ないえごろうブログ

同音異義の探索

大化元年(645年)・和布刈神社付近に「文字ガ関」 が設置・・・?

 文字霊日記・3357日目

 文字ヶ関村・・・歎異抄・・・タリキホンガン?

 ↓↑
 高 史明 氏
 1932年 1月17日
 ~
 2023年 7月15日
     大運2015年7月(83歳)壬辰正官
                害 
 辛未(丁乙己)偏財・偏印冠帯⇔癸卯偏官
  冲己=食神
 辛丑(癸辛己)偏財・偏財 墓⇔己未食神
 丁丑(癸辛己)  ・偏財 墓⇔甲戌印綬
 丙午(丙 丁)劫財・食神建禄⇔庚午正財
  申酉空亡
  ↓↑

 悪人正機
 悟ったところで
 ダレも救われない・・・
 生きている「人間」にとって
 「活殺」が日常である・・・
 悟った後が問題だ・・・
 「ぬすむな」・「うそつくな」・「ころすな」・「さべつするな」
 「ぬすむ為」に「ウソ」をつき
 「サベツ」して、「コロす=命をぬすむ=イノチを奪う」・・・
 で、「どうするの」・・・
 「生きている人間」にとっては「ムリ」・・・
 「命題の人間」にとって「願望=絶望」・・・
 「人間=人々=从=したがう=従う・從う・随う・遵う・順う・倭」?
 「人間=人々=从」は支配階級に従って生存しているヒトビト=倭」?
  ↓↑
 「隨=したがう=順=倭」・・・?
    ・・・源 順(したごう)
       平安時代中期の貴族・歌人・学者
       嵯峨源氏、大納言・源 定の曾孫
       左馬允・源 挙(こぞる)の次男
       官位は従五位上能登
       梨壺の五人の一人
       三十六歌仙の一人
    20歳代、日本最初の分類体辞典
    『和名類聚抄』編纂
    『万葉集』の訓点作業
    『後撰和歌集』の撰集作業に参加
    ↓↑
    「あめつちのうた四十八首」という和歌48首を詠んで
    私家集『源順集』に収録され
    和歌の内容を
    春・夏・秋・冬・思・恋
    の構成としてそれぞれ8首、合わせて48首が収められている
    ↓↑
    あめ つち ほし そら やま かは みね たに
    天  地 星  空 山  川  峰  谷
    ↓↑
    くも  きり むろ  こけ ひと いぬ うへ すゑ
    雲  霧  室  苔  人  犬  上  末
    ↓↑
    ゆわ さる おふせよ  えのえを なれゐて
    硫黄 猿 吝伏施与 得能重乎 為例得出(氐)?
    ↓↑
    あめ つち ほし そら 
    阿女 都千保之 曽 里女之訛説也 此誦為勝?
    「大為爾」=大為爾の歌(たゐにのうた)
    天禄元年(970年)
    源 為憲が著した『口遊(くちずさみ)』の中に
    「謂之借名文字(これを借名〈かな〉文字と謂ふ)」
    という但し書きを最後に付け加えて記録
    ↓↑
    大為爾伊天 奈従武和礼遠曽 支美女須土
    田井に出で  菜摘む 我 をぞ  君 召すと
    ↓↑
    安佐 利比由久  也末之呂乃  宇知恵倍留
    あさ り ひ ゆ く  や ま し ろ の  うち ゑへる
    求〈あさ〉り追ひ行く 山城の  うち 酔へる
    ↓↑
    古良 毛波保世与 衣不弥 加計奴
    こら  もは ほ せよ  え ふね か けぬ
    子等 藻は 干せよ  え 舟 繋けぬ
    ????・・・ 
    ↓↑
    安和二年(969年)の
    「安和の変」以後の官途に影響を与えた
  ↓↑
  倭の訓=やまと・したがう
 〔漢書、地理志下〕
 「樂浪(らくらう)中に倭人り。れて百餘國と爲る」
 〔魏略〕
 「倭は帶方東南の大中に在り。山島に依りて國を爲す」
 「其の語を聞くに
  自ら太伯(呉の始祖)の後なりと謂ふ」
 〔後漢書光武帝紀下〕
 「倭奴國」
  ↓↑
  倭(ワ)=訓義は
       したがう・低い姿勢
       倭遅は、はるかに連なるさま
       中国による古称で呼称
       倭(ワ)=やまと
  ↓↑
 邑阿自(オウアジ)=日下部氏の祖・・・
 「邑阿自(オウアジ)」が「名前」ですか・・・?
 今現代に生きているボクにとっては
 とても「名前」とは思えないが・・・
  ↓↑
  邑=口+巴(ともえ・ハ)
    ・・・唇を窄(すぼ)める形?
       ひょっとこの口
       口をすぼめて曲げたような
       表情の男性、その 面 のこと
       潮吹き面 (しおふきめん)
       語源は竈(かまど)の火を
       竹筒で吹く「火男」がなまった・・・説
       口が徳利のようであることから
      「非徳利」からとの・・・説
       舞楽に登場する
      「二の舞」に登場する滑稽な役を演ずる役の面
       里神楽(さとかぐら)では
       一連の番数の神楽のほかに
       番外として舞われる
      「もどき」と称される踊り
       ひょっとこの面をつけた踊り
       面の造型自体は
       猿楽で使用されていた
      「黒尉」の面などに由来
       同種の面は
      「うそぶき」と呼ばれ
       目はまるく、口をとがらせて突き出た形
       島根県の民謡「安来節
      「ドジョウ掬い踊り」
       出雲国島根県)はかつて製鉄が盛んで
       その砂鉄採取の所作が源流
       炎と関係の深い金属精錬神への奉納踊り
  邑=オウ・ユウ・・・ユウ=猷・酉=とり=鷄・鶏・雞
    うれ(憂)える
    くに=𡈁・国・圀・國・六合・那・郁・邦
    みやこ=都
    むら=村
    さと=里
    天子・諸侯・大夫の領地
    巴=ハ
      ずまき
      ともえ
      うずまき・うずまきのような形をしたもの
      大蛇・象をも飲みこむほど巨大な伝説上の蛇
      四川省重慶市を中心とした一帯
      ともえ
      鞆(とも)
      弓を射るときに左手首の内側につけて
      矢を放った後の
      弦が腕に触れるのを防ぐ道具
      鞆絵(ともえ)
  阿=阝+可
    阝+丁+口
    阝+一+亅+口
    ア
    お
    おもねる
    くま
    ひさし
    よる
    おか・大きい丘
    くま・曲がって入りくんだところ
    こびる・へつらう
    ひさし・のき
    よりかかる・もたれる
    姓名や呼び名の上につけて親しみを表すことば
    女性の名の上につける愛称
    娿=婀=妸・・・阿毎王朝の皇后=阿輩雞彌?
  自=ノ+目
    白+凵
    ジ
    おのずから
  ↓↑
 『豊後国風土記
 靭編郡の条
 欽明天皇の時代
 日下部氏の祖である
 邑阿自(オウアジ)
 が
 靱部として仕え
 村について家を構えた
 靭負(ユギオイ)村
 後に
 靭編(ユギアミ)郡
 と呼んだ
 ユギオイ=靭(ユギ・ユキ・矢を入れる容器)を使用する者
 ユギアミ=靭を作る者
 邑阿自(オウアジ)は
 大化の改新後は郡司に任ぜられ
 大蔵氏 (豊後国)が
 郡司に就くまで
 日田の支配権を握っていた
 ↓↑
 大化元年(645年)
 和布刈神社付近に
 「文字ガ関」
 が置かれ
 門司の地名由来
 古代に九州地方を統括していた大宰府への第一の関所
 ↓↑
 文字ヶ関村
 町村制施行時(明治22年)の村名
 明治元年当時の町村名
 周防灘
 関門海峡
 企救郡
 文字ヶ関村
 田野浦門司
 楠原小森江柳ヶ浦村
 東郷村松ヶ江村
 豊前国であった門司市の前身
 文字ヶ関村は
 1889年(明治22年
 町村制施行に伴って
 楠原郷の田野浦村(明治20年、田野浦町を合併)
 門司村(明治20年、楠原=くすばる村を合併)
 柳郷の小森江村の3村が合併
 当時の戸数は570戸、人口は3060人
 役場は、中央の旧門司村に設置
 企救郡、旧小倉藩領に属し
 廃藩置県後は
 日田県、小倉県を経て
 1876年(明治9年)以降は
 福岡県に属していた
ーーーーー

(ユカリとオジさんの世迷い言・2)

古代エジプトの神々(1)・絵字符都・『埃及』(1)・(42)

エメラルドブルーの謎  (碧き眼の人形伝説)  奈井江 五郎
  ↓↑   ↓↑
 「プラトン古事記をカタル(古事記字源)
  +
 (表紙・画像・音楽)」の移転先・・・

 ↓↑
 ボクの「古事記字源」の発端・・・
 ↓↑
 干支歴
 ↓↑
 追加添文 「戦争と平和」・・・「モウケの生き方」
 ↓↑
 メリキリの - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=7xgS0oJhhe8

 ↓↑
 モモちゃん
https://www.youtube.com/embed/W00rHNN2zMQ?

 ↓↑
 モウ君の総合目次
 ↓↑
コジキ姫赤い絨毯に乗る(m)
 ↓↑
 古事記と虎関師錬

 ↓↑
鉄腕アトムのロボット法を
思い出して
これを
貼り付けてみたけれど・・・
AIの記憶・・・まだ、若いみたい・・・
オジタリアンと「鉄腕あとむ」の「ポルカ」 (haa98940.wixsite.com)