ないえごろうブログ

同音異義の探索

いたがきたいすけ・・・の自由

 文字霊日記・3393日目

 乾(板垣)退助」とは「ダレ」か・・・
 ・・・イタガキ死んでも自由は死なぬ・・・?

 「乾(板垣)退助」とは「ダレ」か・・・
 「戌亥=戍亥=乾=いぬい=北西」

 「伊吹山の神=伊吹おろしの神=白猪の神」に
 「ヤマトタケル=日本 武=倭 建=倭男具名」は敗北し
 「足萎えて當藝(たぎ)當藝(たぎ)しく三重になった・・・?」
     多義       他義 纂廿(拾・十・足・✖)
 「ムムムムッ???」・・・「あぁ、アァ、アぁッ!」


 ↓↑
 「彦=ひこ・びこ・ひご?=肥後・卑語・比護・庇護・飛語・比語」
   比古・毘古・比後
   彦=产+彡
     立+ノ+彡
     亠+丷+厂+彡
     山彦=やまびこ=反響音・・・纂経(教・今日・匡)
   彥=言+彥=諺(ゲン・ことわざ)=言技
     言+文+厂+彡
   ・・・彦根藩井伊直弼暗殺・・・「桜田門外の変
         安政七年三月三日(1860年3月24 )
         水戸藩脱藩者 17名
         「高橋多一郎」
         「金子孫二郎」ら
         薩摩藩士 在府組1名
         「有村次左衛門」らは
         双方の藩に仕えた
         「日下部伊三治 (大獄により獄死)」
         を介して合同
 牡丹雪の中「井伊直弼」の血は誦弾で散った・・・
 彦根藩士・「日下部三郎右衛門」は
 水戸浪士・「森五六郎」に
 面を割られ前のめりに突っ伏し
 水戸浪士
 「黒澤忠三郎」が
 合図のピストルを直弼の駕籠に発射
 「関鉄之介」らが多方面から一斉射撃
 浪士本隊による全方向からの駕籠への抜刀襲撃・・・
 ↓↑
 「直弼の駕籠」は・・・駕籠=かご=歌語・過誤・加護・加語?
 桜田門外の
 「杵築」藩邸の前で・・・杵=「木+午」=「十+八+𠂉+十」?
 襲撃された
 発射された弾丸には
 「井伊直弼」が
 修錬した「居合抜き」もできず
 腰部(ヨウブ)・・・要部・洋舞
 から
 太腿(ダイタイ)・・・代替・大体?
 にかけて銃創・・・・・・重曹・十三・重層?
 駕籠は
 雪の上に放置・・・・・雪=雨+ヨ?
 彦根藩士たちの
 刀の柄は雪を避けるため
 柄袋をかけ
 これと
 鞘袋が・・・・・・・・・正体?
 邪魔し・・・・・・・・・邪=牙+阝=よこしま?
 抜刀できなく・・・・・罰等?
 鞘のままで抵抗したり
 素手で刀を掴んだりし
 指や耳を切り落とされたが
 彦根藩士も抵抗し
 二刀流の剣豪
 「河西忠左衛門」は
 駕籠脇を守って
 水戸浪士
 「稲田重蔵」を倒し
 駕籠脇の彦根藩
 「永田太郎兵衛正備」も
 二刀流で大奮戦し
 襲撃者に重傷を負わせたが
 河西が斬られて倒れ
 永田も銃創により戦闘不能
 襲撃者側に戦闘不参加だった
 「斎藤監物」も
 途中から戦闘に参加
 「井伊直弼
 の護衛無しの駕籠は
 稲田が刀を真っ直ぐにして
 一太刀
 駕籠の扉に体当たりしながら
 駕籠を刺し抜き
 広岡、海後が続けざまに
 駕籠を突き刺した
 稲田は
 「河西忠左衛門」
 の反撃で討ち死にしたが
 河西も斃れた
 有村が駕籠の扉を開け放ち
 虫の息の直弼の髷を掴み
 駕籠から引きずり出し
 「薬丸自顕流」の・・・「訳(譯)贋・約贋」+「示現流」?
 「猿叫(「キャアーッ」という気合い)」・・・猿叫=申詐懸毘?
 とともに
 振り下ろした薩摩刀によって
 直弼は斬首されたが
 首は一撃では落ちず
 三回、鞠(マリ)を蹴るような音で
 斬り離された首は落ちた・・・
 襲撃開始から直弼殺戮まで
 僅か数分間・・・
 有村は刀の切先に
 直弼の首級を突き立て
 「勝鬨の声」をあげ
 彼らが現場を立ち去ろうとしたとき
 斬られて昏倒していた目付助役の
 彦根藩
 「小河原秀之丞」が
 鬨の声を聞いて蘇生し
 首を奪い返そうと
 有村に追いすがり
 米沢藩邸前辺りで
 「有村」の後頭部に斬りつけた
 水戸浪士
 「広岡子之次郎」
 らによって
 「小河原」は斬り倒されたが
 朦朧と一人で立ちあがった直後
 数名の浪士らから滅多打ちに斬られた
 「有村」は重傷で
 歩行困難となりながら
 直弼の首を引きずって逃走の後
 若年寄
 「遠藤胤統 (近江三上藩)」邸の
 門前で自決し
 「直弼の首」は
 遠藤家に収容された
 「小河原」は救助されたが即日絶命
 ↓↑
 直弼の首は
 三上藩邸に置かれ
 井伊家の使者が返還を要請したが
 遠藤家は
 「幕府の検視が済まない内は渡せない」と
 五度までも断り
 使者を追い返し
 井伊家、遠藤家、幕閣が協議の上
 表向きは
 闘死した藩士のうち年齢と体格が
 「直弼」に似た
 「加田九郎太の首」と偽り
 「遠藤家は
  負傷した直弼を
   井伊家に引き渡す」
 という体面で貰い受けた
 事変同日の夕方ごろ
 「直弼の首」
 は井伊家へ送り届けられた
 井伊家では
 「主君は負傷し自宅療養中」
 と幕閣へ提出
 「直弼の首」は
 彦根藩邸で
 藩医
 「岡島玄建」・・・岡の島の玄の建・・・?
 により胴体と縫い合わされた・・・
 ↓↑
 安政七年三月三日(1860年3月24日)
 「稲田重蔵」は
 彦根藩士の
 「河西忠左衛門」から
 戦闘中討ち死にし
 他の襲撃者らは
 「直弼の首級」を揚げたのを確認後
 日比谷門へ向かった
 薩摩藩
 「有村次左衛門」は
 彦根藩
 「小河原秀之丞」に
 背後から斬りつけられ
 「広岡子之次郎」らは
 助太刀に回って
 「小河原」に止(とど)めを刺した
 有村は
 「直弼の首級」を手に
 和田倉門を抜け
 辰ノ口で
 「遠藤胤統(遠藤但馬守)」邸前で自決
 「広岡」は
 辰ノ口を通り
 姫路藩・酒井家の邸外まで辿り着き、自刃
 「山口辰之介」
 「鯉渕要人」
 も彦根藩士による反撃で重傷
 馬場先門と和田倉門の間の濠沿いにある
 八代洲川岸で
 増山河内守邸の角を右へ曲がり
 「織田兵部少輔」邸の
 塀際で
 「鯉渕」が
 「山口」を介錯
 鯉渕も自刃
 ↓↑
 佐野竹之介・斎藤監物・黒澤忠三郎・蓮田一五郎
 の4名は、戦闘により負傷しながらも連れ立って移動
 和田倉門前の
 老中
 「脇坂安宅 (脇沢中務大輔)」邸へ
 『斬奸趣意書』を提出し自訴
 「佐野竹之介」は
 重傷で当日の夕刻に絶命
 4人は
 熊本藩・細川家へ預けかえられた(佐野の死体も)
 「斎藤監物」も
 重傷で5日後の
 三月八日に落命
 「黒澤忠三郎」は
 手当てにより命は取り留め
 富山藩・前田家へ預け替えられた後
 四月二十一日
 三田藩・九鬼家へ移され
 七月十二日
 九鬼家で病死
 「蓮田一五郎」は
 細川家から、膳所藩・本多家へ預けかえられた
 「蓮田」には絵を描く才能があり
 細川邸にて事変の詳細を絵に描いた
 文久元年(1861年)七月二十六日
 伝馬町獄舎で
 幕吏により斬首
 ↓↑
 大関和七郎・森五六郎・杉山弥一郎・森山繁之介
 の4名は
 熊本藩
 「細川斉護」邸へ趣意書を提出し自訴
 大関・森・杉山は負傷し
 森山は戦闘に参加したが無傷
 「大関和七郎」は
 富山藩・前田家
 続いて豊岡藩・京極家へ預け替えられた
 「森五六郎」は
 臼杵藩・稲葉家、
 大和小泉藩・片桐家へ預け替えられた
 森が稲葉家家臣らへ語った記録は
 『森五六三郎物語』と呼ばれている
 「杉山弥一郎」は
 村松藩・堀家に預け替えられた
 「森山繁之介」は
 一関藩・田村家、足利藩・戸田家へ移された
 大関・森・杉山・森山
 の4名とも
 文久元年(1861年)七月二十六日
 伝馬町獄舎で幕吏により斬首
 ↓↑
 襲撃参加者
 16名のうち
 1名が闘死、4名が自刃、8名が自訴
 残る3名
 広木松之介・増子金八・海後磋磯之介
 は大きな負傷なく現場を脱し
 戦闘不参加の
 関鉄之介・岡部三十郎
 や協力者とともに京を目指した
 ↓↑
 襲撃計画の首謀者
 水戸浪士
 「金子孫二郎」は
 薩摩浪士
 「有村雄助
 水戸浪士
 「佐藤鉄三郎」
 らと共に京へ向かったが
 3月9日
 に伊勢・四日市の旅籠で
 薩摩藩兵により捕縛
 「金子孫二郎」
 「佐藤鉄三郎」
 は
 伏見奉行所に引き渡されて
 二十四日江戸へ護送
 「金子」は
 文久元年(1861年)七月二十六日
 伝馬町獄舎で幕吏により斬首
 「佐藤」は追放
 「有村雄助」は
 三月九日捕縛後
 薩摩藩士の関与を隠したい藩の思惑のため
 大坂の薩摩藩邸に移され、薩摩へ護送
 三月二十四日
 幕府の探索が薩摩に迫り藩命で自刃
 水戸浪士
 「高橋多一郎・庄左衛門」親子は
 三月二十四日
 大坂で幕吏の追捕を受け
 四天王寺境内へ逃げ込み、その寺役人宅にて自刃
 大坂で薩摩藩との連絡役
 水戸浪士
 「川崎孫四郎」
 三月二十三日
 探索に追い詰められ自刃、翌日死去
 ↓↑
 襲撃者戦闘不参加、検視見届役の
 「岡部三十郎」は
 「関鉄之介」らと大坂へ向かったが
 薩摩藩の率兵上京計画が不可能と知って水戸へ帰還
 「久慈」郡袋田や
 水戸城下辺りへ潜伏
 再び江戸へ出たが
 文久元年(1861年)二月
 江戸吉原で束縛
 文久元年(1861年)七月二十六日
 自訴した面々や
 「金子孫二郎」
 とともに、伝馬町獄舎で幕吏により斬首
 ↓↑
 「広木松之介」は
 京へ向かうが一旦水戸に帰郷し
 数日後再び京を目指して出発するが
 能登国本住寺に潜伏した後
 越後国佐渡島越中国を経た
 越後国新潟で
 水戸藩
 「後藤哲之介」に助けられ旅費を得て逃亡
 文久元年(1861年
 後藤は幕吏に束縛
 所持品から広木の印が見つかり
 「広木松之介」であると供述し
 文久二年(1862年)五月
 江戸へ送られ、伝馬町の監獄に繋がれたが
 後藤へ尋問もなく
 絶食し
 文久二年(1862年)九月十三日死亡
 「広木」は
 相模国鎌倉・上行寺へ赴き剃髪し
 襲撃から3年目の
 文久二年(1862年)三月三日
 上行寺の墓地で切腹
 ↓↑
 現場総指揮者
 「関鉄之介」は
 三月五日に
 江戸を出発して京へ向かい
 中山道から大坂へ入り
 以後、山陰、山陽
 四国、九州と西国各地を転々とし
 薩摩藩へも入ろうとしたが
 「島津久光」の命で
 薩摩の全関所が閉ざされ
 薩摩入りできなかった
 万延元年(1860年)七月
 水戸藩
 久慈郡
 袋田村に入り
 郷士
 「桜岡源次衛門」に匿われた
 文久元年(1861年)七月
 水戸の「高橋多一郎」の家を訪ね再び袋田へ向かったが
 水戸から探索の足が着き
 同年十月
 水戸藩士によって
 越後の湯沢温泉で捕縛され
 十一月に水戸へ護送、城下の赤沼牢に投獄
 文久二年(1862年)四月五日
 江戸に護送され、小伝馬町の牢へ入った
 五月十一日、関はこの小伝馬町の牢で斬首
 ↓↑
 襲撃者のうち
 「増子金八」
 「海後磋磯之介」
 は潜伏して明治時代まで生き延びた
 「増子」は明治十四年(1881年)に病没
 「海後」は元治元年(1864年)の「天狗党の乱」に
 変名で参加、関宿藩に預けられたが脱出
 明治維新
 旧水戸藩士身分に復帰
 茨城県庁や警視庁等へ勤務
 退職後
 明治三十六年(1903年)自宅で死没
 海後の遺稿に襲撃の一部始終を伝える
 『春雪偉談』
 『潜居中覚書』
 がある
 ↓↑
 彦根藩
 「直弼」以外に8名が死亡
 即死者4名、重傷を負い数日中に死亡した者4名
 他に5名が重軽傷
 水戸藩に仇討ちとの声もあったが
 家老・「岡本半介」が叱責して阻止
 事変から2年後
 文久二年(1862年
 「直弼」護衛の失敗で
 生存者に対する処分が下された
 「草刈鍬五郎」
 など重傷者は減知の上
 藩領だった
 下野国佐野(栃木県佐野市)へ流され
 揚屋に幽閉
 軽傷者は全員切腹が命じられ
 無疵の士卒は全員が斬首・家名断絶
 本人のみならず親族に及び
 江戸定府の家臣を国許が抑制
 ↓↑
 老中・阿部正弘
 徳川斉昭
 島津斉彬らが主導した
 雄藩協調体制を否定
 幕閣絶対主義を反対者の粛清により維持し
 朝廷からの政治介入をも阻止する
 「井伊直弼」の政策路線の破綻
 御三家の水戸徳川家
 と
 譜代大名筆頭の井伊家
 が反目
 尊王攘夷運動が激化する端緒
 慶応三年十月十四日(1867年11月9日)
 第15代将軍
 「徳川慶喜」によって
 「大政奉還
 江戸開城
 による明治維新
 ↓↑
 老中
 「安藤信正
 ら幕府首脳による配慮で
 井伊家の菩提寺豪徳寺にある墓碑に
 直弼の没日が
 「安政七年三月三日」(1860年3月24日)」
 ではなく
 「蔓延元年閏三月二十八日」(1860年5月18日)
 と刻まれている
 直弼の子
 「愛麿(井伊直憲)」
 による跡目相続
 井伊家は取り潰しを免れた
 約2か月間
 幕府側は直弼の死を公表しなかった
 ↓↑
 大老暗殺は江戸市中へ知れ渡り
 天気の回復した事変当日の午後から夕方
 見物人が桜田門付近のぬかるみの道に群れた
 「井伊掃部頭(いいかもんのかみ)」
 をもじって
 「いい鴨を網でとらずに駕籠でとり」
 などと市井に揶揄
 「倹約で枕いらずの御病人」
 「遺言は尻でなさるや御大病」
 「人参で首をつげとの御沙汰かな」
 などの川柳も相次ぎ事件直後の市中の状況をよみ上げた
 「ちょぼくれやあほだら経」も採集されている
 ↓↑
 「桜田門外の変」の襲撃者ら処分を見届けた薩摩藩
 文久二年(1862年)三月十六日
 「島津久光
 が藩兵を率いて鹿児島城下を発し
 四月十三日入京
 勅使
 「大原重徳」を擁して
 六月七日
 薩摩藩兵と共に江戸へ入り、幕政の刷新を要求
 幕府は
 御三卿・「一橋慶喜」を将軍後見職
 前福井藩主・「松平春嶽」を政事総裁職に任命
 春嶽の主導で
 「直弼政権」の清算を図った(文久の改革)
 幕閣をまとめた老中
 「安藤信正」は、同年初めの
 「坂下門外の変」では負傷で済んでいたが
 この改革で
 「久世広周
 と共に老中を罷免
 彦根藩は幕府より石高を
 30万石~20万石に減給
 5万石の預地も没収
 京都守護の家職を剥奪
 会津藩
 「松平容保
 が代わりに京都守護職就任
 彦根藩は直弼の腹心
 彦根藩
 「長野主膳
 「宇津木景福」
 斬首・打ち捨てに処した
 ↓↑
 慶応二年(1866年)六月七日
 第二次長州征伐
 彦根藩士510名は
 「赤備え」を着て幕府方で出陣したが
 鎧が夜間でも目立ち
 長州方の遊撃隊から狙撃大敗
 慶応四(1868年)十一月三日~六日
 「鳥羽・伏見の戦い
 で藩主
 「井伊直憲
 率いる彦根藩幕府軍の先鋒を務めていたが
 翻って新政府軍に付き
 彦根藩薩摩藩兵と共に
 東寺や大津を守備し
 倒幕の姿勢を示した
 ↓↑
 明治十七年(1884年
 華族令施行
 旧藩主・井伊直憲は伯爵
 彦根藩士は
 流山で元新選組
 「近藤勇」を逮捕して賞典禄2万石を新政府側から与えられていた
 直憲は
 有栖川宮家(斉昭正室の実家)から
 「宜子」夫人を迎えた
 ↓↑
 水戸藩・水戸徳川・・・「大日本史
 ↓↑
 『日本書紀』・『先代旧事本紀
 本の名 小碓尊(を=ヲ+うす の みこと)
     小碓王(を=ヲ+うす の みこ)
 亦の名 日本 童男(やまと をぐな)・・・道南・如何なん?
 後の名 日本 武尊(やまと たけるのみこと)
        ブソン=蕪村?
         与謝蕪村俳人文人画家
         姓 谷口 OR 谷
         号  蕪村
         名  信章
         通称 寅
         陶淵明の詩
         『帰去来辞』に由来
         俳号 宰鳥・夜半亭
         画号 春星・謝寅など複数
         蕪村=ブソン
           =「侮・悔・撫・不・伏」?
             +
            「損・遜・孫・惨」?
 後の名 日本 武皇子(やまとたけるのみこ)
 ↓↑
 『古事記
 本の名 小碓命(をすのみこと)
 亦の名 倭男具那命(やまとおぐなのみこと)
     倭男具那王(やまとおぐなのみこ)
 後の名 倭建命(やまとたけるのみこと)
     倭建御子(やまとたけるのみこ)
 ↓↑
 『日本書紀
 双子の兄弟
 大碓命(おすのみこと)
 小碓尊(をすのみこと))
 として生まれ
 景行天皇
 が怪しんで臼(うす)に向かって叫んだことによる
 「ヲグナ(童男=男具那)」=未婚の男子の意
 「ヤマトタケル」の名称は
 「川上 梟帥(たける)=熊曾 建(たける)」
     梟=ふくろう=キョウ=梟=䲷=鴵=🦉・・・
       副老・複廊・附句弄(漏・樓=楼・僂・婁)
                  「樓=楼」観・
                  婁=鞴=不意合
                  卑弥呼の楼観
                  楼ー木+米+女
     梟首(キョウしゅ)
       梟木(きょうぼく)
       梟雄(きょうゆう)
       梟悪(きょうあく)
       梟将(きょうしょう)
       梟する(きょうする)
       蟂=虫+梟(䲷=鳥+木)・・・鳥居
       鄡=梟+阝
        =郻=L+目+巛+阝
         鄡單(キョウタン)」
         孔子の弟子
         後漢の県名=中国河北省
       嘄=叫(さけ)ぶ・絶叫(ゼッキョウ)
      帥=帥升(スイショウ )
        倭国内の各王の一人
        西暦 107年
        後漢朝貢
        「後漢書東夷伝 師匠」・・・
        初出の倭人の漢字記銘
 ↓↑
  「ヤマトタケル」の名称は
 「川上 梟帥(たける)=熊曾 建(たける)」
 から捧げられた・・・九州の熊襲からナゼ捧げられた尊名なのか?
 日本武尊⇔川上梟帥
 ↓↑
 倭武命   『日本三代実録
 倭武尊   『古語拾遺
 倭建尊   『新撰姓氏録
 日本武命  『尾張国風土記逸文
       『古語拾遺
 倭武天皇  『常陸国風土記
 倭建天皇  『常陸国風土記
 倭健天皇命 『阿波国風土記逸文
 ↓↑
 父 第12代 景行天皇
       号  大 足 彦 忍代別天皇
         (おほたらしひこ おしろわけ
                の
                すめらみこと)
       諱  大足彦尊
       別称 大帯日子淤斯呂和氣天皇
           帯方郡
          大足日足天皇
          大帯日子天皇
          大帯日古天皇
          大帯比古天皇
       父親 垂仁天皇
          諡  活目入彦五十狭茅天皇
          諱  活目尊
          別称 活目入彦五十狭茅尊
             伊久牟尼利比古大王
       母親 日葉酢媛命
         (開化天皇皇曾孫)
 母 皇后  播 磨稲 日 大郎姫
      (はりまのいなびの おほいらつめ
       針間之伊那毘能大郎女
       稲日稚郎姫
       第7代孝霊天皇の皇孫)
       若建吉備津日子
       (吉備臣らの祖)の娘(古事記
 ↓↑
 『日本書紀』・『先代旧事本紀』では第二皇子
 同母兄は大碓皇子のみで双子の兄
 『古事記』では第三皇子
 同母兄を
 櫛角別王
 大碓皇子(双子の記載なし)
 同母弟を
 倭根子命
 神櫛王
 ↓↑
 妻子
 妃 両道 入姫 皇女
  (ふたじいりびめのひめみこ
   布多遅能伊理毘売命)
    垂仁天皇皇女(古事記
   ↓↑
   稲 依別  王
  (いなよりわけのみこ)
    犬上君
    武部君(建部君)の祖(記紀
    足仲彦天皇
   (たらしなかつひこのすめらみこと
    帯中津日子命
    第14代 仲哀天皇
   ↓↑
   布 忍 入 姫  命
  (ぬの し いりびめのみこと)
   稚武王
  (わかたけるのみこ)
    近江建部君の祖
    宮道君等の祖(旧事本紀
 ↓↑
 妃 吉備 穴戸 武 媛
  (きびのあなとのたけひめ
   大吉備建比売)
    吉備 武彦 の娘(日本書紀
    吉備臣建日子の妹(古事記
   ↓↑
   武 卵  王
  (たけかいごのみこ
   建 貝児 王)
    讃岐綾君の祖(記紀
    登袁之別・麻佐首・宮道之君らの祖(古事記
   ↓↑
   十 城別  王
  (とお きわけのみこ)
    伊予別君の祖(日本書紀
 ↓↑
 妃 弟 橘  媛
  (おとたちばなひめ
   弟橘比売命
    穂積氏の忍山宿禰の娘(日本書紀
    9男を生む(旧事本紀
   稚 武 彦 王
  (わかたけひこのみこ・若建王)
    須売伊呂大中日子の父
    迦具漏比売(応神天皇の妃)の祖父
 ↓↑
 妃 山代之玖々麻毛理比売
  (やましろのくくまもりひめ、紀なし)
   足鏡別王
  (あしかがみわけのみこ・蘆髪蒲見別王=葦噉竈見別王)
    鎌倉別・小津石代之別・漁田之別の祖(古事記
 ↓↑
 妃 布多遅比売(ふたじひめ、紀なし)
    淡海安国造の祖の意富多牟和気の娘(古事記
    ↓↑
    稲依別王(いなよりわけのみこ・紀の母は別)
     両道入姫皇女の所生とする紀とは異同
    ↓↑
    一妻(古事記では名は不詳・旧事本紀では橘媛)
    ↓↑
    息長田別王(おきながたわけのみ・日本書紀なし)
     河派仲彦王の父
     息長真若中比売(応神天皇の妃)の祖父
     稚野毛二派皇子の曽祖父
     忍坂大中姫・衣通姫の高祖父
     阿波君らの祖(旧事本紀
     ↓↑
     宮簀媛(みやずひめ・美夜受比売)
      系譜には記されず、物語にのみ記される配偶者
      尾張氏の娘・子は無し
     ↓↑
     『古事記
     倭建命の曾孫(ひまご)の
     迦具漏比売命が
     景行天皇の妃となって
     大江王(彦人大兄)をもうけるとする・・・
     景行天皇と「ヤマトタケル」の親子関係に
     否定説。・・・
     雄略天皇などと似た事績があり
     数人のヤマトの英雄を統合した架空の人物・・・説
     雄略天皇倭王武
     中国南朝の宋に送った
     上表文(西暦478年)
     「自昔祖禰,躬擐甲冑,跋涉山川,不遑寧處。
     東征毛人五十五國
     西服眾夷六十六國
     渡平海北九十五國・・・」
     四道将軍や倭建・・・説
 ↓↑
 「古事記
 素手
 「伊吹の神」
 「倭建命」の前に
 牛ほどの大きさの「白い大猪」が現れ
 「白い猪」は神の使者だろう
  今は殺さず、帰るときに殺せばよかろう」と
 「言挙げ」するが
 「大白猪は神そのもので正身」
 で
 神は大氷雨を降らし、命は失神
 下山した倭建命は
 居醒めの清水で正気を取り戻すが、病身
 弱った体で大和を目指し
 「當(当)芸(藝)=たぎ」
 「杖衝坂」
 「尾津」
 「三重村(三重)」
 と進み地名起源説話を織り交ぜて
 倭建命の心情が描かれ
 能煩野(のぼの・三重県亀山市)で
 「倭建命」は
 「倭は国のまほろ
  たたなづく 青垣
   山隠れる
    倭し麗し」
 「乙女の床のべに
  我が置きし
   剣の大刀
    その大刀はや」
 4首の国偲び歌を詠って亡くなった
 ↓↑
 「日本書紀
 伊吹山の神の化身は「大蛇」で道を遮る
 日本武尊
 「主神を殺すから、神の使いを相手にする必要はない」
 と、大蛇をまたいで進む
 神は雲を興し、氷雨を降らせ、峯に霧をかけ
 谷を曇らせ」
 「日本武尊」は意識が朦朧として下山
 「居醒泉」で目醒めたが病身となり
 「尾津」から
 「能褒野」へ到り
 伊勢神宮蝦夷の捕虜を献上し
 天皇には
 「吉備武彦」を遣わし
 「自らの命は惜しくはありませんが
  ただ御前に仕えられなくなる事のみが
   無念です」と奏上し
 「能褒野」の地で死亡・三十歳
 「国偲び歌」は
 父の景行天皇
 九州平定の途中で
 日向で詠んだ・・・
 ↓↑
 「古事記
 倭建命の死を聞いて
 大和から訪れた后たちや御子たちは
 陵墓を築いて周囲を這い回り
 「なづきの田の
  稲がらに
  稲がらに
   葡(は)ひ廻(もとほ)ろふ
    野老蔓(ところづら=蔓草)」」
 すると
 「倭建命」は
 「八尋白智鳥」
 となって飛んでゆき
 后や御子たちは
 竹の切り株で足が傷つき痛めても
 痛さも忘れて泣きながら、その後を追った
 「浅小竹原(あさじのはら) 
  腰なづむ
   空は行かず
    足よ行くな」
 と詠んだ
 白鳥を追って海に入った時に
  「海が行けば
  腰なづむ
   大河原の
    植え草
     海がは
      いさよふ」
 白鳥が磯伝いに飛び立った時は
  「浜つ千鳥(ちどり)
  浜よは行かず
   磯づたふ」
 4つの歌は
 「大御葬歌(天皇の葬儀に歌われる歌)」
 となった
 ↓↑
 「日本書紀
 天皇は百官に命じて
 「日本武尊」を能褒野陵に葬るが
 「日本武尊」は
 白鳥となって、大和を指して飛んだ
 棺には衣だけが空しく残され
 「屍骨(みかばね)」
 はなかった
 ↓↑
 「古事記
 白鳥は伊勢を出て
 河内の国志幾に留まり
 そこにも陵を造るが
 やがて天に翔り、行ってしまう
 ↓↑
 「日本書紀」  
 白鳥の飛行は
 「能褒野→大和琴弾原(奈良県御所市)
      →河内古市(大阪府羽曳野市)」
 その3箇所に陵墓を造った
 白鳥は天に昇った
 後に天皇
 「武部(健部・建部)」
 を
 「日本武尊」の
 「御名代」とした
 「大和に飛来」・・・
 ↓↑
 陵墓
 日本武尊 能褒野墓
 (三重県亀山市
 ↓↑
 日本武尊 (大和)白鳥陵
 (奈良県御所市)
 ↓↑
 日本武尊 (河内)白鳥陵
 (大阪府羽曳野市
 ↓↑
 「日本書紀
 景行天皇四十年是歳条
 「日本武尊」は
 「能褒野」・・・褒=衣+保
         亠+亻+呆+𧘇
         亠+亻+口+木+𧘇
   襃=衣+E+呆
        亠+E+呆+𧘇
        亠+E+口+木+𧘇
       闁=門+門
        ホウ
        ほめる・ほめたたえる
        大きい・広い・ゆったりとしている
        すそやふところが広い衣
        周代の国名
 ↓↑
 で没し、景行天皇
 伊勢国
 「能褒野陵(のぼののみささぎ)」に埋葬させた
 しかし
 「日本武尊」は
 「白鳥」となって飛び立ち
 倭の「琴弾原(ことひきはら)」
 河内の「旧市邑(ふるいちのむら、古市邑)」
 に留まったのでその地に陵が造られた
 これら3陵をして
 「白鳥陵(しらとりのみささぎ)」
 と称し
 これらには「日本武尊」の
 「衣冠」が埋葬された・・・移換・遺憾・如何・移管・医官
 仁徳天皇六十年条に7
 「白鳥陵」は「空(から)」で
 天皇が白鳥陵の陵守廃止を思い止まった・・・
 ↓↑
 「古事記
 景行天皇
 倭建命は伊勢の「能煩野」で没し
 「倭建命」の后・子らが能煩野に下向して陵を造った
 「倭建命」は
 「白い千鳥」となって
 伊勢国から飛び立ち
 河内国
 「志幾(しき)」に留まったので
 その地に「白鳥御陵(しらとりのみささぎ)」を造った
 延喜式(延長五年(927年)成立)
 諸陵寮(諸陵式)で
 「能裒野墓」の名称で記載
 伊勢国鈴鹿郡の所在で
 兆域は東西2町・南北2町で守戸3烟
 遠墓に分類
 伊勢国では唯一の陵墓だが
 「白鳥陵」の記載はない

 自其處發。
 到當藝野上之時。・・・當藝(たぎ)=当う芸=問う解意
 詔者。 詔=言+刀+口     
 吾心・・・・誤診・護身・語新
 恆念
 自虚翔行然。
 今吾足不得歩。
 成當藝斯玖。〈自當下六字以音〉・・・「たぎたぎしくなりぬ」
 故號其地。・・・號=号+虎・・・虎=とら=寅=イン
 謂當藝也。
     
 杖衝坂     
 自其地。・・・自分=己=俺=我=私=ム=よこしま
 佐生幸行。
 因甚疲・・・因=囗+大(一+人)
      疲=「疒+皮」=ヒ・ビ・つかれる
衝御杖。・・・衝=彳+重+亍(二+丁)・・・衝撃・笑劇
      杖=木+丈(ナ+乀)
 稍歩。・・・・・稍=禾+肖
        ショウ・ソウ
        すこし(少し)
        ちいさい(小さい)
        ふち(扶持)
        やや(稍々)
        ようやく(要約)
        小さい・少ない・ささいな
        わずかな(僅かな)・僅少
        扶持・俸給
        ようやく・次第に・だんだんと・少しずつ
        逍遙・・・坪内逍遥
 故號其地。
 謂杖衝坂也。・・・つゑつきざかといふ
       ・・・謂=云う・言う
       ・・・謂=言+田+月(肉)
 到坐
 尾津前・・・・・・をづのさき・前=さき・まえ・ゼン
 一松之許。・・・イッショウシキョ
 先御食之時。 先=𠂉+亠+儿
         先の音色の字・以色列?
 所忘其地
 御刀。・・・・・・・・・・・穏当・音問う・音当
 不失猶有。・・・・・・・猶=猶太
 爾
 御歌曰。
     
 袁波理邇・・・・・・・・・尾張に・終わりに
 多陀邇牟迦幣流・・・ただに向へる
 袁都能佐岐那流・・・音の讃岐に鳴る
 比登都麻都・・・・・・・ひとつのマト
 阿勢袁・・・・・・・・・・・あせを・おせを
 比登都麻都
 比登邇阿理勢婆
 多知波氣麻斯袁
 岐奴岐勢麻斯袁
 比登都麻都
 阿勢袁

 自其地幸。
 到三重村之時。
 亦詔之。
 吾足如
 三重勾而
 甚疲。
     
 故號其地謂三重。・・・・かれその地をいつ参重・纂中

 能煩野
 自其幸行而。
 到能煩野之時。
 思國以
 歌曰。
ーー↓↑ーー
 古事記こじき=乞食
 すねる=拗=こじれる=抉れる=古事例留・・・猿田彦
 2017-11-21 21:40:10 | 古事記字源
 ・・・「カイの研究」・・・
 1976、7年頃にアメリカに滞在していた頃に暇つぶしに書き始めたボクの「小説・エメラルドブルーの謎(碧き眼の人形伝説)」だったけれど・・・「カイの研究」・・・随分と時間がたってしまった・・・人生、アソビとネテいる時間がオホイかも・・・相撲界は大きな問題なんだか?、「拗(こじ)れてしまっている」・・・
 アレッ、レレレッ・・・「徳」の漢字が「紱(糸+犮)=紱(ひも・フツ)」に文字化け?・・・「伊都(怡土・意図・夷土)の犬=狗=戌=いぬ」・・・幕府のイヌめッ・・・「壬生侍=新撰組」・・・「新選組の前身集団・文久三年(1863年清河八郎が京へ率いた浪士組を壬生にある新徳寺に代表を集め、尊皇攘夷を目的とする反幕勢力に変化させようとの策略を演説し、賛同した同志を新徴組として江戸に帰った」・・・「壬生(みぶ)寺(新徳寺)=相撲力士の稽古場」でもあった・・・
  ↓↑
 「1863年6月3日
  大阪北新地で
  壬生浪士組新選組)と
  死傷事件を起こした
  大坂相撲の力士で
  死亡したのは
  中頭の
  熊川熊次郎(肥後出身)・・・「熊の川の熊の次郎」?
  大坂相撲
  小野川部屋に所属
  地位は
  中頭(関取)
  前頭七枚目
  事件後の場所の番付には名がある・・?
  事件の手打ちとして
  京都での興行では
  京都、大阪の両相撲が協力
  力士の中には
  後に勤皇の志士となった者もいた・・・」
  ↓↑
 「拗(こじ)れる」・・・関取、力士の手が小さいのか、どうなのか?・・・
 ビンタ・・・「頬を平手打ちすること・鬢(ビン・ひげ)の辺りのこと・鬢(ビン)=頭髪の左右側面、もみあげの根元の部分のこと・ビンタが平手打ちで用いられるようになったのは旧日本軍の部下への制裁、懲罰行為」・・・
ーーーーー
 拗=扌(手)+幼(幺+力)・・・
   「テ(シュ)はオサナイ(ヨウ)」・・・
      主要・腫瘍・主用・取葉
      主の小さい力
      幺=嬰児・糸玉・糸頭(いとがしら=伊都頭)
        幼=幺麼(ヨウマ)
          同じ部首「幾・幻・麼・幽」
      麼=こまかい・小さい・・・類字は「靡(なびく)」
       =麼虫
       =ちいさい・幺麼(ヨウマ)
       =麼虫(マチュウ)=微細な虫
        麼陋(マロウ)=姿が矮小で醜い(字通)
        姿のいやしいこと
        麼眇(ビビョウ)=極めて小さい
          (大漢和・字通ともに「ビ」音)
        麼事(モジ)=甚麼(ジンモ)
        恁麼(インモ)=什麼(ジュウモ、ソモ)
        作麼生・怎麼生・什麼生(ソモサン)
        =何事、いかに、なに、か、や
        ・・・等の疑問の助詞
        麼麼(モモ)=乳母
       =なに・どんな・か・や・疑問を表す語
        細かい・かすか・そうか・そう
        バ・ビ・マ・ミ・モ
ーーーーー
 「コロマ村」にある入植者名簿には
 「イトウ オケイ」
 「ニシカワ モトジ」
 「マスミズ クニノスケ」
 「サクライ マツノスケ」
 等の名が記載されてあった・・・
ーーーーー
 ドイツ=独逸・独乙・徳意志・都逸・岱枝
     独乙都蘭度・度逸都蘭土
     独徳(→独逸&徳川幕府?)
     紱國・紱意志(→徳川の意志?)
  ・・・「徳」が「紱(糸+犮)=紱(ひも・フツ)」
     に文字化け?・・・「伊都(怡土・意図)の犬=狗」
    「犮(ハツ)=ナ+乂+ヽ」=走る犬・・・
    犮(ハツ・バツ)=犬+ノ=犬部・犬を犠牲とした象形
    「犬+ノ」=犬に「ノ」をつけて犠牲(殺す)
    犬を犠牲にして神に供え、災いを取り除く意
    「祓=はらう・フツ=示+犮」の原字・部首は犬部
    「お祓い・お払い・御祓い」
 独逸(German・Preussen・Prussia
    プロシア=普魯西)
      ・・・普(奈良部)魯の西(にし)
    普=並+日=あまねく・あまねし・フ
          広く行き渡る・普及・普遍
          なみ・ふつう・普通・普段
          普及
  ↓↑
 逸=免+辶=はしる・にげる・にがす・イツ・イチ
   逸機・後逸・奔逸
   かくれる・しなう
   世に知られない
   逸事・逸書・隠逸
   それる・はずれる
   ある場所からさっと抜け去る
   逸出・逸走・後逸
   わがまま・みだら
   逸脱・淫逸・放逸
   足がはやい・抜きんでている・すぐれる
   逸材・逸出・逸足
   逸=イツ・イチ
     それる・横にそれて逃れる
     抜けて見えなくなる
     逸脱・散逸
     世間に知られていない
     逸事・逸聞・逸話
        ↓↑
 ・・・甲斐の「独逸人=独り免れる人」
   シュネル(すねる)
   猿田彦(サルタビコ=猿多比拠
  =沙流他尾拠
  =申多比処・エンデンゲン)・・・円伝諺=π=パイ=葉意
        塩田の源・・・死海(The Dead Sea)
        ・・・塩湖・・・
 「さる、旅の処(處)」・・・「作留多諺」、「エンデンゲン=塩伝諺」
          ・・・「彦根=ひこね=比古音」
          ・・・「井伊直弼」・・・
  ↓↑
 「井伊直弼
  彦根藩
  第十三代藩主の
  井伊直中の十四男
  1815年10月10日
  彦根城
  二の丸で生まれた
  母は側室・お富の方
  幼名は鉄之助、後に鉄三郎
  天保二年(1831年)
  井伊直中の逝去で
  槻御殿から
  尾末町御用屋敷に移り
  300俵の宛行扶持(あてがいぶち)を与えられ
  部屋住み生活
  天保五年(1834年)
  弟の
  直恭と共に他家への
  養子候補として江戸に赴いたが
  養子縁組が成立したのは直恭だけ
  自身は採用されず
  彦根に戻った
  住居の屋敷を
 「埋木舎」
  と名付けた・・・
  自分の渾名は
 「チャカポン(茶・歌・鼓)」
  弘化三年正月
  兄で世子の
  井伊直元の急死で
  藩主・井伊直亮(なおあき)の世子となる
  ↓↑
  会津藩
  松平容敬とは同じ溜詰の大名として
  信頼関係を築いた
  嘉永3年(1850年)9月
  藩主、直亮が逝去
  嘉永四年(1851年)十一月二十一日
  井伊直弼
  彦根藩主に就任」
  安政七年(1860年)三月三日午前九時頃
  桜田門外の変
  暗殺、絶命・・・
  居合い抜き、抜刀の達人が籠の中、
  ピストルで撃たれては・・・ドウしようもナイ・・・
ーーーーー
 「拗(す)ねる」、「拗(こじ)れる・抉(こじ)れる」・・・「執拗(シツヨウ)」・・・「平松武兵衛」・・・
 会津藩プロシア(ドイツ)人の「ジョン・ヘンリー・スネル」を軍事顧問に招聘し、藩主、松平容保は彼に「日本名、平松武兵衛」を与えた・・・そして・・・「平松武兵衛」は・・・
ーー↓↑ーー
 ・・・以下はスベテ、コンピュータでの関係記事を検索し、少々改作して添付したモノで、「原文」そのものではない。重複添付したモノは「諸説・若干異なる説」があるので、これも混乱なき様・・・「ヘンリー・スネル」を検索すれば原文そのものが閲覧できる・・・アシからず・・・
ーー↓↑ーー
 「平松武兵衛=ジョン・ヘンリー・スネル」
            ・・・拗(す)ねる・・・
 会津藩士と
 家族三十七名
 十七歳
 「おけい」・・・於恵(お恵み=於目具務)
  ↓↑     於計(涌意・尾ケ井→美景・美形)
         於圭・・・圭=十一十一=たま・ケイ・ケ
               =玉器・先端の尖った玉の板
         月桂樹=オリーブ
          佳字(かじ・ケイジ)=嘉字・好字
         =諸国郡郷名著好字令・好字二字令・好字令
          元明天皇
          和銅六年(713年)五月甲子の勅令
          桂小五郎木戸孝允
 ↓↑  ↓↑    
 「おけい」は大工 (桶屋とも)の
       「伊藤文吉」と・・・文記知
       「お菊」の長女・・・嗚(ウ・オ・ああ)訊く
               素戔嗚・阿起句・・・
 ↓↑     文詰の於記句(規矩)の納(おさ)める音名
 藩士
 「桜井松之助」
 米国船
 「チャイナ号」で・・・「Chinese=中国語=漢字の號、合」?
 明治二(1869)年五月一日
 横浜港から米国へと向かった
 明治二(1869)年五月二十日
 米国、カルフォルニアに到着
 ゴールド・ヒルで農地を買い取り
 「若松 コロニー(Wakamatsu Tea and Silk Colony)」
 日本人村を作った
 ↓↑
 兄・ヘンリー
 1869年(明治二年)
 カリフォルニア州
 日本人妻の
 ジョウ
 を含む
 会津若松の人々
 約40人と共に移住
 カリフォルニア州エルドラド郡
 サンフランシスコの北東
 ゴールド・ヒル
 に購入した
 600エーカーの土地に
 「若松コロニー」
 という名の開拓地を建設
 ↓↑
 「若松コロニー」の経営は行き詰り
 1871年4月
 ヘンリーは金策に日本へと向かった・・・が
 後、消息不明・・・
 ↓↑
 明治三(1870)年
 「若松コロニー」は
 「ビーア・カンプ」
 の土地として「購入」された?・・・ダレが売却したんだか
 シャネル契約の借金の担保で没収された・・・?
 「シュネル亡き後、
  残されたコロニーのメンバーを救済した隣家
  ビア・カンプ家はプロシアカトリック
 ↓↑
 明治四(1871)年
 「おけい」
 十九歳で死亡
 桜井松之助が
 10数年後、あるいは15年後とも・・・
 桜井松之助など
 移民の生き残りの人たちによって
 「おけい」の墓碑が建てられた
 「桜井松之助」は
 帰国することなく
 大正四(1915)年
 現地で67歳で死没
 ↓↑
 「弟・シュネル」は
 新潟から東京へ移り
 商会を開き
 1882年(明治十九年)頃まで
 日本国内で活動
 後、消息不明・・・
 ↓↑
 スネル兄弟・・・オランダの植民地、インドネシアで育った
 幕末期の商人
 兄はジョン・ヘンリー・スネル(John Henry Schnell)
 日本名、平松武兵衛
 (1843年?~1871年?)
ーー↓↑ーー
 『甘粕継成日記』
     ・・・「甘糟備後継成 遺文」
         甘(あま)い・・・廿+一
         糟(かす)を・・・米+曹
         粕(かす)を・・・米+白
         継(つぐ)・・・・糸+L+米
         成(なり)・・・・万+戈
  「シュネル兄弟にとって重要な男
   会津藩主「松平容保」以上に、
   米沢藩
   色部久長
    ・・・家老
       新潟港の守備隊長
       慶応四年七月二十九日(1868/9/15)
       享年44歳、戊辰で戦死
       米沢藩、戦争首謀者扱いとされた
   甘粕継成
    ・・・米沢藩参謀・砲術者
       ご先祖は切支丹(キリシタン
       甘粕右衛門信綱(=右衛門)
       洗礼名ルイス
       切支丹として死んだ親族
       甘粕右衛門信綱(甘糟景継)
       1550~1611年
       の次男
       米沢切支丹大弾圧と、殉教史実
       1629年1月12日(寛永五/十二/十八)
       処刑決行
       甘粕信綱(右衛門)処刑
       領内で藩士を含む多数の
       キリシタンを逮捕、死罪決行
       1639年(寛永十六年)
       吉利支丹横目を郷村に配置
       ↓↑
       甘粕継成は
      「新保勘左衛門」の変名で
       明治二年十一月二十九日、病死
   シュネル(兄)は
       会津の軍事顧問
       米沢藩軍事顧問兼務
 同年(明治二(1869)年)5月24日
 兄ヘンリー・スネルは
 鶴ケ城で藩主
 松平容保(かたもり)と会い
 髪を剃(そ)り、
 日本製の羽織を着て、
 袴(はかま)をはき、
 名を
 「平松武兵衛」と称し
 城下西(西若松駅南西隣・材木町一丁目)
 に屋敷を与えられた
 ↓↑
 弟はエドワルド・スネル(Edward Schnell)
 (1844年?~没年不詳)
 ↓↑
 オランダ出身ではなく
 オランダ国籍の
 プロイセン
ーー↓↑ーー
 『会津藩武器購入に関する一問題』
 慶応四(1868)年三月二十三日
 会津藩
 弟エドワルド・スネルから
 オランダ製ライフル銃(ヤーゲル銃)
 七百八拾挺を
 七千二拾ドルで
 会津藩商人の
 鈴木多門が
 新潟港経由で買っている
ーーーーー
 「貍(たぬき)」は「徳川家康」・江戸幕府第一代将軍
 ↓↑       「江戸幕府第一代征夷大将軍
 「貍(たぬき)」から漢字構成部分の
 「田を抜く」と
 「豸(むじな・チ・ジ・タイ)+土(十一)」
 「ネコやトラのような背が長い獣
  足のない虫
  伝説上の羊のような神獣」
 「獬」・・・
 「豸+α」は「爪(つめ・ソウ・ショウ)」の鋭い動物・・・
 ↓↑
 薶=艹(艸)+貍(狸・たぬき・リ・バイ)
   たぬき・リ・バイ
   薶=艹+豸+里=薶(うず)める
    =犠牲を埋めること
   イヌ科の哺乳類で山地に棲む
   人を化かす・・・うづめ=宇受女
   狸(たぬき)・貍(バイ)は
   薶に通ず
 ↓↑↓↑
 薶(うず)める=犠牲を埋めること
 ↓↑
 うづ=渦・疼・踞・堆・熅・煨・
    薶・瘞・鷃・鶉・
 ↓↑
 「リ」音の漢字=里・裏・裡・理・厘・俚・
         哩・狸・貍・鯉・薶(埋)
         埋(マイ)
 ↓↑
 「甲(きのえ・コウ)」を構成に含む漢字
 爅 㕅 䮵 疃 㢆 厴 粴 㾖 墥 䆹
 捚 䘃 榸 䡴 炠 鲤 䭚 玾 㙻 勭
 笚 㳌 噇 缠 䃥 徸 䖖 柙 鄽 䛅
 濹 闸 䧉 犝 㕓 䱳 癦 㦟 喱 緾
 䁼 娌 膧 䋥 曈 薶 䘥 氃 钾 䣑
 燑 鸭 䭪 瓼 㠉 厣 㼿 嚜 䆘 悝
 荲 䖬
 ↓↑
 常用漢字表内音訓
 リ=利 吏 履 理 璃 痢 裏 里 離
 常用漢字表外音訓
 リ=厘 梨 麗
 ↓↑
 表外漢字
 俐 俚 秔 剺 劙 哩 唎 喱 嚟 娌 嫠
 孋 孷 峛 峲 廲 悝 悧 悷 摛 攦 李
 柂 栗 梩 欐 氂 浬 浰 芮 漓 灕 犁
 犂 犛 狸 猍 瓈 盠 砅 离 籬 縭 纚
 罹 艃 茘 荔 莅 莉 莱 萊 蒞 薶 蘺
 蜊 蟸
 ↓↑
 藻貝=アマモ(甘藻)の生えている場所に多いので
    モガイ(藻貝)と呼ぶ
 甘藻(あまも・eelgrass)
 海草(うみくさ)
 生育場所は内湾の波静かな水深1~2mから10mまでの砂泥
 葉の長さは50cm~1mくらい
 葉状部(葉身、葉鞘)、地下茎、根の3つに区分でき
 葉条部は水中に、
 地下茎と根は海底に埋在
 多年生
 群落が形成されているところをアマモ場という
 陸から海へ入った海草
 種子植物で、種類が少なく、岩礁には生えない
 胞子植物の海藻とは区別
 和名「あまも・アマモ」は
 地下茎を噛むと甘みを感じることに由来
 植物名としては日本一長い別名
 「リュウグウノオトヒメノモトユイノキリハズシ
 (龍  寓 の乙 姫 の元 結 の切り外し )
 を持つ
 アマモ(Zostera marina Linnaeus)
 オモダカ目アマモ科 (Helobiales Zosteraceae)
 ↓↑
 属名の「Zostera」は女性名詞で
 細長い葉形の特徴を表す
 ギリシャ語の
 「zoster(帯,ベルト)」に由来
 種小名「marina」は女性形で
 「海中生の・海の」の意味
ーーーーー
 有毒渦鞭毛藻
 (ゆうどくうずべんもうそう
  toxic dinoflagellate)
 毒素の産生能力を持った渦鞭毛藻
 毒を産生する藻類は
 珪藻・ラフィド藻・ハプト藻
 など
 渦鞭毛藻は特に種類が豊富で
 微量でも著しい生理活性を示すので
 他の有毒藻類とは別枠で扱われる
 渦鞭毛藻=海域・淡水域共に広く分布する
      植物プランクトン
      渦鞭毛藻の約半分は
      光合成を行う独立栄養生物で
      生態ピラミッドの最底辺に位置する
      残りの半分は
      バクテリアや他の藻類を捕食する
      従属栄養生物で
      より大型の生物に捕食される点は同じ
      有毒渦鞭毛藻にも
      独立栄養性のものと
      従属栄養性のものの
      双方が含まれる
 有毒渦鞭毛藻を
 魚類や貝類が捕食すると
 産生された毒素が分解されずに
 捕食者に蓄積され
 毒素を蓄積した魚介類は
 貝毒
 や
 シガテラ(ciguatera)
 ↓↑   ・・・熱帯の海洋に生息する
      プランクトンが産生する
      毒素に汚染された魚介類を
 ↓↑   摂取することで発生する食中毒
 といった食中毒の原因となる
 有毒渦鞭毛藻には
 水環境の富栄養化などにより
 赤潮を形成する種もあり
 大発生し問題視される
 船舶の航行増加と高速化に伴い
 バラスト水によって他水域から
 持ち込まれる(持ち出される)
 有毒渦鞭毛藻が増加し
 その為
 従来
 貝毒が発生していなかった水域で
 食中毒が発生・・・
 ↓↑
 有毒渦鞭毛藻
 産生する毒の種類や
 その作用対象によって
 4つのグループに分けられる
 1 魚介類に直接作用するもの
 2 麻痺性貝毒
 3 下痢性貝毒
 4 神経性貝毒シガテラ
 1・・・・・・フィエステリアなど一部の渦鞭毛藻
 2~4・・・渦鞭毛藻を直接摂取した生物には無害
     だが
     食物連鎖による
     生物濃縮を介して
     ヒトなどの高次の捕食者に毒性を与える・・・
ーーーーー
 ・・・つまり、「あまも=アマを模す」が連鎖作用をすると
 所為物の濃縮を媒介してヒト(比徒・比訳)などの
 高次の捕初句者に毒性を与える・・・?

 

はえいろね・・・
2017-11-22 23:53:55 | 古事記字源
 ・・・2017年11月22日・水曜日・・・「都々逸・都都逸」=「都々逸(どどいつ)=江戸末期に初代の都々逸坊扇歌(1804年~1852年)によって大成された、口語による定型詩。七・七・七・五の音数律に従う」
 「元来は、三味線と共に歌われる俗曲で、音曲師が寄席や座敷などで演じる出し物であった。主として男女の恋愛を題材として扱ったため情歌とも呼ばれる」
 「七・七・七・五の音数律に従うのが基本だが、五字冠りと呼ばれる五・七・七・七・五という形式もある」
 「逢うて別れて 別れて逢うて(泣くも笑うもあとやさき) 末は野の風 秋の風 一期一会の 別れかな(井伊直弼 茶湯一会集)」
ーーーーー
 「ド・ト =ものさし・長さの基準・度量衡
       のり・きまり・さだめ・制度・法度
       ほどあい・限度・程度
       めもり・数・量
       大きさなどを表す単位・濃度・角度
       たび・回数・度数・頻度
       人がら・ようす・器量・度量・態度
       わたる・越える・類渡」
       仏教で、さとりの世界や仏の世界へ導き入れる
       すくう・済度・得度
       タク・はかる・おしはかる・みつもる
      「忖度(ソンタク)」
 緯度(イ ド)・温度(オン ド)・角度(カクド)・過度(カド)
 感度(カンド)・強度(キョウド)・極度(キョクド)
 経度(ケイド)・限度(ゲン ド)・高度(コウド)・済度(サイド)
 湿度(シツド)・尺度(シャクド)・純度(ジュンド)
 深度(シンド)・進度(シン ド)・震度(シンド)・制度(セイド)
 精度(セイド)・節度(セツ ド)・鮮度(センド)・速度(ソクド)
 態度(タイド)・丁度(チョウド)・調度(チョウド)
 程度(テイド)・適度(テキ ド)・得度(トクド)
 年度(ネンド)・濃度(ノウ ド)・頻度(ヒンド)
 法度(ホウド・ハット)
 密度(ミツド)
 用度(ヨウド)
 支度(したく)
 度徳量力(タクトクリョウリキ)
 度(たび)
 度重なる(たびかさ-なる)
 度外視(ドガイシ)
 度肝=度胆(ドぎも)
 度胸(ドキョウ)
 度数(ドスウ)
 度僧(ドソウ)
 度外れ(ドはずれ)・度忘れ(ドわすれ)
 度量(ドリョウ)
 度量衡(ドリョウコウ)
 度る(はかる)
 度度(よりより)
 「ド=鴑・蕽・胴・硇・瑙・潼・巎・峱・榒・蕺」
ーーーーー
 ドイツ=独逸・独乙・徳意志・都逸・岱枝
     独乙都蘭度・度逸都蘭土
     独徳(→独逸&徳川幕府?)
     紱國・紱意志(→徳川の意志?)
   ・・・「徳」が「紱(糸+犮)=紱(ひも・フツ)」
     に文字化け?・・・
    「犮(ハツ)=ナ+乂+ヽ」=走る犬・・・
    犮(ハツ・バツ)=犬+ノ=犬部・犬を犠牲とした象形
    「犬+ノ」=犬に「ノ」をつけて犠牲(殺す)
    犬を犠牲にして神に供え、災いを取り除く意
    「祓=はらう・フツ=示+犮」の原字・部首は犬部
    「お祓い・お払い・御祓い」
 独逸(German・Preussen・Prussia
    プロシア=普魯西)
      ・・・普(奈良部)魯の西(にし)
    普=並+日=あまねく・あまねし・フ
          広く行き渡る・普及・普遍
          なみ・ふつう・普通・普段
          普及
  ↓↑
 逸=免+辶=はしる・にげる・にがす・イツ・イチ
   逸機・後逸・奔逸
   かくれる・しなう
   世に知られない
   逸事・逸書・隠逸
   それる・はずれる
   ある場所からさっと抜け去る
   逸出・逸走・後逸
   わがまま・みだら
   逸脱・淫逸・放逸
   足がはやい・抜きんでている・すぐれる
   逸材・逸出・逸足
   逸=イツ・イチ
     それる・横にそれて逃れる
     抜けて見えなくなる
     逸脱・散逸
     世間に知られていない
     逸事・逸聞・逸話
ーー↓↑ーー
 アレレレレッ、「白鵬(白い朋=たから・貨幣に用いた5個1組、or 2個1組の貝)の鳥」・・・朋友=同朋・・・山が載ると「崩(くず)れる」・・・「白鳳文化=645年(大化元年)~710年(和銅三年)」・・・「和銅元号慶雲元号の後、霊亀元号の前・708年~715年までの期間・天皇は女帝元明天皇」・・・
 712年=壬子年=和銅五年は太安万侶が編纂した「古事記」を元明天皇に献上した年・・・「唐の年号は景雲三年、太極元年、延和元年、先天元年」・・・養老四年(720年・庚申年)は「日本書紀」完成・・・
 執拗(しつこ)く、昨日の続きの重複・・・「弐千壱拾七年壱拾壱月弐拾弐日」だから・・・
ーー↓↑ーー
 興行相撲
江戸、京都、大坂に
 相撲の集団
 当初は朝廷の権威、大商人の財力によって
 看板力士を多く抱えた
 京都、大坂相撲
 江戸相撲をしのぐ
 興行における
 力士の一覧と序列を定めた番付の
 木版刷りが始まった
 最古の木版刷りの江戸の番付は
 1757年のもの
 京都や大坂では
 それよりも古いものが残されている
 江戸相撲
 1789年11月
 司家の吉田追風から
 二代目
 谷風梶之助
 小野川喜三郎
 への横綱免許を実現
 征夷大将軍徳川家斉観戦の
 1791年
 上覧相撲を成功させる
 雷電爲右衞門
 江戸相撲が京都や大阪へ出向いて
 合併興行(大場所)も恒例化、毎年開催
 1827年
 江戸幕府
 「江戸相撲方取締」役を
 江戸相撲吉田司家に認めた
 ↓↑
 幕末に
 「相撲VSレスリング」
 「相撲VSボクシング」
 の異種試合が行われた
 アメリカ合衆国海軍
 マシュー・ペリー提督
 が黒船で来航した
 1853年6月11日に
 雷權太夫
 玉垣額之助
 ら年寄総代は文書により
 攘夷協力を番所に申し出
 翌年
 ペリーが再来日して条約を締結した際
 米国へ返礼として贈られた
 米200俵を
 江戸相撲の力士たちが軽々と運び
 米軍人を驚嘆させた。
 1863年6月3日
 大阪北新地で
 壬生浪士組新選組)と
 死傷事件を起こした
 大坂相撲の力士で死亡したのは
 中頭の
 熊川熊次郎(肥後出身)
 事件の手打ちとして
 京都での興行では京都、大阪の両相撲が協力
 力士の中には
 後に勤皇の志士となった者もいた
 ↓↑
 大坂相撲・小野川部屋に所属した元力士
 熊本県肥後国出身
 地位は中頭(関取)、前頭七枚目
 ↓↑
 京都から淀川を下り
 大坂に遊ぼうとした
 往来において
 酔った力士に遭遇し
 道を譲る譲らないで悶着
 この時、
 芹沢が鉄扇で力士を打擲したとも、
 刀で浅傷を負わせた(または斬殺)ところ
 引き金になり乱闘に発展
 その後
 壬生浪士組の8人は
 北新地の住吉楼(吉田屋とも)に
 上がり楽しんでいたところ
 角材を持った
 熊川はじめ
 小野川部屋の力士たちが押しかけ乱闘
 この時、
 熊川は沖田に角材を受け止められ
 芹沢に脇腹を突き刺され
 それが元で翌日に出血多量で死亡
 熊川は
 沖田と永倉の両名に斬られた・・・
 乱闘での死者は熊川1人とも、5人とも・・・
 「新選組顛末記」、「島田魁日記」
 「京都守護職への届出」、「大坂東町奉行所への届出」
 「浪士文久報国記事」
 によって、
 経緯、新選組側、力士側、死傷者数
 熊川の死亡日が異なる
 その後、
 大坂西町奉行所の与力
 内山彦次郎と現場に居合わせなかった
 新選組
 近藤勇の間で遺恨が生じた・・・
 熊川の経歴は全く不明
 事件後の場所の番付に名がある・・・
 ↓↑
 「壬生浪士=精忠浪士」は
 「新選組」の前身集団
 ↓↑
 近藤勇
 1834年 甲午(丙・ ・丁)
 0011月 乙亥(戊・甲・壬)
 0009日 庚子(壬・ ・癸)辰巳=空亡
  ↓↑
 1868年 戊辰(乙・癸・戊)
 0006月 丁巳(戊・庚・丙)
 0017日 癸卯(甲・ ・乙)
ーー↓↑ーー
 土方歳三
 1835年 乙未(丁・乙・己)
 0005月 辛巳(戊・庚・丙)
 0031日 癸亥(戊・甲・壬)子丑=空亡
  ↓↑
 1869年 己巳(戊・庚・丙)
 0006月 庚午(丙・ ・丁)
 0020日 壬午(丙・ ・丁)
 ↓↑
 鳥羽・伏見の戦いで敗れ
 幕府軍が大坂から江戸へ撤退後
 近藤勇は大久保大和・・・・大窪の大倭(やまと)
 土方歳三は内藤隼人・・・・名井等の隼人⇔熊襲
 と変名、
 甲斐国に向かう
     ・・・甲斐國=松平容保
        1836年2月15日~
        丙申(己・壬・庚)癸巳(戊・庚・丙)
        庚寅(己・丙・甲)癸亥(戊・甲・壬)
        癸未(丁・乙・己)丙子(壬・ ・癸)
        申酉=空亡
        ↓↑
        保科正之・・・第二代将軍
               徳川秀忠落胤
               第三代将軍、家光の異母弟
        父は徳川秀忠
        母は浄光院
        養父は保科正光
        養母は見性院
        兄弟
        長丸、徳川家光、徳川忠長、保科正之
        義兄弟
        保科正貞、保科正重
        正室菊姫(内藤政長の女)・・・?
        継室は於万(藤木弘之女・聖光院)
        側室は牛田氏、沖氏、沢井氏
        子
        幸松、正頼、将監、正経、正純、正容
        媛姫(上杉綱勝室)
        摩須(前田綱紀室)
        石姫(稲葉正往室)
        ↓↑
        信濃高遠藩主
        出羽山形藩
        を経て
        1643年
        徳川秀忠の子
        保科正之が入封
        会津松平家の祖
        ↓↑   
        1876年(明治9年)8月21日
        若松県
        福島県(1876年以前)
        磐前県
        の3県が合併されて
        福島県
 三月六日
 甲州勝沼の戦いで敗戦
 歳三は戦争前に
 援軍要請へ向かったが成功しなかった
 その後
 流山で再起を図り
 四月三日
 新政府軍に包囲され
 近藤勇が投降
 このとき
 土方歳三
 近藤の切腹を止めて
 投降を勧めたとも、
 投降に反対したとも・・・
 歳三は江戸へ向かい
 勝海舟らに直談判し
 近藤の助命を嘆願したが実現せず
 慶応四年(1868年)四月二十五日
 近藤は板橋刑場で処刑(斬首)
 ↓↑
 芹沢鴨
 らは
 新選組を結成
 新選組となる以前の
 壬生浪士たちは身なりの貧しさから
 「みぼろ(壬生浪=みぶろ・みぶろう)」
 と一部の京の人たちに揶揄
 女性隊士もいた・・・?
 ↓↑
 「天狗党の乱」・・・・天狗=猿田彦
 元治元年(1864年
 筑波山で挙兵した
 水戸藩内外の
 尊王攘夷派(天狗党)によって起こされた一連の争乱
 「元治甲子の変」とも・・・
 ↓↑
 清河 八郎
 文政十三年十月十日
 (1830年11月24日)
   ~
 文久三年四月十三日
 (1863年5月30日)
 庄内藩山形県)出身の志士
 田中河内介とともに
 九州遊説をし
 尊王攘夷派の志士を京都に呼び寄せ
 一方で浪士組を結成し
 新選組・新徴組への流れを作り
 「虎尾の会」を率いて
 明治維新の火付け役となった・・・
 ↓↑
 1830年 庚寅(己・丙・甲)
 0011月 丁亥(戊・甲・壬)
 0024日 甲午(丙・ ・丁)辰巳=空亡
 ↓↑
 幼名は元司
 諱は正明
 号は旦起・木鶏
 本名は齋藤正明
 清川八郎と改名したのち
 清河八郎を名乗った
 山形県庄内町
 清河神社に祭神として祀られている
 位階は贈正四位
ーーーーー