年)十月二十五日
     入寂
     ↓↑
     愛媛県
     大洲市
     大洲
     江戸時代初期
     藤堂高虎
     の所領
     大洲城
     丹羽長秀の子で
     高虎の養子の
     藤堂高吉
     が在城
     慶長十三年(1608年)
     高虎は
     伊勢国津藩に転封
     大洲は高虎預かりの地
     同年九月
     淡路国
     洲本藩
     兵庫県 洲本市
     洲本城・由良城
     洲本は 紀伊水軍 の一派
     安宅氏 の分家
     洲本安宅氏が支配
     戦国時代
     淡路守護であった
     細川氏
     三好氏 により滅ぼされ
     安宅氏本家も内紛により衰退
     洲本安宅家の
     安宅治興は
     三好長慶の弟の
     冬康を養子に迎え、三好氏の傘下
     三好氏が織田信長によって滅ぼされた後
     三好信康は織田氏支配下
     信長の死後
     豊臣秀吉は譜代の家臣である
     仙石秀久
     を5万石で淡路に入れた
     秀久は四国攻めで軍功を挙げ
     讃岐国に加増移封
     ↓↑
     後
     賤ヶ岳の七本槍の一人
     脇坂安治
     が3万石で入って
     淡路洲本藩が立藩
     安治は九州征伐小田原征伐に従軍
     文禄・慶長の役
     で軍功
     慶長五年(1600年)
     「関ヶ原の戦い」で
     上西軍に与したが
     藤堂高虎と内通し
     小早川秀秋が寝返った時
     東軍に寝返り
     西軍の
     大谷吉継を壊滅させた
     ↓↑
     慶長十四年(1609年)
     伊予大洲藩に移転
     淡路は
     藤堂高虎の属領となった
     播磨
     姫路藩
     池田輝政に淡路一国が加増
     淡路は
     姫路藩の属領
     慶長十八年(1613年)一月
     輝政死去
     淡路は輝政の三男・忠雄に分与
     再び洲本藩が立藩
     忠雄は由良成山城を築き
     藩庁を移転し
     由良成山藩と名称が変わる
     元和元年(1615年)
     忠雄は岡山藩主で早世した兄
     池田忠継の後を継いで
     岡山藩に移り
     由良成山藩は廃藩
     ↓↑
     淡路はその後
     大坂の陣で軍功を挙げた
     蜂須賀至鎮
     阿波藩(明治以降に徳島藩と改称)領
     洲本に阿波藩が派遣した
     城代
     稲田家が置かれ
     由良成山城は廃城          
     より
     脇坂安治
     5万3千石で入部
     大洲藩立藩
     ↓↑
     2代脇坂安元
     元和三年(1617年)
     信濃国飯田藩に転封
     加藤貞泰
     伯耆国
     米子藩より
     6万石で入部
     ↓↑
     元和九年(1623年)
     加藤貞泰
     跡目の届け出をしないまま急死
     長男の
     加藤泰興が
     将軍徳川秀忠御目見
     相続が承認された
     その際、弟の
     加藤泰但(直泰)は
     1万石分知の内諾を得て
     新谷藩成立
     寛永十六年(1639年)まで
     お家騒動
     内分分知で決着
     ↓↑
     初期の大洲藩からは
     儒学者
     中江藤樹が出た
     ↓↑
     大洲藩は幕末早くから勤王で藩論一致
     慶応四年(1868年)
     「鳥羽・伏見の戦い
     で参陣
     坂本龍馬
     運用の蒸気船「いろは丸」は大洲藩所有
     大洲藩より海援隊に貸与していたもの
     ↓↑
     明治四年(1871年)7月14日
     廃藩置県
     大洲県(草高6万石、現石3万476石余)
     設置
     加藤家は華族に列した
     同年11月15日
     第1次府県統合=3府72県制の実施
     で大洲県が廃止
     旧宇和島県、旧吉田県、旧新谷県
     が合併して
     宇和島県設置
     本庁・宇和島
     支庁・大洲
     後
     神山県を経て
     愛媛県編入

     ↓↑
     明治十七年(1884年
     華族令で
     大洲加藤家は
     子爵を授爵
     ↓↑
     寛永十一年(1634年)
     大洲城
     加藤泰興は
     伊予松山藩
     蒲生忠知急死により
     御城預り
     松山藩
     伊予郡浮穴郡37箇村(約1万3千石)
     大洲藩領風早郡桑村郡57箇村
     の替地を老中に願い出
     寛永十二年(1635年)
     替地実現
     翌年
     上灘村から
     宮内兄弟(九右衛門、清兵衛)
     が入植し
     「灘屋」と号したため
     「灘町」(伊予郡郡中町の前身)
     と命名
     ↓↑
 相合い傘(あいあいがさ)
 雨傘(あまがさ)
 置き傘(おきがさ)
 傘下(さんか)
 傘寿(さんじゅ)
 洋傘(ようがさ)
 落下傘(らっかさん)
 傘(かさ)
 鉄傘(てっさん)
 番傘(ばんがさ)
 日傘(ひがさ)
 「傘」を含む言葉・熟語を全て見る
 「傘」を含む四字熟語
 乳母日傘(おんばひがさ)
 「傘」を含む四字熟語を全て見る
 「傘」を含むことわざ
 朝雨に傘要らず(あさあめにかさいらず)
 朝雨に傘いらず(あさあめにかさいらず)
 姉は菅笠、妹とは日傘(あねはすげがさ、いもとはひがさ)
 お乳母日傘(おうばひがさ)
 傘と提灯は戻らぬつもりで貸せ(かさとちょうちんはもどらぬつもりでかせ)
 濡れぬ先の傘(ぬれぬさきのかさ)
 降らぬ先の傘(ふらぬさきのかさ)
  ↓↑
 「謝」の?・・・ナゼ、「謝々」の?・・・
 「罪を謝す」って?
 「主客」の「主語」はダレのコトバなのか?、
 それとも自分自身の
 「自戒のコトバ」なのか?・・・
  ↓↑
 「あやまる・わびる・ことわる・いれかわる・シャ」
 「あやまる=謝罪・陳謝」
 「相手の負担を思い、ことわる=謝絶」
 「礼を言う=感謝・厚謝・謝意・謝恩
       謝礼・多謝・拝謝」
 「お礼やおわびを表す金品=月謝・薄謝」
 「新陳代謝=入れかわる」
 「藉 (シャ)の代用字)・いたわる=慰謝料」
 「花、葉などが散(ちる)、萎(しぼむ)」
 「勢いがなくなる=代謝
 「告げる・述べる・話す」
 「ことわる・辞退する・しりぞける・去る
  やめる・しぼむ・おとろえる」
 「捨てる・棄てる・捐てる」
 「去る・撤てる→撤退」
 「代謝=死ぬ」・・・新陳代謝
 「恥じる・情けないと思う」
 「謝=言+射(身寸)・・・弓矢を射(い)る?」
    射は矢を放つこと
    結果、弓の緊張が解けること
   「言葉に出すことにより、緊張が解けること」?
    ではなく、
    コトバの暴言、批難(非難)、侮辱、侮蔑の
   「ヘイトスピーチ(hate speech)」だろう・・・
 「謝」の用法を理解するのは「意味内容」が広く「混乱」するが
 漢字構成は
 「謝=言+射(身+寸)」で
 「寸」=一+亅+丶(ゝヽ丶)」である。
 コトバを射るか、身体(躯=身+区)の部分をハカ(寸)って、コトバにする、である?・・・
 「寸」は更に
 「イチ(一)」を「引っ掛け(亅)=(かぎ・ケツ)」て
 「ゝ(チョン)=ヽ=チュウ=丶」である
 「ゝ(チョン)=ヽ=チュウ=丶」は
 漢字では「々・仝・同」で
 それ自体の意味は
 「文章で上に接続する字の音と意味を同じく繰り返し重ねる記号(?)」とされるが
 「漢字構成の部品」であるから
 「ゝ(チョン)=ヽ=チュウ=丶」は「漢字」である
 ボク的には、漢字理解には
 「篆文(篆書)の字体構成・書体」は
 その形象の意味を「参考、参照」にすれども
 時間的に結果、出来あがってしまった
 「楷書」である「漢字構成」の「部首分解」から
 それらの
 「一漢字文字の意味内容」を「解く(訳句)」と云うコトであるが・・・
 ごく単純な考え方で、出来あがったモノ(楷書)の
 「部分の分解」と
 「部分の合体、再構成」で
 その「意味」を理解する、と云うコトである
  ↓↑
 「楷」は「木(十の八)」+「皆(比の白)」
 で、更に
 「木=一+|+ノ+乀」=イチのヘツ、ヘチのフツ
 「比=ト+一+ノ+匕(七→一+乚)」=ボクのイチの
      ヘツ・ヘチの
      匕=匙(是+匕)=ゼ・ダイ・テイ
      七=シチ・シツ
      七=牝(牛+匕・ヒ)=ヒン
      の
 「白=ノ+曰(日)」=ヘツ・ヘチのエツ(ニチ・ジツ)
 の漢字合体構成である・・・これを更に「日本語(?)」の意味漢字」で考え、その「形象」、そして「音象」を含め、漢字の「本質・概念・範疇・カテゴリー・規定」とする、と云うコトだ・・・
 ボクは「日本人(?)」であるらしいから、「日本人的漢字の意味」で「理解=リカイ=裏可意」とする、である・・・それでも、「日本人」以前に「地球人・宇宙人」として「リカイ」したいのだか・・・?
  ↓↑
 「謝」の四文字熟語
 温言慰謝(オンゲンイシャ)
 新陳代謝(シンチンタイシャ)
 報恩謝徳(ホウオンシャトク)
 妄言多謝(ボウゲンタシャ・モウゲンタシャ)
  ↓↑
 「妄言多謝」
 独断と偏見でいい加減な言葉を並べ立てた後に、
 相手に「わびる」言葉・・・?
 自分の意見などを率直に記した
 手紙の末尾に記して、
 失礼を詫(わび)る言葉・・・詫びる・侘びる
 ・・・ボク的には「妄言」で
 「多くの言を射る(吐く・身をハカる)」で、
 「あやまるコト」の「熟語」ではない、と考える・・・?
  ↓↑
 「侘びる」・・・「佗(わびる・タ)=イ+宀+七(匕)」
 「侘=イ+宅」=立ち止まる
 「侘(わび・タ・チャ)」=正字は「侂」
 「侂=イ+广+乇=ほこる・おごる・たかぶる・タ・タク)」
      誇る・奢る・驕る・昂ぶる
      立ち止まって怪しい、
      変だと思うこと
      「乇=あづける・くつろぐ・タク=「ノ+七(匕)」
   ・・・「乇」は「モ」に類字だが・・・
   「ノ(ヘツ・ヘチ)」の「七(匕・ヒ)」は
   「7・漆・seven」なのか、
   「匙・spoon」なのか、
   「匕首(あいくち)」なのか、
   「牝(牛+匕)=Venus(金星の女神)」なのか・・・
       卑弥呼なのか、
       壹與なのか、
       イシスなのか、
       クレオパトラ七世なのか・・・?
 「侘傺(タテイ)=志を失ふ貌・・・茫然、呆然
      =離騷「忳鬱邑、余、侘傺兮」?
       「忄+屯(たむろする・群がる
      屯営・屯所=駐屯
      屯倉 (みやけ)
      =がっかりして呆然(呆然)と立ち尽くすこと
   「宅」
    ↓↑
 「石上宅嗣(いそのかみ の やかつぐ)
  天平元年(729年)己巳年
   ~
  天応元年6月24日(781年7月23日)
       辛酉年乙未月辛亥日(グレゴリオ暦
       辛酉年乙未月乙卯日(ユリウス暦
  公卿・文人
  姓は石上朝臣・物部
  芸亭(ウンテイ)院は日本最初の「公開図書館」・・・
 ・・・多分、アレキサンドリア図書館に真似た、重ねたんだろう・・・歴史的に実在したとしても
 「ウンテイイン」
 で、
 「ゲイテイイン」
 じゃぁないらしいカラ・・・「藝・芸」は
 辛酉(とり)年
 乙未(ひつじ)月
 辛亥(いのこ)日(グレゴリオ暦)、
  ↓↑
 辛酉(とり)年
 乙未(ひつじ)月
 乙卯(うさぎ)日(ユリウス暦
 である・・・
 「とし(年・歳)」
 は
 「からい(辛=刺青の針)」
 の、
 「とり(酉=西+一)=坩・壷・瓶・壜=つぼ)」
 で、「さけつぼ(酒坩)」である・・・
  ↓↑
 「託(言葉で頼んで人に預ける・まかせる)」
 「託食(タクショク)=人をタヨリにして食うこと」
 「信託(シンタク)=信頼できる人に財産等を任せる」
 「託(かこつ)ける」・・・「過去附(点・接)ける」?
  ↓↑
ーーーーー
 「クレヲパトラ七世」の「賂雪駄石」?
  ↓↑
 「石碑はプトレマイオス五世の七年目に造られたものだった。
  ロゼッタ・ストーンより二年早い。
  石碑の記事によると、
  ここはクレオパトラ(七世自身?)が
  現人神だと主張する
  アイセス(=イシス (Isis)=アセト)・・・愛施素?
       =オシリスの妹で妻
       =ホルスの母親)
  と関係がある寺院だった」
  ↓↑
 「エジプト考古学者の
  キャスリーン・マルティネス氏
  ハトホル神殿の
  レリーフ
  クレオパトラ自身の姿
  女神イシス(アイセス)を模した姿
  イシス=クレオパトラ七世
  タップ-オシリス・マグナ
  は
  イシスの夫である神
  オシリスの墓という名の遺跡
  タップ-オシリス・マグナ
  からは
  400枚余のコイン出土
  コインに描かれている女性は、
  クレオパトラ本人・・・
  タップオシリス・マグナの地下に
  通路の穴を発見・・・
 ・・・ひゃぁ~ッ、十二月一日の朝の四時九分・・・
 とりあえず、今現在はここまで・・・おやすみ、モモちゃん・・・
ーーーーー

(ユカリとオジさんの世迷い言・2)

古代エジプトの神々(1)・絵字符都・『埃及』(1)・(42)

エメラルドブルーの謎  (碧き眼の人形伝説)  奈井江 五郎
  ↓↑   ↓↑
 「プラトン古事記をカタル(古事記字源)
  +
 (表紙・画像・音楽)」の移転先・・・

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 ボクの「古事記字源」の発端・・・
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 干支歴
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 追加添文 「戦争と平和」・・・「モウケの生き方」
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鉄腕アトムのロボット法を
思い出して
これを
貼り付けてみたけれど・・・
AIの記憶・・・まだ、若いみたい・・・
オジタリアンと「鉄腕あとむ」の「ポルカ」 (haa98940.wixsite.com)