ないえごろうブログ

同音異義の探索

倭人、「燕国」に属す・東鯷(魚+日+下+人)人=吾妻の眞名は日の下の人

 文字霊日記・3350日目

 「先住の縄文人」+「倭人は殷周の子孫を自称」
 →「呉人=倭人」→「越人渡来」
 「こじき」とは・・・清音で「甑(こしき)」だが?
           濁音で「甑(ごじぎ)」?
           清濁混合音
              「古事記(コジキ)
            ・・・乞食(こつじき)
               子思儀(コシギ)
               ・・・小鴫(鷸)
               ・・・小此木
               誤自棄(ゴジキ)
               互試技(ゴシギ)
               語私擬(ゴシギ)
               後辞儀(ゴジギ)」 
 古式=こしき
 こしき=「甑=甑󠄀=甗=轂=蒸し器」
    =蒸籠(せいろう・むしかご)・・・ジョウロウ
    =蒸篭(せいろ・せいろう)
        竹や木を編んで作られた
        蒸し料理用の調理器具
    =甑(こしき)=古代中国を発祥
            米などを蒸すための土器
           「需=雨+而」とも・・・需要供給
           「不時之需(ふじのもとめ」
                突然発生した必要や需要
            竹や木などで作られた蒸籠と
            同じく蒸す調理器

  =鬲(レキ)
   3本の足の中の空間に水を入れ
   その上に甑(こしき・ソウ)を載せて火にかけ
   水を沸騰させることで粟や稲などを蒸した
   鬲と甑を1つと看做した場合には
   甗(ゲン)とも称する
   鼎(かなえ・テイ)
   こしき炉(甑炉)=古来からある日本独自の溶鉄炉
   キューポラ(cupola furnace)=溶銑炉=キュポラ
   コークスの燃焼熱を利用して鉄を溶かし鋳物の
   溶湯(ヨウトウ:溶解され液体状になった鉄)
   を得るためのシャフト型溶解炉に分類される溶解炉
   =「濾紙器(こしき)=漉紙器」
   =「濾過器(ロカキ)」
   =「越史記(こしき)」
   =「超数寄・越数奇(こしき)」
 ・・・呉越同舟(周)?
 ↓↑
 越(エツ)
 紀元前600年頃~紀元前306年
 春秋時代
 中国浙江省の辺りの国
 首都は
 会稽(浙江省紹興市)
 漢民族形成の中核の
 黄河流域の都市国家群とは別
 南方の
 長江流域の
 百越に属する民族を主体に建設された
 越=楚、呉など長江文明を築いた流れを汲み
   稲作や銅の文化で栄えた
 ↓↑
 夏の
 少康の庶子
 越の君主の起源とする
 ↓↑
 隣国の呉とたびたび抗争
 紀元前515年
 楚に遠征した
 呉王
 闔閭の留守を狙って
 越王の允常が呉を攻め呉の領内を荒らしまわった
 混乱に乗じて
 実弟の公子
 夫概が兄に対して謀反を起こし
 闔閭の立場が揺らぎ
 闔閭は越を憎んだ
 紀元前496年
 允常が死亡
 太子の
 勾践が継いで即位
 その報せを受けた闔閭が越を攻めたが敗死
 闔閭の後を継いだ次男の
 夫差
 が報復の準備を整え
 それを憂えた勾践は、先手を打って仕掛けたが逆に大敗
 越は滅亡寸前
 勾践が夫差に臣従し滅亡は免れ
 その後
 勾践は呉で使用人とされたりしたが
 范蠡の助けを借りて帰国に成功
 夫差に面従腹背しながら逆襲の時を待った
 越は国力を蓄え
 呉に圧迫されていた楚とも同盟
 夫差が
 伍子胥を殺害し
 中原に諸侯を集めて
 会盟を結びに行っている隙を突いて
 勾践は呉を攻めて大打撃を与え
 夫差を自害させ
 紀元前473年
 呉は滅亡
  ↓↑
 『越絶書』・・・・越=走+戉
       絶=糸+色
       書=⺻+丄+日・・・聿・肀
       彐=彑・⺕=手
         ⺕・ヨ・彐=彑
        「彐=彑」の結論は・・・
        「⺕=手=」を含め
        「⺕・ヨ・彐=彑」
        「𠀕=亙・𠄣・𠄭=互+丶」
         彑⇔噛み合う口顎(くちあご)の形象?
         彑⇔塵芥を摘(つ)まむ、挟む、咬み合う
        「L字」と「ユ字」の
              合体形象である・・・?
         帇=彐+巾=ジョウ
         手わざ、手先が器用
 呉を滅ぼした勾践は
 越の都を
 瑯琊(江蘇省連雲港市海州区)に遷都
    瑯=王+郎=玉や金属の鳴る音
    琊=王+邪=瑘=王+耶
 諸侯と会盟して中原の覇者となった
 『史記索隠』
 『竹書紀年』では勾践の4代後の
 翳のときに
 呉(江蘇省蘇州市)に遷都した・・・
 『越絶書』とは異説
 ↓↑
 勾践は讒言によって腹心の
 文種を粛清
 范蠡
 勾践の猜疑心を知り尽くして
 既に斉に逃亡
 陶朱公と称して富豪となった
 紀元前465年
 勾践は死亡
 越の全盛期を築くも
 猜疑心から優秀な人材を失い
 越は徐々に衰退
 ↓↑
 紀元前334年
 勾践の6世の孫
 無彊の代に
 楚の威王の遠征で越は敗北
 無彊は逃亡
 後
 楚の懐王の代の
 紀元前306年頃までに
 楚の王族
 淖滑によって滅ぼされた
  ↓↑
 『荘子』逍遥遊篇
 当時の越の人々は頭は断髪
 上半身は裸で入れ墨
 『墨子』公孟篇
 『史記』越王勾践世家
 ↓↑
 歴代君主
 『呉越春秋』
 夏の少康の庶子
 無余を最初の越の君主とし
 夫譚の前に
 無壬・無瞫
 『史記』越王勾践世家
 初代~允常まで二十余世
 『漢書』地理志は
 初代~勾践まで二十世
 ↓↑
 越侯 夫譚
 越侯 允常 - 『史記正義』・はじめて王を称した
 越王 勾践(在位紀元前496年~紀元前494年)
 呉の支配による空位:紀元前494年~紀元前491年
 越王 勾践(在位紀元前491年~紀元前464年)
 越王 鹿郢(鼫与)
    (在位紀元前463年~紀元前458年)
 越王 不寿(在位紀元前457年~紀元前448年)
 越王 朱句(州句、翁)
    (在位紀元前447年~紀元前411年)
 越王 翳(在位紀元前410年~紀元前375年)
 越王 錯枝(在位紀元前374年~紀元前373年)
 越王 無余之(在位紀元前372年~紀元前361年)
 越王 無顓(在位紀元前360年~紀元前343年)
 越王 無彊(在位紀元前342年~紀元前306年?)

 ↓↑
 東鯷人(トウテイジン
  鯷(ひしこ)=ナマズ(鯰・鮎・魸・鮀)
  鯷=魚+是=ヘコキ 「鯰=国字」
    ⺈+田+灬+日+一+龰
    テイ
    しこ
    ひしこ
    おおなまずナマズ科の淡水魚
    ナマズ(鯰・鮎・魸・鮀)
    カタクチイワシ(片口鰯)科の海水魚
    ニシン(鰊・鯡・にしん)目 カタクチイワシ

 ↓↑
 東 鯷(魚+日+下+人)人
 吾妻の眞名は日の下の人・・・あづま、はや???
 ↓↑
 倭人
 比等は能義の女の人
    能=䏍+匕・・・能動(主体)⇔受動(客体)
      厶+月(肉・宍・冃)+匕+匕
      能力・・・熊=熋・羆・態・㑷
          灬=火
          㨢=肉を裂く=㱟
          䘅=螚
   【說文】䏍=小蟲也・一曰空也・・・空洞・空瓶
       =肙(エン・ケン)
        ム=口=〇
        瓹=肙+瓦=ケン
        瓶(かめ)の
        底にある酒を
        注ぐための穴
        陶器
        窐=穴+圭(土+土)
          宀+ハ+十+一+十+一
            ・・・ハ+弐拾弐=参拾
                纂(讃)を拾う
          ケイ・ワイ
          こしき(甑・毅)の下の穴
          門の脇にある圭の形をした穴
          くぼむ・へこむ・低くなる
         ↓↑ 
        「蜎蜎=エンエン=いもむしの動くさま
            ぼうふら・蚊の幼虫
         孑孑=ぼうふら=孑孑
            蟬蜎=センケン
            あでやかで美しい=嬋娟・絹
         杜鵑(トケン)=ホトトギス(不如帰)
         霍公鳥(カクコウ鳥)=時鳥・沓手鳥
 ↓↑
 参照、参考の原文は
 『ウィキペディアWikipedia)』
 頭出しで少々改作・・・

 ↓↑
 中国人の記録にある
 「西日本」に住んでいた人々の古い呼称
 西日本の範囲の
 主に海上において活動していた同族集団
 ↓↑
 中国戦国から秦漢期に成立した
 『山海経』に・・・・纂解(改)教?
 東方の海中の
 「黒歯国」
 北に
 「扶桑国」
 の記録された存在は倭人を指す・・・
 後漢代の1世紀ころに書かれた
 『論衡』に・・・衡=行+⺈+田+大
         彳+亍+⺈+田+大
         彳+一+丁+⺈+田+大
         彳+二+亅+⺈+田+大
         彳+一+亅+⺈+田+大
         コウ
         くびき
         はかり
         はかる
         はかり竿・はかりのさお
         重さをはかる
         たいらか・釣り合いがとれていること
         均衡・・・朝衡=阿部仲麻呂
         つのぎ・牛の角にしばりつけた横木
         よこぎ・くびき・馬車の横木
         手すり
         北斗七星の第五星
         横・・・よこしま=横島
 ↓↑
 「倭・倭人」についての記述
 また
 『論語』に
 「九夷」
 の記録があり、これを倭人の国とした
 ↓↑
 倭人の初出
 75年~88年
 『漢書』地理志
 後
 280年~297年
 「陳寿=陳壽」の・・・陳述・・・「阝+東+誦」?
 『三国志・魏書東夷伝倭人条』
 『魏志倭人伝
 生活様式や風俗・慣習・言語など
 「韓人」や「濊人」とは
 区別されたものとして記録
 ↓↑
 5世紀南北朝時代
 南朝宋王朝時代
 432年(元嘉九年)
 范曄・・・范=艹+氾
       艹+氵+㔾
       ハン
       いがた
       かた
       のり
       草の名・虫の名=蜂
       かた・鋳型・鋳造の型
       のり・法則・規範
     曄=日+華
       日+艹(艸)+𠌶(クワ)
       華=艹+一+龷+十
         艹+一+卄+一+十
       华=化+十
       䓙=艹+乖
         艹+千+北
       䔢・乖・咼
       崋・桦・樺・歪・竵・花・蘤
       譁・鷨・華・𠌶・蕐・蕐・䅿
 が記録した
 『後漢書』列伝巻85(東夷列伝)
 「倭の奴国」・・・奴=女+又・・・奴隷・・・㕛=友
 「倭国の極南界」
 2世紀初頭の記述
 「倭国王 帥升」・・・帥(そち)=丿+㠯+巾
 「倭国大乱」
 ↓↑
 南朝史書
 沈約(441年~513年)の
 『宋書倭国伝に
 「倭の五王」の記録
 ↓↑
 656年(顕慶元年)
 『隋書』東夷伝・・・隋=随・䢫・・・随筆
 「九夷」・・・九の夷
 「倭奴国
 の記載
 ↓↑
 945年
 『旧唐書
 1060年
 『新唐書
 に倭人に関する記述
 ↓↑
 魏の官人
 如淳は・・・淳(湻・ありのまま)の如(ごと)く
 「人面に入れ墨する(委する)」
 習俗をもって倭の由来と論じ
 臣瓚・・・瓚(サン)=瓉=王+賛・・・讃岐?
            王の二夫の女の人? 
     祭器の名
     酒を酌む玉製の柄杓(ひしゃく)
     純度の低い玉
 顔師古・・・彦の頁の師(シ)の古(いにしえ)
 らから
 「倭(ワ)=イ+禾+女」と
 「委(イ)=禾+女」の音が異なる
 として否定・・・
 平安時代初期
 『弘仁私記』序
 自称を「わ・われ」
 としていたことから
 中国側が「倭(ワ)の国」と書きとめた、と記述
  ↓↑
 『説文解字』の語義
 倭=従順
 一条兼良
 が「倭人の人心が従順だったからだ」
 (『日本書紀纂疏』)
  ↓↑
 「倭=背丈の小さい人種」を意味した・・・
 ↓↑
 木下順庵
 「矮人=小柄な人びと」・・・矮=𠂉+一+人+禾+女
 と述べている
 ↓↑
 新井白石
 『古史通或問』で
 「オホクニ」の音訳が倭国であるとした
  ↓↑
 「倭(委)奴国」を
 「倭の奴の国」
 の解釈に異論
 「奴=女性の蔑称の意」
 女王国である倭を「倭奴国」と呼称
 中華の冊封国家、倭国に対する蔑称・・・という説
 遣隋使、遣唐使派遣で蔑称の意味は薄れた
 ↓↑
 長江流域
 「倭族」
 倭・倭人
 広範囲にわたる地域を包括する民族概念
 鳥越憲三郎の説
 長江(揚子江)上流域の
 四川・雲南・貴州の各省
 複数の倭人の王国・・・
 『史記』にある国名
 滇(テン)
 夜郎(ヤロウ)
 貴州省赫章県に比定
 イ族
 ミャオ族
 ペー族
 回族
 昆明
 且蘭(ショラン)
 徙(シ)
 キョウ都(揚州市邗江区)
 蜀
 巴(重慶市
 ↓↑
 鳥越は倭族の起源地を
 雲南省
 湖滇池(滇池)に比定
 倭族の一部が日本列島に移住
 イ族
 ハニ族 (古代の和夷に比定・タイではアカ族)
 タイ族、ワ族、ミャオ族、カレン族、ラワ族
 など、これらの民族間では
 高床式建物
 貫頭衣
 注連縄
 などの風俗が共通・・・
  ↓↑
 「百越」としての倭人
 「夷・越人」としての倭人
 諏訪春雄
 倭族を百越の一部としている
 百越
 長江・揚子江流域に住む諸々の種族の意
 春秋時代の呉・越も含む
 (呉は江蘇省・越は浙江省一帯)
 ↓↑
 岡田英弘
 「夷(イ)=夏人」
 が長江や淮河流域の
 東南アジア系の原住民で
 禹の墓があると伝承される会稽山が
 越人の聖地で
 福建省広東省、広西省から
 ベトナム(越南)の越人が夏人の末裔を自称
 周顕王36年(前三三三年、楚威王七年)
 越国が楚に滅ぼされ
 越人が四散した後
 秦始皇帝二十八年(前219年)
 徐福が
 琅邪(ロウヤ)を出発
 後燕人が
 朝鮮半島に進出する前に
 越人が日本列島に到着した・・・
 ↓↑
 呉人=倭人
 紀元前450年頃
 春秋時代
 呉越戦争の時代
 呉が滅亡した時期の
 組織的な大規模な水田跡が
 九州で発見
  ↓↑
 「倭人は周の子孫を自称した」
 という記録
 長江文明
 水耕稲作文化の揚子江一帯の
 呉人が紀元前5世紀頃
 呉王国滅亡とともに大挙して日本列島に漂着・・・説
 春秋時代
 呉人は
 百越のひとつ
  ↓↑
 『宋書』楽志「白紵舞歌」
 「東造扶桑游紫庭 西至崑崙戯曽城」
 (東、扶桑に造りて紫庭に游び
  西、昆崙に至りて曾城に戯る)
 「白紵」=呉に産する織物
 ↓↑
 律令制
 越国=越後・越中能登・加賀・越前
 と画定され
 「越=高志=古志」とも表記
  ↓↑
 「越人」も「呉人」も
 「百越人」と呼ばれ
 長江文明の稲作水稲文明を
 日本にもたらした弥生人の一種
 春秋時代末期に
 「越」によって滅ぼされた
 「呉」の海岸沿いの住人たちには
 「入れ墨」の文化があり
 (荘子内篇第一逍遙遊篇)
 魏志倭人伝などの倭人の風俗と類似
 呉人が海路、亡命して漂着・・・説
 ↓↑
 中国史書の倭人
 『山海経』の記述
 『山海経』の「海内北経」
 倭人
 中国東北部にあった
 燕国に属していたと記述
 紀元前6世紀~紀元前4世紀頃
 ↓↑
 黒歯国・扶桑
 『山海経』第九 海外東經
 東方の海中に「黒歯国」
 その北に扶桑が生える太陽が昇る国がある
 ↓↑
 黒歯
 『三国志』「魏書東夷伝倭人条」(『魏志倭人伝』)
 「去女王
  四千餘里
  又有
  裸國 黒齒國 復在 其東南 船行一年可」
 (女王の国から4000余里に
  裸国と黒歯国がある。東南に船で一年で着く)
  黒歯国は女王の治める国の
  範囲外にあるとして記述
  ↓↑
 『梁書
 「其南 有侏儒國 人長三四尺
  又南 黑齒國 裸國
  去倭 四千餘里 船行可一年至」
 (南に身長三四尺の民の国があり
  その南に「黒歯国」がある
  倭から4000余里。船で1年で着く)
 沖縄でも本島でも
 既婚女性が歯を黒くする風習(お歯黒)は
 明治末まであった
  ↓↑
 『論衡』
 後漢代の1世紀ころに成立
 王充著
 『論衡』には「倭人」の名
 「周時天下太平 倭人來獻鬯草」(異虚篇第一八)
 周の時、天下太平にして、倭人来たりて
 暢草を献ず
 「成王時 越常 獻雉 倭人貢鬯」(恢国篇第五八)
  成王の時、越常は雉を献じ、倭人は暢を貢ず
 「周時天下太平 越裳 獻白雉
   倭人 貢鬯草
  食 白雉 服鬯草 不能除凶」(儒増篇第二六)
 周の時は天下太平
 越裳は白雉を献じ・・・越常=ベトナム=越裳
 倭人は鬯草(チョウソウ)を貢す。
 白雉を食し
 鬯草を服用するも、
 凶を除くあたわず。
 ↓↑
 『論語』の「九夷」・「論語 子罕 第九」
 「子欲 居 九夷。
  或曰 陋如 之何。
  子曰。君子居之。何陋之有。 」
 陋(ロウ・ル)=阝+西+乚=狭い・卑しい
      心がせまい・見識がせまい
      身分が低い・下品・粗末
   㔷(ロウ・ル)=のがれる・にげる
 愚陋(グロウ)
 戇陋(トウロウ・コウロウ)
 卑陋(ヒロウ)
 陋屋(ロウオク)
 陋居(ロウキョ)
 陋見(ロウケン)
 陋巷(ロウコウ)
 固陋(コロウ)
 陋習(ロウシュウ)
 陋劣(ロウレツ)・・・ロレツ
  ↓↑
 「子曰。道不行。乘 桴 浮于海。
  從我者 其 由與。子路 聞 之喜。」
  『論語』公治長第五
  ↓↑
 『漢書
 の倭
 後漢時代
 章帝の治世下(75年~88年)
 班固
 班昭
 による『漢書・地理志』
 燕地の条
 「夫れ楽浪海中に倭人有り。
  分かれて百余国を為す。
  歳時を以て来り献見すと云ふ」
 の記載
  ↓↑
 「然 東夷 天性柔順、
  異於三方之外、
  故 
  孔子悼道不行、
  設浮於海、欲居九夷、
  有以也夫。
  樂浪海中 有 倭人
  分爲 百餘國
  以 歳時 來 獻見云」
 ↓↑
 呉地の条
 「会稽海外に東鯷人有り。
  分かれて二十余国を為す。
  歳時を以て来り献見すと云ふ」
 の記載
 「東鯷人」と倭人の関係は不明
 「鯷(テイ)」=大きなナマズ(鯰=魚+念)
    鯷=魚+是
      魚+日+疋
      魚+日+下+人
      ク+田+灬+日+下+人
      ク+田+灬+日+一+卜+人
 ↓↑
 『魏志倭人伝
 倭人習俗
 「三国志・魏書東夷伝魏志倭人伝
 夫余・高句麗・東沃沮
 挹婁・・・挹=扌+邑(阝)・・・把・把握
       扌+口+巴(ともえ・渦・大蛇)
            鞆(とも)
       ユウ
       くむ(酌む)・くみとる
       引く・ひっぱる
       抑える・しりぞける把握
     婁=婁宿=アルタイ=鷲座=織媛=七夕
      =毌+中+女
      =串+一+女
      =娄=米+女
 濊
 馬韓辰韓・弁辰
 倭人
 の9条
 ↓↑
 男子は「鯨面文身」
 夏王朝
 少康の子が
 会稽に封じられた際に
 文身で蛟龍の害を防いだ
 ↓↑
 中国に詣で、使者は皆自らを
 大夫と称した
 ↓↑
 その風俗は乱れてはいない
 ↓↑
 男子は
 皆頭をそって、頭には木綿をかぶり
 その衣は横長でそれを
 ただ束ね結わえて連ねて着るもので
 縫ってはいない
 ↓↑
 女子は
 髪を伸ばして髷をつくり
 衣は一枚を被るように
 その中央に穴をあけて頭を通して着る
 ↓↑
 稲、紵麻を栽培し
 桑で蚕を育てて絹を紡績し、糸や布を作る
 牛・馬・虎・豹・羊・鵲
 はいない
 ↓↑
 兵器は
 矛・楯・木弓
 木弓は下を短く上を長くし
 竹の矢軸の矢は
 鉄製か骨製の矢じりを用いる
 ↓↑
 有無するところ
 儋耳、朱崖と同じ
 ↓↑
 倭地は温暖
 生で食べ物を食べる
 人の死に際しては棺はあっても槨のない、土で塚をつくる
 人が死ぬと10日あまり、哭泣して
 もがり(喪)につき肉を食さない
 喪主は激しく哭泣し
 他の人々は飲酒して歌舞
 埋葬が終わると水に入って体を清める
 ↓↑
 中国に渡海して詣でる際は
 常に一人を
 頭は櫛を通さず
 虱のいるまま
 衣服は汚れ放題
 肉は食べず
 婦人を近づけず
 喪人のようにしておく
 これを
 持衰
 という
 もし途中で吉善があれば
 彼は他の人と共に生口や財物をねだることができ
 もし疾病が発生したり暴害に遭えば
 すなわち持衰が謹まなかったからだとして
 これを殺そうとする
 ↓↑
 真珠や青玉を産出する。
 山には丹がある
 骨を焼き吉凶を占う(太占)
 集まりや座る順には
 父子男女の区別はない
 酒を嗜む
 長命で、百歳や九十、八十歳の者もいる
 女は慎み深い
 国の大人は妬まず、盗みもなく、諍いや訴訟も少ない
 法を犯す者は軽い者は妻子を没収し
 重い者は門戸および宗族を没収する
 尊卑が初めから決まっていて
 大臣たちは服することに納得している
 ↓↑
 税を収奪する
 邸(偉い人の広い居住屋敷)
 や
 閣(偉い人を招くための高い建物)
 豪華な建物がある
 下戸は大人と道路で遭遇すると
 ためらって草へと入り
 あらたまった言葉を聞くときには
 ひざまづいて両手は地につけて恭順を示す
 ↓↑
 『後漢書
 『宋書
 5世紀
 南北朝時代
 南朝
 宋の時代の432年(元嘉9年)
 范曄が書いた
 『後漢書』列伝巻85(東夷列伝)
 1世紀中葉の記述として
 「倭の奴国」
 「倭国の極南界」
 2世紀初頭の記述として
 「倭国王帥升
 「倭国大乱」
 一部の勢力は
 後漢の皇帝に朝貢
 印章や称号を得た
 ↓↑
 南朝史書
 沈約(441年~513年)
 『宋書』列伝第五十七「夷蛮」
 林邑国
 扶南国・師子国・天竺
 高句驪国・百済国・倭国
 荊雍州蛮
 豫州
 倭国伝があり
 「倭の五王
 について記録
 ↓↑
 『隋書』の倭
 656年(顕慶元年)
 『隋書』東夷伝
 「九夷所居、與中夏懸隔、然天性柔順」
 (倭は九夷の居るとこである。その天性は柔順)
 同『隋書』倭国
  「安帝時、又遣使朝貢、謂 之 倭奴國」
 (安帝の時〈西暦106年~125年〉)
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 『旧唐書』の倭国伝・日本国伝
 945年
 『旧唐書東夷伝
 日本列島に
 「倭国伝」
 「日本国伝」
 の二つが並立記録
 『旧唐書倭国
 「倭國者、古倭奴國也」
 (倭国とは、古の倭奴国なり)
 ↓↑
 『旧唐書』日本国伝
 「日本國者
   倭國之別種也
   以其國在  日邊 故以 日本爲名
      或曰 倭國 自惡 其名不雅
      改爲日本  或云 日本
              舊小國
              併倭國之地」
 日本は倭国の別種で
 倭国という名前が雅ではないため
 日本に変えた
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 小国であった日本が
 倭国を併合した
 と記述
 宋代初頭の
 『太平御覧』にも同様に記載
 最初の遣唐使であった
 702年の派遣の際には
 国号変更の理由について日本側でも不明
 遣唐使が唐側に理由を説明することが出来なかった・・・
 「倭国(天智政権)」が倒され
 「日本国(天武政権)」が成立した・・・説
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 中世
 倭寇
 「倭・倭国・日本」の他に
 「扶桑・扶桑国」という呼称もされ
 唐以後、宋や元ではほとんど
 「日本・日本国」が用いられてた
 ↓↑
 蔑称
 朝鮮における倭人の蔑称
 「倭奴」
 高麗、李氏朝鮮時代の書物で
 日本は「倭・倭奴」などと記録
 1419年
 「応永の外寇」後
 日本に遣わされた文人
 宋希璟
 報告書とともに国王
 世宗にたてまつるために書いた
 詩文集『老松堂日本行録』
 の中で、日本人を「倭奴」と記録
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 1763年
 朝鮮通信使
 元重挙の
 『和国志』には
 日本語で
 「倭」と「和」は同じ発音で
 日本人も日本を
 和、あるいは倭と呼んでいるが
 対馬島の人だけは
 倭と呼ばれることを
 嫌がると記録・・・???
 ↓↑
 倭人
 比等は能義の女の人
    能=䏍+匕・・・能動(主体)⇔受動(客体)
      厶+月(肉・宍・冃)+匕+匕
      能力・・・熊=熋・羆・態・㑷
          灬=火
          㨢=肉を裂く=㱟
          䘅=螚
   【說文】䏍=小蟲也・一曰空也・・・空洞・空瓶
       =肙(エン・ケン)
        ム=口=〇
        瓹=肙+瓦=ケン
        瓶(かめ)の
        底にある酒を
        注ぐための穴
        陶器
        窐=
          ケイ・ワイ
          こしき(甑・毅)の下の穴
          門の脇にある圭の形をした穴
          くぼむ・へこむ・低くなる
        「蜎蜎=エンエン=いもむしの動くさま
            ぼうふら・蚊の幼虫
         孑孑=ぼうふら=孑孑
            蟬蜎=センケン
            あでやかで美しい=嬋娟・絹
         杜鵑(トケン)=ホトトギス(不如帰)
         霍公鳥(カクコウ鳥)=時鳥・沓手鳥
ー↓↑ーーー
 甑島列島(こしきしまれっとう)=甑列島(こしきれっとう)
 東シナ海にある列島
 鹿児島県
 薩摩
 川内(センダイ)市
 に属する
 上甑島(かみこしきしま)
 中甑島(なかこしきしま)
 下甑島(しもこしきしま)
 北東から南西に連なる有人島3島と無人島からなる
 中甑島北部にある
 「甑(こしき)=蒸籠(むしかご)」
 の形をした大岩を
 「甑大明神」として崇拝したことに由来
 かつては
 「古敷島」
 「小敷島」
 「子敷島」
 「古志岐島」
 などとも書いた
 従来
 「こしきじま」という呼称であったが
 2014年8月
 「こしきしま」に呼称が変更された
 ↓↑
 地名由来
 海岸にある甑形
 (底に穴の開いた取手付きの食物を蒸す土器)
 の岩を御神体
 甑島大明神として祭ったことから
 平安時代中期の
 『和名抄』には
 「古之木之万(こしきしま)」と表記
 ↓↑
 甑島列島
 列島全体の長さは38km、幅は10km
 北東から南西にかけて
 上甑島、中甑島、下甑島の有人島3島が並んで
 それらに付随する小規模な無人島もある
 ↓↑
 ナポレオン岩
 下甑島西岸には
 松島や
 ナポレオン岩(チュウ瀬)などもある
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 歴史
 古代・中世
 約8000万年前の
 白亜紀の地層が残っている
 初めてケラトプス恐竜の化石発見
 藺牟田にある地層からは
 翼竜やワニ(鰐)など爬虫類の化石も発見
 上甑島の里遺跡は
 縄文土器が出土した遺跡
 上甑島の里遺跡、江石遺跡、桑之浦遺跡
 下甑島の手打遺跡、片野浦遺跡
 からは弥生土器、土師器、須恵器などが出土
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 上甑島の桑之浦には
 神功皇后三韓征伐に関する伝説
 奈良時代
 薩摩隼人族の一根拠地(甑島隼人)だった
 平安時代初期編纂の
 『続日本紀』に
 「甑島」と初出記録
 遣唐使船が甑島に停泊したことが記録
 平安中期編纂の
 『和名抄』には
 「甑島郡管管」
 「甑島」という名前が登場
 甑島列島の各地に
 平家の落人伝説
 鎌倉時代中期
 承久の乱の軍功により
 日奉氏の子孫
 小川秀能
 が甑島を賜り、その子
 小川秀直
 が下向し島を統治
 以後370年間、13代に渡って
 小川氏が統治
 行政単位が
 上下(上甑島・中甑島、下甑島)
 ふたつに区分された
 承久の乱
 小川季直築城の
 亀城(かめじょう)
 近隣の鶴城と合わせて
 鶴亀城と呼ばれている
 1595年(文禄四年)
 小川氏は
 本土の日置郡田布施南さつま市)に移封
 ↓↑
 近世・近代
 江戸時代
 島津藩の直轄地
 島津藩採用の外城制の枠組みの中で
 地頭(領主)が派遣
 藩政時代
 下甑島東岸の金山海岸で
 銅・金・銀などの採掘
 薩摩藩南蛮貿易の中継基地
 甑島列島
 天草諸島や長崎と同じく
 キリシタン文化を受け入れた
 1638年(寛永十五年)
 甑島列島に潜んでいた
 島原の乱の残党35人が処刑
 1780年代の天明の大飢饉の際に
 下甑島の百姓が
 出水(出水市)に
 郷士48戸が
 笠野原台地(鹿屋市など)に集団移住
 江戸時代
 薩摩藩
 浄土真宗を禁じ
 1835年(天保六年)
 下甑島の長浜村が焼き払われ
 「天保の法難」
 1862年文久二年)
 下甑島全島の住民が取り調べられる
 「文久の法難」
 1871年(明治四年)
 鹿児島県に所属
 1889年(明治二十二年)
 上甑島7村と
 中甑島1村が
 甑島上甑村(かみこしきむら)となり
 役場は中甑に設置
 1891年(明治二十四年)
 山地によって隔てられている里が
 上甑村から分離して
 里村(さとむら)となり
 上甑島・中甑島の2村体制が続いた
 下甑島も6村が合併して
 下甑村(しもこしきそん)となったが
 1949年(昭和二十四年)
 地理的に隔てられた
 藺牟田が分離して単独で
 鹿島村(かしまむら)となった
 1896年(明治二十九年)
 甑島郡が薩摩郡編入
 1901年(明治三十四年)
 上甑島に本土からの海底電信が到達
 九州商船によって
 串木野航路が開設
 ↓↑
 江戸時代
 フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト
 シロカノコユリ
 球根を日本から持ち出し
 ヨーロッパで知られ
 明治時代には煮て乾かした球根が
 菓子原料として中国に輸出
 1873年(明治六年)
 自生していたカノコユリの栽培に着手
 初めて輸出したのは
 1894年(明治二十七年)
 大正時代
 球根がアメリカに輸出
 クリスマスや復活祭用の生花に用いられた
 天明の飢饉や太平洋戦争中には
 鱗茎を掘って食べた
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(ユカリとオジさんの世迷い言・2)

古代エジプトの神々(1)・絵字符都・『埃及』(1)・(42)

エメラルドブルーの謎  (碧き眼の人形伝説)  奈井江 五郎
  ↓↑   ↓↑
 「プラトン古事記をカタル(古事記字源)
  +
 (表紙・画像・音楽)」の移転先・・・

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 ボクの「古事記字源」の発端・・・
 ↓↑
 干支歴
 ↓↑
 追加添文 「戦争と平和」・・・「モウケの生き方」
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 メリキリの - YouTube
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 モモちゃん
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 モウ君の総合目次
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コジキ姫赤い絨毯に乗る(m)
 ↓↑
 古事記と虎関師錬

 ↓↑
鉄腕アトムのロボット法を
思い出して
これを
貼り付けてみたけれど・・・
AIの記憶・・・まだ、若いみたい・・・
オジタリアンと「鉄腕あとむ」の「ポルカ」 (haa98940.wixsite.com)