ないえごろうブログ

同音異義の探索

アメン神(アモン・アムン・アメン=ラー・アムン=ラー)・・・ゴメン

 文字霊日記・3358日目

 理想も絶望も生きている時には喰えない
 Neoconservatism
 「元来左翼でリベラルな奴らが
 保守に転向したからネオなのだ」?
 やっていることは
 ・・・「世界永続革命」の拝金妄想至上主義・・・?
 ↓↑
 「少名毘古那」の「ひむし」・・・発想は・・・妄想?
 カルナック・・・「輕・珂瑠」名付句・・・?
          漢風諡号 文武天皇
          和風諡号
          倭  根子 豊 祖父  天皇
         (やまと ねこ とよおほぢの すめらみこと)
         (ワ コンシ ホウ ソフ テンコウ)?
          天 之 眞宗  豊 祖 父  天皇
         (あめの まむね とよおほぢの すめらみこと)
         (テンシ シンソウ ホウ ソフ テンコウ)?

 アメン神・・・・海部務・・・阿毎武?
         天部孥?
           孥=奴+子
             女+又+子
             ド・ヌ
             つまこ=妻子・妻と子
             子・子ども
             やっこ・しもべ・奴隷=奴
 ↓↑
 カルナック神殿
 (Karnak Temple
  Temple of Karnak
  Karnak Temple Complex)
 「カルナック」
 アラビア語
 「窓」の意・・・まど・・・?・・・日留?
  窓=穴+厶+心
    宀+八+厶+心
    ソウ
    まど
    あかりとり・
    風を通す穴(あな)
    Windows(ウインドウズ)
    異体字
    「窗・窻・䆫・牕・牎」
    蛍窓雪案(ケイソウケツアン)
    鑿窓啓牖(サクソウケイユウ)
    清窓浄机(セイソウジョウキ)
    北窓三友(ホクソウのサンユウ)
    明窓浄几(めメイソウジョウキ)
    深窓(シンソウ)に育つ
 ↓↑

 古代エジプトの神殿複合体
 エジプトの
 首都カイロから
 ナイル川を南におよそ670キロメートルさかのぼった
 東岸に位置
 新王国時代(紀元前1550~1069年頃)
 古代首都テーベ
 (古名 ワセト=Waset)・・・倭瀬戸?
 巨大都市テーベの一部
 カルナック複合体の名
 西岸には歴代の王が眠る王家の谷や貴族の墓
 ハトシェプスト女王葬祭殿
 中心は
 アメン神(アモン・アムン・アメン=ラー・アムン=ラー)
 アメン大神殿複合体(アメン=ラーの神域)
 ↓↑
 神殿
 祠堂(礼拝堂)
 塔門(パイロン・ピュロン
 その他の建造物の構成からなる
 古代宗教遺跡
 泥煉瓦の周壁に囲まれた3か所の主要部分
 アメン大神殿(アメン=ラーの神域)
 他の2か所の構成要素
 ムト(ムゥト)の神域
 モンチュ(モント・モントゥ・メンチュウ・メントゥ)
 の神域

 ↓↑
 建造は
 中王国時代(紀元前2055~1650年頃)
 センウセルト1世(紀元前1965~1920年頃)
 残存
 新王国時代からの建造物のほとんどが
 プトレマイオス朝(紀元前332~32年)
 ~
 ローマ支配時代(紀元前30~後395年[6])
 まで継続
 カルナック神殿複合体
 アメン神をその頂点とする
 新王国時代
 テーベ三柱神崇拝の中心地
 ↓↑
 都市テーベ
 中王国時代
 第11王朝(紀元前2055~1985年頃)
 祠堂はテーベの初期の神々である
 地母神ムト
 軍神モンチュ
 に捧げられていた
 初期の建造物は侵略者により破壊
 第11王朝で
 国家神は
 モンチュ
 最古の遺物
 第11王朝による小さな
 八柱神のものがあり
 アメンについて記録
 ↓↑
 第1中間期(紀元前2181~2055年頃)
 長くテーベの地方神であった
 アメン神は
 第12王朝(紀元前1985~1795年頃)
 王朝の守護神として
 モンチュに代わり国家神となった
 ↓↑
 アメンは
 雄羊
 鵞鳥(がちょう)・・・?
    ・・・・天乃羅摩船
    (アメのカガミのフネ
     ガガイモの実=大形で広披針形
     表面に突起を有し
     種子には白色の長毛
     綿(わた)の代用とされた)
     に乗り
     鵝・・・鵝鳥=鵞鳥の羽
     (ヒムシ=ガ=蛾?)
     の皮の着物を着て
     波の彼方より来訪(古事記
     鷦鷯(みそさざい)
     の皮の着物を着て来訪(日本書紀
     「ひ虫」=蚕の蛹(さなぎ)
         その羽化したもの
         ひひるむし
     「肥虫(ひむし)」・・・肥中=熊本?
     成虫が体長1.5~2mmの菱形
     淡黄白色の昆虫
     寄主の破片や隙間に卵を産み
     酵母を餌として
     およそ212個の卵を産む
     寿命は175日くらい
     卵期は11日
     越冬する・・・?
     「ひむし」を着ていたのは 
     少名毘古那神
     少名毘古那神
     少彦名命
     宿奈毘古那命
     須久那美迦微
     須久奈比古
     少日子根命
     小比古尼命
     小彦命
     小日子命
     小名牟遅神
     久斯神
     少名彦命
     天少彦根
 ↓↑     ↓↑   
 と同一視された・・・・発想は・・・妄想?
         文久三年(1863)十二月
         遣欧使節
        (第二回遣欧使節
         横浜鎖港談判使節団)
         フランス軍の軍艦
         ル・モンジュ号で日本を出港
         上海~インド~スエズ~カイロ
         ギザの
         三大ピラミッド
         スフィンクスを見学
         使節団総勢は35名
         正使は27歳の
         外国奉行
         池田筑後守長発(ながおき)
         副使は44歳の
         河津伊豆守祐邦(すけくに)
         目付は30歳の
         河田相模守煕(ひろむ)
 ↓↑      ↓↑
         1864(元治元)年
         エジプトでピラミッドとスフインクスを
         を見学した江戸幕府の武士達
         パリ使節団の三十四人中の
         二十七人・・・???
 ↓↑      ↓↑
 「アメン」の名は
 隠すという動詞の
 「imen 」に由来
 エジプト語の意味は
 「隠された者」
 「隠された神」
 で
 「アメンの称号」に
 「その姿、神秘なる者」
 地方神アメンは
 護国伸として
 豊饒神「ミン」
 陽神「ラー」
 などの他の有力な神と習合していった
 ↓↑
 アメン大神殿の主な建設工事
 テーベが統一された
 第18王朝(紀元前1550~1295年頃)
 新建設は
 第19王朝(紀元前1295~1186年頃)
 セティ1世(紀元前1294~1279年頃)
 ラムセス2世(紀元前1279~1213年頃)
 着工
 王朝のほぼすべての王(ファラオ)が
 神殿域に何かを追加
 女王
 ハトシェプスト(紀元前1473~1458年頃)
 記念物を建造
 ヒクソスの占領中に
 国外の支配者により
 破壊されていた古代エジプト
 女神ムト
 のかつての神域を再構築
 ハトシェプストはその時代
 神殿入口に立つ1対のオベリスクを設置
 女王の事業としての
 カルナックの
 「赤い祠堂」=「聖舟祠堂」
 として当初は2基のオベリスクの間に建っていた・・・
 女王は王位16年目を祝し
 さらに2基のオベリスクの建設を命じた
 そのオベリスクの1基は建造中に壊れ
 第3のものがそれに置き換えるために構築
 アスワンにある採石現場には
 未完のオベリスクとして
 放置されたオベリスクが残っている
 新王国時代
 トトメス3世 (紀元前1479~1425年頃)
 の頃のものといわれる・・・
 ↓↑
 アメン大神殿構成
 第1塔門
 神域全体を取り囲む周壁の追加
 末期王朝(紀元前747~332年)
 第30王朝(紀元前380~343年)
 ネクタネボ1世(紀元前380~362年)
 によって構築
 ↓↑
 西暦323年
 コンスタンティヌス1世(306~337年)
 キリスト教徒の信仰を認め
 356年
 コンスタンティウス2世(337~361年)
 が帝国全体にわたって
 異教の神殿の閉鎖を命じた
 カルナック神殿はこの時代に大部分が放棄
 キリスト教会が廃墟のなかに設置
 トトメス3世祝祭殿の中央の間の再利用で
 そこには聖人が描かれた装飾や
 コプト語の碑文が記録
 ↓↑
 パネジェム1世の巨像(ラムセス2世像)
 アメン大神殿(アメン=ラーの神域)
 テーベ三柱神(アメン・ムト・コンス)
 の最高神である
 アメンに捧げられている
 パネジェム1世の彫像
 いくつかの巨大な像があり
 さらに
 高さ29.5メートル
 重さ323トン
 の最大級のオベリスクが立っている
 ↓↑
 ハコルの聖舟祠堂
 古代の埠頭の傍らに
 第29王朝
 ハコル(紀元前393~380年)
 聖舟は実際の舟(バーク)を模したもので
 これを神輿として運ぶ行列の際に
 川を経由する聖舟のための休息所であった
 ↓↑
 羊頭スフィンクス参道
 (第1塔門入口)
 スフィンクス参道(ドロモス)
 ラムセス2世の構築した埠頭より
 第1塔門に通じ
 40体の雄羊の頭を持つ
 スフィンクス(クリオスフィンクス
 が両側に並ぶ
 埠頭からは同じく
 ラムセス2世が建立したスフィンクス参道は
 第2塔門への入口につながっていたが
 第1塔門が構築されたときに
 羊頭スフィンクス
 前庭の両脇に移された
 ↓↑
 第1塔門
 塔門の幅は113メートル
    高さ43メートル
    厚さは15メートル
 ↓↑
 セティ2世の聖舟祠堂
 前庭(第1中庭、大中庭)
 第22王朝
 (ブバスティス朝、紀元前945~715年頃)
 における前庭
 ↓↑
 ラムセス3世神殿(正面入口)
 前庭の南側
 第20王朝
 ラムセス3世によって建造された小神殿
 神殿の中庭の左右に各8体の
 オシリスをかたどる王の立像が並び
 その奥に
 多柱室や
 テーベ三柱神の聖舟祠堂が備えられている
 ラムセス3世神殿の東隣(前庭入口)
 第22王朝
 シェションク1世
 (紀元前945~924年頃
 シシャク「旧約聖書」列王記 I 14.25-26)
 の業績を記念した
 「ブバスティス門」があり
 その外壁には
 シェションク1世が
 捕虜を打ち据える場面が描かれる
 ↓↑
 第19王朝
 ラムセス1世 (紀元前1295~1294年頃)
 塔門にある
 ホルエムヘブのレリーフや碑文を侵害し
 それらにラムセス1世自身のものを加えた
 その後
 ラムセス2世により奪われ
 塔門の東(背)面は
 セティ1世のもとで
 新たに築かれた大列柱室の西壁になり
 セティ1世が父
 ラムセス1世の肖像撤去の埋め合わせとして
 ラムセス1世を讃えるいくつかの肖像を加えた
 第2塔門の中央部は末期王朝の時代に崩壊
 後
 プトレマイオス朝時代に修復
 プトレマイオス6世
 (紀元前180~145年[6])
 の肖像が描かれた
 ↓↑
 大列柱室の高窓
 高い中央上方の縦格子を持つ高窓より
 採光されていた
 「カルナック」は
 アラビア語
 「窓」の意・・・まど・・・?・・・日留?
 ↓↑
 「隠し場」の中庭
 第19王朝
 メルエンプタハ(紀元前1213~1203年頃)
 ルクソール神殿への行進行列の
 「隠し場(カシェット〈カシェ〉、Cachett)」
 の中庭の壁面に
 海の民に対する自身の勝利を記念
 中庭には
 オシリスの姿の王像ととに
 左足を踏み出した王像
 ↓↑
 第7塔門
 トトメス3世により築かれた
 中庭の側壁は後のラムセス2世に次ぐ息子
 メルエンプタハによって建造
 第7塔門が通常
 一般に通過できる塔門の最後
 ↓↑
 第8塔門
 ハトシェプストにより建造
 塔門の前方に巨大な座像が建立
 ↓↑
 第9塔門
 ホルエムヘブにより構築
 内部は空洞の詰め石に
 アメンホテプ4世の
 アテン神殿を
 形成したタラタートを解体し再使用
 ↓↑
 アメンホテプ2世祝祭殿(セド祭殿)
 第9塔門と第10塔門の間の中庭の東壁に復元
 ↓↑
 第10塔門
 ホルエムヘブが
 主な建築資材としてアメンホテプ4世の神殿より
 解体されたタラタートを使用し最後の塔門を構築
 両側にホルエムヘブと思われる2体の巨像
 ↓↑
 聖池
 第18王朝のトトメス3世が奉献した
 長さ120メートル
 幅77メートル
 第25王朝の時代に造成された
 11段階段を持つ
 地下水で満たされた聖池は
 神殿における水の供給源
 神官たちが自身を清める場所であった
 ↓↑
 聖池の南側
 アメンの聖鳥とされた
 ガチョウ(鵞鳥)の飼育場があり
 この聖鳥の囲い地より聖池に
 放鳥するための石造トンネルが通じていた
 ↓↑
 タハルカ神殿
 第25王朝
 タハルカの祠堂
 聖池の北西に位置
 地下には太陽神が毎夜
 地下を旅して
 毎朝再び
 スカラベとして復活する描画がある
 ↓↑
 スカラベ
 タハルカの建物跡の前方に
 第18王朝
 アメンホテプ3世
 太陽神アトゥム=ケプリ=ラー
 に捧げた赤色花崗岩
 スカラベの像がある
 太陽神は
 「朝のケプリ
  真昼のラー
  夕方のアトゥム」
 の3つの形態(側面)があり
 アトゥム
 ラー
 と同一視された朝の太陽神
 ケプリ
 はスカラベ甲虫 (Scarabaeus sacer)
 の姿で表された
 ↓↑
 コンス神殿
 アメン大神殿の南西に位置
 月神でアメンの子神
 コンスに捧げられている
 第20王朝
 ラムセス3世によって着工
 後、多くの統治者により装飾
 入口の塔門は
 ピネジェム1世により装飾され
 碑文とともに神々の前に立つ
 ピジュネムの姿が描かれ
 前庭や多柱室はその前の
 ヘリホルにより装飾
 その奥の至聖所は
 「コンスの家」と称され
 コンスの聖舟祠堂が備えられており
 彫刻された聖舟の台座がある
 ↓↑
 コンス神殿の記念門
 プトレマイオス3世エウエルゲテス
 (紀元前246~221年)
 によるこのコンス神殿の
 記念門(プトレマイオス3世の門)
 は
 バブ・エル=アマラ門 (Bab el-Amara Gate)
 の名でも知られ
 そこから
 スフィンクス参道が
 ルクソール神殿に向かって延び
 またムトの神域にも通じる
 ↓↑
 オペト神殿
 プトレマイオス8世(紀元前170~116年)
 によって主に構築
 オシリス
 出産した女神オペト(イペト〈タウェレトと融合〉)
 の神殿であり
 コンス神殿に隣接してあるが
 アメン=ラーの神域の
 西側周壁に専用の門があったオペト神殿には
 後に
 アウグストゥスなどの統治者により装飾が加えられた
 ↓↑
 プタハ(プタハとハトホル)神殿
 メンフイスの創造神プタハの小神殿は
 アメン主神殿の北側
 モンチュの神域に近い神域壁のすぐ内側にある
 建物は中王国初期の神殿の場所に
 トトメス3世によって建てられた
 後
 第25王朝の
 シャバカ(紀元前716~702年)
 プトレマイオス朝の時代から
 ローマ支配時代に修復・拡張され
 年代が異なる5つの門がある
 小列柱室の正面に3つの祠堂があり
 2つはプタハに捧げられたもので
 中央の祠堂にプタハ像があるが
 ハトホルに捧げられていた3つ目の南端の祠堂には
 プタハの妻神
 セクメト(セフメト)の黒色花崗岩の立像が安置
 ↓↑
 センウセルト1世の「白い祠堂」
 中王国時代
 第12王朝
 センウセルト1世の聖舟安置小堂
 主神殿の中心に位置する至聖所
 センウセルト1世の
 セド祭を記念し
 大祭の間、聖舟を安置する祠堂
 ↓↑
ーーーーー

(ユカリとオジさんの世迷い言・2)

古代エジプトの神々(1)・絵字符都・『埃及』(1)・(42)

エメラルドブルーの謎  (碧き眼の人形伝説)  奈井江 五郎
  ↓↑   ↓↑
 「プラトン古事記をカタル(古事記字源)
  +
 (表紙・画像・音楽)」の移転先・・・

 ↓↑
 ボクの「古事記字源」の発端・・・
 ↓↑
 干支歴
 ↓↑
 追加添文 「戦争と平和」・・・「モウケの生き方」
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 メリキリの - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=7xgS0oJhhe8

 ↓↑
 モモちゃん
https://www.youtube.com/embed/W00rHNN2zMQ?

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 モウ君の総合目次
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コジキ姫赤い絨毯に乗る(m)
 ↓↑
 古事記と虎関師錬

 ↓↑
鉄腕アトムのロボット法を
思い出して
これを
貼り付けてみたけれど・・・
AIの記憶・・・まだ、若いみたい・・・
オジタリアンと「鉄腕あとむ」の「ポルカ」 (haa98940.wixsite.com)