ないえごろうブログ

同音異義の探索

長脛=イギリスの「長脛王」・エドワード1世(Edward I)・1239年6月17日~1307年7月7日

 文字霊日記・3398日目

  オーストリア墺太利)の首都
  ウィーン(独語: Wien〈ヴィーン〉
    バイエルン
    墺太利語: Wean〈ヴェアン〉
    仏: Vienne 〈ヴィエンヌ〉
    英: Vienna〈ヴィエナ〉)

  は、オーストリアの首都

 七曲がり蛇行剣・七支刀?・富雄丸山-円古墳・鼉龍文銅鏡

 富 雄 丸 山  古墳
(とみお まるやまこふん)
 奈良県 奈良市 丸山にある 古墳

  ↓↑
 円墳
 富雄丸山古墳(4世紀後半、直径109メートル)
 盾形の銅鏡(長さ64センチ、幅約31センチ)

 鼉龍文盾形銅鏡
 蛇行剣(全長237センチ、幅約6センチ)が出土
 ↓↑
 七曲がり蛇行剣・・・七支刀?
 ↓↑ 
 7曲(くせ・まが)がり蛇行剣・・・曲=よこしま
 ↓↑
 何重にも折れ曲がっている道路、坂道
 つづら折り=葛籠オリ
 「ななわだ」
  轍(わだち)=輪 (わ) 立 (だち)
         車が通った車輪の跡
 七曲殿 戦国時代の女性の呼び名
 七曲殿 (北条氏繁正室)
 七曲殿 (浅野長勝の妻)
 「五百八十 七まがり」の七曲の略語
 「五百八十年七回り」の略
 祝儀に用いる數・目出たい数
 七倍の復讐・・・・・・・・カイン
 「旧約聖書 創世記4章23-24節」
 七十七倍の復讐・・・「カインのための復讐が七倍ならば
            レメクのための復讐は七十七倍」
     7x77=539・・・5+3+9=17・・・1+7=8=ハ
 

  ↓↑
 浄瑠璃
 「難波丸 金鶏」
 「七曲の餠代夫も」文言・・・
 羊の腸
 「枕草子」二四四
 「ななわたにわだかまりたる玉の」
 喜寿=「㐂=七+七+七=弐拾壱」
    匕・匕・七・ヒ
    777⇔厶・厸・厽
  マ⤴⤵ム⤵マ⇔ムは「7・ワ・ク」の上下左右の逆字
 ↓↑
 7曲がり蛇行剣
 ↓↑
 七支刀 (シチシトウ)
 奈良県 天理市
 「石上」神宮 に伝来の 鉄剣
 全長74.8 センチメートル
 剣身左右に段違いに
 3本ずつ
 6本の枝刃
 剣身に 金象嵌 の 銘文
  石上神宮では
 「六叉の 鉾 (ろくさののほこ)」⇔「丰」
 ↓↑
 泰■四年■月十六日丙午正陽
 造 百錬■七支刀
 ■辟百兵宜供供(異体字、尸二大)王■■■■作
 or
 泰■四年十一月十六日丙午正陽
 造 百錬■七支刀
 ■辟百兵宜供供 侯王■■■■作
 ↓↑
 裏
 先世(異体字、ロ人)来
 未有 此刀
 百済■世■奇生聖(異体字、音又は晋の上に点)
 故為(異体字、尸二大)王
 旨造■■■世
 or
 先世以来
 未有此刀
 百濟■世■
 奇生聖音
 故為
 倭王
 造■■■世
 ↓↑
 『日本書紀
 神功皇后五十二年九月丙子の条
 百済が日本の使者
 「千熊長彦」に会い
 「七支刀一口
  七子鏡一面
  及び種々の重宝を献じて
  友好を願った
  孫の
  枕流王(生年不詳~385年)」
 「神功皇后
  五十二年秋九月丁卯
  朔丙子
  久氐等
  從
  千熊長彥 詣之
  則獻
  七枝刀一口
  七子鏡一面
  及種種重寶
  仍啓曰
  「臣國以西有水
   源出 自 谷那鐵山
   其邈 七日行之 不及。
   當飲是水
   便取 是 山鐵
   以
   永奉聖朝」
 乃謂 孫 枕流王 曰
 「今我 所通 東海貴國
  是 天所啓
  是 以 垂 天恩
  割 海西而 賜我
  由是 國基永固。
  汝 當善 脩和好
  聚 斂土物
  奉 貢不絕
  雖死 何恨」
 自是後
 每年相續 朝貢焉」
 ↓↑
 千熊(ちくま)長彦=職麻 那 那 加 比跪?
              七 七
   夢熊之喜(むゆうのよろこび)
    熊=能+灬
      䏍+匕+匕+灬
      厶+月+匕+匕+灬
    熊=ユウ・くま=球磨・久万・久萬・隈
   「熊=能+灬(火)」≠「態=能+心(㣺)」
 ↓↑
 蟻の熊野参り(ありのくまのまいり)
 伊勢へ七度、熊野へ三度(いせへななたび、くまのへみたび)
 熊野松風は米の飯(ゆやまつかぜはこめのめし)
 欲の熊鷹、股裂くる(よくのくまたか、またさくる)
 『百済記』
 神功皇后四十七年日本書紀
 247年(二運繰り下げ説で367年)
 新羅百済の貢ぎ物を奪い
 「千熊長彦」・・・知友  おさ びこ
           ・・・長=おさ=譯語
          センユウ  おさびこ
 が新羅を責めた
 その二年後の
 神功皇后四十九年春三月
 荒田別(あらたわけ)
 鹿我別(かがわけ)
 ら軍勢を派遣して
 「卓淳国」に至り、新羅を討った
 百済の将軍
 「木羅 斤資」・・・ボクら キンシ
               斤資=おのすけ=小野丞?
 「沙沙 奴跪(シャシャ ヌキ)」
     三跪九叩(サンキキュウコウ)
 らが
 「荒田別」らに協力し
 「新羅軍」をやぶり
 倭・百済連合軍は
 比自㶱・・・比較字体?
 南加羅
 㖨国
 安羅
 多羅
 卓淳
 加羅などの
 七カ国を平定・・・匕・匕・七・ヒ
 比利
 布弥支
 半古
 などの四つの村を平定した
 倭国によるこれらの事蹟に対して
 百済
 肖古王が
 久氐
 らを派遣した
  ↓↑
 神功皇后五十二年 秋九月丁卯朔丙子(9月10日)条
 百済の使である
 久氐(くてい)らが
 「千熊長彦」・・・ちくま=千曲・筑摩
 の引率で
 来倭し
 七枝刀(ななつさやのたち)
 七子鏡(ななつこのかがみ)
 種々の重宝を倭国へ奉った
 『臣(百済)の西に河があり
  水源は谷那(こくな)の
  鉄山(かねのむれ)から出ている
  遠く、七日間でも到着できない
  この河の水を飲み、この山の鉄を採り
  ひたすら
  聖朝(ひじりのみかど)に奉ります』
 と言った・・・
  ↓↑
 何重にも折れ曲がっている道路、坂道
 つづら折り
 「ななわだ」
 轍(わだち)=輪 (わ) 立 (だち)
       車が通った車輪の跡
 七曲殿 戦国時代の女性の呼び名
 七曲殿 (北条氏繁正室)
 七曲殿 (浅野長勝の妻)
 「五百八十 七まがり」の七曲の略語
 「五百八十年七回り」の略
 祝儀に用いる數・目出たい数
 七倍の復讐・・・・・・・・カイン
 「旧約聖書 創世記4章23-24節」
 七十七倍の復讐・・・・「カインのための復讐が七倍ならば
           レメクのための復讐は七十七倍」
  ↓↑

 浄瑠璃
 「難波丸 金鶏」
 「七曲の餠代夫も」文言・・・
 羊の腸
 「枕草子」二四四
 「ななわたにわだかまりたる玉の」
 喜寿=「㐂=七+七+七=弐拾壱」
    匕・匕・七・ヒ
  ↓↑
 「グスタフ・クリムト Gustav Klimt
 1862年7月14日
 ~
 1918年2月6日
         大運1910年8月(48歳)
               壬子正財
         ~
         大運1920年8月(58歳)
               癸丑偏財
 ┏壬 戌(辛丁戊)正財・食神 養⇔戊午劫財
 ┗丁┏未(丁乙己)偏印・偏印冠帯⇔甲寅正官
  己┣巳(戊庚丙)  ・傷官帝旺⇔甲申正官
  庚┗午(丙 丁)傷官・印綬建禄⇔庚午傷官
    戌亥空亡 室宿己巳   箕宿甲申

 コジキ字源・ゲン語探索言語と歴史
 顰=止+少+頁+卑→卑弥呼の書・・・鮮卑・尊卑・・・
 ↓↑ 
 登美の長脛毘古(長髄彦⇔譯隋備故)???
 『古事記
 那賀須泥毘古
 登美能那賀須泥毘古
 (とみのながすねびこ)
 登美毘古(とみびこ)
 とも表記
 「神武東征」で
 抵抗した大和豪族の長
 『古事記
 討伐の場面もなく
 主君の
 「邇芸速日命」が
 「神武天皇=磐余彦」に服属した
 ↓↑


 ↓↑  
 長脛=イギリスの「長脛王」
    エドワード1世(Edward I)
    江戸話蛙土?
    1239年6月17日
    ~
    1307年7月7日・・・
       130777・・・?・・・七曲り
    プランタジネット朝
    イングランド
    在位
    1272年11月17日
    ~
    1307年7月7日
    渾名は
   「Longshanks(ロングシャンクス・長い足・長脛王
          身長が190cm)
    Hammer of the Scots
    (ハンマー・オブ・ザ・スコッツ
    スコットランド人への鉄槌)」
    エドワード1世 (イングランド王)
    (Wikipedia
 ↓↑

 グスタフ・クリムト
 具諏多附・句理ム譯・・・?
 (独: Gustav Klimt
 1862年7月14日
 ~
 1918年2月6日
         大運1910年8月(48歳)壬子・正財
                   冲
  ┏ 壬戌(辛丁戊)正財・食神 養⇔戊午・劫財・三合丙
   干合甲乙
  ┗ 丁未(丁乙己)偏印・偏印冠帯⇔甲寅・正官
    己巳(戊庚丙)  ・傷官帝旺⇔甲申・正官・支合癸
    庚午(丙 丁)傷官・印綬建禄⇔庚午・傷官・自刑
     戌亥空亡
  ↓↑
 帝政オーストリアの画家
 グスタフ・クリムト
 ウィーン郊外
 バウムガルテン(ペンツィング)で誕生
 父 エルンストは
 ボヘミア出身の彫版師
 母 アンナは地元ウィーン出身
 クリムト
 7人兄弟の
 第2子
 1876年
 博物館付属工芸学校入学
 弟の
 エルンスト・クリムト・・・彫刻師
 ゲオルク・クリムト・・・・彫金師
 この学校に学び
 クリムトの作品を飾る額の設計をおこなった
 クリムト
 石膏像のデッサン
 古典作品の模写を中心とした古典主義的な教育を受けた
 ↓↑
 1879年
 弟  エルンスト
 友人 フランツ・マッチュ
 と共に共同で美術やデザインの請負開始
 ハンス・マカルトの影響を受け
 1884年にマカルトが死去すると
 クリムトは彼の継承者と見なされた
 ↓↑
 卒業後
 3人は芸術家商会 (Kunstlercompagnie) を設立
 劇場装飾を中心とした仕事で
 フィウメ、ブカレストなどへも派遣されるようになった
 1886年1888年
 ウィーンの
 リングシュトラーセ(リンク大通り)
 沿いに建てられたブルク劇場の装飾を引き受け
 金功労十字賞を授与
 ウィーン市の依頼を受け
 1888年
 『旧ブルク劇場の観客席』
 は観劇する当時のウィーン社交界の人々を正確に描き
 第一回皇帝賞をうけ高く評価された
 リングシュトラーセ沿いの
 美術史美術館でも装飾の仕事
 ウィーン美術界における名声を確立し
 1891年
 クンストラーハウス(ウィーン美術家組合)に加入
 1892年
 父と弟のエルンストが死去
 ↓↑
 装飾家
 クリムトは1894年に
 ウィーン大学大講堂の
 天井画の制作を依頼され
 『哲学』、『医学』、『法学』
 の
 『学部の絵』3点を担当
 人間の知性の勝利を高らかに歌いあげるという
 依頼者が意図したテーマに反し
 これら3作は
 理性の優越性を否定する寓意に満ちたもので
 その是非をめぐり大論争を引き起こした
 1896年
 提出された構成下絵を見た大学関係者の抗議は
 一旦は沈静化したが
 1900年と1901年
 『哲学』
 『医学』
 がそれぞれ公開され論争が再燃し
 帝国議会において依頼主の
 文部大臣が攻撃され
 論争の大きさに
 クリムト
 契約の破棄を求め、事前に受け取った報酬を返却
 美術館および個人に売却された3枚の絵は
 後に
 ナチスによって没収され
 1945年
 インメンドルフ城において
 親衛隊が撤退する際の放火により
 没収された他の作品と共に焼失したが
 白黒写真および『医学』の習作が現存
 ↓↑
 1897年
 保守的な
 クンストラーハウス(美術家組合)を嫌った芸術家達によって
 ウィーン分離派が結成され
 分離派は古典的、伝統的な美術からの
 分離を標榜する若手芸術家のグループであり
 クリムトは初代会長を務め
 展覧会、出版などを通して
 モダンデザインの成立に大きな役割を果たした
 1902年
 第14回分離派展(ベートーヴェン展)に
 大作『ベートーヴェン・フリーズ』を出品して反感を買い
 作品は長年行方不明となっていたが
 1970年
 オーストリア政府により買い上げられて修復され
 セセッション館(分離派会館)に展示
 1903年
 第18回分離派展
 クリムトの回顧展示で
 『人生は戦いなり(黄金の騎士)』
 (1903、愛知県美術館蔵)
 はじめて出品された
 1903年
 ヨーゼフ・ホフマン
 らによって設立されたウィーン工房に
 クリムトは強い関心を示していたが
 この団体に対しては
 美術の商業化であるとの批判が
 分離派内部からもなされた
 写実派と様式派による対立
 国からの補助金停止などで
 1905年
 クリムトとその同志は分離派を脱退し
 翌年
 オーストリア芸術家連盟を結成
 ウィーン工房による
 ストックレー邸の壁画制作などを行い
 上流階級の婦人たちの肖像画を多く手がけた
 1910年代
 作品も少なくなり
 金箔などを用いる装飾的な作風から脱却
 1918年
 脳梗塞を発症し
 インフルエンザより肺炎
 2月にウィーンで死去
 彼の死去後
 世界的なインフルエンザの大流行し
 「スペインかぜ」と呼ばれた
 ↓↑ ↓↑

 ↓↑
 10月・・・・・壱拾解附(兎・通・妬=女+石)?
 エゴン・シーレ
 絵言 ・恣意例
 畫語ム 思惟麗(零・霊・禮・厲・嶺・齢)???
 ↓↑
 スペインかぜで死亡
 エゴン・シーレ(Egon Schiele)=エーゴン・シーレ
 1890年6月12日
 ~
 1918年10月31日
     大運1908年9月(18歳)甲申・比肩
 庚寅(戊丙甲)偏官・偏財建禄⇔戊午・偏財・三合丙
  三合丙
 壬午(丙 丁)偏印・食神 死⇔壬戌・偏印・三合丙
  冲
 甲子(壬 癸)  ・偏印沐浴⇔辛亥・正官
  冲
 庚午(丙 丁)偏官・食神 死⇔甲午・比肩・自刑
  戌亥空亡
 ↓↑
 オーストリアの画家
 ↓↑
 クリムトの家
 多い時には15人もの女性が寝泊りし
 何人もの女性が
 裸婦モデルをつとめ、妊娠した女性もいた
 多くのモデルと愛人関係にあり
 非嫡出子の存在も多数
 著名な愛人
 エミーリエ・フレーゲ
 エミーリエはクリムトの死後
 クリムトと交わした手紙を処分し
 生涯独身
 ↓↑
 クリムトの作風
 女性の裸体、妊婦、セックス
 官能的なテーマを描いた
 甘美で妖艶なエロスと同時に
 死の香りが感じられる・・・
 (若い娘の遺体を描いた作品)
 「ファム・ファタル(宿命の女)」
 というのも多用されたテーマで
 『接吻』に代表される
 「黄金の時代」の作品には
 金箔が多用され、絢爛
 ↓↑

 クリムト
 同時代の多くの芸術家同様
 日本や東アジアの文化の影響を強く受け
 日本文化への深い傾倒は
 甲冑や能面などの美術工芸品を含む
 プライベートコレクションを持ち
 1900年
 分離派会館開催の
 「ジャポニズム展」は
 分離派
 と
 ジャポニズムの接近を象徴するイベントであった
 浮世絵
 琳派の影響は
 クリムトの諸作品の
 基調
 細部の随所に顕著・・・
 風景画も多数残し
 アッター湖付近の風景を描き
 正四角形のカンバスを愛用し
 平面的、装飾的でありながら
 静穏で、同時にどことなく不安感をもたらす描写・・・
 『アッター湖の島』は
 風景画のなかでもっとも大胆な構図をとったもののひとつで
 アメリカで一躍脚光を浴びるきっかけをつくった・・・
 ↓↑
ーーーーー

(ユカリとオジさんの世迷い言・2)

古代エジプトの神々(1)・絵字符都・『埃及』(1)・(42)

エメラルドブルーの謎  (碧き眼の人形伝説)  奈井江 五郎
  ↓↑   ↓↑
 「プラトン古事記をカタル(古事記字源)
  +
 (表紙・画像・音楽)」の移転先・・・

 ↓↑
 ボクの「古事記字源」の発端・・・
 ↓↑
 干支歴
 ↓↑
 追加添文 「戦争と平和」・・・「モウケの生き方」
 ↓↑
 メリキリの - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=7xgS0oJhhe8

 ↓↑
 モモちゃん
https://www.youtube.com/embed/W00rHNN2zMQ?

 ↓↑
 モウ君の総合目次
 ↓↑
コジキ姫赤い絨毯に乗る(m)
 ↓↑
 古事記と虎関師錬

 ↓↑
鉄腕アトムのロボット法を
思い出して
これを
貼り付けてみたけれど・・・
AIの記憶・・・まだ、若いみたい・・・