ないえごろうブログ

同音異義の探索

一世風靡(イッセイフウビ)

 文字霊日記・3321日目

  キカジン・・・帰化人・・・幾何陣・気化塵・・・貴家人・奇禍人
 気化塵・・・ちんぴらジヂィはキゑロッ!・・・

 気化塵
 ↓↑
 ウラジーミル・ウラジーミロヴィチ・プーチン
 裏 字意見留           腐汚塵?
  1952年 10月7日
     大運2023年3月(70歳)丁巳劫財~(80歳)
     年運2023年    癸卯正官
         06月   戊午食神
         25日   甲寅偏印 01時 乙丑印綬
         ↓↑
      26日   乙卯印綬
         27日 丙辰食神
 ↓↑
 壬辰(乙癸戊)偏官・食神冠帯⇔癸卯正官
 己酉(庚 辛)傷官・正財 死⇔戊午食神
 丙戌(辛丁戊)  ・食神 墓⇔甲寅偏印
 己丑(癸辛己)傷官・傷官 養⇔乙丑印綬
  午未空亡
 ↓↑
 エフゲニー・ヴィクトロヴィッチ・プリゴジン
 絵附解似意 備意句賭󠄀鸕備意付知 不離語訊?
 1961年6月1日
     大運2019年5月(57歳)丁亥食神
 辛丑(癸辛己)偏官・偏財 衰⇔癸卯偏印
 癸巳(戊庚丙)偏印・傷官沐浴⇔戊午正財
 乙丑(癸辛己)  ・偏財 衰⇔甲寅劫財
 丁丑(癸辛己)食神・偏財 衰⇔乙丑比肩
  戌亥空亡
 ↓↑
 帰化人・・・幾何陣・気化塵・・・貴家人
 ↓↑
 靡(なびく)≠麾(さしまねく)
    ・・・麾=麻+毛
         广+林+毛
         广+木+毛
         キ
         さしずばた
         さしまねく
         さしまねく・手招きする・指図する
         さしずばた・指揮をとるための旗
         戎麾(ジュウキ)
         戦争で軍に指図するための旗
         軍隊
 靡=麻+非
   广+林+非
   广+木+非
   ヒ・ビ・ミ
   おごる(奢る・驕る)
   ただれる(爛れる・糜)・・・糜=麻+米
   なび(靡)かす
   なびく・従う・服従する
   美しい・華やか・派手
   ない・否定の意
   おごる・贅沢(ゼイタク)をする
   散らす・分離させる
   ただれる・襤褸襤褸(ぼろぼろ)になる
   萎靡(イビ)
   淫靡(インビ)
   靡(なび)かす
   靡(なび)く
   靡然(ビゼン)・・・備前(ビゼン)?
             吉備道前国
             備中(ビッチュウ)
             備後(ビンゴ)
             美作
   風靡(フウビ)
   一世風靡(イッセイフウビ)
   萎靡沈滞(イビチンタイ)
   萎靡不振(イビフシン)
   頽堕委靡(タイダイビ)
   轍乱旗靡(テツランキビ)
   波流弟靡(ハリュウタイビ)
   紛華奢靡(フンカシャビ)
   一世を風靡する
   草木も靡(なび)く
   草木も眠る丑三つ時=午前二時から二時半頃
             お化けの時間帯
  ↓↑
  耶靡堆國=耶靡堆(やまと)
       ・・・陽馬堆・耶馬台・耶馬戸・耶馬止とも表記
       「邪靡堆(隋書)」
       『隋書』都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也。
       『隋書』「列傳第四十六 東夷 俀國」
 「俀国
  在 百済 新羅
  東南水陸三千里
  於大海之中
  依山島而居
  魏時
  譯通
  中國三十餘國 皆自稱王
  夷人 不知 里數但計以日
  其國境
  東西五月行
  南北三月行
  各至於海
  地勢東高西下
  都於
  邪靡堆
  則
  魏志所謂
  邪馬臺者也
  古云
  去
  樂浪郡境
  及
  帶方郡
  並
  一萬二千里
  在 會稽
  之東與
    儋耳相近
   ↓↑
  『山海経』第十二「海内北経」
  「蓋國在鉅燕南 倭北 倭屬燕」
   蓋国は鉅燕の南、倭の北にあり。
   倭は燕に属す。
 ↓↑
 麾下(キカ)=大将の采配の下・将軍に直属する家来
 旗下(キカ)=大将の旗じるしのもと・大将の支配下
        将軍直属の家来=麾下(キカ)
        特定の考え方の影響下
 旗下(はたした)=旗本
ーー↓↑ーー
 海外出身の武士一覧
 出身国
 出生名
 来日前の役職
 来日年
 日本名
 主君
 日本での役職、功績
 ↓↑
 ポルトガル
 モザンビーク
 イエズス会
 アレッサンドロ・ヴァリニャーノ
 の従者
 1579年
 「弥助」・・・黒人
 織田信長→信忠
 扶持持ち
 信長の道具持ち
 甲州征伐に従軍
 「本能寺の変」で
 「明智光秀」方と戦って捕虜
 ↓↑
 李氏朝鮮
 「李達越」
 字 宗歓
 朝鮮からの漂流民
 1587年
 川崎清
 鍋島直茂
 の間諜として
 「文禄・慶長の役」に従軍
 名字帯刀を許され10人扶持
 御用商人となり
 唐人町を創始
 ↓↑
 李氏朝鮮
 「金如鉄」
 翰林学士の息子
 1592年
 脇田直賢
 前田利長→利常→光高→綱紀
 1000石
 大坂夏の陣に従軍
 御小姓頭
 金沢町奉行
 ↓↑
 李氏朝鮮
 「朴元赫」
 慶州の小城主朴好仁の長子
 1594年
 秋月種信
 長宗我部元親→盛親
 長宗我部氏の児小姓
 長宗我部氏没落後は
 土佐で父とともに豆腐商
 ↓↑
 李氏朝鮮
 「金海」
 釜山の陶工
 1595年
 星山仲次
 島津義弘
 30石
 薩摩焼創始者の一人
 士分を得
 帯刀を許可
 ↓↑
 李氏朝鮮
 不明
 朝鮮の部将
 「曽清官」の一子
 1598年
 曾我清官
 中川秀成
 150石
 秀成の小姓
 ↓↑
 李氏朝鮮
 「李聖賢」
 朝鮮の武官
 李福男の子
 1598年
 李家元宥
 毛利輝元→秀就
 100石
 毛利氏の御伽衆
 柳生新陰流(有地新影流)免許
 ↓↑
 ハプスブルク
 ネーデルランド
 ヤン・ヨーステン・ファン・ローデンスタイン
 航海士
 リーフデ号に乗船
 1600年
 「耶楊子」
 徳川家康→秀忠
 旗本
 50人扶持
 朱印船貿易を行う
 ↓↑
 イングランド
 ウィリアム・アダムス
 航海士
 リーフデ号に乗船
 1600年
 「三浦按針」
 徳川家康→秀忠
 旗本
 250石
 通訳者
 船大工
 ↓↑
 李氏朝鮮
 「柳生主馬」
 柳生宗矩
 柳生家の老職
 柳生利厳の妹と縁組
 200石
 ↓↑
 李氏朝鮮
 「小林市蔵」
 黒田如水の小姓
 小林新兵衛の養子
 慶長八年(1603年)
 如水が手許で育てていた
 松寿(一柳直末の遺児・如水の甥)
 に誤って致命傷を負わせ
 切腹
 ↓↑
 李氏朝鮮
 李氏
 「染木正信」
 千姫
 朝鮮出兵の際に
 姉(早尾)と共に
 「片桐且元
 に捕らえられ来日
 豊臣家に嫁いだ千姫
 姉と共に仕え
 「土圭間の取次役」
 「添番」
 を務めた
 ↓↑
 明
 「藍会栄」
 明朝側近
 1624年以後
 河南源兵衛(初代)
 島津家久
 300石
 亡命者
 薩摩藩の唐通詞
 帯刀が認められていたが
 士分であったかどうかは不明
 ↓↑
 出身国(国名)
 出生名 来日前の役職
     来日年
     日本名
     主君
     日本での役職、功績
 ↓↑
 明
 中国武術
 1635年以前伝
 「林坊頼慶」
 相良頼房→頼寛
 剣術家
 丸目長恵の弟子
 後に山伏
 「裏タイ捨」と呼ばれる
 忍者集団の長
 ↓↑
  (1803-1892)
 プロイセン王国
 ジョン・ヘンリー・スネル
 プロイセン領事書記官
 1859年
 「平松武兵衛」
 松平容保
 和装し、帯刀
 会津藩軍事顧問
 奥羽越列藩同盟への武器提供
 「北越戦争」従軍
 ↓↑
 フランス ウージェーヌ・コラッシュ
 フランス海軍士官
 1868年?
 「古良史」
 榎本武揚
 蝦夷共和国に協力
 「宮古湾海戦」参加
 ↓↑
 武士であった可能性のある人物
 武家の家臣であり
 知行地を与えられていた人物
 ↓↑
 「汾陽理心」
 597石
 明国出身
 名は
 「郭国安」
 日本見物のため
 1559年に渡日
 「島津義久
 に見いだされ
 書簡の通用として
 「文禄・慶長の役」に従軍
 のち
 医学をもって仕える
 ↓↑
 「許儀後」
 410石
 別名
 「許三官」
 明国江西省の官僚
 1571年
 倭寇に捕えられ
 薩摩国へ連行
 「島津義久
 に侍医として仕えた
 「文禄・慶長の役」に従軍
 ↓↑
 「江夏友賢」
 300石
 名
 「黄友賢」
 明国江夏県出身の易者
 1560年
 倭寇に捕えられ
 薩摩国へ連行
 「島津義弘」に仕える
 「文禄・慶長の役」に従軍
 ↓↑
 「金宦」
 200石
 名
 「良甫鑑
 「文禄の役」で捕虜となった
 朝鮮二王子の
 侍臣であったが
 「加藤清正」を慕い近習
 清正の死後殉死
 ↓↑
 扶持を与えられていた
 「朴好仁」
 秋月種信の父
 「文禄の役」で
 「長宗我部氏」
 に従い来日
 山内一豊加藤嘉明福島正則
 と主を転々とする
 朝鮮への刷還使に従い帰国
 高知在住時に
 「山内一豊」から扶持
 「福島正則」から扶持と屋敷を賜る
 ↓↑
 「岡本三右衛門
 出生名
 ジュゼッペ・キアラ
 イタリア・シチリア王国出身の
 イエズス会
 禁教下で宣教しているところをとらえられ
 拷問の末に改宗
 殉教した下級武士
 「岡本三右衛門
 の名前を受け継いだ
 十人扶持
 ↓↑
 その他
 「山科勝成
 イタリア出身
 「蒲生氏郷」に仕えた
 ↓↑
 「林景福」
 名
 「朴景福」
 文禄三年(1594年)
 「文禄・慶長の役」で
 島津勢により連れ帰られ
 日本へ帰化
 「島津義久」へ奉公
 慶長十六年(1611年)
 義久に殉死
 ↓↑
 「梁夢麟」
 朝鮮側の資料によると
 「脇坂安治」の茶坊主
 元和三年(1617年)
 刷還使に従い帰国
 茶坊主は僧形であったが
     武家階級に属する
 ↓↑
 「允福」
 朝鮮の軍官
 慎忠義の息子で宦官
 朝鮮役の際捕虜となり来日
 徳川家康に寵愛され
 宮裏の任にあった
 小姓・・・
 ↓↑
 「岡田半左エ門」
 朝鮮役で
 「毛利元政」
 に召し連れられ側近にいたが
 喧嘩沙汰を起こし相手を傷つけ追放
 ↓↑
 林貞正
 朝鮮出身
 「文禄・慶長の役」で
 「鍋島直茂
 によって連行され
 直茂の家臣
 医業で主治医を務めた
 子は
 家老
 「石井茂清」
 に見込まれて養子
 「石井正之」と名乗った
 「島原の乱」で一番槍の武功
 知行を拝領している
  ↓↑
 「蜂須賀」氏の船手の大将
 「森志摩守」は
 朝鮮の将士を家臣にしていた
 ↓↑
 「渡辺士式」
 明出身
 浅野氏に医学をもって仕えた
 子の
 「渡辺式重」は武士
 ↓↑
 「沈当吉」
 朝鮮出身
 「朝鮮の役」で
 「島津義弘」に連行
 子孫は陶芸をもって薩摩藩に仕え
 明治以降の当主は
 薩摩焼の陶芸家の名跡
 「沈壽官」
 を名乗った
 ↓↑
 アンリ・ニコール
 フランス出身
 ウージェーヌ・コラッシュ
 の友人で
 「宮古湾海戦」で
 回天に乗船
 コラッシュは自伝で
 和装の上
 帯刀が許可されていたことを述べている
 ↓↑
 クラトー
 フランス出身
 元フランス海軍の軍人
 「宮古湾海戦」・・・明治二年3月25日
           (1869年5月 6日 )
         箱館戦争 における戦闘のひとつ
         盛岡藩
         宮古村(岩手県 宮古市 )沖の
         宮古湾での海戦
         海上戦力で新政府軍に対し
         劣勢の旧幕府軍
        「回天」が
         新政府軍の主力艦
        「甲鉄」
          へ斬り込み
         これを奪取する作戦だった失敗
        ↓↑
        「甲鉄」
         70~120ミリの鋼板で覆われ
         当時国内最強の軍艦。
        「回天」
         外輪船で
         400馬力のエンジンを有する快速艦
         ↓↑
         戊辰戦争箱館戦争
         明治2年3月25日
         1869年5月6日
         陸中国
         閉伊郡
         宮古村(岩手県宮古市
 ↓↑
 では
 コラッシュ
 ニコル
 らとともに
 旧幕府軍蝦夷共和国軍)参戦し
 「蟠竜」に乗船
 ↓↑
 元フランス海軍士官候補生
 ニコール
 の発案で
 海軍奉行
 荒井郁之助
 回天艦長
 甲賀源吾
 らが
 宮古湾に停泊中の
 「甲鉄」戦艦を奪取する作戦立案
 フランス軍事顧問団
 ブリュネ
 総裁
 榎本武揚
 がこれを承認
 陸兵を乗せた
 回天、蟠竜、高雄
 の3艦が外国旗を掲げて宮古湾に突入
 攻撃開始と同時に
 日章旗に改めて
 甲鉄に接舷
 陸兵が斬り込んで舵と機関を占拠する作戦
 第三国の旗を掲げて近づき
 攻撃直前に自国の旗を掲げるのは
 騙し討ちであるが
 奇計を用いることは
 万国公法で認められてい・・・
 「回天」には総司令官として
 海軍奉行
 「荒井郁之助」
 検分役
 陸軍奉行並
 「土方歳三
 らが乗船
 元フランス海軍
 「ニコール」
 「コラッシュ」
 「クラトー」
 ら、斬り込み隊として
 「神木隊・彰義隊
 など合わせて100名の陸兵もそれぞれ3艦に乗り込み
 作戦開始
 ↓↑
 回天(旗艦)
 海軍
 海軍奉行「荒井郁之助」
 艦長「甲賀源吾」
 以下200余名
 元仏海軍「ニコール」
 陸軍
 陸軍奉行並「土方歳三
 添役「相馬主計
 同介「野村利三郎」
 彰義隊10名
 神木隊36名
 蟠竜
 海軍
 艦長・松岡磐吉
 以下100余名
 元仏海軍「クラトー」
 陸軍
 新選組10名
 彰義隊10名
 遊撃隊12名
 高雄(第二回天)
 海軍
 艦長「古川節蔵」
 以下70名
 元仏海軍「コラッシュ」
 陸軍
 神木隊25名
 ↓↑
 甲鉄への接舷は
 蟠竜と高雄のスクリュー式小型艦2隻で実行
 大型の外輪船で接舷が難しい「回天」は
 その援護にあたる予定であった
 経過
 3月21日未明
 箱館
 回天・蟠竜・高雄
 の順に互いを大綱で繋いで一列縦隊で出港
 22日
 偵察のために
 鮫村(青森県八戸市)に寄港
 宮古湾を目指して南下
 その夜暴風雨に遭遇
 3艦を繋いでいた大綱は断絶され
 艦隊は離散
 24日
 回天と高雄の2艦は合流
 嵐で機関を損傷した
 高雄は修理を要し
 2艦は宮古湾の南に位置する
 山田湾(岩手県山田町)
 回天はアメリカ国旗
 高雄はロシア国旗
 を掲げて入港
 蟠竜は鮫村沖で待機
 山田湾に停泊する2艦の元に
 新政府軍艦隊が
 宮古
 鍬ケ崎港に入港している情報を得て
 蟠竜との合流を諦めて2艦のみで作戦を実行
 高雄が
 甲鉄を襲撃
 回天が残りの艦船を牽制するという作戦で
 決行は
 25日夜明け
 新政府軍
 所属不明の艦船が
 宮古湾沖に出現したとの情報を得て
 佐賀藩を中心の
 新政府海軍は旧幕府軍を軽視し
 警戒を怠り
 薩摩藩出身の陸軍参謀
 「黒田清隆
 はこの情報を重視し
 斥候を出してこれを確認するように海軍に促した
 海軍副参謀
 「石井富之助
 はこれを拒否
 翌日
 旧幕府軍による
 「アボルダージュ作戦」
 (移乗攻撃=自軍の艦船から敵の艦船に対し
  戦闘員を乗り移らせて攻撃する海戦術
  切り込み
  アボルダージュ(フランス語: Abordage)
  とも呼び
  特に敵艦に接舷し
  直接に乗り移る接舷攻撃)
 が実行
 ↓↑
 回天
 24日深夜
 山田湾を出港し
 宮古湾へ向かう途上
 高雄が再び機関故障
 航行は可能で
 回天が甲鉄に接舷して先制攻撃
 高雄が途中で参戦し
 残りの艦船を砲撃
 するという作戦変更
 25日午前5時頃
 回天は速力の遅い高雄を待たず
 単独で宮古湾への突入を敢行
 新政府軍艦隊は機関の火を落としており
 アメリカ国旗を掲げた回天の接近に注意が払われなかった
 暴風雨の被害で
 回天の3本のマストが2本になっていた
 甲鉄に接近した回天が
 アメリカ国旗を下ろし
 日章旗を掲げて接舷
 甲鉄の隣で唯一警戒に当たっていた
 薩摩藩籍の
 春日から敵襲を知らせる空砲が轟いた
 ↓↑
 奇襲は成功
 回天は
 舷側に水車が飛び出した外輪船で横づけできず
 小回りも利かなかった
 回天の船首が
 甲鉄の左舷に突っ込んで乗り上げ
 回天は大型の非装甲軍艦であるのに対し
 甲鉄は小型で重い装甲で
 乾舷が低く
 シアーが付いて高くなっている回天の艦首とでは
 約3メートルもの高低差があったが
 回天からは先発隊が
 甲鉄の甲板に飛び降り、斬り込んだが
 ガトリング砲などの標的となってしまった
 乗り移る前に回天甲板上で倒れる兵が続出
 ニコール
 相馬主計
 なども負傷
 春日をはじめ新政府軍艦船も次第に戦闘準備が整い
 回天は敵艦に包囲され
 集中砲撃を浴びる
 甲賀源吾は腕、胸を撃ち抜かれ
 弾丸に頭を貫かれて戦死
 形勢不利と見た
 荒井郁之助が作戦中止を決め
 自ら舵を握って甲鉄から船体を離し
 回天は宮古湾を離脱
 甲鉄に斬り込んでいった
 野村利三郎ら数名は
 撤退に間に合わずに戦死
 この間、約30分
 ↓↑
 艦を放棄し
 上陸する
 高雄の乗組員
 新政府軍は追撃開始
 回天は撤退途中に
 蟠竜と合流して
 26日夕方に
 箱館まで退却
 機関故障の
 高雄は
 甲鉄と春日によって捕捉
 艦長
 「古川節蔵」
 以下95名の乗組員は
 田野畑村付近に上陸
 船を焼いたのちに
 盛岡藩に投降
 ↓↑
 新政府軍では
 回天の砲撃で損傷した運送船
 戊辰丸が北航不能となり
 負傷者を収容して江戸へ戻った
 新政府海軍の
 砲術士官
 東郷平八郎
 春日に乗船
 回天による奇襲の衝撃を
 「意外こそ起死回生の秘訣」
 として日本海海戦での采配にも生かした
 勇敢に戦った甲賀源吾について
 「甲賀という男は天晴れな勇士であった」
 と高く評価
 宮古市
 藤原の藤原観音堂
 (北緯39.635090度
  東経141.962188度)
 にある幕軍無名戦士の墓
 「藤原須賀」
 に流れ着いた幕軍軍人の首なし死体を埋葬し
 後に供養のため建立した
ーーーーー

 ↓↑   ↓↑
エメラルドブルーの謎  (碧き眼の人形伝説)  奈井江 五郎
  ↓↑   ↓↑

 「プラトン古事記をカタル(古事記字源)
  +
 (表紙・画像・音楽)」の移転先・・・

 ↓↑
 ボクの「古事記字源」の発端・・・
 ↓↑
 干支歴
 ↓↑
 追加添文 「戦争と平和」・・・「モウケの生き方」
 ↓↑
 メリキリの - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=7xgS0oJhhe8

 ↓↑
 モモちゃん
https://www.youtube.com/embed/W00rHNN2zMQ?

 ↓↑
 モウ君の総合目次
 ↓↑
コジキ姫赤い絨毯に乗る(m)
 ↓↑
 古事記と虎関師錬

 ↓↑
鉄腕アトムのロボット法を
思い出して
これを
貼り付けてみたけれど・・・
AIの記憶・・・まだ、若いみたい・・・