ないえごろうブログ

同音異義の探索

「郭」の人物・・・七夕・キツコウ伝

 文字霊日記・3345日目

  七夕
  旧暦七月七日
  今年
  新暦
  2023年・08月・22日
   癸卯・庚申・癸丑

  織姫星(ベガ)=織女
  彦星(アルタイル)=牛郎
  逢瀬の有無・是非
  白鷺(しらさぎ
  乞巧節(キッコウセツ)
  『詩経
  『文選・古詩十九首』
  『西京雑記
  漢の采女が七月七日に七針に糸を通す
  「乞巧奠(キコウデン)」・・・乞う巧みな奠?
  『荊楚歳時記』
  針仕事の上達を祈った
  六朝・梁代
  「殷芸(インウン)」の
  『小説』
  「天の河の東に織女有り、天帝の女なり
   年々に機を動かす労役につき
   雲錦の天衣を織り、容貌を整える暇なし
   天帝その独居を憐れみて
   河西の牽牛郎に嫁すことを許す
   嫁してのち機織りを廃す・・・」
  ↓↑
  「托卵(タクラン)」の「郭公(かっこう)」の謎?
  「托卵」の
  「郭公(かっこう)」・・・
   恰好・滑降・各行・各項・各校・・・霍光?
   ↓↑

 8月10日に記述した
 「外郭弁の数」の
 ↓↑
 「外=夕+卜」
 「瓣=辛+瓜+辛」=「辨・弁・辯」
 「郭」
 をパラノイア的に追及してみたけれど・・・
 花托=カタク=仮託・・・「火宅の人」・・・?
   「ウソ(嘘・噓)も方便」=「法華経
   「鷽=𦥯+鳥=うそ=𪀯=光+鳥」+「模倣」の「瓣」
  =雤=「𦥯+隹」=うそ=𪈔=「學+鳥」
  =「弾琴鳥」=「うそひめ」
  Eurasian(ユーレイジャン)
   Bullfinch(ブルフィンチ)
  雄は照鷽(てりうそ)
  雌は雨鷽(あめうそ)
  ↓↑
  外郭弁の
 「数=數」が・・・
  ↓↑
  数=娄+攵
  米+女+攵
  數=婁+攵
  口+一+丨+女+攵
  婁=申+中+女
    ・・・申女=猿女=宇受女=渦目=鳴門の渦
       申命記     奈落の底=底無しの穴
       出埃及
       モウゼ(摩西)の姉=ミリアム(Miryam・真利亜)
       モウゼ(摩西)の兄=アロン(Aaron・亜論)
       ルソー(Rousseau)=婁騒・魯叟・蘆騒
  ロウ・ル
  𡝤=口+十+口+女
  串+一+女
  𡞔=毋(毌・母)+中+女
  𣫻=毌+中+十+ハ+女
  𡡼=臼+ハ+中+女
  𡡋=𦥔+一+中+女
  𡝨=𦥔+女
  𡜰=囗+仌+女
    仌=人+人
    ヒョウ
    凍(こお)る・氷・冫・冰・𣲝
  娄=米+女
  𡇔=囗+㚣
    㚣=コウ・キョウ・ギョウ=姣
    美しいさま・愛らしいさま
     =𤕢=佼

  ↓↑
  婁=引く・引っ張る
  牛を繋(つな)ぐ紐(ひも)・・・金牛礼拝の男?
               アロン(Aaron)
  手綱(たづな)      モーゼ(摩西)の姉
  牽牛・彦星        ミリアム(Miryam)
     ニュートン=牛頓・牛童・牛菫・紐頓
  アルタイ(金山)星=鷲座
   =屢=しばしば・度々=たびたび=屢
  二十八宿西方「白虎」の一つ
  ル・ロウ・つなぐ・つながれる
  ひく・ひきよせる・ひきずる
  つなぐ・つながれる・牛をつなぐ
  むなしい・から・中が空
  二十八宿の一=婁宿
  たたら星=「踏鞴・蹈鞴・多々羅」星
  おひつじ(雄羊)座の一
  ↓↑
  婁+α=
  僂屢蔞慺摟塿嘍寠嶁廔漊㜢㟺㡞㺏
  䣚樓膢氀熡遱㪹㻲褸瘻窶甊瞜䄛䅹
  螻簍縷耬艛軁謱貗䝏鏤鞻䫫髏䮫
  ↓↑
  鷜=婁+鳥=𪅛𩀮
  ロウ・ル
   「鵱鷜(リクロウ)」
  ガン雁・野生のカモ科マガン属
  野生の「ガチョウ=鵞鳥(家禽化されたガン=雁)」
  「𪇖鷜(ランル)」
  ↓↑

   「郭務悰」が繋がった・・・「託覧の長」?
  ↓↑
  郭公=カッコウ=郭公
  郭公(カッコウ)科の鳥
  ↓↑
  同科の鳥の称
  「𪇖𪈜(ランル)」
  ↓↑
  䱾=一名 鯉(こい)
  一名鰜(ケン
    カレイ目の魚=鰈(かれい)
    比目魚(ひらめ)
    青い魚=あおうおの大きなもの)
  ↓↑
  寠=宀+婁
  ク・ロウ
  まずしい・みすぼらしい
  「甌寠(オウロウ)」=塚
       せまい高地・小さな丘
  ↓↑
  樓観=楼観=樓觀・・・邪馬台国卑弥呼
  ↓↑
  擞
  數=婁+攵
  毌+中+女+攵
  口+一+丨+中+女+攵
  口+一+丨+中+女+𠂉+乂
  数=娄+攵
  米+女+攵
  スウ・サク・シュ・ソク・かず・かぞえる
  しばしば
  順序や量をあらわすもの
  いくらか・いくつかの
  運命・めぐりあわせ・さだめ
  古代中国の
  六種類の基本教養
  「六芸(リクゲイ)」の一=算術
  はかりごと・くわだて・たくらみ
  かずを調べる・計算する
  ひとつとして取り上げる
  せめる・罪をかぞえて相手を責める
  しばしば・たびたび・何度も
  まかい・目がこまかい
  ↓↑
  数+α
  䉤=たけやぶ=竹藪
  薮=やぶ
  ↓↑
  外の
  郭(カク・くるわ=廓・曲輪)の・・・遊郭
   「郭務悰」
   「白村江の戦い(天智二年八月(663年10月)に
  朝鮮半島
  白村江(錦江河口付近)での
    倭 vs唐の海戦)
    百済 新羅  
  後
  日唐関係修復交渉のため
  3度(or 4度)
  日本(倭)を訪問
   「郭務悰」の事績は
   『日本書紀・善隣国宝記 』に引用された
   『海外国記』に記述されたもののみであり
  中国側の史料には一切無い
  弁(ベン・わきまえる=辯・辨・瓣)
  瓣=辛+瓜+辛
  立+十+瓜+立+十
  「郭の瓣」
   安全弁・安全瓣(あんぜんべん)
  「郭」姓の親類に
  「則天武后武則天=皇帝」
  武媚→武照(武曌)
 がいたか?
 ↓↑

 ・・・
 人物の
 名前・姓名
 諱(いみな)・字(あざな)・諡(おくりな・シ)・号(ゴウ)
 と
 年号
 の
 「漢字」が変・・・
 ↓↑
 霍  光
 カク コウ
 ?~地節二年三月八日(紀元前68年4月21日)
 前漢の政治家
 字は子孟
 昭帝・宣帝の2代を補佐
 「霍 仲孺」の子
 「霍 去病」の異母弟・・・・「去病(キョビョウ)」
 「霍 禹(ウ)」・・・・・・・・「禹(ウ)⇔卯・兎・🐰」
 「霍 成君(セイクン)」・・「セイクン=請訓」
 の父
 「上官(ジョウカン)皇后」
 の母方の祖父
 武帝の皇后の
 「衛子夫」
 の甥にあたる名将
 「霍 去病(キョビョウ)」
 の異母弟という縁で出仕
 武帝の信任を得
 「霍 去病」の死後も出世
 後元二年(紀元前87年)
 武帝死亡
 八歳の皇帝
 昭帝の補佐が出来る人物は
 「霍 光(カク コウ)」
 以外に居ないと
 「霍 光(カク コウ)」
 を大司馬大将軍に任じ
 「金 日磾(キン ジツテイ)」
 「上官 桀(ジョウカン ケツ)」・・・桀⇔磔刑
 と共にこれを補佐させた
 後
 「霍 光」と「上官 桀」は対立
 「上官桀」は
 「昭帝」の兄であったが
 帝位につけなかった
 「燕王 劉 旦(リュウ タン)」・・・元旦
    劉=卬+金+刂
      卬=ゴウ・ギョウ
          ・・・卯=斧で眞二つに
              叩き割る
            卯=兔
            卵=卯+ヽ+ヽ
        たかい・位置が高い
        あがる・物価があがる
        のぞむ
        我(われ)
        あおぐ・見上げる=仰
        むかえる=迎
      刘=文+刂=斧・殺す・連ねる
 「霍光」と財政政策で対立していた
 「桑弘羊」らと謀を巡らせて
 「昭帝」に「霍光」を廃する讒言したが
 「昭帝」は取り合わず
 そのため兵を伏せ
 「霍光」を討ち「昭帝」を廃する企てを起こした
 事は露見し
 「燕王 劉旦」は自殺し
 「上官桀」らは誅殺され
 生き残ったのは
 「皇后 上官氏(母が霍光の娘)」のみであった
 ↓↑
 昭帝は治世13年間
 政治を「霍光」に仕切らせた
 元平元年(紀元前74年)
 子のないまま昭帝が死亡
 「霍光」は武帝の孫で
 昭帝の甥にあたる
 「昌邑王 劉 賀」
 を帝位につけたがわずか27日で廃し
 代わりに
 武帝の曾孫の
 「劉 病已(宣帝)」
 が帝位につく
 「霍光」
 は引き続き大司馬大将軍
 地節二年(紀元前68年)死亡
 霍一族は彼の威勢を恃んで傲慢であり
 宣帝の皇后の
 「許 平君」・・・許す平(多比良)の君(記見・君)
 を毒殺し一族の娘を皇后に立てるなど暴慢
 「霍 光」亡きあとは
 「宣帝」に実権を奪われた上
 勅命により子の
 「霍 禹」は腰斬に処され
 その生母や姉妹など一族皆殺しに処された
 (上官皇后はこのときも無事に済んだ)
  ↓↑
 「霍光」によって擁立された「宣帝」は
 即位当初に「霍光」に政権を委ねる旨の詔を発したが
 その際に用いられた文言
 「関(あずかり)り白(もう)す」
 が、日本の実質上の宰相であった「関白の名の由来」
 「関白の異名」として「博陸」とも称するが
 「霍 光」が
 「博陸侯(ハクリコウ・ハクロクコウ)」
 であったことに由来
 初代関白・・・関白太政大臣豊臣秀吉
 「藤原 基経」・・・基の経
 は
 「陽成天皇
 を廃して皇族の長老の
 「光孝天皇」を擁立し
 『神皇正統記
 ではこの行動を
 「昌邑王 劉 賀」を廃し
 「宣帝」を迎えた
 「霍光」のそれに擬えて、讃えている・・・?
  ↓↑
 臼(うす)の底が抜けた漢字・・・
 底抜けの筒・底なしの渦・鳴門の渦・奈落の底
 𦥑=𦥑 U+26951 Unicode文字
文字の意味
 「はい、そうです・是認」
 𦥑=キョク・すくう
 左右の手を合わせた形
 「叉手なり」
 左右の手でものをもつ
 匊・・・「菊の御紋は「後鳥羽上皇」時代から」
 前方にものを抱きかかえる形
 掬(すく)いとるような形
 〔説文〕九上
 「手に在るを(匊=きく)と曰ふ
  勹(ホウ・包む)は米に從ふ」
 米を包み握った両手を捧げる
 自己認識・自己受容・相手の意見を是認
 ↓↑
 𦥔=U+26954・・・申=猿=猿女=宇受女⇔渦目
  =Ꭼ+丨+Ǝ

  ↓↑
 「郭」姓の歴史上の人物
  ↓↑
  郭 隗  春秋 「燕」の政治家・「郭 隈」
  カクカイ  紀元前3世紀
  「燕」は斉の
  「湣王」に滅亡寸前まで追い詰められ
  国政は大きく乱れた
  燕の「昭王」は「斉」に復讐を誓ったが
  国を引っ張る賢者側近が居なかった
  「昭王」は「郭隗」に相談したら
  「郭隗」は
  「まずは愚人の私、隗より始めよ」と進言
  「昭王」は「郭隗」を採用
  すると
  趙から政治家の「劇辛」
  斉から陰陽家の「鄒衍」
  魏から「楽毅
  が集まってきて燕は国力が増していった
   「王必欲致士,先従隗始。況賢於隗者」
   「まずは隗より始めよ」の故事由来の人物
  ↓↑   ↓↑
     「湣王」
  湣=氵+昬
  氵+民+日
  コン・ビン・ベン
  乱れたさま・定まらないさま
  混合する
  ↓↑  ↓↑
  郭 巨  後漢の人・二十四孝の一人
   龍賢(河南省安陽市臨州市、旧林県)出身
  ハノイ市文仙県(河南省膠左市文仙県南西)出身
  古代中国の物語「二十四親孝行」の主人公
  「子供を埋葬し、母親に仕える」・・・
  ↓↑  ↓↑
  郭 泰  後漢儒学者
  カクタイ  128年~169年
  字は「林宗」
  太原郡界休県の人
  当時の名儒を数え上げた「八顧」の一人
  「後漢書」では
  編者の「范曄」が父の諱を避けて
  「郭太・郭林宗」と表記
  ↓↑  ↓↑
  郭 汜  後漢末期
  カク キ  「董卓」の部将
  別名 「郭多」
  「郭 阿多」・・・幼名の字
  ↓↑  ↓↑
  郭 図  後漢末期の袁紹軍の参謀
  カク ト  (?~205年)
  後漢時代末期の武将
  字は公則
  豫州潁川郡の人
  裏切り、背信
  ↓↑  ↓↑
  郭 嘉  後漢末期から三国時代
  カク カ  「曹操」の重臣
  (170年~207年9月)
  字は奉孝(ホウコウ)
  豫州潁川郡陽翟県
  (河南省許昌市禹州市)の人
  「袁公、十の敗因」
  「道・義・治・度・謀・徳・仁・明・文・武」
  が曹操より劣ると進言
  子は「郭奕」
  孫は「郭深・郭敞(『世語』)」
  曾孫は「郭猟」
  一族 「郭図・郭援」
  『三国志魏志・程郭董劉蔣劉伝』
  「白狼山の戦い(207年)」後に
   風土病にかかり
   柳城から帰還の後死去
  「曹操」と中国北部の
  異民族「烏桓」との戦い
  曹操軍は
  「袁尚袁煕」と同盟を結んだ「烏桓」を打ち破り
  「烏桓」勢力は大幅に弱体化
  後に魏や鮮卑の部族に吸収された
  ↓↑   ↓↑
  「曹操呂布を殺す(曹操呂布)」
  後悔するの意味[75]
  「呂布貂蝉と戯れる(呂布貂蝉)」
  英雄が女難に遭うの意味
  ↓↑  ↓↑
  彧=弋+彡+口+一
  イク・あや・あやのあるさま
  「彧彧(イクイク)」
  草木が茂るさま・物事の盛んなさま
  ↓↑   ↓↑
  郭 淮  三国時代の魏の将軍
  カクワイ  蜀漢の北伐撃退に功労
  (?~255年)
  『三国志魏志・満田牽・郭伝』
  字は「伯済」
  并州太原郡陽曲県の人
  祖父は「郭全」
  父 は「郭縕」
  弟 は「郭配(字は仲南、賈充・裴秀の妻の父)」
   「郭彰(字は叔武)」
   「郭鎮(字は季南)」
  子 は「郭統」
  孫 は「郭正」
  甥 は「郭奕」
  姪 は「郭槐(賈南風の母)」
  建安年間(196年~220年)
  「孝廉」で推挙され「平原の丞」
  「曹丕」が五官将になると
  「郭淮」は召し出され門下賊曹に加えられ
  間もなく曹操へ付き漢中征伐に随行
  漢中制圧後は夏侯淵の司馬
  劉備に備えたが
  劉備軍侵攻の際は病気で不参加
  ↓↑   ↓↑
 「曹丕(ソウヒ)」=魏の初代皇帝=文皇帝
  建安二十五年(220年)
  父・曹操が逝去し
  魏王に即位し丞相職
  皇帝在位
  黄初元年十月十三日
  (220年11月25日)
  ~
  黄初七年五月十七日
  (226年6月29日)
  字は子桓(シカン)
  11歳で父の軍中に従軍
  後漢献帝から禅譲を受けて王朝
  曹操曹植と並んで三曹と称される
  文学者・著書に『典論』
  父 曹操
  母 卞氏(武宣皇后)
  皇后 郭 女王
  字 女王
  諡 徳
  文徳皇后
  永安宮
  冀州安平国広宗県の出身
  即位した曹叡により
  過去の罪(讒訴、甄夫人)を糾弾され
  死を賜った
   甄夫人=文昭皇后甄氏
  父 郭永(後漢の南郡太守)
  母 董氏(堂陽君)
  兄 郭浮
  姉 郭昱
  弟 郭成・郭都
  従兄 郭表(郭永の養子)
  ↓↑  ↓↑
  丕=不+一・・・杯=盃
  一+个+一・・・个=竹の片割れ
  ヒ・うける・おおきい・もと・はじめ
  盛大な・立派な
  受ける・慎んで受ける
  一+不=「一=天・地」のことで大きい意味
  もとは「不」と同じ
  後に区別するために一を加えた・・・説
  ↓↑  ↓↑
  郭 象  西晋の思想家
  カクショウ (252年~312年)
  字 子玄
  河南郡の人
  老荘思想を好み、清談をよくした
  王衍は郭象の清談を褒め
  「懸河の弁」の由来
  司徒掾、黄門侍郎
  後、司馬越が招聘して太傅主簿
  一転して権勢を誇示し
  永嘉の末年に没した
  『荘子』に注釈
  何晏・王弼などの玄学を襲い
  発展させた
  が、彼らの
  「無を以て本と為す」
  貴無の論調とは一線を画し
  「独化」「自得」などと
  道のあるべき流れに従って
  「おのずと生まれた」有なるものを崇める
  人間の道徳観念は生得的に備わる
  (「仁義は自ら是れ人の惰性なり」)
  ものであるとも説いた
  向秀の『荘子』注釈に若干の加除を行った上
  自分の著作と偽って
  『荘子』注を著した・・・
  真偽は古来議論があるが
  余嘉錫『世説新語箋疏』では
  「向秀の注が残っていないので
  もはや検証のしようがない」と述べている
  「向秀の注釈」も
  崔譔の注の遺亡を補うために書かれたと明記
  (『世説新語』引用の「向秀別伝」)
  更に司馬彪の注にある説も・・・
  「郭象の注釈」は先行する
  崔譔・司馬彪・向秀の説を
  積極的に活用しつつも
  独自の視座で再解釈
  ↓↑  ↓↑
  郭 璞  晋の文学者・卜者
  カクハク  (276年~324年)
  西晋東晋の文学者・卜者
  字 景純
  河東郡聞喜県の人
  東晋王朝の権力者たちに重用
  史書
  『捜神記』などの志怪小説では
  超人的な予言者・妖術師
  卜占・五行・天文暦法に通ずるのみならず
  古典にも造詣が深く
  『爾雅』『方言』『山海経
  に注釈
  文学作品では
  「遊仙詩」「江賦」などが代表作
  寒門の家に生まれ
  訥弁であったが
  博学で文章に巧みであった
  郭公なる人物から
  『青嚢中書』
  という書物を授かり
  これによって五行・天文・卜筮
  のあらゆる術に通じ
  いにしえの
  京房や管輅をも凌ぐほどであった・・・
  東晋建国で郭璞は「江賦」「南郊賦」を献上
  元帝に賞賛され、著作左郎・尚書
  皇太子
  司馬紹(明帝)から才能と学識を尊敬され
  温嶠・庾亮らと同等の待遇を受けた
  太寧二年(324年)
  王敦が再び反乱
  郭璞にその成否を占わせ
  「成る無し」の結果がでた
  王敦はかねてから
  郭璞が温嶠・庾亮らと親しく
  彼らに自らの討伐をそそのかしていると疑っていた
  占いの結果に激怒し郭璞を処刑
  「王敦の乱」が平定され
  弘農郡太守を追贈
  子の
  郭驁が父の後を継ぎ
  臨賀郡太守に至った
  著作
  『山海経』 は
  彼が注釈をつけたものが現在の通行本
  ↓↑  ↓↑
  郭 子儀 唐の軍人・政治家
  カク シギ (神功元年=697年)・・・隠しの疑?
  ~
  建中二年六月十四日
  (781年7月9日)
  唐朝に仕えた軍人・政治家
  玄宗・粛宗・代宗・徳宗
  の4代に仕えた
  「安史の乱」で大功
  異民族の侵入を防いだ
  盛唐・中唐期を代表する名将
  憲宗(在位805年~820年)の皇后
  「郭氏」は
  「郭子儀」
  の六男の
  「郭曖」の娘である
  ↓↑  ↓↑
  出自
  華州鄭県(陝西省渭南市華州区)の人
  字 諱に同じ子儀
  諡 忠武
  後晋
 「劉昫」の撰した
 『旧唐書』(「旧書」)に
 「子儀 長 六尺餘」
 北宋
 「欧陽脩」の撰した
  『新唐書』(「新書」)に
 「長七尺二寸」
 父の
 「郭敬之」
 は綏州・渭州・桂州・寿州・泗州の刺史を歴任
 新書・百官志四下によると
 「上州」刺史は「従三品」に当たり
 渭州・寿州などには
 「中都督府」が置かれ「中都督」は「正三品」
 都督・刺史の官は地方職(外官)としては高官
 ↓↑
 史書
 「玄宗」の天宝八年(749年)
 木剌山に横塞軍と安北都護府を設置した際
 横塞軍使
 李吉甫 撰
 『元和郡県図志・巻4・天徳軍の条』
 「天宝八年、張斉丘 又た西可敦城に横塞軍を置き
  又た中受降城より横塞軍を移して理む」
 その後、新たに節度使として赴任した
 「安思順」
 「李林甫」
 らに仕え
 天宝十三年(754年)
 永清柵の北側に築城して
 横塞軍と安北都護府とを移し
 横塞軍は天徳軍と改称
 「子儀」はあらためて「天徳軍使」となって
 九原郡太守を兼ね
 朔方節度右兵馬使
 に命じられる(新旧書)
 このときの上司の節度使
 「安思順」は
 「安禄山」の従兄
 (安禄山の養父の安延偃は安思順の伯父)
 であった

 天宝十四年十一月
 「安禄山」が反乱
 「安思順」は以前から安禄山の叛心を進言し
 死罪をこそ免れ中央に戻される
 後任として右兵馬使であった
 「子儀」が朔方節度使に昇格し
 衛尉卿(五監の一、衛尉寺の長官。従三品)
 に任ぜられ
 霊武郡太守を兼務し
 朔方郡の兵馬を率いて
 安禄山討伐に向うよう詔
 ↓↑
 再三、唐の国難を救う
 「粛宗」の時
 「安史の乱」を平らげて国難を救い
 衛尉卿・霊武郡太守
 朔方節度使・関内河東副元帥
 に任ぜられ
 「汾陽王」に封ぜられた
 ↓↑
 同じく平定戦で活躍した
 「李光弼」と名を斉しくし
 「李郭」と尊称 された
 ↓↑
 旧唐書の伝には
 「郭令公」
 と呼ばれ、ウイグル人などの異民族からも畏敬された
  ↓↑
 「李白
 安史の乱では粛宗の弟の永王李璘に従ったが
 永王が叛いたためにその臣下であった
 「李白」もまた囚われの身となり
 「郭子儀」は
 「李白」の助命を請い
 死罪から流罪に軽減
  ↓↑
 「李光弼」
 「郭子儀」
 の後進の武将
 安禄山の叛乱が起こると
 「郭子儀」は上奏して
 「李光弼」を一軍の将とするように進言
 ↓↑
 子孫
 郭曜 郭子儀の子
 郭鋒 郭曜の子
 郭晞 郭子儀の子
 郭曖 郭子儀の六男
 妻  代宗の娘
  「不痴不聾」の由来逸話の人物
 ↓↑
 懿安郭皇后(?~848年) 郭曖の娘
 夫は憲宗李純
 穆宗李恒の母
 ↓↑
 郭崇韜(?~926年)
 字 安時
 代州雁門郡の人
 郭子儀の後裔と称した
 李克用・李存勗父子に仕えて中門使
 「李存勗」が皇帝となり
 後唐を建国した際
 兵部尚書・枢密使
 後梁を滅ぼすと
 侍中・成徳軍節度使
 魏国夫人
 劉氏を皇后に立てるよう密奏
 「時務利害二十五条」
 を説いて、宦官を排斥
 同光三年(925年)
 魏王
 李継岌(李存勗の長子)
 に従って蜀を攻め
 東北面行営都招討使
 蜀を平定
 蜀の財宝を荘宗に護送する手配が滞って
 「李継岌」の猜疑を受け
 宦官に誣告され
 「李存勗」
 は激怒して宦官
 「馬彦珪」を成都に派遣し
 「郭崇韜」
 「郭廷誨」
 の父子を斬首
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 廣澤尊王(922年2月22日~?)
 本名 郭洪福
  郭乾
  民間宗教の創始者
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 郭侃(?~1277年)
 モンゴル帝国前期の漢人将軍
 西方遠征に従軍
 マムルーク朝のムザッファル・クトゥズより
 「東天将軍、神人也」と称えられた
 祖父 郭宝玉
 父  郭徳海
 金朝を見限りチンギス・カンに仕えた人物
 第4代皇帝モンケの時代
 1252年からのフレグの西征に参加し
 アラムートの攻略
 1258年のバグダード攻略戦
 逃走をしたアッバース朝のカリフを
 チグリス川で捕らえる
 中国人の中では最も西まで遠征した将軍
  ↓↑  ↓↑
  郭 威  後周の初代皇帝
  カク イ  五代後周の初代皇帝
  廟号は太祖
  邢州堯山県(河北省邢台市隆堯県)出身
  郭簡と王氏の子
  父は晋王李克用の時代に刺史
  郭威が3歳の頃に戦乱で戦死
  養母の
  韓氏に養育
  劉知遠にその才能を見出され重臣
  劉知遠が
  後漢を建国するに際し
  枢密副使
  948年
  劉知遠が没し
  劉承祐(隠帝)が即位し
  枢密使に昇進
  契丹を撃退
  実力を
  「劉承祐」に恐れられ
  一族を皆殺しにされて
  軍と共に逆に反乱して
  「劉承祐」を殺害
  「劉知遠」の甥(劉崇の子)の
  「劉贇(順帝湘陰公)」を皇帝に立てたが
  これを殺害し
  自ら皇帝として即位し
  後周を建国
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  郭 煕  北宋の画家
  カク キ  (1023年~1085年)
  水画家
  字 淳夫 
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  郭 忠恕  北宋の画家
  カクチュウジュ (?~977年)
  北宋の画家
  字 恕先(ジョセン)
  河南府洛陽県の出身
  風景・建造物の絵で著名  
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  郭 侃  元の将軍
  カクカン  郭 侃(?~1277年)
  モンゴル帝国(大元ウルス)
  に仕えた漢人将軍の一人
  字 仲和
  砲兵部隊の長
  東アジア~西アジアに至る地域を転戦
  郭子儀の末裔
  幼少時に真定地方の
  「史天沢」に見出され、「史家」で養われた
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  郭 守敬 元の天文学者・暦学者
  カクシュケイ (1231年~1316年)
  元朝に仕えた天文学者・暦学者・水利事業家
  字 若思
  邢州・・・邢=「开+阝」=郉・・・邪・耶
  一+廾+阝
  一+丿+丨+阝
  郉=幵+阝=邢=𨚆
  干+干+阝
  ケイ・ギョウ
  古代中国の地名
  幵=干+干
  ケン
  平らなさま
  並び立っているもの
  枝分かれしたものの先が
  揃っているさま=「𢆛」
   「罕幵=カンケン」
  古地名、部族名
  青海湖(青海省東北部の湖)
  そこに住む羌(キョウ)族
  并=丷+开=ヘイ・ヒョウ=幷=𢆙
  あわせる・ならべる
  訮=言+开=ケン=訮・𧥪・𧦐
  大声で言い争う・口喧嘩
  䙹=开+見=䙹=开(幵)+見
  ケン・ゲン・ショウ・ソウ・ドウ・ノウ
   =𧠻=見+言
  乳児が飲んだ乳を吐く
  吐き気を伴わずに吐く
   =哯
  栞=幵+木=カン・しおり=𣓁
  開=門+开=ひらく・カイ
  鈃=金+开=ケイ・ギョウ=鈃・𨨵・鉶
  酒壺・蓋付鼎の器
  蚈=虫+开=蛍(ほたる)・蛍光・蛍雪
  雃=开+隹=鵁鶄・石鳥
  趼=足+开+=獣の蹄(ひづめ)
  鳽=开+鳥=𩾝鵲(カンシャク・カンジャク)
    鳱鵠(カンコク)
    カササギ(鵲)
    ゴイサギ五位鷺・鵁鶄)
  姸=女+开(幵)=ゲン・ケン
  妍=磨(みが)かれたように
    ほっそりとして美しい
    嫶妍(ショウケン)
    憂い悲しみのあまり
    痩(や)せ細る
  研=石+开=とぐ
  𩒖=幵+頁
  ゲン
  頨𩒖(ウゲン)=狡(ずる)いさま
  ↓↑  ↓↑
  郭 守敬 元の天文学者・暦学者
  カクシュケイ (1231年~1316年)
  元朝に仕えた天文学者・暦学者・水利事業家
  字 若思
  邢台県の出身
  中国暦法
  「授時暦」を作成
  水利事業家
  祖父の「郭栄」は算学・水利に精通し、五経に通じた学者
  太保の「劉秉忠」と親しかった
  「郭守敬」も「劉秉忠」の門で学び
  算術・水利・五経に通じた
  中統三年(1262年)
  「張文謙」の薦めによって
  「世祖(クビライ)」に拝謁
  水利六事を述べ才を認められ、提挙諸路河渠に任命
  翌年に副河渠使に任命
  至元元年(1264年)
  旧西夏域内の灌漑路の復興に尽力し
  世祖の信頼を得る
  翌年
  都水少監
  至元八年(1271年)
  都水監
  中書左丞相
  バヤンが
  至元十二年(1275年)~翌年にかけ
  南宋を討つと
  新たな占領地域に軍事上の水站を設けることが議され
  「郭守敬」は各地を視察して
  河道・地形を勘案して精密な設計図を上表
  ↓↑
  授時暦の作成
  元では金以来採用されていた
  「大明暦」を修正した暦を使用
  日食・月食などの天文現象と合わないため
  改正の必要があり
  「劉秉忠」はたびたび改正を上表していたが
  果たさずして死去
  至元十三年(1276年)
  「世祖」は
  「郭守敬・王恂・許衡」らに暦法の修訂を命じる
  当時、モンゴル帝国朝廷には
  「色目人」と呼ばれる西域出身の官僚も多くおり
  彼らからアラビア天文学の技術も取材した郭守敬は
  独自に簡儀・仰儀など13種類に及ぶ儀器を開発
  正方案など9種類の測器を開発
  天体測定器を改良
  これらによる精密な観測を元に様々な
  製図を行い
  改暦作業を主導
  彼の測定による
  1朔望月29.530593日
  1太陽年365.2425日
  は現在の水準と較べても極めて正確
  同年工部中郎
  至元十六年(1279年)
  工部太史院知事
  監候官27箇所を設け観測を敢行
  至元十七年(1280年)
  一応の完成をみて世祖に提出
  「授時暦」の名を賜った
  「授時暦」はモンゴル帝国内外に頒布
  翌年から施行
  この暦は元朝末期まで用いられ
  明王朝でも「大統暦」と名を変えたのみで利用
  明末に西洋天文学を利用して作成された
  「時憲暦」が導入されるまで
  364年間使用
   ↓↑
  「郭守敬」は暦法の研究を重ね
  授時暦の暦法を論じた
  『授時暦経』(推歩7巻、立成(データ表)2巻)
  数々の暦書を著した
  この暦書は周辺国へも輸出され
  朝鮮半島における暦学書の
  李氏朝鮮
  「七政算内篇・外篇」(1442年)
  にも大きく影響を与えた
  日本へは江戸時代初期に輸入され
  「貞享暦」の作成に影響を与えた
  ↓↑
  至元十九年(1282年)
  「王恂」の死去に伴い
  翌年に太史令に昇進
  至元二十八年(1291年)
  大都から通州に至る運河を開鑿
  モンゴル帝国内交通網の発展に寄与
  また大都の積水潭の修復も行い
  大都への水運が整備され
  世祖は
  「通恵河」の名を与え
  「郭守敬」
  に提調通恵河漕運事を兼任させた
  積水潭・通恵河の名は京市に残っている
  ↓↑
  至元三十一年(1294年)
  昭文館大学士知太史院事に任命
  大徳二年(1298年)
  鉄幡竿渠の開鑿を提言
  工費の高さに執政が難色を示し
  広さを三分の一に縮小
  後日、豪雨で氾濫した際
  成宗は「守敬」の才に
  「郭太史は神人である。そ
   の言を聞かなかったのは失敗であった」
  と感嘆した
  延祐三年(1316年)死没・享年86
  故郷の
  「邢台」の最も主要な大通りは
  「郭守敬大街」
  1964年
  紫金山天文台が発見した小惑星の1つが(2012)
  「郭守敬(Guo Shou-Jing)」
  と命名された
  ↓↑
  郭 子興 元末の群雄の一人
  カク シコウ (1302年~1355年)
  元末の群雄の一人
  濠州定遠県の出身
  富豪の
  父 郭公(かっこう)
  と
  瞽女(ごぜ)・・・女性の盲人芸能者の歴史的名称
          「盲御前(めくらごぜん)」に由来
  の母の子として
  三男一女のうちの中子(真ん中の子)
  子 郭某
    郭天叙・郭天爵・郭恵妃
  養女は「明の馬皇后(孝慈高皇后)」
  至正十二年(1352年)
  数千人を集結し濠州地方で自立
  「朱元璋」の人物を見込んで重用
  軍功ありとして「十夫長」に任用
  養女の婿に迎えた
  「郭子興」
  は南下する元軍を撃退
  陣営内では幹部の
  「孫徳崖・趙均用」
  らによる内訌が絶えず
  勢力を拡大することができなかった
  1355年
  滁州で病没
  婿の「朱元璋」がその勢力を継承
  明王朝をの建国
  1370年
  「朱元璋
  によって「滁陽王」を追贈
  長男は戦死
  次男の「郭天叙」
  三男の「郭天爵」
  は禍を恐れた「朱元璋」によって、謀殺
  娘の「郭恵妃」は
  「朱元璋」の側室となり
  蜀献王 朱椿
  代簡王 朱桂
  谷 王 朱橞
  らを産んだ
  ↓↑   ↓↑
  郭 嵩燾 清末の外交官
  カクスウトウ (1818年~1891年)
  清末の政治家・外交官
  字 筠仙
  湖南省湘陰県出身
  ↓↑
  郭 雲深 中華民国の武術家
  カクウンシン (1820年?~1901年頃)
  武術家
  「形意拳」の達人
  諱 峪生
  字 雲深
  河北省深県馬荘の人
  貧しい鋳物鍛冶の子
  若年から好んで拳術を学んだが
  何ら得るところが無く
  後に
  「李能然」
  に遭遇
  「形意拳」の道の奥深いことを知り
  憧れを抱いた
  「李能然」は彼に誠の心があると見て
  門下に収め、自ら教授
  数十年の間、朝夕欠かさず修練を続けた
  兵書を好んで熟読
  奇門遁甲にすぐれていた
  生涯は波瀾と数多くの伝説に彩られ
  敵に半歩進んで
  五行拳の崩拳の一打を発すると敵は皆倒れ
  「半歩崩拳、あまねく天下を打つ」
  と賞賛
  ↓↑
  郭 沫若  中華民国中華人民共和国
  カクマツジャク 文学者・歴史家・政治家
  中国近代文学歴史学の開拓者の一人
   1892年11月16日
   ~
   1978年6月12日(85歳)
    大運1969年10月(76歳)⇔己未正官
 壬辰(乙癸戊)比肩・傷官 墓⇔戊午偏官
 辛亥(戊甲壬)印綬・食神建禄⇔戊午偏官
 壬子(壬 癸)  ・比肩帝旺⇔乙巳傷官
 辛丑(癸辛己)印綬・劫財 衰⇔丁丑正財
  寅卯空亡
  原名は「郭 開貞」
  諱 開貞
  号 沫若
  字 鼎堂
   高汝鴻・麦克昂・易坎人
   杜頑庶・杜衎
  1892年11月16日
  地主である郭家の8番目の子
  四川省嘉定府楽山県に生まれる
  母親が彼を身篭った際に
  豹の夢を見た経験から
  「豹の生まれ変わり」として
  「文豹」と名付けられた
  故郷の楽山が
  大渡河(沫水)
  と
  雅河(若水)が合流するところにあり
  この二本の河の古称をとって
  「郭沫若」をペンネームとした
  1906年の春、15歳
  嘉定にある高等小学校に入学
  高等小学校では様々な近代的な教科を勉強
  今文学派の影響を受け
  『史記』の解釈も試みた
  1907年の秋
  嘉定中学校に入学
  西洋の書物や
  日本への留学経験を持つ兄達の影響から
  郭沫若は海外への興味を示したが
  夢を叶える術がなく
  自暴自棄に陥り遊びと詩作に走る
  腸チフスと他の病気を併発
  後遺症で生涯難聴
  1910年
  成都高等学校学堂分設中学校に編入
  北京・天津で国会開設請願運動がおこり
  彼も運動に参加するも失敗
  一時退学の仮処分
  日本留学
  1912年
  不本意な結婚に苦しめられ
  日本へ留学
  留学前に
  天津陸軍軍医学校の試験を受験
  日本へ留学してから真面目に医学を勉強
  第一高等学校予科に入学して1年間学んだ
  その後、3番目の成績で卒業
  岡山の
  第六高等学校第三部医科に配属
  1918年9月
  九州帝国大学医学部に無試験で入学
  医学部での解剖実習がきっかけで創作意欲を抱き
  最初の小説
  「髑髏」を構想
  外国語の授業で読んだ文学作品から
  興味があった文学への意欲が再燃
  文学への思いに燃えた
  医学をやめようと考えていたが
  難聴により打診と問診がうまくいかず
  医業に従事するには大きな支障となる事から
  医師への道を諦め
  詩歌創作を行なって文学の道に進む
  1921年
  大学を一時休学
  創造社の設立の準備を始める
  上海泰東書局で編集の仕事をしながら
  創造社成立後の機関誌出版にも取り掛かり
  同年7月
  文学結社創造社を設立
  仲間は日本留学の友人で
  成仿吾・郁達夫・張資平
  らであった
  1922年8月
  処女詩集『女神』を発表
  『女神』は五四時期浪漫主義思潮の代表作
  郭沫若新体詩
  中国近代詩歌に確実な礎を築いた
  1923年3月
  郭沫若は大学を卒業
  以来医療に携わる事はなかった
  その後
  国民党に参加するも
  反帝国主義運動によって発生した
  「五・三〇事件」で左傾化
  北伐軍の総政治部主任となるが
  1927年
  蔣介石と対立後
  南昌蜂起に参加し
  直後に中国共産党に加入
  蔣介石に追われ
  1928年2月
  日本へ亡命
  千葉県市川市に居住
  国史の研究に没頭
  『中国古代社会研究』
  『両周金文辞大系考釈』
  『我的幼年』
  などを執筆
  1937年
  盧溝橋事件が起こると
  日本人妻らを残し帰国して
  国民政府に参加
  1942年
  重慶で戯曲『屈原』を発表
  1946年
  国共合作のための
  協商会議に参加
  決裂後に内戦反対運動を推進
  戦後は中華人民共和国に参画
  政務院副総理、中国科学院の初代院長
  1950年
  全国文学芸術連合会主席
  1954年
  全人代常務副委員長
  1958年
  共産党入党
  1963年
  中日友好協会名誉会長
  反右派闘争以降は発言や作風が
  毛沢東に迎合
  人民共和国建国後の作品
  『蔡文姫』
  『武則天
  北京人民芸術劇院によって上演
  『蔡文姫』は
  「焦菊隠」の演出が高く評価されている
  文化大革命発生直後
  1966年4月14日
  全人代副委員長として常務委員会に出席
  自作作品の「焚書」発言
  呉晗・廖沫沙らが打倒されるなか
  自身を守るための自己批判であったが
  知識人の思想改造の成功例として
  毛沢東の庇護を受けた
  毛沢東江青らの詩を賛美し
  批林批孔運動に乗り
  著書『李白杜甫』で杜甫を貶め
  毛沢東が好きな李白を讃えた
  当時の政策を褒める詩を多く発表
  四人組が逮捕されや
  一転して彼らを批判する詩を発表
  1971年
  科学院院長と
  全国人民代表大会常任委員会副委員長を務め
  ウマル・ハイヤームの詩集
  『ルバイヤート』を翻訳していた縁から
  10月のパーレビ国王主催の
  イラン建国二千五百年祭典
  に招かれて出席予定だったが
  当時中国に亡命していた
  ノロドム・シハヌーク
  元カンボジア国王の
  中国北西部訪問や
  訪中した
  エチオピア帝国皇帝
  ハイレ・セラシエ1世
  の万里の長城訪問に同行し
  過密な日程により疲労を訴え
  代理特使が派遣され
  1978年
  北京で病没
  ↓↑
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(ユカリとオジさんの世迷い言・2)

古代エジプトの神々(1)・絵字符都・『埃及』(1)・(42)

エメラルドブルーの謎  (碧き眼の人形伝説)  奈井江 五郎
  ↓↑   ↓↑
 「プラトン古事記をカタル(古事記字源)
  +
 (表紙・画像・音楽)」の移転先・・・

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 ボクの「古事記字源」の発端・・・
 ↓↑
 干支歴
 ↓↑
 追加添文 「戦争と平和」・・・「モウケの生き方」
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 メリキリの - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=7xgS0oJhhe8

 ↓↑
 モモちゃん
https://www.youtube.com/embed/W00rHNN2zMQ?

 ↓↑
 モウ君の総合目次
 ↓↑
コジキ姫赤い絨毯に乗る(m)
 ↓↑
 古事記と虎関師錬

 ↓↑
鉄腕アトムのロボット法を
思い出して
これを
貼り付けてみたけれど・・・
AIの記憶・・・まだ、若いみたい・・・
オジタリアンと「鉄腕あとむ」の「ポルカ」 (haa98940.wixsite.com)