ないえごろうブログ

同音異義の探索

母親の「かたみ」・・・鏡の中・・・小泉八雲・・・?

 文字霊日記・3392日目

葛飾 北斎」の画才の源泉・・・
 古代中国にもいた「葛飾北斎」・・・
 ナゼ、『冨嶽三十六景 凱風快晴』なのか?
 楯型「銅鏡」
 と
 最長「蛇行剣」の発掘
  ↓↑

  ↓↑
 「北斎」だから「斎王国」がご先祖の故地だったかも・・・

 前漢時代の社会や生活を映し出す彩絵銅鏡 中国陝西省西安市
 c 新華社
 前漢時代の彩絵人物車馬鏡。
 (8月25日撮影、北京=新華社記者/李賀)
 前漢時代の彩絵人物車馬鏡。
 (8月25日撮影、北京=新華社記者/王毓国)

 【新華社西安11月23日】
 中国古代の化粧道具、銅鏡は重要な芸術的・科学的価値を持ち、中でも彩絵銅鏡は貴重とされる。1963年に陝西省西安市紅廟坡村で出土した前漢時代の彩絵人物車馬鏡は、2千年以上の時を経てもなお、鮮やかな色彩と比類ない精妙な美しさを保っており、古代中国の代表的な彩絵銅鏡の一つとして、国家文物局の「第3次海外持ち出し展示禁止文化財目録」に選ばれた。
 新華社通信 on MSN21 時間

 彩絵人物車馬鏡の図案の一部「遠出」のスケッチ。
 (資料写真、北京=新華社配信)
 考古学者らは
 銅鏡が出土した場所や地層、銅鏡の材質や造形、装飾文様と図案、絵の題材、絵画技法などから、この銅鏡は前漢時代のものと判断している。
 専門家らは各地の関連考古学資料を参考に、
 所有者は前漢時代の権勢を誇った高官だったとみているが、
 具体的な人物はまだ特定されていない。

 ↓↑

 葛飾 北斎(かつしか ほくさい)
 宝暦10年9月23日
 1760年10月31日
 ~
 嘉永2年4月18日
 1849年5月10日午前4時
      大運1843年1月(82歳)乙未・劫財
 庚辰(乙癸戊)偏官・偏財 衰⇔己酉・正財・支合辛
  冲戊・偏財
 丙戌(辛丁戊)食神・偏財 養⇔己巳・正財
    透干支・丁=傷官
 甲子(壬 癸)  ・印綬沐浴⇔丙辰・食神・三合壬
 庚午(丙 丁)偏官・傷官 死⇔庚寅・偏官
  戌亥空亡
 ↓↑

 川村氏または
 幕府御用であった
 「鏡師」・・・鏡=銅鏡
 の
 「中島伊勢」・・・「中島知久平」立案『必勝防空計画』
           アメリカ合衆国本土を空襲した後
           ヨーロッパまで飛行し
           同盟国ナチス・ドイツ
           その占領地に着陸可能な
           大型長距離戦略爆撃機「Z飛行機」
           再び逆のコースでアメリカを再攻撃して
           帰還するか
           ソ連を爆撃しつつ世界を一周計画
           全長45 m(米軍4発戦略爆撃機ボーイングB-29の1.5倍)
           全幅65 m(B-29の1.5倍)
           爆弾搭載量20トン(B-29の2.2倍)
           航続距離は19,400 km(B-29の3倍)
           6発エンジン
       ・・・中島飛行機=「富嶽」=大型重爆撃機
          アメリカ 本土爆撃 を目的にした超大型 戦略爆撃機
          富士山 の別名にちなむ
          米本土爆撃計画 1942年( 昭和 17年)
          1943年(昭和18年
          中島飛行機
          「三鷹」・・・鷹=广+イ+隹+鳥・・・「贋」作?
          研究所構内に工場の建設が開始
          1944年(昭和19年)4月28日
          日本軍は陸海軍当事者、軍需省、関係製作会社を集めて
          超重爆撃機富嶽」の研究続行を検討
          日本陸軍の四式戦闘機(疾風)の943機減産
          海軍の陸上爆撃機銀河235機の減産を招く見通しとなり
          富嶽の研究は
          「中止」
          日本軍は1944年(昭和19年)6月下旬
          マリアナ沖海戦敗北
          7月6日サイパン陥落
          7月18日東條首相辞職
          本土防空戦のため
          戦闘機開発優先
          開発機種削減方針により
          「富嶽」開発中止
          アメリカ軍 による
          初の 日本本土空襲 ( ドーリットル空襲 )と
          日本軍による初の アメリカ本土空襲 が行われた
 ↓↑
 の子とされる場合や
 川村の子として生まれ
 4歳のころに
 「中島伊勢」の養子となった・・・説
 ↓↑
 母親
 小林平八郎を曾祖父に持つ家系・・・説
 出生地は
 式亭三馬が「本所の産」としていることから
 武蔵国本所割下水の傍(東京都墨田区)・・・説
 幼名
 複数の通説
 時太郎・時次郎・時二郎・鉄蔵など
 「飯島虚心」の『葛飾北斎伝』では
 幼名を時太郎、その後に鉄蔵を名乗った
 ↓↑
 少年期は貸本屋の小僧として働いていた・・・
 14、15歳から19歳ごろまでは木版画の版下彫りを生業
 石塚豊芥子が収集した
 雲中舎山蝶の
 『楽女格子』(1775年刊行)の識語に記録
 安永7年(1778年)
 勝川派の頭領
 浮世絵師
 「勝川春章」に師事し、絵師として活動を始めた・・・
 ↓↑
 処女作
 「春朗」時代の錦絵
 『四代目岩井半四郎 かしく』(1779年)
 春章に師事した翌年
 1779年から
 寛政六年(1794年)まで
 およそ15年間
 勝川派の絵師として活動
 この間に家庭を持ち子を設けた
 娘の
 「お栄(葛飾応為)」もこの時期に誕生・・・説
 北斎の処女作
 吉原細見
 『金濃町』(鱗形屋版)に寄せた挿図
 細判役者絵
 『かしく岩井半四郎
 を始めとした役者絵3点
 「勝川春朗」の名でこれらを描いた
 寛政五年(1793年)
 「叢春朗」に画姓改変
 役者似顔絵
 美人風俗
 日本と中国の子供
 動植物
 金太郎、信仰画、和漢武者、伝説古典、名所絵
 相撲などを題材とした
 浮世絵版画
 黄表紙、芝居絵本、洒落本
 咄本、談義本、句集、狂歌本の挿絵などを手掛けた
 天明四年(1784年)ごろまでは
 勝川派の様式だけでなく
 「北尾重政」
 「鳥居清長」
 らの影響が見られ
 他派のスタイルをも受容
 次の2年間は
 「黄表紙」の挿絵を中心に活動
 一時的に画号を
 「群馬亭」へと改号
 天明七年(1787年
 ~
 寛政四年(1792年)
 までの期間は作品量が増加
 新たな独自画風を確立・・・
 春章が没した
 1793年以降
 画号を
 「叢春朗」に改号
 摺物や句集、狂歌本の挿絵などの分野への進出
 春朗の落款が押されている最後の作品
 1794年8月
 摺物『砧打図』
 ↓↑
 「宗理」時代
 『二美人図』(1806年~1813年ごろ)
 「宗理風」と呼ばれる「女性描写」を確立
 寛政七年(1795年)
 ~
 文化元年(1804年)頃
 9年間は「宗理時代」
 この間は
 百琳宗理
 北斎宗理
 宗理改北斎
 北斎時政
 不染居北斎
 画狂人北斎
 九々蜃北斎
 可候
 などの画号が用いられた・・・
 「改号」の心境とはナンだったんだか・・・
 ↓↑
 寛政六年(1794年)の秋から冬
 琳派の領袖
 「俵屋宗理」から
 「宗理」を襲名した・・・
 1795年
 この落款の使用
 「俵屋宗達
 によって創始された「琳派」は
 「尾形光琳
 「尾形乾山
 以降、沈滞していたが・・・
 「俵屋宗理」らより、その勢いを復活
 「北斎
 は2年ほど宗理の名で活動した後に独立
 寛政十年頃に
 「北斎」と改号
 宗理の号名は門人の
 「宗二」へと受け継がれたと
 「大田南畝
 の『浮世絵類考』に記録
 ↓↑
 独立した
 寛政十年(1798年)以降
 黄表紙の挿絵
 浮世絵版画などの制作
 肉筆画に傾注した
 「画狂人北斎
 を号した時期には夥しい数の肉筆画作品を描き上げた
 ↓↑
 作風
 楚々とした体躯で
 富士額に
 瓜実顔の画貌のある女性描写
 は「宗理型・宗理風」と呼ばれた
 注文にも即応し、複数の描法を混用させたて作品を発表
 寛政十年(1798年)ごろ
 ランダのカピタンが
 北斎の絵を求めたことで
 支払いを巡ってひと悶着
 文化元年(1804年)
 江戸の護国寺において
 百二十畳あまりの巨大な
 達磨半身像を揮毫
 「斎藤月岑」
 の『武江年表』や
 「大田南畝」の『一話一言』に記述
 ↓↑
 「葛飾北斎」時代
 「曲亭馬琴」の
 『椿説弓張月』(1807年)
 に挿絵
 文化二年(1805年)~文化六年(1809年)
 「葛飾北斎」と号した
 漢画の影響を強く受けた
 豪快で大胆な画風へと変化
 江戸の流行が
 狂歌から読本へと移り変わり
 その挿絵制作に注力し始めたため・・・
 北斎の携わった読本で最も古いものは
 1803年に刊行された
 「流霞窓広住」の
 『蜑捨草』だが
 本格的な読本制作の開始は
 1805年からで
 「曲亭馬琴」と提携して数多くの作品を作り上げた
 読本の挿絵は黄表紙の挿絵と異なり
 複雑な内容に対して
 墨と薄墨で適切な場面描写を行う必要があり
 北斎の発想力は他の絵師の追随を許さず
 読本の隆盛に大きく貢献した
 挿絵の内容で馬琴と口論となり
 両者の間で確執が生じた・・・
 名所絵
 東海道五十三次
 『風流東部八景』
 『新板近江八景
 などの
 「鳥瞰」での景観描写を試みた作品などを発表
 『日本堤田中見之図』
 などの洋風風景版画と呼ばれる一連の作品は
 透視画法を用いて
 明暗を強く意識した西洋絵画を髣髴とさせる作り
 「鳥羽絵」や
 「組上絵」の制作にも携わっていた
 肉筆画の制作
 美人画の他、
 動植物
 古典を題材とした作品も増加
 文化五年(1808年)八月
 新宅を本所
 亀沢町に構えた
 翌年には
 両国の借家へと転居
 以降は終生借家、居候の生活・・・
 ↓↑
 「戴斗」時代
 文化七年(1810年
 絵手本
 『北斎漫画』(1814年初編刊行)
 上梓
 初の木版絵手本
 『己痴羣夢多字画尽』に
 「戴斗」の号が使用
 以降
 文政二年(1819年)まで用いられた
 国内外に影響を与えた絵手本
 『北斎漫画』の初編が刊行さ
 文化9年(1812年
 ごろに関西方面へ旅行
 秋ごろに名古屋の門人
 「牧墨僊宅」へ逗留し
 三百余図の版下絵を制作
 絵手本『北斎漫画』の初編は
 この時の版下絵が元となっている
 文化十四年(1817年)
 再度関西方面へ赴いき
 文化元年に行った催事同様
 西掛所境内(本願寺名古屋別院)で
 百二十畳の
 「大達磨揮毫」を行った
 「鳥瞰図」の制作
 「北尾政美」
 が制作する作品が大きな人気を博していたが
 『東海道名所一覧』
 『木曽路名所一覧』
 といった作品を発表
 肉筆画では西洋画法を追及した
 試行作品が数多く残されており
 線での表現を避けつつ
 面で質感を表現しようとした
 『なまこ図』
 輪郭線を排して明暗のみで表現した
 『生首図』など
 娘の
 「お栄=葛飾応為
 とともに川柳に傾倒し
 『誹風柳多留』
 への投句や句選活動
 ↓↑
 「為一」時代
 文政三年(1820年)~天保四年(1833年
 代表作
 『冨嶽三十六景』
 を始めとした風景版画を制作した時代
 「色紙判」と呼ばれる正方形の作品
 同一テーマで
 複数の画が描かれたものがセットで発表
 代表作品
 『元禄歌仙貝合』(全36図)
 『馬尽』(全30図)
 為一時代後期
 浮世絵版画に傾注した時期
 『冨嶽三十六景』
 『諸国瀧廻り』
 『諸国名橋奇覧』
 などの風景画
 『江戸八景』
 『景勝雪月花』
 などの名所絵
 古典画、花鳥図など
 多岐に渡る浮世絵版画が制作
 作品の多くは
 「西村屋与八」
 「森屋治兵衛」
 の版元から出版
 された
 ↓↑
 「柳川重信」と離縁した長女の
 「お美与」
 が連れ帰った
 「孫の悪行」に苦しめられた時代・・・
 孫の尻拭いに奔走し疲弊し苦悩していた
 「当春は、銭もなく、着物もなく、口を養うのみにて」
 とあり、肉体精神だけでなく
 生活も困窮していた・・・
  ↓↑
 『冨嶽三十六景 凱風快晴』・・・冨嶽=富岳=登美だけ
  富士山=(たけ)       嶽父=岳父・・・?
                 妻の父と母の呼称
                「嶽父・嶽母・嶽翁」
                 配偶者の父親のような
                 義理的な関係の上での
                 父親を指す
                 義父・舅、岳(嶽)翁
                 義理 上の 母親 は岳(嶽)母
                    ↓↑
                    饒速日命ニギハヤヒ
                    に関係する
                    嶽父=岳父・・・ダレ?
                    ?
                 別名 饒速日命=櫛玉饒速日命
                (にぎはやひのみこと=饒速日命
                 天照国照彦天火明櫛玉饒速日命
                 胆杵磯丹杵穂命・・・
                 ↓↑
                 の
                 配偶者 登美夜毘売・・・
                 別名
                 三炊屋媛、長髓媛、長髄媛
                 鳥見屋媛
                 登美夜毘賣・登美夜毘売
                 御炊屋媛・御炊屋姫
                 ↓↑
                 子 天香具山命
                   宇摩志麻遅命
                   熟穂屋姫命
                 ↓↑
                 兄は
                「長髄彦
                 別名
                「登美能那賀須泥毘古」
                (とみのながすねびこ)
                「登美毘古」
                (とみびこ)
                 那賀須泥毘古
                「鳥見彦」・・・
                 の
                 主君は 「饒速日命
                「饒速日命」の配偶者は
                「登美彦」の
                 妹   登美夜毘売
                 富 雄 丸山古墳から
                 登美彦=「楯型鏡・蛇行剣」の所有者
                 添下郡 鳥見郷
              (現生駒市北部・奈良市 富雄地方)
  ↓↑
 『冨嶽三十六景 駿州江尻』・・・冨嶽=富岳=登美だけ(たけ)
  富士山=不二         嶽父=岳父・・・登美彦?
  冨嶽=中島飛行機の大型重爆撃機
       「長髄彦」は
       「饒速日命(にぎはやひのみこと)に殺された?
       神武天皇紀伊半島を迂回し
       長髄彦と再び対峙した頃には
       「饒速日命」既に死亡・・・?
       彼と「登美夜姫」の息子の
       「宇摩志麻遅命」が
       「登美彦」に対して
       神武天皇への
       帰順を諭しても聞かなかったため殺した
       「宇摩志麻遅命」が「登美彦」を殺した
              甥が 伯父 を殺した
       甥が「岳父」のような伯父の
                「登美彦」を殺した・・・
       「宇摩志麻遅命」は「饒速日命ニギハヤヒ)」の子
       (うましまでのみこと)
       『先代旧事本紀』では
        味間見命
       (うましまみのみこと)
        ↓↑
       「可美真手命
       (うましまでのみこと)」
       「味間見命
       (うましまみのみこと)」
              富雄丸山古墳
              登美彦=「楯型鏡・蛇行剣」の所有者?
  ↓↑
 『冨嶽三十六景 尾州不二見原』・・・冨嶽=富岳=登美だけ(たけ)
  富士=不二             嶽父=岳父・・・登美彦
  冨嶽=中島飛行機の大型重爆撃機
                 饒速日命ニギハヤヒ)の子
                「宇摩志麻遅命」が「登美彦」を殺した
                      甥 が 伯父 を殺した
                甥が「岳父」のような伯父の
                  「登美彦」を殺した・・・
              富雄丸山古墳
              登美彦=「楯型鏡・蛇行剣」の所有者?
 ↓↑

 ↓↑
 「画狂老人卍」時代
 『富嶽百景 鳥越の不二』
 天文方の観測施設
 浅草天文台を描いていた
 75歳
 天保五年(1834年)三月
 『富嶽百景』を上梓
 『富嶽百景』の巻末では
 「画狂老人卍」
 と号した初めて自跋を載せ
 これまでの半生とこれからの決意を語った
 「跋文発表」以降が北斎の最晩年・・・
 天保の大飢饉
 休業状態となった版元たちを救済するため
 唐紙や半紙に絵を描き
 画帳にして販売することで
 糊口を凌いだ・・・
 『葛飾北斎伝』
 天保五年(1834年)冬ごろ~天保七七年
 相州浦賀に潜居
 「三浦屋八衛門」・・・三浦・・・「三浦按針」?
 を名乗って生活・・・
 実子が法を犯した可能性・・・説
 天保十年(1839年
 火事によって当時暮らしていた
 達摩横丁の住居を焼け出され
 家財道具や商売道具のほとんどを失った
 徳利を打ち砕いて
 底を筆洗とし
 破片を絵皿として絵を描いた・・・
 『葛飾北斎伝』
 翌年には
 「房総」方面へ旅
 天保十五年(1844年)
 信州の門人
 「高井鴻山」
 に乞われて
 小布施へと向かい
 同地での
 天井絵制作に携わった
 最後の作品
 嘉永二年(1849年)
 『富士越龍図』
 絶筆とされる
 『富士越龍図』は
 他の北斎の絵に無い特徴を備え
 筆致や絵の画面配置などが
 娘の
 「葛飾応為」が描いた
 『夜桜美人図』に一致
 作品のほとんどを応為が手掛けた・・・
 嘉永二年(1849年)
 四月十八日
 暁七ツ時(午前4時ごろ)
 浅草聖天町遍照院の境内にあった長屋で身罷
 娘の
 「お栄=葛飾応為
 によって葬儀、遺体は浅草の
 浄土宗
 誓教寺にて葬られた
 ↓↑

ー↓↑ーーーー
 葛飾 応為(かつしか おうい)・・・
    応=應=广+倠+心
  ↓↑
  應=応=广+心・・ 广+倠+心
  鷹(たか・ヨウ)=广+倠+鳥
           倠=亻+隹
           キ
          =みにくい・容姿が醜い
          鷹(オウ・ヨウ)≠贗(ガン・ゲン)
                  ≠譍(ヨウ)=噟
                   答える・応ずる
                   問いかけに対応する
          贗=厂+イ+鳥+貝
          鷹=厂+イ+隹+鳥
            ガン・雁=かり・・・贋=贋作
           =雁+鳥
            厂+イ+鳥
       異体字「鴈=厂+イ+鳥・鳫=厂+鳥」
       贗=鴈+貝=贋
           厂+亻+鳥+貝
         贋=雁+貝=贗
           厂+亻+隹+貝
 ↓↑
 葛飾北斎の三女
 応為 画号
 名  栄(えい)・お栄(阿栄・應栄)
    栄女(えいじょ)とも記録
 ↓↑
 葛飾応為 作品
 『月下砧打美人図』
 北斎には2人の息子
     3人の娘(一説に4人)
 3代目堤等琳の門人の
 「南沢等明」
 に嫁したが
 針仕事をほとんどせず
 父譲りの画才と性格から
 「等明」の描いた絵の
 稚拙さを笑ったため
 離縁された・・・
 出戻った応為は
 北斎の制作助手も務めた・・・
 「顎」・・・顎=あご=頤・頷・腮
     英虞(あご)⇔お栄(阿栄・應栄・・・?
 が出ていたため、北斎は「アゴ」と呼んだ
 80歳後半の北斎自筆の書簡でも
 「応為」を「腮の四角ナ女」と評した
 ↓↑
 初作
 文化七年(1810年)前後
 『狂歌国尽』の挿絵・・・
 美人画に優れ、北斎の肉筆美人画の代作をした
 北斎春画においても
 彩色を担当・・・
 北斎
 「美人画にかけては応為には敵わない
  彼女は妙々と描き
  よく画法に適っている」
 と語った・・・
 北斎に私淑していた
 「渓斎英泉」も、
 自著
 『旡名翁随筆』(天保四年(1833年)刊)
 の「葛飾為一系図」で
 「女子栄女、画を善す
  父に従いて今専ら絵師をなす
  名手なり」
 と評価
 応為は出戻って
 北斎晩年の20年近く同居・・・
 晩年は仏門に帰依
 安政二年~三年
 (1855年~1856年)
 加賀前田家に扶持されて
 金沢にて67歳で没した・・・or
 晩年北斎が招かれた
 小布施で亡くなった・・・
 「応為」の画号は
 北斎が娘を
 「オーイ」と呼んだので号としたとも
 北斎
 「オーイ、オーイ親父ドノ」
 と大津絵節から取って呼んだから・・・説
 北斎の号の一つ「為一」にあやかり
 「為一に応ずる」の意を込めて
 「応為」と号したと・・・説
 性格
 男のような気質で任侠風を好んだ
 絵の他にも
 占いに凝ってみたり
 茯苓を飲んで
 女仙人になることに憧れてみたり
 小さな豆人形を作り売りだして
 小金を儲けるなどした
 北斎の弟子
 「露木為一」の証言では
 北斎に似ていたが
 煙草と酒を嗜んだ
 北斎の描いていた絵の上に
 吸っていた煙管から煙草の火種を落とし
 大変後悔して一旦禁煙したもの
 しばらくしてまた元に戻ってた・・・。
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 弟子
 商家や武家の娘などで
 家庭教師として訪問して絵を教えていた・・・
 露木が
 「先生に入門して長く画を書いているが
  まだうまく描けない」
 と嘆いていると、応為が笑って
 「おやじなんて
  子供の時から80幾つになるまで
  毎日描いているけれど
  この前なんか腕組みしたかと思うと
  猫一匹すら描けねえと
  涙ながして嘆いてるんだ。
  何事も自分が及ばないと
  いやになる時が上達する時なんだ」
 と言い、そばで聞いていた北斎
 「まったくその通り、まったくその通り」
 と賛同・・・
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 「斎藤月岑」
 の日記によれば
 お栄は料理の支度をしたことがなく
 食事が終わると
 食器を片付けることなく放ったらかしにしている。
 この親子(北斎とお栄)は
 生魚をもらうと
 調理が面倒なため
 他者にあげてしまう、という。
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 作品
 葛飾応為
 『月下砧打美人図』
 『吉原格子先之図』
 『三曲合奏図』
 誇張した明暗法と細密描写に優れた肉筆画が残る
 木版画
 弘化四年(1847年)刊行の絵本
 『絵入日用女重宝句』(高井蘭山作)
 嘉永元年(1848年)刊行
 『煎茶手引の種』(山本山主人作)
 所収の図のみ
 70歳近くまで生きた彼女の作品数が少なすぎることから
 「北斎作」とされる作品の中には
 応為の作もしくは北斎との共作が相当数ある・・・
 北斎80歳以降の落款をもつ肉筆画には
 彩色が若々しく、精緻に過ぎる作品がしばしば見られ
 こうした作品を
 「応為の代筆」とする意見もある・・・
 北斎筆とされる
 春画
 「絵本ついの雛形」
 を、応為の筆とする・・・説・・・
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(ユカリとオジさんの世迷い言・2)

古代エジプトの神々(1)・絵字符都・『埃及』(1)・(42)

エメラルドブルーの謎  (碧き眼の人形伝説)  奈井江 五郎
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 「プラトン古事記をカタル(古事記字源)
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 (表紙・画像・音楽)」の移転先・・・

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 ボクの「古事記字源」の発端・・・
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 干支歴
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 追加添文 「戦争と平和」・・・「モウケの生き方」
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鉄腕アトムのロボット法を
思い出して
これを
貼り付けてみたけれど・・・
AIの記憶・・・まだ、若いみたい・・・
オジタリアンと「鉄腕あとむ」の「ポルカ」 (haa98940.wixsite.com)