ないえごろうブログ

同音異義の探索

有象無象・心象風景・・・女の髪の毛には大象も繋がる?

  文字霊日記・3337日目

   心象残像・・・白春の心響残響・・・★を探して文字も起こせず
  ↓↑
  頓挫(トンザ)・・・挫折・蹉跌・・・青春の心象の残像?
  頓(とみ)=屯+頁
  にわかなこと・急なこと・また、そのさま
  頓に
  急に
  俄に(にわかに→似和歌爾)・・・俄西亜
  いちずなさま・ひたすら
  完全にその状態であるさま
  向こう見ずなさま
  強引で粗暴なさま
  ↓↑
  嵌頓(カントン)
  腸管などの内臓器官が、腹壁の間隙(カンゲキ)から
  脱出し、もとに戻らなくなった状態
  嵌頓ヘルニア
  ↓↑
  「嵌」
  嵌=山+甘+欠
    山+甘+丿+乛+人
    カン
    あな
    けわ(しい)
    ちりば(める)
    はめこ(む)
    は(める)
    ほらあな
    山や谷などが奥深くまで続くさま
    けわしい。山が険しいさま。
    くぼみ。くぼ地。くぼんだ谷。
    あな。ほらあな。山の洞穴。
    はめる。はめこむ。ちりばめる。
    異体字 「篏」
    ↓↑
    当て嵌(は)まる
    当て嵌める・当嵌める
    嵌入(カンニュウ)
    象眼象嵌(ゾウガン)・・・?
    填る・嵌(はま)る
    はめ木細工・嵌木細工
    はめ込む・填込む・嵌込む
    はめ殺し・嵌殺し
    嵌(は)める
    鋳型に嵌めたよう
    鋳型に嵌める
    思う壺に嵌まる
    型に嵌まる
    型に嵌める
    金轡(かなぐつわ)を嵌める
    ↓↑

    象眼象嵌
    工芸の技法の一
    金属や陶磁器などに模様を刻み
    そこに金などの別の材料を埋め込むこと
    その埋め込んだもの
    印刷で鉛版などを訂正するさいに
    その部分を切り取り
    そこに訂正したものをはめること
  ↓↑
  「象=⺈+冖+人+ 乑」
  ショウ
  ゾウ
  かたち
  かたどる
  ゾウ=大耳と長い鼻を持つ動物=象
     聴覚 臭覚の敏感な動物=象
  かたち・ようす・ありさま・しるし
  かたどる・のっとる・なぞらえる
  のり・道理・おきて
  ↓↑
  異体字「⺈+⺆+人+ 乑」
      ⺈+冖+人+ 乑
   勹+冖+人+ 乑

 ↓↑
 象+α
 勨像潒嶑橡豫䂊襐蟓櫲鐌鱌䴂
 地名
 象ケ鼻(ぞうがはな)
 象潟(きさかた)町1丁目塩越(しおこし)
 象潟町2丁目塩越
 象潟町3丁目塩越
 象潟町4丁目塩越
 名字
 象 =きさ・ゾウ
 象潟=きさかた・きさがた
 象谷=きさがま・きさがや・ぞうたに・ズウヤ
 象島=きさしま・きさじま
 象山=きさやま
 ↓↑

 意象
 印象
 仮象
 象る(かたどる)
 気象
 気象台
 気象庁
 具象
 形象
 懸象
 現象
 穀象虫(こくぞうむし)
 社会現象
 捨象(シャショウ)
 象形
 象徴
 心象
 事象
 瑞祥・瑞象(ズイショウ)・・・随処兎・随書有
 象
 象牙
 象皮病
 対象
 対象化
 第一印象
 地象
 雪崩(なだれ)現象
 毛管現象
 毛細管現象
 ↓↑

 印象批評
 有象無象(うぞうむぞう)
 心象風景
 森羅万象
 象牙之塔
 象箸玉杯(ゾウチョギョクハイ)
 天地万象
 竜象之力(りゅうぞうのちから)
 ↓↑
 女の髪の毛には大象も繋がる
 群盲 象を評す(群盲 象を撫でる)
 ↓↑
 虎は死んで縞(しま)を残し
 象は死んで牙を残す(インドネシアのことわざ)
 ↓↑
 長鼻牙ある南越の大獸なり
 三秊にして一たび乳す
 耳牙四足の形に象る
 凡そ象の屬は皆な象に従ふ
 ↓↑
 以て其の民に臨む
 是を以て其の民畏れて之を愛す
 則(のっと)りて
 而して之に象(かた)どる(孝経)
 ↓↑
 匈奴、偶人(ぐうじん)を為(つく)りて
 都(と)に象(かたど)り
 騎をして馳射(ちしゃ)せしむるに
 能く中(あた)る莫きに至る(蒙求)
 ↓↑
 蛇鱣(じゃせん)は
 卿大夫(けいたいふ)の服の象(しょう)なり
 数(すう)三は
 三台に法(のっと)るなり(蒙求)
 「三台星=太政大臣左大臣・右大臣の称・三公」
 「鱣(ちょうざめ・セン・テン)=鱧(はも・レイ)」
 「蠋(いもむし・ショク ・チョク)=芋虫」
 蛇は恐れられるが
 蛇に似ている鱧であっても
 漁師は平気でつかむ
 「人は利益のためなら恐ろしいことも嫌なことも
  平気でやるものだ」との例え
 ↓↑
 当て嵌(は)まる
 当て嵌める・当嵌める
 嵌入(カンニュウ)
 填る・嵌(は)る
 はめ木細工・嵌木細工(はめきざいく)
 はめ込む・填込む・嵌込む
 はめ殺し・嵌殺し
 嵌(は)める
  ↓↑
  頓
  トン・ぬかずく・とみに
  「屯」+「頁」・・・「團・団・遁・豚」の
     「ページ(頁)」
  「屯」=たむろする・一箇所に集まる
      たむろ・集まっている場所・また、その集団
      悩む・苦しむ
      トン=重量の単位=tonの音訳
ーーー↓↑ーー
  「屯(チュン・ドン・トン)=六十四卦の一」
   易の八卦
   二組八通りに重ねた卦
   上経
   乾・坤・屯・蒙・需・訟・師・比・小畜・履・泰・否
   同人・大有・謙・予
   随・蠱・臨・観・噬嗑・賁・剥
   復・无妄・大畜・頤・大過・坎・離
   下経
   咸・恒・遯・大壮・晋・明夷・家人・睽・蹇
   解・損・益
   夬・姤・萃・升・困・井・革・鼎・震・艮・漸
   帰妹
   豊・旅・巽・兌・渙・節・中孚・小過
   既済・未済
   の「屯」
   六十四卦
   第三番目の卦
   内卦(下)が震
   外卦(上)が坎で構成
   通称「水雷屯」
   序卦伝
   天地があって後
   万物が生じ、
   天地の間に盈(み)ちるのは
   万物のみであるため
   屯でこれを受ける
   「屯」とは
   「盈」、「物の始めて生ず」
    である
   原文
   「屯」、元亨。利貞。勿用有攸往。利建侯。
   初九、磐桓。利居貞。利建侯。
   六二、屯如、邅如、乗馬班如。匪寇婚媾。
   六三、即鹿无虞。惟入于林中。
      君子幾不知舎。往客。
   六四、乗馬班如。求婚媾往、吉无不利。
   九五、屯其膏。小貞吉、大貞凶。
   上六、乗馬班如。泣血漣如。
   ・・・縁談、鈍だが誠実な人が大吉・・・
ーーー↓↑ーー
  整頓(セイトン)・頓挫(トンザ)・頓着(トンチャク)
  頓狂(トンキョウ)・頓悟(トンゴ)
  頓珍漢(トンチンカン)
  頓首(トンシュ)
  頓顙(トンソウ)」
  ↓↑
  ヘルニアの嵌頓(カントン)
  飛び出した腸が捻転したヘルニア
  頓首・・・古事記序文のシメックリ・・・
  頭を地につけじっとすること
  ぬかづく
  一定の場所にすえる
  いちずなさま・ひたすら
  完全にその状態であるさま
  むこう見ずなさま
  強引で粗暴なさま
  ↓↑
  にわかなこと・急なこと
   ↓↑
   蹋頓
  (トウトン?~建安十二年・207年)
   後漢末期の人物
   遼西烏桓(烏丸)の・・・からすまる
   大人(単于)・・・探鵜・譚得・丹有
      探卯→丹後・丹波
         浦島子
   蹹頓ともいう・・・トウトン・ドウトン
   蹹(トウ、ドウ・ふむ)=足+合+羽
   丘力居の従子
   「三国志・烏丸鮮卑東夷伝」 の記録
   ↓↑
   頓原(トンバラ)町
   島根県
   飯石郡にあった町
   1889年(明治二十二年)4月1日
   町村制施行により
   飯石郡頓原村(佐見村・都加賀村・頓原村)
   ↓↑
   頓呼法(トンコホウ・呼びかけ法)
   語り手または作者が語りを休めて
   そこに存在しない人物、または
   抽象的な属性や概念に直接語りかける
   感嘆の修辞技法
   ・・・ドンなもんかな・・・って?・・・
   ↓↑
   頓服(トンプク)
   患者の主訴を軽減・消失させる目的で、
   症状が出たときや、ひどいときなどに
   必要に応じて薬を服用(使用)するよう
   指示するための用法
  (眠れない時、痛い時、吐き気のある時、便秘時、
   喘息、狭心症などの)発作時など
ーーーー↓↑ーーー
 星 亨(ほし とおる)
 嘉永三年四月八日
 1850年5月19日
 ~
 明治三十四年
 1901年6月21日
     大運1906年6月(56歳)丁亥正官
 庚戌(辛丁戊)比肩・偏印 衰⇔ 辛丑劫財
 辛巳(戊庚丙)劫財・比肩長生⇔ 甲午偏財
 庚午(丙 丁)  ・印綬沐浴⇔ 庚午比肩
 丁丑(癸辛己)正官・印綬 墓⇔ 丁丑正官
  戌亥空亡
 ↓↑
 英学者、弁護士、政治家
 江戸築地の
 左官職人の子
 明治維新後に横浜税関
 渡英し
 法廷弁護士資格を取得
 帰国後
 代言人(弁護士)
 1882年(明治十五年)
 自由党入党
 『自由新聞』に経営参加
 1884年(明治十七年)
 新聞『自由燈』創刊
 官吏侮辱罪などで2回入獄
 1887年(明治二十年)
 在野各党の
 大同団結運動推進
 1892年(明治二十五年)
 第2回総選挙で当選
 衆議院議長
 翌年
 後藤象二郎とともに
 取引所設置をめぐる疑獄事件に連座し除名
 議長解任決議を数度にわたって無視し、登院
 ↓↑
 日清戦争
 韓国の法律顧問に就任
 1896年(明治二十九年)
 駐米公使に就任
 1898年(明治三十一年)
 憲政党内閣(隈板内閣)誕生
 帰国し
 憲政党を分裂させ
 1900年(明治三十三年)
 伊藤博文とともに
 立憲政友会を結党
 第4次伊藤内閣で
 逓信
 東京市疑獄事件で辞職
 1901年(明治三十四年)
 伊庭想太郎
 に刺殺
 ↓↑
 立憲体制の確立、独立不羈の強国
 積極的建設主義(Positive constructive)
 軍事拡張、産業の発展により不覊独立の国とすること
 地方からの港湾鉄道
 大学などインフラ整備の要望を政党が取り込み実現し
 地域への利益誘導を図り
 支持獲得・党勢拡大を目指す日本型政党政治の原型を築いた
 自由党→政友会を中心とした
 立憲体制確立
 積極国力増強に決定的な役割を果たした
 ↓↑
 江戸築地小田原町(東京都中央区築地)
 左官職人
 佃屋徳兵衛の長男
 幼名 浜吉→星登(ほし・のぼる)と改名
 母は松(相模国浦賀の漁夫の娘)
 姉、二人
 徳兵衛の破産失踪後
 娘二人を奉公に出し
 松は浜吉を連れて
 漢方医
 「星泰順」
 と再婚し
 星姓を名乗った
 浜吉は
 「星(ほし) 登(のぼる)」
 と改名
 ↓↑
 一家で横浜に転居
 神奈川奉行所
 蘭方医
 「渡辺貞庵」
 に弟子入り
 幕府設立の
 横浜英学所
 (文久二年設立・ヘボンが設立と教授)
 で英学を学び
 その後、江戸で持参金を約して
 御家人
 小泉家の養子
 役務
 幕府陸軍
 三兵隊(文久二年創設)の
 軍事調練に加わる
 開成所教授
 「前島 密」
 の家塾に入り
 前島の仲介で
 慶応三年(1867年)
 開成所に入所
 英語世話役心得に推され
 仏語も学ぶ
 同所教授
 「何礼之」
  (何 礼之(が のりゆき(レイシ)
   天保十一年七月十三日(1840年8月10日)
   ~
   大正十二年(1923年)3月2日
   翻訳家・幕臣・官僚・教育者
   通称は礼之助
   何の姓は「か」ではなく「が」と読む
   長崎で創設した私塾は
   塾生が3百名を越え
   維新後に活躍する多くの人材を育てた
   開成所(東京大学)教授
   大阪洋学校(京都大学)の創設者
   岩倉使節団の一員
   自由民権運動に影響を与え
   様々な立場で日本の近代化に貢献)
 の私塾に移り
 同年10月に
 「何」が海軍所へ転出する際
 推薦で同所英語世話役となった
 戊辰戦争勃発により3か月で失職
 横浜居留地
 『万国新聞紙』を発行していた英国領事館付牧師
 「マイケル・ベイリー」
 を手伝い
 英字新聞の翻訳で日銭を稼いだ
 明治元年(1868年)
 開成所同窓生らの縁で
 若狭国
 小浜藩英学校教師
 大阪に移った
 「何礼之」の
 瓊江塾助教
 明治二年九月(1869年10月)
 「何」が設立に尽力した
 大阪洋学校訓導
 翌年同校が
 大学南校分校(大阪開成所)となると
 小助教
 陸奥宗光
 から洋学教師の人選を依頼された「何」の推薦で
 大阪の和歌山藩邸で洋学助教として教え
 同藩兵学寮(明治二年末設置)出仕
 ↓↑
 明治四年八月(1871年10月)
 廃藩置県
 「陸奥
 が神奈川県知事に就任
 「星」
 和歌山県貫属の身分で
 横浜の
 英学校・修文館の教師に就任
 明治五年三月
 (1872年4月)
 神奈川県二等訳官に補され
 学校事務取扱として
 修文館(啓行堂)教頭
 大蔵省租税頭兼任となった
 「陸奥
 の引き立てにより
 同年四月
 大蔵省雇
 九月
 租税寮七等出仕
 新暦・1874年(明治七年)1月
 横浜税関長(租税権助従六位)に抜擢
 同年5月
 「女王事件」
 を引き起こし
 7月に非職扱い
 イギリス(ヴィクトリア朝)の
 ヴィクトリア女王(1819~1901)の呼称
 「Her Majesty」
 を
 「星 亨」が
 「女王陛下」と訳し
 イギリス公使
 「パークス」が
 「不敬である」と訴え
 2円の罰金を科され
 横浜税関長を解任
  (大英帝国国家元首
   ヴィクトリア女王
   「女王」と呼ぶことの
   不敬(無礼千万)理由
   「王・女王」という称号が
   イギリス公使パークスには
   「皇帝・天皇」よりも
   格下と認識されていた・・・誤解?
 イギリス公使・パークスは
 英帝国の元首である
 「ヴィクトリア女王」を
 「女王」と呼ぶことは
 日本や他国の国家元首よりも
 「ヴィクトリア女王」が下位であることは
 相応(ふさわ)しくないと抗議
 日本はこれ以降
 外国の君主を全て
 「皇帝」という最高の尊称で呼び表すことを決定
 (太政官布告
 イギリス女帝=「女王」・・・
 現在も日本人は「エリザベス女王」と呼称・・・古称
 ↓↑
 同年9月に太政官より英国留学を命ぜられ
 翌月に横浜出航
 1875年(明治8年)1月
 ロンドン
 ミドル・テンプル(4大法曹院の一)に入学
 1877年(明治十年)6月
 日本人初の
 法廷弁護士=Barrister
 資格取得者
 帰国後
 1878年(明治十一年)2月
 司法省付属
 代言人(弁護士)の第一号
 初仕事
 高島炭鉱事件で
 後藤象二郎
 を弁護し
 官庁依頼の訴訟で
 高額の弁護料を要求し一財産を築く
 ↓↑
 1882年(明治十五年)
 前年10月に結成された
 自由党1884年10月解散)に入党
 機関紙『自由新聞』に経営参加
 民権運動の他の領袖たちが
 機会主義的に
 右顧左眄(ウコサベン)するなかで
 一貫して自由党の維持と運動の再建に尽力
 1883年(明治十六年)4月
 党大会で常議員に就任
 7月より
 治罪法に基づく
 初の高等法院裁判として
 「福島事件」
 (1882年・明治十五年)
  自由民権運動の一大拠点
  福島県に発生した自由党弾圧事件
  県会を無視して県令
  「三島 通庸(みちつね)」
  が推進する土木工事などの政策に対し
  県会議長
  「河野広中」を中心に
  自由党員・農民が反対運動を展開
  徹底的に弾圧され
  河野ら幹部は国事犯の罪に問われた)
 ↓↑
 「福島事件」
 の国事犯審理が東京高等法院で開かれ
 「星」 
 は被告
 「河野弘中」
 の弁護人を務めた
 6月
 党総理
 板垣退助
 が欧州漫遊から帰国後
 藩閥政府との対抗する意欲を失い
 総理を辞任
 自由党解党を唱えるが
 これを押し留め
 1884年(明治十七年)3月
 党大会で板垣に総理再任を承諾させた
 5月
 新聞『自由燈』
 (後「めさまし新聞」と改題
    後に
    朝日新聞社に売却し
   「東京朝日新聞」となる)
 を創刊
 同年9月22日
 前日の演説が
 官吏侮辱罪にあたるとして
 新潟で逮捕
 12月18日
 新潟軽罪裁判所は
 重禁固6か月
 罰金40円
 9月
 自由党員による
 「加波山事件」
 責任追及を恐れた
 「板垣」と土佐派は
 「星」不在の11月の
 党大会で解党決議
 1885年(明治十八年)末
 「大阪事件」
 をめぐる裁判では
 「大井憲太郎」
 らを弁護
 ↓↑
 1886年(明治十九年)10月24日
 「星」
 「中江兆民
 らが発起人となり
 東京で旧自由党員を中心に
 全国有志懇親会を開き
 「星」らは小異を捨てて
 大同団結すべしと主張
 1887年(明治二十年)
 「三大事件建白運動」に参加
 保安条例で東京を追われ
 出版条例違反で投獄された
 ↓↑
 釈放後
 1888年(明治二十一年)
 カナダに7か月
 ワシントン州、ニューヨークに3か月
 英国に1年
 ドイツ帝国(ベルリン)に滞在
 1890年(明治二十三年)
 帰国
 それまでの
 「民力休養論」
  (産業振興や軍備拡張によって
   財政膨張を続ける政府財政に
   政費節減=経費節減
   その削減分に相応した地租などを削減し
   重税に苦しむ国民の負担を軽減して
   民力休養
   国民生活の再建を図るべきとする主張)
 者から
 他国から
 畏敬され
 国勢を発展させるため
 租税も増徴し軍備も増強すべきという
 「富国強兵論」に転向
 同年結成の
 立憲自由党に参加
 1892年(明治二十五年)
 自らの衆議院議長就任を公約として
 第2回衆議院議員総選挙
 栃木県第1区から出馬、当選
 陸奥宗光の意向を受け
 「独立倶楽部」
 を星支持でまとめた
 「岡崎邦輔」
 の奔走で
 第2代議長に選出
 第三議会で
 松方内閣を厳しく追い詰め
 内閣弾劾決議が可決
 追加予算は削除され
 「松方内閣」は辞職
 成立した
 「伊藤内閣」
 に天皇から不信を蒙っていた
 「陸奥」が外相として入閣したのは
 元老が
 「星」が主導する自由党との協調なくしては
 議会政治運営が不可能であることを悟ったから
 第四議会を前に
 自由党幹部は
 「世間の風評に構わず飽くまで積極的建設主義
 (Positive constructive)の方針を執り
 この主義に合うものは全て採用すること
 吏党とか民党とか批評に構わざること」
 を決議
 伊藤内閣成立後の第四議会において
 陸奥と協調し
 自由党を強引に
 伊藤内閣支持に転換させ
 予算案に関する
 「和協の詔勅」の受諾で党内をまとめた
 議会第一党が政府を批判するのみでなく
 国家的見地に立ち
 政府との妥協や調整を通して
 施策に責任を持つ体制の
 濫觴(ランショウ=起源)で
 後の政友会や自民党に引き継がれた
 1893年(明治二十六年)11月29日
 「相馬事件」
 の被告弁護、取引所からの収賄疑惑などにより
 議長不信任案が可決
 「星」は議長辞職を拒否し
 12月1日
 議長不信任上奏案が可決
 2日
 明治天皇
 上奏は議長更迭の請願か
 議院の不明を謝するの意かと質問し
 衆議院は後者の意とする奉答案を可決
 12月5日
 衆議院は議院法第96条に基づき
 「星」
 に対して一週間の登院停止の懲罰
 13日
 議員除名が議決
 3か月後の
 衆院選挙で再選、政界復帰
 政務委員として党幹部に返り咲く
 日清戦争開戦による
 挙国一致ムードの中で政争は棚上げ
 失意の中で朝鮮視察
 公使
 「井上 馨」
 から朝鮮経営に参画するよう勧められ
 1895年(明治28年)3月
 朝鮮に渡り
 法務部門顧問
 三国干渉・遼東半島還付により
 朝鮮での日本の権威は失墜
 「星」
 は親日派の内部大臣
 「朴泳孝」を
 「閔妃」に取り入らせ
 宮廷を握ろうと画策するが失敗
 8月
 「井上」が駐朝公使を辞任
 井上の後任の
 「三浦 梧楼」
 からは軽視され
 10月
 「閔妃殺害事件」
 でも計画の埒外に置かれ
 善後策協議のため
 使者として東京へ向かい
 そのまま朝鮮へは戻らなかった
 1896年(明治二十九年)2月
 4月
 駐米公使に任命
 英国弁護士資格を持つ法律家であり
 法典調査会委員
 鉄道国有調査会委員などにも任ぜられた
 ↓↑
 1898年(明治三十一年)
 第1次大隈内閣(隈板内閣)
 外務大臣として入閣を
 「大隈重信」首相が拒否
 憲政党分裂を生む原因となった
 1899年(明治三十二年)
 憲政党東北出張所開設式で
 東北築港
 東北鉄道完成
 東北大学設置
 のことを決議
  「自由党
  専制の昔時において
  破壊の運動をなせるも
  憲政の今日は
  積極的に建設の運動をなしつつある者なり」
 第4次伊藤内閣で
 逓信大臣として初入閣
 政治手腕から
 「おしとおる」と渾名された
 ↓↑
 1900年(明治三十三年)11月15日
 「東京市汚職事件」
 市参事会員を兼任していた
 「星」逓信相らが告発
 12月20日
 星は辞表を提出
 22日
 「原敬
 が後任として任命された
 ↓↑
 1901年(明治三十四年)
 6月21日午後3時過ぎ
 東京市会議長の
 「星」は
 東京市庁参事会議事室内で
 市長・助役・参事会議員らと懇談中
 元東京市四谷区学務委員の
 「伊庭想太郎(心形刀流剣術第10代宗家)」
 によって刺殺、満51歳没
 2年前に
 大本教
 「出口王仁三郎
 に死を予言されていた・・・???
 ↓↑
 1913年(大正二年)
 「星 光」と遺族は
 1万冊余の蔵書を慶應義塾大学に寄贈
 「星文庫」として保管
 ↓↑
 移民政策の推進
 1894年(明治二十七年)
 官約移民の廃止にあたって
 「星」は
 私約移民体制の設置を日本政府に働きかけ
 民間移民会社の認可を取り付けた
 海外移民と国内との送金業務は
 横浜正金銀行が独占していたが
 「星」は
 五大移民会社
 (広島海外渡航会社
  森岡商会
  熊本移民会社
  東京移民会社
  日本移民会社)
 のうち主要数社の事業に関与
 ↓↑
 星亨
 ↓↑
 1874年(明治七年)五月
 「女王事件」
 星が英国領事への英文書翰中の
 「Her Majesty's Court」を訳文で
 「女王陛下ノ裁判庁」
 と表記したところ
 ロバートソン領事が
 「女帝」でなく
 「女王陛下」となっているのは
 不敬無礼だと難癖
 「星」は英国で
 「Empress」でなく
 「Queen」を自称しているのだから
 「女王陛下」で誤りではないと突っぱねた
 翌6月
 英国公使パークスが外務省に乗り込み
 「貴国天皇ヲ男王ト云フモ宜敷(よろしく)
  星ノ女王ト云セシヲ罰セスンハ
  我モ亦タ貴国男王ト唱フヘシ」
 など星の免職と謝罪を迫った
 困惑した
 「三条」太政大臣
 「寺島宗則」外務卿
 は、
 「星」に文書を改め、陳謝するよう言い含めたが
 「星」は先方こそ不当と上申を行った
 英国の威勢を恐れる政府が
 公文書には外国君主の公称はすべて
 「皇帝陛下」を宛てることとし
 (明治七年太政官布告98号)
 「星」に対しては
 贖罪金二円
 横浜税関長免職
 にして
 「パークス」・・・「くるくるパー句諏」?
 をなだめ事件を落着させた
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 1893年(明治二十六年)11月29日
 衆議院議長であった「星」に対する
 議長不信任案が
 166対119で可決
 「星」は
 「条約改正を支持する自分に対する
  硬六派(国民協会・立憲改進党ら)
  による嫌がらせでやましい所はない」
 と拒否
 (大日本帝国憲法下の議院法では
  衆議院議長は勅任官扱いのため
  任免権は天皇にあった)
 そこで明治天皇に対して
 「星」の解任を求める上奏案を
 152対126で可決
 天皇からは
  「議院自ら不明なりしとの過失」
 として衆議院の怠慢を責める勅答が下された
 (星への不信任を
  外務大臣陸奥宗光」への間接的攻撃とみた
  「伊藤博文」が
  宮内大臣
  「土方久元」に要請して出させたもの)
 「星」がなおも議長席に着席し
 職務を続ける姿勢を見せたため
 12月5日
 登院停止一週間の懲罰が決議
 登院停止が切れた12月12日に
 「星」がまたも議長席に座ろうとしたため
 12月13日
 議員除名が議決
 (185対92
  除名要件である出席議院の
  三分の二を超える67%が賛成)
 され「星」は衆議院議員の資格を失い議長を解任
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 暗殺後に明らかになった
 「星」の遺産は
 「1万円余りの借財」のみだった・・・
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 天王のホシは保志・・・「天皇」の「星=惑星」
 2015-01-31 17:39:04
 古事記字源
 「みうら→視裏」ならば、「三浦」を調べてミルか・・・
 その前に・・・
 みうら・・・「視る裏」・・・
 「御の裏」・・・
 「音の得等」・・・「音の理・恩の理・温の理」・・・
 「on の  back、behind」・・・
 「恩の背後」・・・
 「天王星・天上の・霊の=天文学上の(Uranus)」・・・
 「天体の(URANUS)」=ウラノス・・・ウラウス?
 「天(Uran)」・・・ウラン・・・うらみ・・・?
 「雨羅(覶・等・螺)廼州(素・諏)」・・・
      ↓↑
 「徳川家康(松平元信→元康→家康)」は改名・・・
 通称は「次郎三郎」・・・
 この「通称名通名」は
 一般的に使われる呼称の
 「通用名・仮名(けみょう)」ではないのではないか・・・
 「次郎-三郎」の連結は「次郎」でもあり、「三郎」でもある・・・
 「耳漏・痔瘻・自労」の「佐甫良・左文郎」・・・?
ーーーーー

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エメラルドブルーの謎  (碧き眼の人形伝説)  奈井江 五郎
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 「プラトン古事記をカタル(古事記字源)
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 (表紙・画像・音楽)」の移転先・・・

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 ボクの「古事記字源」の発端・・・
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 干支歴
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 追加添文 「戦争と平和」・・・「モウケの生き方」
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鉄腕アトムのロボット法を
思い出して
これを
貼り付けてみたけれど・・・
AIの記憶・・・まだ、若いみたい・・・